「ヨハン起きてください。ヨハン」
優しい声色に誘われて、微睡んでいた意識が水底から急激に浮上してくる。重い瞼を開けると青色と紺色という、色彩に差のある瞳がこちらを見ていた。
「……おはよう、アインハルト」
「はい。おはようございます」
彼女はアインハルト。感情をあまり表情に出さないがいろいろと気遣いのできる子で、俺達は昔からの幼馴染であった。
本名はハンディ・アインハルト・ストラトス・イングヴァルトという、まるで貴族のように長い名前をしているが、それもその筈で、アインハルトは古代ベルカの王の1人である、覇王イングヴァルトの直系の子孫らしいのだ。珍しい碧銀色の髪とオッドアイもその血が関しているとのこと。
ずいぶん曖昧な表現なのは、それらが全てアインハルトからの受け売りであるから。
「体起こしますね」
「うん、お願い」
彼女から覇王の記憶を受け継いでいることも聞かされている。イングヴァルトがかなりの武術家であることは俺も知っていて、彼女はそれに影響されてか毎日のように凄まじい鍛錬を行っている。
そのせいかあまり友達を作らず、自分からも積極的に話すようなことはしない。
俺がいないとまともに会う同年代もいないだろう。
それが嫌ということは全くなく、お互いのやりたいことに勤しみながら仲良くやっている。男女の違いはあるだろうし、もし同性の友達を見つけたらならそっちと絡むのが自然だ。
それでも俺にとってアインハルトは一番の親友であると思っているし、これからもそうであってほしい。
「では服を着替えさせるので少々待ってくださいね」
「助かるよ」
……んでその親友に何をさせているのんだろうね、俺は。
別に俺が要介護者というわけではない。
いや、今だけは人の助けがほしいのは間違いないのだが。なにせ俺の左肩から左腕に掛けて包帯がぐるぐる巻きにされ、ギブスまでつけている。
こうなった原因は俺も、アインハルトとは違う格闘技ではあるがストライクアーツを習っていること。
始めた理由は幼い頃アインハルトの姿に触発されてのことだった。男の子にとって格闘技とは憧れの対象である。彼女の動く姿はカッコよく、俺もあんな風に動いてみたいなと思っていた。
飽きっぽいと自覚している俺だが、これだけは毎日続けて今までやってきてきた。
そのおかげかどうかは知らないが、俺は学生同士の地方大会で上位に入賞するだけの技術を身に着けることができた。アインハルトも親と一緒に来てくれていたが、その時とても喜んでくれていたのは記憶に新しい。
それでまあ調子に乗った俺はアインハルトに組手の相手をお願いしたのだった。
俺よりも強いことは日々の鍛錬から重々承知していたが、対戦をしない彼女との差がどこまで縮まっているのか確かめたくなったのである。
最初は軽い手合わせのつもりだった。お互い怪我をしたら元の子もないし、日常生活にまで支障をきたしてしまう。
しかし、軽い打ち込みを繰り返している撃ちにお互いにヒートアップしていき、段々と物足りなくなってしまった。
それでグローブ有りの試合を一戦だけやることにした。
その結果がこのザマである。
終盤になって右フックを囮にして左アッパーでフィニッシュのつもりだったが、見事に躱された上にカウンターで左半身へ二連打食らってしまったのだった。吹っ飛ばされた後痛みで立ち上がれなくなってしまい、アインハルトの同伴の元病院に行ったら鎖骨と左前腕部に綺麗なヒビが入っていた。
彼女からものすごい勢いで謝り倒されたが、お互い了承の上で対戦したので全く責めるつもりもなかった。しかしアインハルトはそれでは納得せずに、俺の身の回りの世話をすると言い出してきたのが発端の始まりである。
元々頻繁に料理を作りに来ていたし、親がいない時は掃除や洗濯までしてくれていた。そのただでさえいたり尽くせりな状況の中で、更に彼女に頼み事をするというのは、俺の中のプライドが許せなかった。
なので最初は母親に頼むからと断ろうとした。しかし当の母さんが……。
『あら、あたしもお父さんもいつでも見てられる訳じゃないからすごく助かるわあ。アインハルトちゃんならしっかりしてるし安心できるわね』
『はい。お任せください!』
俺のいない間にアインハルトとそんな会話をしたそうな。怪我をした本人を置いてけぼりにするのは良くないと思う。
そんでまあそれから彼女はもっと俺のところへ来るようになった。
朝から始まり学校から帰るまで。親がいない日は寝るまで付きっ切りで側にいてくれることもある。片腕を使えないのは不便なもので助かっているのは事実だ。
そんな彼女には常に感謝している。が、一方で困っていることもある。
「なあアインハルト」
「はい? なんでしょう」
「いつも思うんだけど着替えとかの時に……その、俺の下着とか見て嫌じゃないの?」
それが服を脱がされる時のこと。
寝間着から制服に変えるにしろ、体を拭いてもらうにしろ、どうしてもアインハルトの手を借りねばならないのだが、俺はその時間がとにかく恥ずかしい。
仮にも異性で、そしていつも一緒だった俺からしても彼女はとびきりの美人だ。何かしらのリアクションがあっても良いと思うのだが、普段通りの様子で脱がせるのをためらうような素振りも見せない。
何とも感じてないのか気になってつい聞いてしまった。
「そんなことですか。ヨハンのものだったら嫌なことなんてありません。それにもうお互いの裸まで見た仲じゃないですか」
「それは小さい頃の風呂の話だろ……。俺達ももう中学生なんだから今更風呂なんて気まずいと思うんだけど」
「ヨハンはそうなんですか? 私は気にしませんけども。だってヨハンとは家族みたいなものですし、どんなことでも受け入れる覚悟があります」
たまにアインハルトの言うことがかっこいいというか、その辺の男よりも男らしい。ひょっとしたらイングヴァルトの記憶が原因なのだろうか。
「それは嬉しいけど、家族といっても現状は妻に何もかも任せっきりのダメ夫って感じだなあ……」
アインハルトからの言葉がまっすぐ過ぎてつい茶化すようなことを言ってしまったら、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「つ、つ、妻だなんて……まだそういうのは早いと思うんですが。ハッひょっとしてプロポーズですか? いけませんヨハン。私にも心の準備というものがありまして――」
「落ち着け落ち着け」
さっきまでの堂々とした風体はどうしたかのかというほど、アインハルトは俺の制服で自分の顔を隠して
妙に男らしかったり年相応の女の子の態度に戻ったり、大変忙しいなあと毎度ながら思う。これも複雑な乙女心というものなのかもしれないが、こればっかりは長年付き合ってきた者同士でもわからない。
とりあえずパンツ一丁で非常に寒いので、何とかアインハルトを宥めつつ服を返してもらおうと思った。
その後落ち着きを取り戻したアインハルトと一緒に食事をとって、St.ヒルデ魔法学院へと向かう。
歩くだけなら何も支障はないのだが、彼女は当然のように俺の横に付き添い、右腕を両手で握っている。倒れたら大変だからという理由で離してくれそうにもない。
しかしここが通学路であるために当然そこへ通う生徒もチラホラと見ている。俺はともかくアインハルトはその容姿に加えて、珍しい髪色や瞳をしているので非常に目立っていた。
そのおかげか周りからの視線の量が凄まじく、なんともいたたまれない気持ちになっているのだが、彼女はいつもの無表情であり気にしている様子もない。いい加減俺も慣れるべきだろうかと思うがこればっかりは何ともなりそうにない。
アインハルトのエスコートの元学校に辿り着くと、彼女とは別々のクラスなので椅子に座らせてもらったところで別れた。すると俺達よりも早く来ていたクラスメイトが近付いてくる。
「おはようヨハン。いやー今日もストラトスさんは綺麗だよなぁ」
「おはよう。それ直接本人に言ってやれよ。学校だとあいつに話しかけてくれる人あんまりいないんだ」
「そんなことできるわけねーべ。俺にとってあの人は高嶺の花なんだからよ」
「その高嶺の花と毎日話してるけど?」
「とりあえず残った右腕も折ってやるよ」
「おいやめろ」
物騒な会話を繰り広げていたが、ただの日常会話をしているだけだ。
こいつとは初等部からの付き合いで、偶然同じクラスに居続けている。学年を昇るにつれてサークルやクラブ活動が増えてくると、そっちの仲間同士でつるむのが一般的だが、こういう風に変わらずに仲良くしてくれる友人というのは大切にしなきゃと思う。
「まあ冗談はともかく、左腕はどうなんだ? そろそろ治る頃じゃねーの?」
「まだかなぁ。もう少し掛かると思うぞ」
「んじゃそれまではストラトスさんのお世話になりっぱかよ。羨ましいねえ」
「羨ましい、かなぁ」
こいつには着替えの件とか色々苦労してることがこっちにもあるのだということを知らないだろう。
しかしアインハルトといえば客観的に見れば容姿淡麗で品位方正だ。その立ち振舞は物語の中のお姫様と呼ばれてもおかしくない。だからこそ近寄り難いという人間が大多数なのかもしれない。
親しい人間には柔らかい表情を見せてくれるのだが、今のこいつが信じるとは思えない。
「そりゃそうだろ。夜のランニング中に
「はは、お前はそうかもな」
怪我したのはアインハルトとの組み手が理由だということは周りには伝えていない。ただ俺が勝手に自爆したと触れ回っておいた。
アインハルトには隠さなくても良いと言われたが、彼女は良くも悪くも目立つ存在だ。このことが知られて彼女に暗い噂が立つのが嫌だった。
それに、実際に俺が調子に乗ったことが原因なのは間違いないのだから、俺が笑い話に変えるだけで良いと考えてのことでもある。
「勝者の余裕みたいでなんか腹立つな……。まあいいや、腕治ったらゲーセンでも行こうぜー。昨日だか新しいやつ入ってきたみたいだし」
「良いね。もうずっと学校と家の行き来だけだから流石に辛いからな。それに体もなまってしょうがないから格闘技の練習場にでも行きたい……」
別にアインハルトとの時間が苦というわけでもないが、ずっと同じ日々だと飽きてくるのが人間だ。まして俺は運動部に所属してるわけで、ジッとしているのは性に合わない。
ゲーセンに行くのが楽しみだなあ、とか考えていると、目の前の友人が少し真剣な表情になって周りを伺った。
こいつがこういう顔つきになると冗談を言わなくなるのは分かっている。
「……格闘技で思い出したんだけど、最近ここら辺で通り魔が出る噂が立ってるの知ってるか?」
「通り魔? まじか、全然聞いたことなかった」
アインハルトと話していてもそんなこと口にしていなかった。
「と言っても格闘家とかその経験ある人に、突然手合わせを申し込む程度らしいんだけどな。被害届も出されてる訳じゃなくて俺も先輩がその人と立ち会ったからって聞かせてもらったんだ」
「はあ、それはまた……」
時代錯誤というかなんというか、これだけ設備やらトレーニング場が充実してるのにそんなことする人いるんだなというのが率直な感想だ。
被害届も出てないと言うのなら危険なことはないのだろう。
「んで先輩の友人からの又聞きなんだけど、どうもそいつを見かけるようになったのってヨハンが腕を折った時からみたいなんだよな。お前もストライクアーツの大会で優勝してたろ? だからひょっとしたら夜とかに会うかもしれないなって思ってさ」
「えー……そいつが噂通りの奴だったら良いけど、それでも襲われるのは勘弁願いたいなあ」
「まっ、これ予め聞いておけば襲われてもパニックにはならないだろ? 訳も分からずボコられるのも嫌だろうなって思ったからさ。記憶の片隅にもでも置いておけよ」
「そうしとくよ」
こいつのことだからきっと情報の裏付けはバッチリなのだろう。納得できるまで調べ上げる性分らしいから、そこは信頼している。
あるいは俺を気遣ってくれているのか。そうだとしたらこいつには感謝しなければいけないな。
そう思ったところで教師がやって来たのでそれぞれ席に着くが、その前に言葉で「ありがとう」とは言っておいた。
教師の挨拶も早々に授業が始まる。最初は片手でタイピングするのにも苦労したものだが、今では授業に遅れない程度には早くなった。
それでも聞き漏らしは増えて、そこはアインハルトや友人に頼んでパソコンを見せてもらっている。持つべき者はやはり友達だな。
集中、というか必死になって物事に取り組んでいると時間の流れは早いもので、あっという間に放課後になっていた。教室で待っているとアインハルトが迎えに来てくれて、彼女の手を借りながら学校を出る。
相変わらず視線が突き刺さってくるが、とりあえず外からの情報は極力シャットアウトして彼女との会話に集中している。
「そういえばさ、アインハルトはトレーニングどうしてるんだ? 俺に付きっ切りだと時間ないんじゃないの?」
「ヨハンが心配なさらなくても、自分の家に帰ってからしっかりとやっていますよ?」
「そっか。でも夜遅い時とかあるし、負担だったらこっちに構わなくても平気だからな?」
「負担なんてそんなことありえません。ヨハンのお世話は私が好きでやってることなんです。それに元はと言えば私のせいでお怪我をさせてしまったんですから、これくらいは当然でしょう」
そんなに気にしなくても良いとは思ったが、アインハルトがそれで良いのならとも考えてしまう。
「そ、そう? まあ世話になってる身だからあんま強くは言わないけどさ。でも医者もあと1週間くらいでギブス外せるって言ってたからそれまでの辛抱だから我慢してくれるか?」
「――え、そうなんですか……?」
アインハルトは驚いたような顔をしている。そりゃあ骨折してから3週間も経ってるわけだし、流石にそろそろ治ってくれないと困る。
「そうそう、さっき連絡もらったんだ。早く練習再開したかったし思ったよりも早くて助かったよ。これまでほんとありがとな」
「い、いえ……。私も好きでやっていたことですし。……そう、ですか。治っちゃうんですね」
「アインハルト?」
「……あ、いえ、何でもないです。それより今日はヨハンのご両親とも帰りが遅くなるんですよね? お夕飯はどうしますか?」
小さな声で良く聞き取れなかったので聞き返すと、なんだか突然話題を切り替えてしまった。
俺としてはようやくこの窮屈な生活から解放されることに喜んでいたのだが、アインハルトの方は腑に落ちないような顔をしている。
――あれ、もしかして俺嫌われてる? 一生その体で生きていけばとか思われてる?
い、いや、アインハルトはそんなひどいこと思うやつじゃない。長い付き合いだし感情が顔に出なくてもある程度考えてることは分かっているつもりだ。
だから決して嫌われてはないと、思いたい……。
だがアインハルトのこんな態度は初めてだ。どうして俺の怪我の完治に残念そうにしているのか分からない。
それを聞くというのも憚られて、モヤモヤとしたものを心に貯めながら俺は彼女の手に引っ張られていった。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ―
あれから2週間。
俺は医者から無事に完治の言葉を聞いて走り込みに勤しんでいた。実は動けない鬱憤から開放されたこともあって早速クラブで練習しに行ったのだが、一ヶ月以上のブランクは俺の体力を想像以上に奪っていたようで、以前のように動くことができなかった。
動けないというかスパーリングの前にバテてしまった。
これでは他の仲間にも迷惑になると思い、こうやって1人で夜な夜な体力作りをしている。
前と比べて開始早々ですでに息が切れているが、それでも体で風を割っていく感覚は気持ちが良い。やっぱり俺は体を動かすのが好きなんだなと考える。
頭もスッキリするし、ちょっとした悩みだってどうとでもなるかと思えてしまうからだ。
ちょっと前にアインハルトの様子がおかしいと感じていたが、ギブスを外した時は「おめでとうございます」と面と向かって言われたので、俺の気の所為だったということにしている。その後の関係も元通りになったことだし。
不安なことは解消されたことだし、今は早めに以前の実力に戻ることに専念しようと考えている。もちろんそこがゴールではない。
アインハルトとの組み手で少しはお互いの実力差が掴めた。間合いの詰め方も速度も一撃の重さも全て負けている。
一緒に育ってきた仲でそこまで差があることにショックは受けたが、逆に格闘技のお手本がすぐ身近にいてくれることは正直有り難いとも感じていた。
アインハルトと試合すれば自分ももっと成長できそうだ。
そう考えると俄然やる気が出てきたので走るスピードを上げた。病み上がりとはいえこれくらいなら大丈夫だろうと思い路地の角を曲がった。
「……ん?」
上げたスピードが落ちて、止まる。
――道路のど真ん中、俺の進行方向の先に1人の女性がこちらを見て立っていた。
背丈は俺よりも上で、年齢にすれば10代後半。長い髪をツインテールにしているが、顔は大きなバイザーのため伺い知ることができない。
「ヨハン・ランチアさんですね?」
「そうだけど……」
目の前の女性が話しかけてきた。隠蔽魔法も施してあるのか、声が聞き取りづらい。だがハキハキとした口調でそれだけでも物怖じするような性格でないことは読み取れる。
「ストライクアーツの有段者で地方大会の優勝者であることは存じております。私と手合わせしていただけませんか?」
「あんた、ここらへんでストリートファイト仕掛けてるっていう通り魔の人?」
「そう呼ばれているのですね。貴方もご存知だとは」
「知り合いに教えてもらったんだ。まともじゃないなと思うんだけど」
「否定はしません。ですが止める気もありません。それで試合してもらえますか?」
一応話のできる人間で良かった。正直万全じゃない今の状態でいきなり襲いかかられてもどうしようもできなかっただろうし。
「ちなみに断ってもいいのか?」
「構いませんよ。尻尾巻いて逃げる弱者を追いかけるほど私も暇ではありませんので」
どうやらあちらは俺のことをよく分かっているようだ。
安い挑発だろうと、それをすまし顔で受け流せるほど俺は人間ができていない。
「……分かったよ。そこまで言われたら引き下がれないだろ」
「ありがとうございます。ではいつでもどうぞ」
そう言う彼女は中段で構えた。俺も自分の足に体重を乗せて体勢を作る。
わずか、ほんのわずか息を吸い、吐いた後重心を前へと傾けた。
「ヨハン、起きてくださいヨハン!」
「ん、う……」
聞き慣れた声に急速に頭が冴えていくのが分かった。重い瞼を開けると青色と紺色という、色彩に差のある瞳がこちらを見ていた。
「良かった。目を覚ましてくれて……」
「アイン、ハルト……?」
ハッキリと意識が覚醒すると、どうやらアインハルトに上半身を抱き抱えられてのいることが分かった。周囲を見渡すと、そこは先程走っていた路地のど真ん中。
そこで自分の状況を察する。
「負けたのか、俺は」
「負けた? 誰かと勝負でもしていたんですか?」
「えーっと、ミッドチルダでストリートファイトを挑んでくるっていう人が現れてさ、それで試合を申し込まれてこうなった」
「なんでそんな危なそうな人と戦ったんですか……!」
アインハルトの言う通りだ。相手はもう去ったようだがひょっとしたら今よりもひどい体の状況になっていたかもしれない。
「怪我はどうですか? 今救急車を呼びましたからすぐに来ると思いますが」
「あちこち痛いけど折れてるとかはなさそう。ところでアインハルトはどうしてここに?」
「……帰りが遅かったのでランニングしてそうなルートを探してたんです。そうしたら倒れてるヨハンを見つけて……」
「そっか。心配かけてごめん」
どうやら彼女はこんなところまで俺を見つけに来てくれたようだ。
「本当ですよ……! 前は私のせいで、今度また大怪我してたらと思うと……。これからはずっとお側にいます。ヨハンは私が守りますから」
「い、いや、そこまでしてもらわなくても」
「駄目です! こんな目にあったのは私のせいなんですから! ヨハンは何も心配することなんてありません」
そう言ってアインハルトは俺を強く抱きしめた。もう何が何でも離さないという強い意志を感じる。
「大丈夫、大丈夫ですよ。ヨハンは私が絶対守ります。だから私に何でも頼ってくださいね? その女性というのも私が倒してあげますから」
「う、うん……」
アインハルトから今まで感じたことのない威圧感が放たれていて、俺は生返事を返すことしかできなかった。
でも彼女に密着されていると安心感を覚えるのは確かだ。ここは彼女の言うことを聞いておくべきなのだろうか。
そうしている内に救急車の音が聞こえてくる。一応歩けそうであるが、アインハルトはそれを許してくれそうな雰囲気ではない。
……しかし、俺はアインハルトに通り魔が女性であると教えただろうか?
それに彼女と試合した時、何か違和感を覚えることがあった。それが何なのか思い出そうにも、気絶している間にすっ飛んでしまったようだ。
今この体の状態じゃ考えても仕方ない。病室で落ち着いた時にでも考えようと思い、俺はアインハルトの甘い香りに当てられてか、ゆっくりと意識を手放した。
・
・
・
彼とは幼い頃、それこそ赤ん坊の時から一緒だった。
ご飯を食べる時も、お風呂に入る時も、そして眠る時も。
それくらい私達は密接な関係であった。もしも私が普通の女の子であったのなら、彼とは本当の家族のような間柄になっていたかもしれない。慕っている未来もあったかもしれない。でもそうはならなかった。
だって私は普通じゃないから。
覇王の直系の一族、しかもクラウスの影響を色濃く受け継いだ私はその記憶を持って生まれてきた。当時とはだいぶ事情が違っていたとはいえ、それでも一般的な家庭というものは知識として知っていたのだ。
イングヴァルト家の血のせいで一般の家庭とは違うとは大きな溝がある。だから心理的に彼とは兄弟のように接せられなかった。
それでも無邪気に私と遊んでくれる彼といるのはなんだか申し訳なくもあり、同時にとても楽しかった。彼の純粋で、キラキラと眩しい性格に影響されてのことだろう。
彼は私のことを当たり前のように受け入れてくれていたから、こんな私でもきっと生きていて大丈夫なのだろうと、その時は楽観的な考えを持っていた。
しかし、世界はそんなに甘くない。
年齢が上がれば上がるほど人間関係は広がっていく。だというのに同年代の子供が私に寄り付くことはなかった。
だって私は普通じゃないから。
大人の記憶に子供の体。そのズレを修正することなく生きてきた私は、一般の子供に合わせるということができなかったのだ。
だから周りに気味悪がられ、疎まれ、次第に孤立していった。その現実は陰で泣いていた。私の人間嫌いはこのあたりのことが原因だ。
だったら別に独りでも良いと開き直ることにした。
(平気だ。覇王って孤独なものだから。私は私の悲願を達すればそれでいいんだ)
今考えればそれは逃げの言い訳だったのだろう。自分の感情を制御できずに八つ当たりのように器具へ拳をぶつけていたのだから。
次第に親ともギクシャクし始めて、心をすり減らしていった。
――そんな時に彼に救われた。
周りが積極的に距離を取っていたのに、彼は最後まで私と一緒にいてくれた。
なんで私なんかといようとするんだ、とハッキリ聞いたが、彼の返事を未だに覚えている。
『なんでって、アインハルトちゃんと一緒にいるのが当たり前だったもん。ちょっと不思議なとこあるなあって思ってたけど、そんなの気にしないよ。周りのことちゃんと見てるし礼儀正しいし俺よりもたくさんの物事知ってるんだから。すごい女の子なんだなっていつも尊敬してるよ!』
なんと無しに言った言葉なのだろうけど、それにどれだけ救われたことだろうか。
彼だけが私をちゃんと見てくれていた。彼だけが私の側にいてくれた。
彼の前でだけは、私は年相応の女の子でいられた。
それからは彼に恩返しとして身の回りのお世話をさせてもらいたいと思うようになった。彼の要求なら何でも叶えてあげたいし、できることなら側に置いてもらいたいと。
幸いなことに見てくれは良かったし、クラウスの記憶のおかげで殿方の喜ぶことも知っている。心の余裕を取り戻した私は早速願いの成就のために行動に移した。
すでに親との関係も回復していたし、料理や洗濯、掃除などを教えてもらい、初等科に上がった頃には実践する程度に嫁入り修行を終えていた。
手料理を食べてもらって美味しいと言われると、もっと喜んでほしいと美味しい料理を作るモチベーションに繋がった。
それに、学校に入ってからもう1つ嬉しいことがあった。
彼がストライクアーツを習い始めたのだ。私の練習姿がカッコよかったから自分もやってみたかったのだと彼は話してくれた。
そんなことしなくても十分カッコいいですよ、という言葉が出てきそうになったけど、何とか噤んで私は直接教えるようなことはせず傍観することに徹した。
ずっと彼のことを見てきた私の見解では、彼の好みはおしとやかな女性だ。
それなのにあれこれと言って、彼に嫌われることは避けたかった。
最初はどうなるかとハラハラしていたけれど、私の予想とは裏腹に彼はその実力をメキメキと伸ばしていった。
……その時までは私も心から応援していたのだ。
同じ生きがいを見つけ、強さを求める姿は私と一致していたから。「やっぱり私達は相性バッチリなんだ」と気分が高揚してすらいた。
だというのに、元々素質があったのか、彼の実力が周りに知られていくにつれて、彼に群がる人間がどんどん増えていった。
賞賛の声も、妬みの声も、私にとっては等しく不愉快だった。
私の方が彼のことを何でも知っている。それなのに昔からの知り合いのように振る舞う奴らは何なのだろう。まるで落ちたキャンディーに集まる蟻のよう。
全員潰してやりたい衝動に駆られたが、彼の見ている手前そんなことはできない。
それに、楽しそうにストライクアーツに打ち込んでいるのに、私が周りの人間のことを言うのも憚られ、自分の心の中に秘めておくに留まった。夫の顔を立てるのが良い妻というものである。
しばらくはそれで我慢していたのだが、それも限界と思える出来事が起きた。
それがつい先日行われた格闘技の地方大会。
彼は惜しくも優勝は逃したが、それでも負け姿は晴れ晴れとしたもので、いち早く賞賛の言葉を届けようとした。しかし彼が顔中にアザを作っているのを目の当たりにして、私の中に変化が起きた。
とにかく嫌であった。
――――彼が傷付いたことじゃなく、彼が私以外の人に傷付けられたことが。
私は私以外の人に彼が触られるのが許せなかったのだ。汚い手で彼に触ってほしくない。私が彼のこれからを決めてあげたい。
彼の理想のお嫁さんになりたい気持ちとは裏腹に、彼の全てを私の思い通りにしてしまいたいという欲求が内側からどんどん溢れ出てくる。
彼と顔を合わせてる時は何とか我慢して祝福することでその場を凌いだが、その狂暴な昂ぶりを抑える術を私は知らなかった。
だからこそ彼と手合わせした時に過ちを起こしてしまったのだろう。
本来なら彼に使っていい技じゃなかった。今を楽しんでいる彼を圧倒的な差で負かしてしまったら、やる気そのものを削ぎかねない。
だからそこそこに戦うつもりだったのに――ここで彼を怪我させたら私が管理してあげられるのだろうか、という考えが瞬間的に頭をよぎる。
そして気が付いた時には彼は呻き声を上げながら地に伏していた。
やってしまったと思った。
これじゃ彼に嫌われる、一生話してくれなくなる、と。
幸いなことに優しい彼は許してくれたが、もう二度とこんなことはしてはいけないと思った。夜な夜なストリートファイトを仕掛けたのも、この昂ぶりを抑えたかったから。
彼のことは自分以上に慎重に扱うが、他の人間がどうなろうと知ったことではない。傷害事件で逮捕されても嫌なので怪我しない程度に済ませた。
一方、償いのつもりで彼の介護を始めたが、これが正に至福の時。
朝から晩まで、運が良ければ就寝の時までずっと彼と一緒にいられる。幸せだった。彼の行動の何から何まで私が助けてあげられるということが。
まるで中毒性の高いドラッグのようだ。
ずっとこの時間が続けばいいのにと思っても、夢から覚める時が来てしまった。彼がそろそろ腕が治ると話していたから。
非常に残念に思った。
これからいつも通りの日常が戻ってくれば、彼のお世話をできる時間が減ってしまう。以前はそれが当たり前だったとはいえ、彼と一日中過ごす感覚を知ってしまえばもう元には戻れない。
彼の腕が治るまでの間、もっとこの状態を維持するにはどうすれば良いのかとずっと考えていたが、いい案も浮かばないまま時間ばかりが過ぎてしまう。
引き延ばせないのならどうすれば、と考えていた時ハタと気付いてしまった。
これは二度としないと誓ったのに、もう破ろうとしている自分の思慮の浅さに自己嫌悪に陥りそうになったけれど、これも彼と私の幸せの為ならと思うと、すぐに行動に移していた。
そして、彼は私の腕の中で眠っている。
引き延ばせないのなら、また繰り替えればいいだけなのだ。
流石にもう彼に怪我は負わせたくないので、気絶させる程度に終わらせたがこれで良いのだ。
要は私の存在の重要性を彼に教えてあげればいい。
あの3週間で私が献身的な女の子だと分かってくれたと思うし、あとは頼りになる姿を見せれば彼も自ずと私にすり寄ってくるに違いないと考えてのことだった。
少し短慮にはやったと思わなくもないが、元々じっくりと時間を掛けて彼の心を掴もうとしてたのだから計画が早まった程度に考えれば良い。
以前は遠慮していたが、これからは通り魔がいるからと脅して鍛錬も通学も友達関係も私が管理してあげたい。
私にとってはそれが幸せだし、彼もきっと納得してくれることだろう。
近付いてくる救急車の音を聞きながら、私は彼の頭を優しく撫でて、耳元でつぶやいた。
「愛していますよ、ヨハン」
自分で傷付けて自分で主人公を癒やす系女子のアインハルトでした。
やべえマッチポンプの話は前々から作ってみたかったので、ちょうどいい素材が降ってきたことと相まってとりあえず書いてみようと思った次第です。