恋する少女の1人である斎賀玲は自宅の縁側に腰を掛けながら、手持ち無沙汰に空を眺めていた。見上げる空には雲一つ窺えず、手を伸ばせば届いてしまいそうだ。そんな他愛もないことをボンヤリと脳裏に巡らせながら先程手ずから淹れたお茶を啜ると、心地の良い苦味と風味が口腔を駆け抜けた。これにお茶菓子でもあれば至福の時と言っても過言ではないだろう。コトリと湯呑みを置き、ほうと息をつく。
(これだけ静かに時間を過ごすのはいつぶりでしょうか)
今日はシャンフロをプレイする気になれなかった。より正確に言うならば、VRゲームを、だが。原因を端的に言うと、先日想い人である彼に誘われたゲームで少々やらかしてしまったのだ。いや、それだけならばまだよかった。やらかした翌日に、彼の爛々とした顔を間近で見せつけられ剰え──女神様だと。
「ぼみゅっ」
思い出しただけで顔が沸騰するように熱くなる。
──玲にとって、ソレは劇物に過ぎた。無論休日が終了すれば学校で顔も合わせるだろう。だが、この休日くらいは彼から離れなければ余り頑強でもない玲の精神が持たないのだ。休み明けに円滑な会話を行うためにも、今なお思考領域の九割を占める脳内カメラへと永久保存したその光景を必死に頭の隅に押しやる。
思い返してみると、ここ最近は激動だ。
千里の道も一歩からとはよく言ったもので、彼と一緒にゲームをプレイするという一歩さえ踏み出してしまえば、いままでの遅々とした歩みは何だったのだろうかというほどに彼との関係は上手くいった。最初は友人としての会話すら覚束なかった。けれど、二人で『夜襲』へと挑んでからは現実でも、ゲームの中でも会話が弾むようになってきた。最初はどこか他人行儀だった彼も、少しずつではあったけれど心を開いてくれた。
この間、彼直々に揶揄われたのがその証左であると玲は考えている。
彼からしてみれば「揶揄い」というのは特段意識もしていない極々自然なコミュニケーションなのだろう。だが、玲にとって、彼の揶揄いというのはある種羨望の一つだった。
彼は、毎日のように友人たちと軽快なやり取りを交わしている。楽しそうですねと聞けば、笑って「あれは生贄をささげてるようなもんだからそんなのじゃないよ」と否定していたけれど、彼にとって揶揄いは真に仲のいい人限定のコミュニケーションなのだろう。事実、ここ数年彼を(一方的に)見てきたが、決して礼を失するような人格をしていない。揶揄いをかけるのは極々一部の人々のみだった。揶揄われた人たちも口先でこそ文句を言うものの、決して彼の傍から離れようとしない。受動的な態度の彼から離れるのは簡単なことだろう。それをしないということは、双方憎からず信頼しあっているということだ。
そして、その中に、自分も名を連ねることができた。
もちろん、想い人に恥ずかしいところを見られたという恥辱が雪がれることはない。けれど、それ以上に──堪らなく、嬉しいのだ。彼に初めて揶揄われた日は恥ずかしくもあったけれど、それ以上に得も言えぬ心地よさに包まれた。
眺めるしかなかった自分が。何度も足踏みをしてしまった自分が。一生、彼と道が交わることがないのではないかと半ば諦めかけていた情けない自分が。
──彼の心に、確かな足跡を残しているという事実が。
今更ながらに、この現状を夢でも見ているのではないだろうかと思う自分がいる。まるで現実味を帯びていないけれど、確かに幸せを感じられる春の木漏れ日のように優しい夢を。
これが仮に夢だとするのなら、それはとんだ悪夢だ。たしかに今は幸せだ。だが一度甘い蜜を吸わせた上で再度あのやるせなさを味わわなければいけないとなると、悪夢以外の何物でもない。
なにせ二年前の自分が今の玲を見れば卒倒しそうなほどに恵まれた生活を送っているのだから、この喪失感に耐えられよう筈もない。
(……いえ、違い、ますね)
何を弱気になっているのだろう。耐えられないのならば、今度は能動的に動けばいいではないか。ここで躓いていては、物陰から見ているしかないあの時から何の進歩もしていない。成り行きに身を任せているだけだ。
彼は、流れを作る人だ。
自分のように周囲に身を任せ、波の上を揺蕩う人とは違う。
周囲がどうだろうと、何があろうと自分の道をどこまでも愚直に、楽し気に突き進む。それが彼──陽務楽郎だ。そして、その姿は当然のことながら鮮烈だ。今はまだ、彼に想いを向けているのは自分だけかもしれない。
だが、時に流れ星すら霞ませてしまう輝かしい雄姿に惹かれる者がいないと、どうして言い切れようか。
今はいい。今は、彼の隣に一番近しいのは自分だろう。少々傲慢の自覚はあるけれど、恐らく事実だ。しかし、その立場は薄氷の上に成り立っているということを忘れてはならない。
例えば、一世を風靡するトップモデルにして、彼と肩を並べることのできる女傑。
例えば、明るく元気で、周囲の人間を自然と笑顔にさせてしまう溌剌な少女。
他にも、私が知らないだけで彼の周囲には多くの女性がいるのだろうし、それはこれから加速度的に上昇していくことは間違いない。
今の立場に甘えていては、未来はない。
(私は、彼について歩きたいわけじゃない。彼の隣に立って、共に歩んでいきたいのだから)
挑戦なくして成功はない。そして、成功を収めるものは須らくして偉大なる第一歩を踏み出してきた。
彼の隣に居たいのだから、受動的な態度ではだめだ。ならばこちらから攻めなくては関係が進展することは無い。
メッセージの受信音が閑静な縁側に響く。気勢が削がれたと不承不承気味にポケットにしまわれていたスマートフォンへと視線を滑らせる。すると、画面には丁度思考を巡らせていた張本人である楽郎からのメッセージが表示されていた。
それは極々平凡な、高校に通う友人同士ならば誰もが交わすであろうテストの話題。いままでの玲ならば、『一緒に頑張りましょう』とでも返すのが精一杯だったろう。だが、決意を新たにした今の玲は違う。
──攻めるのだ。恋愛は積極的な攻勢にでなければ何も始まらない。
顔に固い微笑を浮かべ、スマートフォンのロックを解除する。指先は微かに震えながら、されど悠然と画面上を転移させていく。そして玲は──文字を打ち込むのではなく「電話」のマークをタップした。
静かな縁側にコール音が染み渡る。空気を伝播して知覚される音は微々たるものにも拘らず、心臓の音がトクトクと騒がしい。
手のひらに汗が滲む。
背中を一筋の汗がたらりと伝った。
口が渇く。
顔が焼けてしまいそうに熱い。
ワンコールがいやに重く感じる。普段は気にも留めない程度の感覚なのに、コールが鳴るたびに処刑台への一歩を踏み出しているかのような気分だ。
それは一分、二分、もしかすると十秒にも満たない間の出来事だったのかもしれない。
電話をかけるのは迷惑だったでしょうか……。そのような思考が脳裏を過ぎった瞬間、愛しい彼の声が鼓膜を揺らした。
『玲さんどうかした? 電話なんて珍しい』
「……っあ、あのっ」
──これが、一歩目だ。
「勉強会を、しませんか?」
会話の脈絡もない。自然か不自然かで言えば断然不自然な話の起点だろう。けれど、周囲に流されることしかしてこなかった私が、渦の目へと飛び込んだ初めての足跡だ。