「………ん。んしょ。」
本来、普通の人間にとっては腕の力だけで重力に逆らって身体を持ち上げる事すら容易ではない重労働だが、重力に《適応》している哲郎はいとも簡単に倉庫の天井の通気口から抜け出した。
哲郎にとって人目につかない通気口からの脱出が出来たのはかなりの幸運だった。
もう一つの策として出入り口から(見張りが居た場合は不意打ちで気絶させて)脱出するつもりだったが、それは余りにも危険すぎる。
その方法を取る必要が無くなった事を哲郎は素直に喜んだ。
(………さて、ここからどうするか………………)
これから取るべき行動が完全に決まっていた訳ではないが、大前提として決まっていた事が一つだけある。
それは、何があっても鳳巌に会う事があってはいけないという事だ。
(………(僕の体内時計基準だけど)ここに居座ってから少なくとも一時間以上が経っている。
ここまで誰も一回も様子を見には来なかった(他の人には内緒にしてたから当たり前だけど)。
でも、逆に言えばいつでもここに誰かが来る可能性は十分にある。
何はともあれ、いつこの脱出がバレてもおかしくはない。急ぐか………………)
哲郎は慣れた動きで通気口を這って進む。
どうでもいい事だが、ここまで
(………今更だけど僕って、異世界に来てから普通じゃない事を山のように経験してるよな………
まぁ、
余談だが、哲郎が初めて匍匐前進を行うのは今回でも
哲郎が初めて匍匐前進を行ったのは学校での避難訓練の時だ。
教師が火災時、上方に煙が充満した状況でより安全に移動する為の方法として教えられた。
しかし、自分がこの短時間でここまで迅速に移動で来た理由は他にもあるという事を哲郎は理解していた。
*
時はジェイル・フィローネでの戦いの翌日に遡る。
哲郎は半ば拠点と化しているエクスの屋敷でとある提案をしていた。
「何? ストレッチの相手をして欲しいだと?」
「はい。もっと言えば今の僕に足りないのは体の柔らかさだと思うんです。」
身体の柔軟性
哲郎がその欠如と重要性に気付いたのは最初の潜伏の時だ。
二日間ほとんど同じ姿勢でいた哲郎が外に出て身体を伸ばすと、自分の身体から折れるような音が鳴った事に心底驚いた。
その音の正体も鳴る仕組みも理解していたが、自分の身体からそんな音が鳴るとは予想だにしていなかった。
そして理解した。自分の身体が十分に柔らかくないからこのような結果を招いたのだと。
更に哲郎はこの現状が良くないものだと理解していた。簡単に身体の節々が痛くなるのは戦闘が続くであろうこの状況には悪影響を及ぼすという事を。
「………成程。それで身体を柔らかくしたいという訳か。」
「そういう事です。もちろん、僕一人でできる事はちゃんとやりますけど、二人でできる事もあると思いますので………」
「……名案だとは思う。だが、悪いが俺は付き合えない。これでもかなり忙しいからな。
そういう事はミゲル辺りにでもあたってみればいい。あいつはその手の知識も豊富だ。」
「! はい!分かりました!」
それを聞いた瞬間、哲郎は善は急げと言わんばかりに踵を返して走り出そうとした。しかし、エクスの言葉がそれを止めた。
「? どうかしましたか?」
「どうでもいい事だとは思うがお前、
「……いや、太る気はありませんけど今のところはないですね。
今更無理にやったとしても急に強くなれるとは思えませんし。」
*
結論から言うと、哲郎が実践したストレッチは功を奏した。
全身の筋肉を常に駆動させる匍匐前進という運動を行っても前回ほど疲労していないのは関節の可動域が広がった事が大きいとそう確信していた。
(………………さて、ここから行った方が良い場所と言ったらやっぱり身を隠せる場所(かと言ってあれ以上あの倉庫に留まっている気はなかった)か、情報がたくさんある場所か…………………)
「うわああああああああ!!!!!」
「ッ!!!?」
その瞬間、哲郎の鼓膜を野太い悲鳴が震わせた。それを聞いた瞬間哲郎の身体は動き出していた。
その理由は、哲郎がその声に聞き覚えがあった事とその声の発生源がすぐ近くにあると直感したからだ。
***
(た、確かこの辺りに………………… あった!! あそこなら━━━━━━━━━━)
「!!!!?」
通気口から件の部屋を覗き込んだ哲郎はその目を見開いた。
その部屋には二人の男がいた。哲郎は二人共に見覚えがあった。
その二人の内の一人は鳳巌だった。そしてもう一人、傷だらけになって座り込んで涙を流している男が居た。
その男は先程、覗き込んだ部屋で見た珂豚だった。
「ゆ、許してくだせぇお頭!!!!
俺ぁ疚しい事なんて何もなら━━━━━━━━━!!!!!」
「黙れ。貴様が我に黙って泡銭を稼いだ事は調べがついておる。
剰え貴様はそれによって余計な情報源を作り、此の場に居る者全員の安全を脅かした。
万死に値する。」
『!!!!!』
鳳巌はそう宣言し、手に持っていた巨大な薙刀を両手で振り上げた。
珂豚の一生はこの瞬間に終了すると、鳳巌はそう確信していた。
『!!!!?』
鳳巌が振り上げ、珂豚の首目掛けて繰り出した刃は哲郎によって止められた。
哲郎は刃の付け根を両手で掴んだ。自分に到達する瞬間、両手の動きで刃の勢いを吸収したのだ。
「な、何やお前は…………………!!!!」
「……貴様、一体どういうつもりだ?」
「それはどっちの意味ですか? あの倉庫から出た事か、それともこの事ですか?