彼女は鬼ヶ帝国一の名医である。しかし、彼女は常に病院で勤務している訳ではなく、毎日のように鬼門組の最高機関 陸華仙に出向いている。
医師である彼女が(日本でいう警察に当たる)鬼門組に出入りしている理由は、取り調べ(とは名ばかりの拷問)によって負傷した被疑者を治療する為だ。それも帝国の犯した罪は生きる事によって償うという理念に基づいた行動だ。
今回の彼女の目的は鴻琴である。彼の音楽学校での苛烈な指導だけではなく、珂豚が運営する賭博場での疑惑も鬼門組を通して彼女の耳に入って来ていた。それも彼女が鬼門組から絶大な信頼を得ているが故である。
「して、鴻琴の爺から何処じゃ。まだ留置所の中か。」
「はい! ご案内します!」
蕺喬は護衛の男達に手で待っているように指示を出し、菰里についていく形で建物の中に入っていった。
無論、何度も出入りしている蕺喬は内装の殆どを把握していたが、彼女なりの気遣いで菰里に案内をさせた。
***
《陸華仙 内部》
「ではどうする。すぐに伝えるのか。」
「そ、そうしましょう! 急いだほうが対策を立てる時間が多く取れますし!」
虎徹との話が纏まった彩奈は、鬼門組の人間達に自分の考えを伝える為に彼女の部屋の扉を開けた。
『!』
「い、苺禍さん!」
「杏珠!? 何故君が他の部屋から出てくるんだ!?
勝手に部屋を移動されては困るんだが? 君達は今命の危険にあるんだぞ!?」
「あ、す、すみません!!」
扉を開けるとばったりと苺禍に出くわし、彼女から叱責を受けた。
「此奴は儂と話しておったのじゃ。 あの鴻琴の爺についてな。」
「鴻琴? あの男がどうかしたのか。
まさかまだあの取り調べだけを見て可哀想だとか思っているのか?
良いか? あの男は人一人を自殺に追い込み、
「待て待て。別にあの男を憐れんで居る訳ではない。あの男の身を案じてはおるがな。」
「?」
苺禍は虎徹達の心中が自分の予想と外れていた事、そして彼女の言葉の意図に疑問符を浮かべた。
*
虎徹と彩奈は賭博場の主人が鳳巌の仲間の珂豚であると考えた事、彼が鴻琴の口を封じようと考えているかもしれないと考えた事、彼が狙いそうな夜を警戒したほうが良いかもしれないと考えた事を順を追って伝えた。
「………あの話を聞いた者なら誰でも考えそうな憶測だな。」
「ならばどうする。素人の下らん妄言だと嗤うか。
万一儂等の言うとおりになった場合、目も当てられないと思うがな。」
「………否、一応上にも其の話はしておこう。それに、珂豚程の男なら
「奴?」
数瞬後に苺禍の口から出た『奴』という言葉に彩奈は反応した。
「………もしや《
「ひ、ひすい?」
「そうだ。まぁ、杞憂だとは思うがな。」
「あ、あの、誰ですか? その、ひすいって。」
「簸翠というのは此の帝国に悪名を広げておる暗殺者じゃ。近年の不審死の殆どには奴が絡んでおるという噂が絶えんという。」
「……………!!!」
彩奈にとって、
その紙の上だけの恐ろしい存在がこの国には実在するという事、そしてその脅威が目前に迫っているという事実が彩奈の顔を青くさせた。
「隊長! 苺禍隊長!!」
「! 菰里か。」
通路の奥から暗殺者ではなく菰里が走ってきた。その様子からして何か重要な事が起こったのだと、その場にいた三人は直感した。
「何があった?」
「蕺喬様が到着しました! 鴻琴被告の下へ案内しろと仰っております!」
「ああ、分かった。すぐに行く。」
彩奈と虎徹に部屋に戻っているように伝え、苺禍は菰里の後ろを追って通路の奥へと姿を消した。
二人の姿が見えなくなると彩奈は虎徹に問いを投げ掛けた。
「だ、誰ですか? さっき言ってた《しゅうきょう》っていう人は。」
「この国一の名医じゃ。昔から奴等に絞られた者の治療も請け負っておる。大方鴻琴の爺の治療の為に来たのじゃろう。」
「そ、そうなんですね……………」
何気ない会話の中にも暗殺者や名医の名前が出て来る事からもここが帝国の問題の渦中にあるのだという事を、彩奈は再確認した。
***
蕺喬が陸華仙に入る事を知った人間は鬼門組の人間だけではなかった。
入口の奥の木の陰から蕺喬が本部に入る光景を監視していた人物が居た。その人物は監視用の道具を目から外すと、軽く歯を食いしばって心の中で悔恨の念を発した。
(クソッ。 この陸華仙に狙いを定めたのァ間違いだったか。
作戦変更か。狙うのは
その人物は頭の中で自分が任務を遂行する光景を組み立てていた。その視界の中では鴻琴の胸から鮮血が噴き出している。
彼こそが虎徹や苺禍が警戒する、暗殺者《簸翠》である。