「イリヤのことを待たせたりしない。父さんは必ず、すぐに帰ってくる」
そう誓った愛娘を、未だ待たせているはずの古城。その手前に広がる酷寒の森をただ虚しく彷徨って、城の影すら望めぬままに引き下がり──それでも、彼は諦めなかった。衰弱した肉体が復するのを待って、冬の城を囲う北欧の森を幾度も訪れた。
そこに自身の心根すら要素として断ずる『魔術師殺し』の面影はなく、あるのは成算も目論見も持たぬまま足掻く父親の愚かさだけだった。
だが一方で、彼は愚かなだけでもいられなかった。あるいはそのほうが幸せであったのかもしれないが、彼の脳裏には聖杯の中身、世界を滅ぼしかねないあの
あれを再び、世に出さない。そのために彼が取った手段は的確だった。
次の聖杯戦争まで、あと五十余年。それまでに円蔵山の地下空洞に据わる『大聖杯』を封印する。そのために彼は冬木周辺の十三箇所で霊地を手に入れて、円蔵山へと連なる地脈に細工を施した。重機を使って井戸を埋め、手元に残っていた爆薬で川を崩し、地脈直上に描いた魔方陣で位相をずらし──ただしいずれも、この地のセカンドオーナーにすら気付かれぬよう秘密裏に。
彼女も手伝ったその大規模な魔術は、ごく密やかに完了した。地脈に仕込んだ人為的歪みは、レイラインに”瘤”を形成した。地脈を流れるマナの流れはゆっくりとその瘤に堆積し、いずれ臨界点を超えたところで一気に破裂するだろう。遅くても三十年以内に発生するだろうその崩壊は「円蔵山直下の大地震」として、地下空洞の大聖杯を確実に破壊するはずだった。
度重なる北欧への「旅」と、合間を縫って行った冬木大聖杯への措置。
後者の目処が立つ頃には聖杯戦争からもう四年が過ぎていて、だがその艱難は彼の躰を着実にすり切れさせていた。
朝、起きる時刻が遅くなった。
毎日三度の食事の量が、ふと気付けば半分に減っていた。
熱もないのに起き上がれず、そのまま布団で過ごす日が見られるようになった。
心配した士郎が呼んだ医者は過労と診断し、しばらくは絶対安静にするようにと言った。
図らずも「旅」に出ることができなくなり、戸惑う彼女に彼は謝った。
──苦労をかける、僕の我が儘に。
──君にも本当はやりたいこと、やるべきことがあったかもしれないのに。
いいえそんなものはありません、と。だから早く身体を治して次の任務を与えてください、と。以前の彼女なら迷い無く返していたのかもしれない。
けれど彼がもう以前の彼でないように、彼女もまた彼のための機械としては機能出来なくなっていた。
やりたいこと。
やるべきこと。
そう言われて思いだしたのは、彼の奥方であるあの人と最後に交わした会話。
「捜さないと。あなたの本当の名前と家族、それにあなたの子供の消息を」
気まぐれに、戯れに、あるいはそうでしかないのだと自分自身に言い聞かせて。彼が臥せって出来た時間を彼女はそのために使ってみることにした。
とはいえ15年も前に切り捨てて、それきり触れてこなかった過去である。出来ることなど限られていたし、その結果もすぐに判明した。
彼女を以前保有していた国──魔術使いの軍隊を作ろうとしていた貧しい独裁国家は、一年ほど前に滅びていた。他の魔術集団の介入で体制が動揺したところを、周辺諸国により一斉に攻め込まれたらしい。介入した集団の正体については一時期魔術界隈で話題となったが、恐らくは神秘の秘匿に固執する時計塔の有志だろうと情報屋は言っていた。
ならば彼女の子供はというと、生きているらしいことは分かった。とはいえこちらの情報源は伝手を辿って降霊を依頼した口寄せ師なので、「死者として呼び出せないのだから、まだ死んではいないのだろう」以上のことは分かりようもなかった。
そして、それでいいとも思った。
そもそも顔を知らぬどころか、名前すら付けてやれなかった子だ。情の抱き方も分からぬし、当然いまさら母親面する資格など自分にはない。
もしも出来ることがあるとすれば、どこかで元気にやっていることを祈ることくらい──祈るだけならば、誰の損にもならないのだから。
やがて彼が体調を取り戻し、二人は再び「森」を訪れた。
ただその時の訪問は、一ヶ月にも満たなかった──酷寒の地にそう長く滞在できるほど、彼の命の灯火は蝋を残していなかった。
数ヶ月の長い休息を挟んで、次は一週間、その次は数日。
その頃には、彼も彼女も理解していた──彼がもう、長くはないということに。
彼が、本当はよわい人だということは知っていた。弱音ならいつも聞いていたし、それを否定するのは彼の機械部品だった時代からの彼女の役目だった。きっとあの人の前でもこんな風に泣き言をこぼしていたのだろうと、微笑ましく思ったこともある。
でも、諦めの言葉だけは聞いたことがなかった。だからそれを聞いたとき、彼女は声を荒げて激怒した。
投げ出すのか、と。あの娘を見捨てるのか、と。あなたにとってあの人はそんな程度の存在でしかなかったのか、と。
彼が病身であることも忘れて責め詰り、彼もまたムキになって怒鳴り返した。
喧嘩をした。それは士郎を隣の家に預けねばならぬほど激しい言い争いで──
その後、彼女は彼の目の前で初めて泣いた。
翌日、彼女は冬木を後にした。一ヶ月ほど傭兵稼業に身をやつし、そこで得た金を全て投じて結界魔術師を雇い上げた。初めて彼以外の人間と訪れた北欧の森は、いつも通り雪と風に覆われていて──そして金で雇った魔術師も、その結界を解くことは出来なかった。
すごすごと、おめおめと。冬木に帰ってそのことを彼に報告した彼女を、「しょうがない奴だな」と彼は笑った。
それは彼と初めて会ったとき──彼女が彼に助けられた十七年前に見たのと寸分替わらぬ笑顔で、そのことが彼女は嬉しかった。
「爺さんの夢は、俺がちゃんと形にしてやるから」
「そうか。ああ──安心した」
それからしばらくたったある夜。雨戸が開いていることに気付いた彼女が起き出すと、縁側に士郎と彼が腰掛けていた。
「もう遅いですよ、士郎。明日も学校があるのですから──」
「あ、はーい、かあさん。さっさと寝るよ」
今年で中学生になる士郎がトテトテと寝室に戻り、彼女は手にしていた褞袍を彼に羽織らせる。
「安心されましたか、切嗣?」
「うん、安心した。いや、舞弥には本当にすまないと思っているけれど」
彼──衛宮切嗣が億劫そうに彼女──久宇舞弥に振り向いて、少し自嘲気味に微笑む。
「僕になんか縛られなければ、舞弥はもっと好きに生きた──いや、本当なら僕は、君のためにこそ尽くさなきゃいけなかったのに」
「私は好きに生きていますし、そのためにあなたにも尽くしてもらっています」
見上げようとする切嗣をそっと押しとどめるように、彼の隣に舞弥は座る。
「今ここにいることも、落ち着いて準備が整えばまたあの城に行こうとしているのも、どちらも私自身の意志です。士郎は私の息子でもありますし、アイリスフィールとは友人であれたと自惚れています。だからその娘の人生が幸せであって欲しいと願うのも、私自身の望みです」
「そうか……」
庭に浮かんだ満月を、眩しそうに切嗣は見上げ、
「息子を、娘を、君がそんな風に思ってくれるのなら、僕は本当に……」
──幸せ者だ。
そのままうたた寝でもするように、あるいは全て満たされたと感じて、
そっと静かに目を閉じる。
「はい。ですから後はお任せください。おつかれ、さまでした」
眠るように息を引き取った切嗣の身体がふらりと揺れて、隣の舞弥に寄りかかり──
かつて機械であった女は、使い手だった男の身体をそっと優しく抱きしめた。
Fate/Zero エピローグ、久宇舞弥生存バージョン。
Zeroでの彼女は原作通り『ライダーに化けたバーサーカー』の襲撃で退場
──ただし一命は奇跡的にとりとめ、意識不明の重体で入院。『聖杯戦争が終了して数週間経過』してからようやく意識を取り戻した、という設定です。
次回からは「stay night」の序章。
【1年4ヶ月前】『男の子の母親』と『彼の家を訪れた後輩』
を明日投稿予定。
なお前話「上」で舞弥は『だって、彼女には残っていたから──自分たちを襲撃し、彼の最愛の人を奪った