「桐仁・・・」
放課後、帰宅しようと教室を出た蛍の前に、彼は佇んでいた。
蛍の姿を認めると彼はくいっ、と顎を引き後ろ指を指す。付いて来いというゼスチャー。
無言で背を向けて歩き出す桐仁に、やはり無言でついて行く蛍。
要件の見当はついている、まず間違いなく昨日の火ノ丸さんの件だろう。
だが具体的な内容は分からない、容体が明らかになったのか、これから柴木山部屋へ
お見舞いにでも行くのか、あるいは昨日の一番を糧として、後輩たちにケガの怖さを
教えておくのか・・・
部室に到着し、蛍に向き直った桐仁は開口一番、こう言い放った。
「俺は、大相撲に行くぞ、三ツ橋!」
「・・・え?」
蛍はその言葉をすぐには理解できなかった。桐仁は進学希望だったはずだ。
ましてやつい昨日、目の前で大相撲の過酷さを目の当たりにしたばかりじゃないか。
思いたくは無いが、火ノ丸さんあのケガで復帰できるとはとても思えない、桐仁にとって
目標である火ノ丸さんと対戦できない角界に・・・なぜ?
「お前はどうする、三ツ橋。」
暗い影を落とした、だが真剣な表情でそう問う桐仁。
「どうするって・・・進学するって言ってたじゃないか!」
高校3年の2学期、今さら進路を変えるなどありえない。困惑した表情で逆に問いただす。
「桐仁、どういうつもりだよ!今更大相撲って・・・何考えてんだよ!」
その言葉に、眼鏡に手を当てて少し俯いた後、顔を上げて桐仁が叫ぶ。
「決まってるじゃねぇか!火ノ丸がケガしたんだぞ、俺が行ってアイツを引き上げてやるんだよ!」
普段見ない剣幕の彼に一歩引く蛍、構わず続ける桐仁。
「分かるだろ!アイツには立ち直る理由がいるんだよ、相撲を続ける道標が!
俺が、俺達が火ノ丸のライバルになってアイツを奮起させてやるんだ!」
「・・・本気で、言ってるのか?」
蛍には理解できなかった。自分たちがいれば火ノ丸さんが復活する?そんな理屈がどこにある。
そもそも角界にはライバルなんて吐いて捨てるほどいる、今さら桐仁がそっちに行ったとして
火ノ丸さんを奮起させられると思っているのか?いや、それよりも・・・
「本気さ、決まってるだろ。」
蛍を睨んでそう吐く桐仁。そして、決定的な一言。
「たった今、退学届けを出してきたよ。もう後戻りはできないし、する気も無い!」
「なっ!?」
愕然とする蛍。思慮の深いはずの桐仁のその極端な行動に動揺を隠せない。
「な、何考えてんだよ!もう少し待てば卒業じゃないか、なんでこの時期に・・・」
「そんなもん、どうでもいいっ!」
怒鳴りつけて蛍を黙らせる桐仁。激高を隠せずにまくしたてる。
「火ノ丸は俺がいなきゃ駄目なんだよ、俺が卒業までチンタラやってて余裕で角界に行っても
アイツを失望させるだけだ、今すぐじゃなきゃダメなんだ!」
呆然とそのセリフを聞く蛍。彼は一体何を言ってるんだ、自分の進路だろ、人生じゃないか。
まるで火ノ丸さんに尽くすために自分を投げ出してるような物言いに驚く。
「依存しすぎだろ!火ノ丸さんに、いくらなんでも・・・」
その言葉にはっとする桐仁。蛍の真意を咀嚼し、しばし考えてから返す、決定的な一言を。
「・・・そうだよ、火ノ丸が最優先だ。正直に言うぞ、俺にとってダチ高相撲部も、後輩たちも、
そして三ツ橋、お前もどうでもいいんだよ!」
言葉の刃が、蛍の心を切り裂いた。
「小関さんも、五條さんも、國崎さんも、所詮は火ノ丸を叩き上げるために指導しただけだ。
そうさ、俺は体よく彼らを利用したんだよ、火ノ丸の為にな!」
・・・もういい。
「俺がダチ高相撲部に残ったのだって、自分を鍛えて大相撲に行くためだ、正直チームなんか
勝てなくったって知った事か!」
・・・黙ってよ。
「お前ならわかってくれるかと思ってたがな、期待外れもいいトコだ!憧れるだけ憧れて
何も返す気概は無いのかよ!」
・・・うるさい。
「出来の悪い後輩の指導に2年も費やして、ああ、時間の無駄だったよ!俺の為の時間なのに
何が監督だ!いつまでも人に頼ってんじゃ・・・」
その瞬間だった。蛍が桐仁の胸倉を掴み、怒りの表情で絞り上げたのは。
「いま、何て言った・・・?」
この2年、後輩たちと共にダチ高相撲部を育て、共に戦ってきたことが無駄だって言うのか?
皆で頑張って汗を流し、鍛え、戦い、結果を出してきたことが・・・無意味?
「火ノ丸、火ノ丸、火ノ丸!お前は一体何なんだよ、そんなに火ノ丸さんが大事か!
今のダチ高相撲部全員が、火ノ丸さんより価値が無いって言うのか!!」
胸倉を引き付けて怒鳴り返す蛍。さすがに看過できない一言に血液が沸騰する。
「ああそうさ!俺はそういう奴なのさ。部長さんはせいぜい仲良しこよしでやってろ!」
桐仁にしても『売り言葉に買い言葉』だとは思う。だが火ノ丸を肯定しダチ高を否定するのは
彼にとっては力士への道を肯定し、指導者への道を否定する事に等しかった。
指導者への未練を断ち切る意味も込めて、あえて汚い言葉を吐き続ける。
「現実を見ろよ桐仁!お前あのケガで復帰できると思ってるのか!?」
今度は桐仁が言葉の刃に斬られる番だった。
「腕が完全に逆に折れてただろ、関節グチャグチャなのが分からないお前じゃないだろ、
仮に治ったとして、まともに相撲を取れると・・・」
「黙れえぇぇぇぇっ!!」
今度は桐仁の方が蛍の胸倉を掴み、吐き返す。
「火ノ丸の事、何も知らねぇのに言うんじゃねぇよ!アイツは必ず復活する、必ずだ!」
「火ノ丸さんの事だけじゃない、大相撲に行けば桐仁だって同じ目に合うかもしれないじゃないか!」
お互いの胸倉を掴み合ったまま、しばし睨み合う両者。
「お前・・・怖いのかよ。だったら相撲なんか止めちまえ!」
「・・・っ!」
図星を刺された動揺もある。しかしそれ以上に、その上から目線の物言いに腹が立った、
今だけは。
「何様のつもりだ!相撲を取る者がケガを怖がって何が悪いっ!!」
「つまみ出して。」
幸田新部長の声と同時に、桐仁と蛍は同時に後ろから組み付かれる。
桐仁は大峰に、蛍は松本に抱え上げられ、出入り口まで運ばれて外に放り出される。
突然のことに頭が追い付かない二人に対して、陽川がこう言い残してドアを閉める。
「・・・アタマ冷やして下さいよ。」
尻もちをついていた桐仁が立ち上がり、パンパンと土を払い落とす。
「フッ、まぁいいさ、あんな奴等、どうでも・・・」
「桐仁!」
「どうせ引退した身だ、もうアイツらは他人なんだよ、それでいい。」
きびすを返して歩き出す桐仁、その背中に蛍は何も言えなかった。
ただ、その丸めた背中のもの寂しさを感じ取り、心でこう毒を吐く。
「(・・・強情っぱり。)」
大太刀高校相撲部のツートップ、三ツ橋蛍と辻桐仁、国宝候補『蛍丸』と『鬼切安綱』は、
この日、袂を分かつ。
帰宅後、心の疲れに滅入った蛍は、勉強机のイスにもたれかかる。
今日だけは受験勉強をする気分になれない、なにも頭には入らないだろうから。
と、蛍はタンスの上にある黒いバッグを目に止める。
立ち上がり、背伸びしてその箱を掴み取り、下におろして箱を開ける。
出てきたのは銀色の楽器、彼が小4から愛用してきたフルート。
ティッシュで楽器の口周りを拭いてから両手で持ち、口を添える。この部屋はかつて家族が
楽器の練習のために防音を施してくれている、吹いても問題は無いだろう、と。
吹けなかった。
かつて繊細な動きでメロディを奏でたその指は、今や相手のマワシを掴むためのもの。
吐息を美音に変えたその息遣いは、もう格闘の気を発する咆哮を生み出すもの。
蛍はフルートを両手の平に乗せ、天井を仰いで一言呟く。
「・・・何やってんだろうな、僕。」