簸翠の武器は丹念に磨き込まれ、様々な人間の血を吸い続けた短剣である。今回の依頼でも例に漏れずにその短剣を鴻琴の心臓に突き立て、その一撃によって全てを終わらせる、少なくとも彼の手筈ではそうなっていた。
「ッ!!!!?」
その瞬間、簸翠の目は鴻琴が眠っている布団が不自然な動きを見せる光景を捉えた。それを認識した次の瞬間には布団を破って刀の切っ先が彼の視界に飛び込んで来た。
簸翠はたじろいだものの刀の突きを淀みの無い動きで躱す。その最中、彼の心中にあったのは『この男が何者か』という事だ。
「ッ!!!」
「……私は優しいから一度だけ言ってやる。その目障りな面を外せ!!!」
突きを躱し、空中で回転するその数瞬の間に簸翠は懐から仮面を取り出し、顔を覆った。最早一撃で暗殺を終える事は叶わず、目の前の人物と一戦交える事になる事は避けられない。故に素顔を隠す為の仮面を被った。
(………どういう事だ。姿は紛れもなく写真で見たあの鴻琴だ!! 声も相応にしわがれた爺のもの!!)
「……妖術の類か。お前こそその化けの皮をさっさと剥げ!!!」
「否。妖術ではない。医術の結晶と呼ぶが良い。」
『!!!?』
扉を開けて病室へと入って来たのは蕺喬だった。彼女のその行動に簸翠も、そして変装した鴻琴も動揺の色を示した。
「な、何をしているのです蕺喬様!!! 此処は危険です!! 早くお逃げに!!!」
「戯けが。此処は妾の病院であるぞ。此の生命を繋ぎ止める神聖な場であろうことか生命を断とうとする神をも恐れぬ卑劣の輩を、この妾が許さんで如何とする。
のう、苺禍の娘よ。其の
『!!!』
そう言って蕺喬は手に取った瓶の中身を鴻琴に向けてかけた。中身を浴びた瞬間、目の前に居た鴻琴の姿が変わり、小柄な女性の姿に変わった。簸翠はその女性に見覚えがあった。
「………陸華仙の苺禍か………!! 姿を変える薬か!!」
「否じゃ。此奴に掛けた薬は周囲の認識に干渉する薬じゃ。」
簸翠はその一言だけで蕺喬の言葉の意味を理解した。苺禍に掛けられた薬は周囲の人間の視神経に干渉し、その姿を鴻琴に見せる薬なのだ。
「どちらでも良い事だ。医者如きがよくものうのうとこの俺の前に姿を晒せたな。命が惜しくないのか?」
「戯けが。貴様のような卑劣の輩などに臆する値打ちなど毛程も無い。此の状況は貴様を確実に捕らえる為の罠じゃ。」
部屋に簸翠が乗り込んで来ているのに鬼門組の隊員が誰も入って来ないのは二つの理由があった。一つは半端な戦闘力しか持たない隊員が返り討ちに会う事を防ぐ為。そしてもう一つは逃走した簸翠を確保する事に専念させる為。万が一苺禍達が敗走し簸翠が逃走した場合、隊員達が簸翠と戦闘できる機会はその一瞬以外には無いからだ。
「蕺喬様!! 易々と手の内を明かすのはお控えください!!」
「此の状況がそのまま其の事実を吐露しておるようなものであろう。尤も妾は時間を掛ける気など更々無いがな!!!」
「!!!」
蕺喬は話し終える瞬間の隙をついて懐から注射器を取り出し、簸翠目掛けて投げ付けた。注射器の中に薬は入っていなかったが、簸翠は咄嗟に身を引いて躱す。蕺喬が求めていたのはその一瞬だった。
『!!!』「ほう。伊達に鍛えてはおらんようじゃな。」
蕺喬は簸翠が注射器を躱したその一瞬を突いて彼の脇腹に蹴りを見舞った。しかし簸翠の体力を奪う事は出来ず、反撃の刃物が飛んでくる。蕺喬はその一撃を躱し、再び元の位置へ舞い戻った。この一撃だけで簸翠はこの状況下で警戒すべきは苺禍だけでなく蕺喬も例外ではないという事を実感させられた。
「妾の目指した此の道は立ちはだかる者が多くての、常に嫉妬の輩に狙われ続けた。其の邪な輩から此の手を守る為に鍛え上げた此の両脚の切れ味、押して知るが良い。」
蕺喬が身を置く医療業は鬼ヶ帝国においてはのし上がる為には血統や権力がものを言う。しかし蕺喬は例外的に実力のみで医療の道を進み続けた。そして元から権力の椅子に座っていた者達は自らの地位を脅かす蕺喬という例外を断固として許さなかった。
在りし日の蕺喬は数多くの妨害を受け、雇われの暗殺者に命を狙われる事も珍しくは無かった。しかしある時は武力を、ある時は法の知識を味方に付け、あらゆる妨害を撥ね退けた。その過程で若き蕺喬と凰蓮は知りあい、現在も協力関係を結ぶに至る。
(………つまり、蕺喬の正体は薬の技術と蹴り技を駆使する戦士の一面も持っている医者だったという訳か。蕺喬の技量なら一撃で意識を断ち切るような
一瞬でカタを付けて、その後に拷問でもして鴻琴の居場所を聞き出すとするか。それこそ、
ほんの数分でしがない病室は血生臭い戦場へと変化を遂げた。帝国の運命を握る夕暮れはここから新たな局面を見せる。