牛檑の肉体は、攻めに転ずればあらゆるものを薙ぎ倒す筋肉の弾丸。守りに転ずれば並みの打撃など防ぐまでも無く通さない筋肉の要塞。それが実際に拳を交えた哲郎の客観的な評価だった。
また、廠桓は元々戦闘員ではない、政治家である。即ち臟は戦闘能力が高くない廠桓の身体で哲郎や凰蓮と互角以上に渡り合ったのだ。無論の事、その互角の戦いに臟の能力の応用の一つである血液を操り心拍数を高める事による身体能力向上の恩恵も少なからず含まれてはいるが、問題の根幹はそこではない。
問題は臟が新しい身体、それも廠桓の身体を上回る筋肉量を持つ身体を手に入れるという事だ。その人物の身体が臟の血液でさらに強化されるという事だ。
そしてその人物とは、言うまでも無く目の前に居る牛檑の事である。臟は牛檑の命を奪い、(臟は人の身体を乗っ取る際にその人物の心臓を破壊すると仮説を立てている)その身体を乗っ取ろうとしているのだ。
例外無く人の死を忌み嫌う哲郎の信念にとっても、そして客観的な戦況にとっても、それの実現は最悪と言えた。臟の能力を見抜き、三人がかりで血の鎧を破り、釣り糸を渡るような賭けの果てに廠桓の身体から臟を引きずり出した。今この場で臟に新たな身体を手に入れられれば同じ手は二度と通じない。身体から臟を引きずり出す事は叶わなくなる。その身体が廠桓より強靭な筋肉を持つ牛檑ともなれば猶更だ。
一瞬の内にそこまでの事を思考し、哲郎は駆け出していた。目標は言うまでも無く牛檑の背後。後背から心臓を撃ち抜こうとしている臟の攻撃を防ぐ為の選択だった。次の瞬間には、その選択が正鵠を射ていた事をその場に居た全員が理解する。
『ブシャァッ!!!!』
『!!!』(来たっ!!!)
臟の口から一筋の赤い線が放たれた。それは哲郎が今日だけで何回も見てきた彼の十八番、血の矢である。彼の体内で加圧圧縮され放たれるそれは常人の反射神経を遥かに凌駕する。虎徹も凰蓮もそれが放たれた事に気が付きはしたが、行動を起こせたのは哲郎だけだった。
寧ろ、矢が
(よし、間に合った!!!
後は《
「惜しいな、そこじゃねぇ。俺は確実な方を取る!」
「ッ!!!?」
血の矢を弾き飛ばす為の構えを完了させたその瞬間、血の矢がその軌道を変えた。その鏃が向いていたのは牛檑では無く、彼の隣に居た黐詠だった。
臟も同様に、この場における新たな肉体として牛檑が最も適していると理解していた。だからこそ気付いていたのだ。自分が誰かを乗っ取る行動を起こせば牛檑を狙っている事は確実に読まれる と。しかしそれ故に付け入る隙が生じる。牛檑を守ろうとすればその隣に居る黐詠が無防備になる。その隙を狙って確実に彼女の身体を乗っ取ろうとしているのだ。
(やられた!! 読み負けた━━━━!!!)
(女の筋肉は柔らかくてしなやかだって聞くからな!!! 今度はあのガキの身体で滅多打ちにしてやるよ!!!)
黐詠の身体を乗っ取った臟の脅威度がどれ程のものかは分からないが、兎にも角にも剝き出しの本体を相手にするより戦況が悪くなる事は疑いようもないだろう。何より自分の判断で黐詠の命が失われるという受け入れ難い現実が哲郎の精神に重くのしかかった。
凰蓮も虎徹も、鬼門組総監と《転生者》というそれぞれの立場から現状の悪化を受け入れざるを得なかった。鏃が黐詠の背部を貫く迄の時間は一秒にも満たない。哲郎も《適応》の能力で加速させる、その準備にかかる時間がない。そして一秒後、最悪の懸念は現実へと反映された。
*
「━━━━えっ……………………!!!?」
「は!??」
牛檑を守る事だけに意識が集中し、哲郎達は完全に意識の内から消してしまっていた。あの根城の大広間の中に居たもう一人の男の存在を。
牛檑を守る事だけに意識が集中し、哲郎達は想定出来ていなかった。彼が虎徹の防御を自ら破り、自分の意思でこの場に現れるという事を。
つい一秒前に頭で思い描いた最悪の懸念は反映された。しかしそれは完全に同じでは無く、血の矢を受けた人物が違っていた。それは果たして親子の絆か父の本能か、兎に角戦況を悪化させる一手である事には変わりなかった。臟に貫かれたその男はそれだけの力を持っていた。
その男は、或いはこの根城の主。或いは鬼ヶ帝国の平穏を脅かす史上最悪の犯罪者。或いは鬼門組総監凰蓮の嘗ての友にして宿敵。そして或いは臟が毒牙を向けた黐詠の育ての父。
鳳巌。彼の胸部中心やや左を臟の血の矢が貫く光景が哲郎の視界に飛び込んでいた。