縁側楽玲。
春の穏やかな風に載せて、ふわりと心安らぐ花の香りが漂ってくる。香りを余すことなく楽しもうと目蓋を下ろした。すんと鼻を小さく鳴らすと、鼻腔が桜の香りで包まれる。匂いだけでなく、鼻腔をくすぐる風の感触もひどく心地いい。
(いい匂いですね……もう、春ですか)
日々が充実していればしているほど、ふとした瞬間に時間の流れを痛感する。彼との関係が進展したのは去年の夏休みだ。つまり、もうすぐであれから一年の時が過ぎ去ろうとしていることになる。
(『時間が経つのは早い』、十分に理解しているつもりでしたが、後悔でなく、過ぎ去った過去を惜しく思うのは初めてかもしれません。これは私が欲張りになった証拠なのでしょうか)
薫風に身を委ねながら過去に想いを馳せる。
本当に、本当に充実した一年間だった。いままでは歳を経るごとに空虚さを覚え、何も出来ない自分に対し歯がゆさや悔恨の念が募る日々だった。
一方の今年は予想だにしないほど満たされていたというのに、今度は時間が経つのを惜しいと感じてしまうのだから、身勝手なことだ。自分の強欲さに思わず苦笑が溢れてしまう。
(……目を瞑っていては、すぐにでも眠ってしまいそうです)
瞳を開き、沈みかけていた夢の泉から浮上した。
暖かで柔らかな日差しも相俟って、油断するとすぐにでも意識を持っていかれそうだ。随分と昔の話だが、小さな頃は縁側で座布団を枕にすやすやと眠りこけていたことも多かった。久しぶりに、昼間から夢の世界に身を委ねるのも悪くないかもしれない。
--普段なら、そう考えたことだろう。
けれど、今は少し勿体ない。
視線を下方に滑らせ、自分の膝の上で熟睡するあどけない顔をした彼を見つめた。今日は、斎賀家にて家デートなる物をしている。昨晩は随分と遅くまでゲームをしていたようで、縁側に来て数分で彼は寝付いてしまった。眠る前に膝を枕として薦めた数分前の自分に喝采を送りたい気分だ。
とろけたような寝顔と、普段のギャップにくすりと笑みが溢れた。
まるで太陽のように爛々と輝く彼の姿は、幾度季節を経ても恋しさを与えてくれるのだろう。未来とは不確定なものだ。けれど、この気持ちが色褪せることだけはないと断言できる。
しかし、今は、抱く感情の毛色が異なっていた。
(ふふっ……可愛いです)
恋しいというよりも、愛しい。無防備なその姿は、いっそ冒涜的なまでにこちらの庇護欲を擽ってくる。普段の彼は隣に立ちたいと思わせてくれるような人柄をしているのだが、今は総てから守ってあげたいという気持ちにさせてくれる。
眠る彼の硬質な髪を労わるような、慈しむような手つきで撫でた。少々ごわごわとした髪の毛が掌に刺さるが、その感触も心地いい。
だが流石に違和感を感じたようで、彼は顔を顰めた。
「……ぅうん」
どうやら気に障ってしまったらしい。目を覚ます程では無さそうだが、これ以上は控えた方が懸命そうだ。掌に残るとげとげとした感触を心底名残惜しいと思いつつも、彼の睡眠を害さないようにそっと手を離す。快適な睡眠を邪魔するのは本意ではない。
なにより、普段見ることが叶わない寝顔をもっと長く楽しみたい。
欲を言うのならば写真を撮りたいところだが……。
(………………撮っても、構わない、でしょうか)
ごくりと、生唾を飲み込んだ。
蠱惑的な欲望が頭をもたげ、先ほどまで穏やかだった胸中は狂騒の体をなし始める。
この穏やかな寝顔を写真に収め、あわよくば壁紙にしたいという欲望と、盗撮という行為に対する倫理観がせめぎ合った。脳内で天使と悪魔が睨み合い、心臓は試合終了の鐘を高らかにならし、明晰な頭脳は倫理観を踏み倒すための理由探しに邁進した。
(……恋人、そう! 恋人ですし、そのくらいの権利はあるはずです)
ここがゲームの中なら頭上に『!』が浮かんでいることだろう。天啓を得たとばかりに、いそいそと横に置いていたスマートフォンのロックを解除する。
--そう、何時になっても現実感が湧かないものの、玲は長年の想い人である楽郎と恋人関係へ進展することに成功していた。正直に言うと、その事実を再認識するだけで身体が茹ってしまいそうなほどに熱くなるのだが、今は関係のない話だ。
こんなこともあろうかと、随分昔にインストールしていた消音アプリを起動し、ピントを合わせた。画面越しに見る彼の寝顔を永遠に残すことができるのだと考えると、興奮のあまり思わず息が浅くなる。震える指先でボタンを慎重に押すと、パシャリと画面が瞬き、文明の利器が彼の寝顔を美麗に写し取った。
(撮ってしまいました!撮ってしまいました!)
画面を見ると、緩み切った彼の顔が映されていた。今後、この寝顔をいつでも好きな時に眺めることができるのだと思うと、衝動的に手をぶんぶんと振りたくなってくる。寝心地を損ねないために身じろぎ一つ取ることはできないが、代わりにまるで神からの賜り物であるかのようにスマートフォンを天に掲げた。
決して褒められた行いでないことは理解している。けれど、どうかこの我儘を許してほしい。
「……んぁ、玲さん?」
「……っ!」
彼が目を覚ましてしまったようだ。
後暗いことをしていたのもあって、突如掛けられた声にビクリと体を揺らした。それに合わせて、掲げていたスマートフォンが指から滑り落ちる。
あっ、と声を漏らすも、総ては遅すぎた。彼は寝起きにも関わらず俊敏な反射神経を発揮して、空中で落下途中のスマートフォンを器用に受け止める。
自然と画面が目に入ったのだろう。彼はムクリと上体を起こしながら疑問符を頭上に浮かべた。
「……俺?」
「え、えっと、これはですね。その、なんと言いますか、ええと」
上手く言葉が思いつかない。謝罪を行うために二の句を継ごうとするも、嫌われたらどうしようという最悪の想定が思考の隅を過ぎり、吃ってしまう。
そうこうしていると、彼は「ああ、なるほど」と1人納得したような動作を見せた。
「あー、うん。いいよ別に写真くらい」
「あ、ありがとうございますっ!」
出てきた言葉は、肯定の意を示すものだった。思わず謝罪を忘れて、ほぼ反射的に感謝を述べる。
「でも」
「へっ?」
くい、と肩に手を掛けられ、引っ張られる。咄嗟の出来事に反応することが出来ず、力の流れるままに彼の胸板の上に倒れ込んだ。
ぱしゃり。シャッター音が鳴る。
突然のシャッター音に驚いて視線を音の発生地へと向けると、そこには、悪戯気な表情を浮かべる彼と間抜けな顔を晒して彼の胸板に撓垂れ掛かる自分の姿が映っていた。
「へっ!?」
「どうせなら、二人で撮ろうよ。これは隠し撮りされたお返し」
「後で俺にも送ってね」彼はそう言って、照れるように笑った。
頬を僅かに紅潮させて至近距離で笑う彼の顔はとても輝いていて……
「ぴゅぅ」
「えっ、ちょっ!玲さん!?」
玲はキャパを大幅に越え、気絶した。楽郎は慌てて彼女を介抱し始める。
その姿を偶然通りかかった仙が見留め、何を勘違いしたのか「仲がいいのは大変宜しいですが避妊はしっかり」等と言い出し、タイミングを見計らっていたかのように風雲斎賀城のラスボスまで出現する。それによって楽郎のクソゲースイッチが完全にオンになり、少しズレた発言をし始めた。
玲が意識を失う傍らで、現実は更なる混沌の渦中へと包まれていった。
◆◆◆◆
二人の休日は、騒々しくも穏やかに過ぎ去っていく。それはきっと、現実であろうともゲームの中であろうとも、二人が共にいる限り変化することはないのだろう。
思っていたよりも筋肉質な胸板+ふわりと香る体臭+至近距離での顔面+ツーショットの入手+赤面でノックアウトです。