哲郎の時間が限りなく
正確には哲郎が感じる時間が長くなった。それも《適応》の能力による産物だ。
「!!!?」
(やったぞ!! この人の速さに
昨日哲郎は圧倒的な速さで駆ける豚の魔物の速度に適応して追いついた。
数時間前の武道会では自分で鳴らした音に追いついた。
そして今回、哲郎は黐咏の突進の速度に《適応》し、反応して躱して見せた。
言うまでもなく、哲郎の《速度への適応》はこの二日で目まぐるしく成長していた。
哲郎は自分より速いものの速度に《適応》して追いつく事を編み出した。そして今回は自分に向かってくる攻撃の速度に《適応》して躱す事を編み出したのだ。
「うわぁっ!!!?」
『ズガァン!!!!』
哲郎に命中させる事を前提としていた突きを躱された黐咏は、その勢いのままに部屋の壁に激突した。
「~~~~~~~~~~~~!!
(ぬ、抜けない……………!!!)」
「…………!!」
彼女の身体は無事だったが、持っていた刀は別だった。刀は壁に深々と突き刺さり、その機能を失った。
これを認識した哲郎は瞬時に二つの選択肢を頭の中で組み立てた。
一つは丸腰になった黐咏に追い打ちをかける事。もう一つは割った窓、通気口と道を逆行して撤退する事だ。
あらゆる状況を鑑みて哲郎は数秒と掛からずに最適解を導き出した。
ダッ!!!!
「!!! あちょっと!!! 待ちなさい!!!」
『待てと言われて待つバカは居ない』などというような小物臭いセリフは言わなかったが、とにかく哲郎は後者の《撤退》を選んだ。
壁に足を掛けて体重を掛けていた黐咏だったが、哲郎が割れた窓を乗り越えた時点で黐咏は刀を諦めて哲郎を追う事を選んだ。
黐咏は自分の部屋まで追ってきたが、重力への《適応》による浮遊を兼ね備えた跳躍により通気口に飛び込んだ時点で哲郎の逃げ切りは確定した。
「……………!!! クソッ!!!」
自分の身の丈の倍もありそうな天井にある通気口に消えた哲郎を見て、黐咏は腿の付け根あたりを叩いて毒を吐いた。
それは父に楯突いた憎い敵を逃がしてしまった事と自分から挑んでおきながら完全にあしらわれてしまった事によるものだった。
「お嬢!! お嬢!!!」
ようやく異常を感じ取ったのか、数人の大男が彼女の部屋に現れた。
めったに開く事のない通気口と割れた窓を認識した男達はただならぬ事が起こったと理解した。
「お、お嬢!! 一体何が………!!!」
「あのガキよ!!! さっきまでここに居て逃げられた!!!
皆に伝えて!!! あいつをここから逃がしちゃだめよ!!!!」
「!!! へい!!!」
黐咏の一喝によって、男達は踵を返して駆けだした。遂に哲郎の脱走が現実として鳳巌達の耳に届く事になった。
***
「━━━━━━━ハァッ!! ハァッ!! ハァッ!! ハァッ!!
フゥッ!! ここまで来れば……………!!!」
必死に腕で通気口を這い、数分経ってある程度離れたと結論付けた哲郎はようやく一息をついた。
幸いにも黐咏との戦いによる目立った負傷は無かったが、かと言って得られたものも無かった。殆ど無益に体力だけを消耗しただけだった。
(………一つ分かってるのは、あの黐咏って人が鳳巌の
平気で人を殺すような人間が誰かと結婚なんかできるとも思えないし。多分あの人は捨て子か何かで、鳳巌が保護して育てたんだろう。
………でも、だから何だって言うんだ。鳳巌が子供を保護したところで、ただのあいつの気まぐれでしかない。少なくとも帝国を救う手立てにはならない………………)
「!!」
立ち止まって考え込んだ事により、哲郎の耳にかすかな音が聞こえた。野太い男の唸るような声だ。
(この声は向こう、あの方向からだ!)
哲郎は鼓膜をかすかに震わせる音の方向へ這って進む。幸運にも通路は入り組んでおらず、迷わずに声が鮮明に聞こえる地点に着いた。
部屋には通気口があった。そこから覗くと部屋には男が居た。太った男が部屋の中心にある椅子に座り込み、通話系の魔法具を手に持って誰かと話し込んでいた。
(……何だあの人。何をやってるんだ?)
「ええいまだか!! まだなんか!!!
こっちは一万艮も出したんやぞ!!! まさかワレ、しくじったんとちゃうやろうな!!!
……あぁ? 奴らの警備が厳重で夜しか行かれんやと!? ほんまやろな!!
絶対に、絶対に殺してくれよ!!! 鴻琴の老いぼれには死んでもらわなあかんのや!!」
「!!!?」
「ああ、遠慮はいらん。ガキ一人殺して捕まったあいつが悪いんやからな!!!
ほな、頼むで!!」
男はそこで通話を切った。魔法具を机に放り投げると自分自身を安心させるかのように椅子に座りなおした。
そこに数人の男が駆け込んできた。
「兄貴!! 珂豚の兄貴!!」
「!! お、おう! なんや。」
「脱走した餓鬼が見つかりやした!! さっきまでお嬢と交戦した後、また逃げよったそうで!!!」
「ほんまか!! ほなわしも行く!!!」
珂豚も部屋から抜け、無人になった部屋に哲郎は降り立った。
それが危険な行為であるとは分かっていたがそれをやらずにはいられなかった。それは好奇心からではなく純粋な使命感からだった。
(今の話、あの珂豚とかいう人は誰かを殺す気だ!!!
この部屋を調べて、この事を彩奈さんに伝えないと…………!!!)