哲郎は唯の一度も、鬼ヶ帝国に住まう轟鬼族の力量を侮った事は無い。山賊団との小競り合いの時も、刹喇武道会に出場した時も、鳳巌の根城で孤軍奮闘した時も、哲郎は往々にして彼等の肉体の屈強さに驚かされた。
その中でも、特に哲郎を追い詰めた男が居る。その男は単純な馬鹿力と突進力、その肉体に裏打ちされた頑強さで哲郎と渡り合った。
しかし、それだけの実力を見せつけても尚哲郎はその男の存在を、今まで意識の内から消してしまっていた。その理由は彼が何発もの矢を身体に受けるという決定的な負け姿、そして他でも無い哲郎本人の手によって全身を拘束されるという誰の目から見ても戦闘不能と言える状態を見たからだ。
しかし今、その男が廠桓に操られるという最悪の形で再び戦場へ舞い戻った。彼の名は《牛檑》。今まで廠桓がそうしてきたように、身体に自らの血を流し込む事により操られ、目を真っ赤に充血させて全身に青筋を浮かべた牛檑の姿を、哲郎は脳内に思い描いていた。
*
それは、哲郎が絶対に避けたいと思っていた最悪の光景だった。牛檑の馬鹿力にものを言わせた突進は哲郎に全速力の大型車両を連想させた。それ程までの攻撃力をその身に宿した牛檑が不特定多数の人々が入り乱れる大広間に侵入する事を、哲郎は恐れていた。
その最悪の光景を前にして、哲郎は数瞬の間意識を奪われたが、即座に気を持ち直した。思考を停止して硬直するよりも少しでも対応策を見出す方が遥かに有益だと思い直した。
「お、凰蓮さん!!!」
「!?」
「さっき鳳巌の下には七人の幹部が居るって言ってましたよね!? その中に茶髪の大男は居ますか!?」
「茶髪!? 其れならば牛檑という男が居ますが………………!!」
「ごらい………!!
「一体どういう事ですか!! まさか………………!!」
「はい。恐らく廠桓は━━━━━━」
『グアアァッ!!!!』 『!!!!』
廠桓は牛檑をも操っている。それを説明しようとしたその時、目の前の視界に決定的な変化が訪れた。それまで哲郎達の視界を塞いでいた隊員達が全員弾き飛ばされ、その姿が露わになる。
哲郎が思い描いた通りの、目を真っ赤に充血させて全身に青筋を浮かべた牛檑の姿がそこにはあった。
「ブルアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァッッッ!!!!!」
『!!!!』
「はっはっはっはっは!!! これでやっと役者が揃ったな!!!」
人間としての理性など欠片も無い、猛獣そのものと形容するべき方向が牛檑の口から放たれる。それが哲郎達の意識に絶望に近い感情を植え付けたがそれだけでは無かった。哲郎達は牛檑の折れた腕を、全身から吹き出している血を見た。
「………まずいですね。」
「!?」
「先程貴方は牛檑が廠桓に操られていると言いたかったのでしょう。其れ故でしょう。
彼の限界を遥かに超えた力を発揮している所為で筋繊維や骨が引き千切れています。其れに既に負傷していたのでしょう、既に大量の血液型以外に漏れ出ています。
早い話、あと数十分も暴れさせ続ければ死に至ります…………!!!」
「!!!」
凰蓮のその発言が、鬼門組の総監という立場から出たものである事は哲郎にも理解出来た。
鬼ヶ帝国は死刑廃止国であり、警察組織にも司法にも犯罪者の生命を奪う事は許されていない。無論の事、任務に当たっていれば激しい抵抗に遭うが、殺害は最悪の手段として避けられている。哲郎はその規則を知らないが、極力犯罪者を生け捕りにしようと努めている事は直感で理解出来た。
そして今、凰蓮は牛檑を犯罪者として、罪を償わせるべき者として
「凰蓮さん、言いたい事は分かりますけど、それは━━━━」
「分かっています、今此の状況で牛檑の身を案じるのは現実的では無いと言いたいのでしょう。
哲也さん、貴方が一体何を背負って此の国に来たのか、どれ程の信念を其の小さな身体に抱いているのか、其れは分かりません。
しかし、重ねて言いますが私にも総監としての立場があり、責任があります。先程の言葉が私個人の感情論では無い事だけは理解して下さい。」
「………………!!」
「随分と格好良いなァ、凰蓮総監殿よォ。」
『!!!』
廠桓がその口から嘲るような言葉を発し、手を軽く叩きながら近付いて来る。哲郎と凰蓮が言葉を交わしていたその間に、幾度も攻撃する機会はあった。それにも拘らず廠桓はそうしなかった。完全に自分の勝利を信じて疑っていない。
「だがな、綺麗事並べて死んじまったら様ねぇよ。それともこの状況を切り抜けられるって確信があるのか?
あるなら見せて貰おうじゃねぇか!!!」
『!!!』
廠桓のその言葉と共に、黐詠と牛檑が一斉に哲郎達に襲い掛かった。