入学から一ヶ月、僕は高校生活という人生最大の青春を謳歌していた。とはいえそれは仲間と共に部活動に明け暮れているわけでも、男女同士の甘酸っぱい恋愛を堪能しているわけでもなく、ただ単純に屋上で真っ青な空を眺めながら、のんびりと日々を過ごしていたにすぎなかった。
僕はその青春の日々を気に入っていた。適度な距離感のクラスメイトと談笑し、やりがいのある難易度の勉学に励む。そしてその合間に教室を抜け出すとだだっ広い屋上が僕を迎え入れてくれた。まさに理想の学生時代だと思っていた。
その平穏で完璧な日常は、ある日を境にいくつかの変化を起こした。まるで完成したジグソーパズルに無理やり別の絵のピースをはめ込んだような、違和感だらけの余計な変化だった。
その日の昼休み、いつものように僕だけが使う秘密のルートで屋上に向かっていた。C棟四階にある廊下側の窓を乗り越え、外壁の出っ張りの上に降りる。そしてその上を壁に沿って歩けば、外からは見えにくい場所にある用途不明の屋上への梯子の元へ辿り着く。人伝に聞いた道筋だが今のところ僕一人だけが屋上を独占できていた。うん、まさにこの日までは。
梯子を登り屋上に顔を出す。そこで目に入ったのはいつも通りの淡い青空と、ぽつりと立っている一つ目のピースだった。そのピース、すなわちセーラー服を着た少女はこちらの存在に気づくと、薄く笑みを浮かべながら小さく手を振ってきた。艶やかな黒い髪と、病的なほど白い肌のコントラストが妙に印象的だった。彼女に見覚えはなかったが、僕が忘れているだけで面識があったかもしれない。もしくは僕を誰かと間違えているのか、ただフレンドリーな人なのかも。何にせよ、角が立たないよう軽く会釈で返した。
そうか、ここはもう僕だけの場所じゃなくなったのか。少し、いやかなり残念だ。僕だけの場所なんて、随分身勝手な考えだけども。
心の中でため息をつきながら、梯子を登り切り屋上に足を踏み入れた。
チラッと彼女の方に視線を向ける。するとそこには、驚いたように目を見開きながらこちらを見つめる彼女がいた。予想外の状況に今度は僕の方が驚き、互いに立ち尽くしたまま驚き合うという奇妙な状況が出来上がっていた。
状況が飲み込めず混乱している間に、彼女の方が先に口を開いた。
「あなた…」
「は、はい」
何に驚かれているんだろう。身なりは至って普通のつもりだけど、何かおかしいところでもあるだろうか。
不安を覚えつつ彼女の言葉を待つ。すると彼女は少し間を開けてから表情を緩ませ、また口を開いた。
「…ごめんね、なんでもないの。気にしないで」
「はぁ」
なんなんだ、一体。
微妙な空気を感じ取った僕は適当な場所に座り込み、持ってきた菓子パンにかぶりつく。すぐさま回れ右で帰るのは少し気が引けたので、昼食を挟んでから教室に戻ることにした。貴重な屋上での時間がなくなるのは惜しかったが、かと言ってよく知らない人の側で寛げるとは思えなかった。
視界の端に彼女の横顔が映る。何か考えているような真剣な表情で、口に手を当てたままじっと動かない。屋上を走る風が長い髪を揺らしても、彼女の体は微動だにしなかった。
変わった人だな。率直にそういう印象を抱いた。しかしそれ以降彼女に目を向けることはなく、明日から代わりの場所を探さなきゃとか、次の授業は移動教室だったっけとか、そんなことをぼんやりと考えていた。
しばらくの間、普段と変わらない穏やかな静寂が流れた。
「ねぇ、あなた、ここにはよく来るの?」
最後の一口を食べようとしたその時、突然彼女は体をこちらに向けて言った。彼女の目は真っ直ぐ僕の顔を見つめ、質問の答えを待っている。僕は口元まで運んだ手を下ろし、それに答えた。
「晴れた日の昼休みなんかにはいつも来てます」
「そっか」
…。会話はここで終わった。彼女はどこか嬉しそうに目を細めて微笑むと、僕から視線を外し遠くの景色を眺めていた。その時の僕はと言えば、多分彼女と正反対の表情を浮かべていたはずだ。質問の意図が分からず不安で、彼女の思考が読めず不気味だった。
早いところ帰った方が賢明だと悟った僕は残りのパンを口に放り込み、さっさと立ち上がって梯子の方に向かって歩いた。
「あの」
梯子に足をかけ下に降りようとしたその時、また彼女の声が屋上に響いた。何故かほんの少し、その声は震えている気がした。
「ごめんね、君の居場所に勝手に居座っちゃって」
彼女はこちらを向くと、何か誤魔化すように微笑んだ。
「でももし君が嫌じゃなければ、またここに来てくれないかな」
その笑顔はどこか寂しくて、暗くて、必死だった。
「君の邪魔は絶対にしないから」
「…約束はしませんよ」
それだけ言い残し、僕はそのまま梯子を降りた。
そのピースはどこか儚げで、捨てるに捨てられなかった。