──やめて、その子怪我してる!
少女はそう言ってオレに近寄り、袂から取り出したハンカチを頬にあてた。
時刻は深夜。古い神社を改築した
いくら見た目は神社のように見えるとて参拝客ではないだろう。そもそも本家の私有地である
ほんの少しの月光に照らされた少女の表情は険しく恐怖と不安に濡れている。男の方はもっと単純で、石段の下から伸び始めた複数のライトの明かりに照らし出された血走り淀んだ
この時のオレは、どうかしていたのだろう。あるいは逆に、壊れかけていたから、そうしたのか。
ねぐらから出て、男に気付かれぬよう息をひそめて近づいていく。社殿の掃除に用いられる箒を握りしめて。
少女に突き付けていた刃物を誇示するように男は掲げる。少女の顔に恐怖が色濃く浮き上がった瞬間、近づいていたオレの気配に気付いたのか、顔をこちらに向けたことで男もこちらを見る。
横合いから殴りつけることには失敗したが、男がこちらを向いたのは結果的には助かった。所詮、子供の細腕。脛や腕を叩いても大した威力にもならない。
振り向いた男の顔を打つ。細い無数の毛先が目や鼻を叩き、男は顔面を押さえ悶絶する。
悶える男を尻目に刃物を弾き飛ばすと、座り込んでしまった少女の手を取り、早く逃げるぞ! と叱咤する。
一転した状況に頭がついていかなかったのか、呆けていた少女だったがはっとした表情になると立ち上がって走り出そうとした。しかし、足を怪我していたのだろう。すぐによろけるように膝をついてしまう。
多少良い方向に転がったところで、悪意は待ってくれはしない。顔面を片手で押さえたまま、男は転がっていた刃物を拾いあげ、逆手に握ったそれを振り上げながら走って来た。
間に合わない。思わず体が動く。少女の身体を抱き寄せ、男と少女の間に入るように体勢を入れ替える。
次の瞬間、肩に灼熱が生まれた。少なくともオレにはそう感じた。
目測がずれたのか、或いは体勢を変えたことによる偶然か。はたまた、男に残っていた良心による気の迷いか。真偽のほどはもうわからない。
男の兇刃は俺の肩口に貫通しながらも、少女の身を傷付けることはなかった。
男の顛末は語るまでもない。止めを刺そうと刃物を引き抜きはしたものの、急ぎ石段を駆け上がって来た大人たちによって取り押さえられ、一際大きく絶叫した後は姿を見ることもなかった。
哀れな少女を救ったオレは丁重に手当てを受け────なんて、甘っちょろい夢物語はなかった。
抱きしめた少女から引きはがすように、突き飛ばされる。一族の大人たちが口々に喚き立てるのは少女の心配ばかりで。苦痛に呻いてもオレのことなど誰も心配などしない。
そうだ。母にすら見捨てられたオレを
『放して、その子怪我してるの!』
──だから、こんな言葉は只の気の迷いが生み出した幻聴だと思った。
一族の者に抱き止められた少女はそう言ってオレに近寄り、袂から取り出したハンカチを頬にあてた。
そんな、思いすら拭うように頬に当てられたハンカチとその向こう側の手は、暖かくて、柔らかくて────怖かった。
また裏切られるのでは、また傷付けられるのでは────また喪うのではと、心底から恐怖した。
『──っ、触るな……!』
『……え?』
気づけば、そんな言葉を口していた。どうして──? と、疑問を瞳に浮かべる少女から身を隠すように蹲る。
小さな手から溢れたハンカチが視界に入ったのを最後に、少女の姿は大人たちの波にのまれるように消えていく。
十秒、二十秒と蹲り続けて、次に視線を上げれば境内には一人としておらず。残ったのは重症のはずのオレとわずかな血痕と泥で汚れた布切れだけ。
『っ、ぐ。ぅう、あ、あぁ──』
誰に聞かれることのない嗚咽。痛みを訴えるのは体なのか、心なのか。もはやわからなかった。
──そして年月は過ぎる。十年の歳月を東哉は耐えた。
あの日負った傷は癒え、背丈は伸びて、残ったハンカチも色あせて。
一族の者、土地、一切すべてを焼き尽くしてやると心の中に怒りと憎悪の暗い焔を滾らせながら。けれど、せめてあの日の礼くらいは、と。
<Other`s Side>
とある豪勢な屋敷の廊下を二人の少女が連れ立って歩いていた。
「ねえ、麻里ちゃん。本当にいいの?」
「当主の許可は得ました。幹部たちの反発は予想されますが、元から想定内ですから大きな問題はないでしょう」
一方は長い髪を後ろで結わえた巫女装束の少女。戦巫女、とでも呼べばいいのか。生来の快活な
もう一方の麻里と呼ばれたは涼やかな印象を与える、青みがかった薄い紫色の和服を身に纏っている。こちらは古式ゆかしい大和撫子のようだが、感情を感じさせない無表情と平坦な声音が合わさり人形のようだった。
「それはそうなんだけど――アイツが協力すると思う? 私たちに」
「……します。してもらうしか、道はありません」
嫌悪と疑問と不安を織り交ぜた声を上げる巫女服の少女――
これが分の悪い賭けであることは麻里も分かっている。しくじれば恐らく誰も生き残りはしないだろう。少なくとも一族としての体面は保てないと万里は見ている。
成功したとしても舵取りを誤れば自分はともかく、莉柘や自分を慕って付いて来てくれている者も立場は危うくなる。なにより最悪なのは、彼が――
そこまで考えて、弱気を振り払うように一度深く空気を吐き出す。今は自分にできる限りのことを全力で行うしかない。
玄関先から靴を履き、そのまま裏庭に回る。裏庭を囲う塀はとある地点で途切れており、そこから屋敷の裏山に続く石畳と鳥居、石段がある。
石段の先、夏の日差しを受けて生い茂る草木にまぎれて立つもう一つの鳥居とその奥にある社を見透かすように、麻里は目を細める。
麻里ちゃん? と莉柘に声をかけられる。どうやら足を止めてしまったらしい。
「何でもありません。行きましょう、莉柘」
――さぁ、賽は投げられた。結末は神のみぞ、いや、神にも与り知らぬことだ。