あるいは前日譚より前の、死にそびれた女の話 上
彼女が目を覚ましたときには、もう、全てが終わっていた。
自分たちが負けたのだということは、すぐに分かった。
だって、彼女には残っていたから──自分たちを襲撃し、彼の最愛の人を奪った
彼は、泣いていた。
よかった、と。目覚めてくれてありがとう、と。
目的を果たすための道具である自分が、まるでただ生きているだけで何か価値を有するみたいに。
ああ、それではダメです、と、口元まで出かかった否定の言葉を彼女は発することもできなかった。
だって、彼があまりにも嬉しそうだったから。まだ救われていないはずの世界で、なのに彼だけは救われたみたいに満面の笑顔を涙に滲ませ。クシャクシャになったその顔を彼女の肩口に押し付けて、まるであの人にするかのように自分のことを抱きしめてくれた。
訳がわからなかった。
彼が何をこんなにも喜んでいるのかも、どうして彼が自分に次の行動命令を下さないのかも。
彼のズボンを不安げに掴み、「なぁ、どうしたんだよ? じいさん」と見上げている少年が誰なのかも検討がつかなかったし。
「ああ、ごめんなシロウ」とその少年の頭を撫でる彼の姿にどこかほっとしている自分自身が、何よりも理解できなかった。
それからしばらくは、怒涛の日々だった。
彼女自身の退院手続き、少年を養子として引き取るための行政への提出書類の偽造、隠れ家として購入した廃屋の生活拠点化と近隣住民への挨拶回り。
書類偽造以外はどれも初めて経験することばかりで、特に廃屋の掃除や内装手直しはある意味聖杯戦争以上の難敵だった。ちなみに彼女たちにとって最も有力な戦力は養子として引き取った少年で、逆に最年長者であるはずの彼は最も役に立たなかった。
隣に住むジャパニーズマフィアのドン(といっても、彼女がかつて「処理」したような連中とは異なる地域に根ざした穏健派だが)との縁でその構成員たちとも交流を持つようになり、特にドンの孫娘は頻繁に家を訪れるようになった。
数ヶ月が過ぎ、一年が過ぎた。
正式に養子となった少年は、いつの頃からか彼のことを「じいさん」、彼女のことを「かあさん」と呼ぶようになった。家事全般、特に台所の実権を掌握するようになったその少年──士郎に対抗して、彼女も料理を始めてみた。
ドン(この国では組長という呼称が一般的だと知った)の孫娘が訪れる頻度は更に増し、顔を見ない日のほうが珍しくなった──もっとも孫娘に恋敵と見なされていた彼女は、顔を合わせただけで牙を剥かれることが常だったが。
一方で藤村組の組員たちからは、いつの間にか「姐さん」「先生」と慕い持てはやされるようになった。そのことについて尋ねた彼にいきさつ──他組織との縄張り争いに翻弄されているのを見かね、何度か
──彼から、あの「戦争」の最終盤で彼が目にしたという「聖杯の真実」を聞かされた。
自分たちは勝てなかったのではなく、初めから勝ちようがなかったのだということを理解した。
約十年もの歳月を費やして追い求め、ようやく手にしかけたはずの「希望」の、皮肉としか言いようのない現実。
それでも結果として訪れた穏やかな日々を過ごす彼を見ていると、これでよかったのかもしれないとその頃の彼女は考えるようになっていて、
でも彼は、そんな優しい日々に自身を安住させることを許さなかった。
もうすぐ二年が経つ頃から、彼は旅の準備を始めた。何も言われぬまま彼女も、当然彼に従った。
まだ小学生の士郎に留守を託し、二人が目指したのは北の大地──アインツベルンの冬の城。そこに残してきた彼の娘、あの人の忘れ形見を取り戻すために。
怖くなかったといったら、嘘になる。
たとえ英霊相手でもあの人を守れなかったのは彼女の罪だし、端から見た彼女の立ち位置は『父親の不貞相手』。あの人の娘の前にどのような顔を晒せばいいのか分からなくて──それでもあの人と最後に話したのは彼女だから、せめてその意志だけは伝えなくてはと考えて、
──そんな彼女の迷いと決意は、結果として全て徒労に終わった。
ユーブスタクハイトは、森の結界を開かなかった。聖杯戦争の後遺症で魔術回路の大半を失っている彼では、結界の起点を見つけることすら適わなかった。何日も、何週間も彼はただ吹雪の中をさまよい歩き、魔術の腕では彼に及ばぬ彼女はただそれを支えることしかできなかった。
あるいは全てを擲つ覚悟があれば、道は開けたのかもしれない。けれど今の彼らには、帰るべき場所ができてしまっていた。何も知らずに待っているはずの士郎を捨て置いて、我が身を賭すこともまたできなかった。
心身尽き果て、何も得られぬまま、二人が冬木に戻ったのは二ヶ月後のことだった。
「下」は明日朝に投稿予定です。