第91番 その瞬間(とき)
「じゃあ撮りますよー。3・2・1・チーズ!」
夏休みが終わり、2学期の第二日曜日の朝、ダチ高相撲部員は全員が部室の前で
卒業アルバム用の記念写真撮影をしていた。部長の蛍を中心に、桐仁が隣で肩に手を置き
前列には松本と大峰が蹲踞してピースサイン、諸岡顧問と千鶴子が両サイドを固め、
幸田と1年生の面々、そして柚子香がその間に挟まる。
-パシャ-
総勢13名、今年度の大太刀高校相撲部は、今日がその体制の最終日。
蛍、桐仁、千鶴子の3年生トリオは今日で相撲部を引退する。2年前の全国制覇から
主力を失ったダチ高相撲部を支えてきた彼らだが、後に残す不安は皆無だった。
今や全国にも通用する実力を備えた2年生、その個性的なキャラクターでめきめきと
日々実力をつけ続ける1年生、そして未だ2人ながら全国まで経験した女子部員。
今やダチ高は、県内有数の強豪相撲部としてここにあった。
「じゃあ新部長、新副部長、頼むよ。」
「来年はマジで全国制覇狙えよ。」
「しっかり稽古して、いい報告聞かせてね、ケガの無い様に。」
撮影後、蛍たち3人は部室で、少し早いちゃんこを囲みながら後輩に思いを告げる。
新部長には幸田が抜擢された。主将ではなく部長なので、実力よりもむしろ部としての
立ち回り、つまり部長会議での予算の獲得や遠征時の書類仕事、出先での皆の引率など
行動力やコミュ力が必要とされる立場に彼はうってつけで、他の誰にも納得の人選だった。
そして新役職の副部長には柚子香が選ばれた。この選出は顧問の諸岡の提案で、
来年以降の女子部員の増加を期待して、その場合の男子との分割を考えて、女子の側にも一人
リーダー的立場がいたほうがいい、という思惑があった。
「って、ゆずにリーダー務まるかなぁ。」
「本当に、それだけが心配で心配で・・・」
おどける蛍に、心の底から不安そうな千鶴子が続く。柚子香があんたらねぇ、とジト目で
二人を睨む。そんな会話にも笑いが咲く今の相撲部。
「っていうか、3人だけなのに戦力ダウン著しいですよ。」
その幸田の言葉に皆がうんうんと頷く。チームのムードメーカーとして、小兵ながら
ダイナミックな相撲でチームの士気を上げた三ツ橋蛍。
技術指導員として皆を指導し、かつ選手として肺の疾患と戦い、懸命な姿を見せて来た桐仁。
そして相撲部のおかみさんとして皆を底から支え、時には名アドバイザーとして貢献してきた
堀千鶴子。
人数的な消失はわずかだが、それでもこの部に欠けるものは大きかった。
「ま、来年に頑張って新入部員集めればいいんだよ。」
お気楽に言う蛍。そう、いつまでも卒業する自分たちに頼られても困る。来年以降この
相撲部のバトンを繋いでいくのは彼らの仕事なのだから。
「俺はそれよりも、2人とも進学っていうのが不満ですよ。」
そう続いたのは陽川だ。大相撲に進むと志す彼にとって、共に部で戦ってきた先輩が
先駆者となってくれないのは少し寂しいものがあった、共に『国宝候補』と呼ばれた
彼らなら尚更のことだ。
とはいえ彼らの決断を尊重しないわけでも無い、170cmにも満たない蛍と、肺に疾患がある桐仁。
彼らがプロの世界に進んで成功する確率は低いだろう、そんな甘い世界でない事は皆知っている。
それでも大相撲で活躍する彼らを想像すると胸躍るものがあるだけに、その可能性が潰えるのは
やはり残念だ。
「まぁこれから見て、気が変わったらいつでも相談するといい。」
そう語ったのは諸岡だ。そう、実はこれから一同は国技館に向かい、大相撲を観戦する
手はずになっていた。インターハイ最終日の夕方、焼き肉店で現役力士、童子切関に頂いた
観戦チケットの当日券が今日の日付なのだ。
各々の思いを胸に、観客として国技館入りするダチ高相撲部。
「うわ・・・すごい人。」
「初日からずっと満員御礼らしいね、指定席で良かった。」
国宝効果で大相撲は人気絶頂だった。人ごみをかき分けながら、指定の番号の席を探し
腰を落ち着ける一同。と、彼らの隣に見知った顔。
「五條さん、ちわっス!」
同じく焼き肉店でチケットを貰った五條佑真が先に来ていた。そしてほどなくその隣に
1人の女性が辿り着く。
「もー、凄い人。見てよ2階席までびっしり!」
ダチ高の元部長でもある五條レイナが小洒落た格好で登場する。相撲部の皆もちゃっす!と
彼女に挨拶する。
「インターハイがかわいく思えるくらいの熱気ですね。」
「ああ、これが大相撲だよ!」
焼き鳥を頬張る松本の横で、蛍と桐仁が『自分には過ぎたステージ』を見て感想を漏らす。
が、ほどなく思考は目前に迫る『お目当ての一番』に移る。そう、この相撲を見に来たんだ、と。
-かたや、鬼丸、鬼~丸ぅ~。こなた、数珠丸、数珠ぅ~丸ぅ~っ!-
二人の力士が土俵に上がると同時に、国技館が熱狂に包まれる。
「来たーっ!日本人最重量対最軽量!」
「体格差やべぇーーっ!」
「数珠丸っ!吹っ飛ばせぇー!」
「鬼丸かわいいー、頑張ってーっ!」
両力士への声援と、四股名の国宝銘コールが会場に響く。
-おっにまるっ!おっにまるっ!おっにまるっ!おっにまるっ!-
-じゅっずまるっ!じゅっずまるっ!じゅっずまるっ!-
その体格差もさることながら、両者とも客受けのいい人気力士。その初顔合わせの対決に
懸賞幕が土俵をぐるぐる回る。
「うわ!見て下さいよあれ。懸賞幕があんなに、全部でいくら?」
思わずこぼす柚子香。あれ一本一本が企業やスポンサーから贈られた賞金ともいえる報酬、
客が望む一番を見せる力士に送られる寄付金、相撲に払う価値があると出されるお金。
「(女子相撲があそこまで支持されるのに一体何年かかるかしらね・・・)」
相撲界の男女の境遇差を考えて思わずため息が出る。私の生きてるうちに実現するかしら、
と頬杖を付く柚子香。
仕切る二人を、各々がそれぞれの思いで見守る。
陽川と大峰は、いつか自分が倒すべき相手として、たとえそれが自惚れであってもいい、
いつか必ず、と。
松本や幸田、そして赤池や沼田、柳沢はこの一番が何か参考にならないかと目を光らせて。
そして桐仁は、かつて共に相撲を学び、その背中を追い続けた男の、遥か遠くに行ってしまった
火ノ丸の晴れ舞台を、尊敬と自虐の想いをないまぜにして見つめていた。
「(なぁ火の丸、俺はやっぱ裏方の方が向いているのかもな。)」
自分はあの舞台に立つには不相応かもしれない。だが将来あそこに行きたいという陽川や
大峰を指導し、より強くしてきたという自負はある。
それもまた相撲道。懸命にチームを強くしてきた指導者たちを何人も見て来た桐仁にとって
その道もまた価値ある生き方であることを感じていた。
蛍は久しぶりに見る火ノ丸の相撲に胸躍る思いだった。自分より小さな体で、あの舞台で、
あの大男と相撲を取る、そんな憧れの人物を、自分が心底『カッコいい』と思う人の雄姿に。
ふと思いを馳せる。もし僕が火ノ丸さんだったら、あそこにいるのが僕だったら・・・
そんな思いで土俵上の鬼丸に、自分の姿を重ねる。
-それが蛍の後人生を大きく変えるなど、誰にも想像できなかった-
『はっきよい!』
立ち合いは五分、鬼丸はすかさず下手を引き、小さく投げを打って数珠丸を崩す。
それを見ていた蛍は、その当たりの強さと行動の速さに置いて行かれそうになりながらも
想像の自分を懸命に鬼丸の動きに追いつかせる。
{(やっぱり火ノ丸さんは凄い!)」
カッコいい、そして自分みたいな小さな者にも希望を、夢を与えてくれる、自分があそこで
相撲を取っている姿すら、ありありと思い浮かばせてくれるほどに。
『一気の出足、体重差を物ともしない!』
電車道で寄り立てる鬼丸。蛍もまたその背中に自分を重ねる。行け、行けっ!
土俵際、数珠丸が鬼丸の下手を閂に巻き、体を躱しつつ小手投げで最後の抵抗を見せる。
「(・・・あ。)」
蛍には、土俵下にもつれ落ちる二人の姿が、まるでスローモーションのように見えた。
そして土俵下で響いた小さな音が、聞こえるはずのない蛍の右手で同じ音を立てる。
ぐしゃっ
惨劇は誰の目にも明らかだった。200kgを超える数珠丸の重量が、鬼丸の肘を完全に
決めた状態で落下し、力を逃がしようのない体制で腕を逆方向にへし曲げたのだから。
静寂の後に、国技館を焦燥と悲鳴が包む。呆然と立ち上がった鬼丸の右手はヒジから
完全に逆に曲がっていた、ありえない方向に。
熱を感じさせるほど真っ赤になった肘が、その内部の破壊の酷さをありありと物語る。
土俵下で見守っていた柴木山親方が慌てて半纏を脱ぎ、観客の視線から腕を隠す。
続けて飛んできた付け人の寺原が、持っていた鬼丸の着物を半纏と入れ替えて肩にかけ
左から肩を貸して通路に鬼丸を誘導する。
その時の小さな力士、鬼丸の表情は誰にも表現が出来ないだろう。
苦痛、恐怖、後悔、恐れ、怒り、不安、絶望、あらゆる負の感情が揺蕩った顔をして
それでも歩いて花道を引き上げる。
未だ静寂に包まれる国技館、そこに桐仁の嘆きが響く。周囲にいるダチ高の面々は、
その声をしっかり聴き遂げる事が出来た。
「何をやってるんだ・・・俺は!」
その声が唯一耳に届いていない男が、足早に後ろを通過していく。
「げえぇぇっ!」
国技館のトイレに到着した蛍は、そのまま便器の中に、先ほど食べたちゃんこの中身を
胃液と共にぶちまけた。
痛みのないはずの右手が強烈に違和感を訴える、曲がってないはずの右肘が壊れたような錯覚、
体中を脂汗が伝い、呼吸がおぼつかない、息を切らせても酸素を吸えてる気がしない。
「はぁっ、はぁっ・・・はぁっ」
怖い。
あの憧れの火ノ丸さんがケガをした。それも並大抵じゃない、再起不能は間違いないであろう
大怪我。
いや、そんなレベルではない。利き腕の右手を折られることは、後の人生を障がい者として
生きて行く事すら強いられる。
箸も鉛筆もロクに持てない、服を着替えるのも財布を出し入れする事すら難儀する後人生が。
-僕は、今まで何を思っていた、何を勘違いしていた?-
本当に怖いのはケガではない、なんて粋がっていた。過去にちょっと負けが込んだぐらいで。
そんな自虐に身を任せ、身の程知らずにも大男たちと体をぶつけ続けた。
血を流し、意識を飛ばし、それでも相撲だから、と意に介さず戦い続けた。
もしひとつ間違えば、自分も壊れていたかもしれないのだ。
首藤さんとの一番、あの程度で済んだのは幸運じゃなかったか?
思い出の初勝利、下山君との一番でも意識を飛ばした、もしあの時に投げが来ていたら
自分は受け身も取れず、酷い事になっていたんじゃないか?
他にも数々の対戦を思い出し、そのほとんどが紙一重で負傷を免れていたのではと想像する。
得意の潜る相撲?それを続けた狩谷さんはどうなったか、そこに思いが至らなかったのか?
先日の高校相撲最終戦、黒田さんが『かばい手』をしてくれなかったら、自分はどうなっていた-
トイレの壁にもたれて震える蛍。疲れは無いのにヒザが笑って歩けない。
三ツ橋蛍はこの時、初めて『相撲』そのものに、恐怖を覚えた。
いよいよ最終章、蛍を幕内力士まで叩き上げる為の最大の試練、それは『ケガへの恐怖と克服』。