沙耶の唄は、いいぞ
郁紀に最後に会いたくなった私は、郁紀が隔離されている施設に足を運んだ。
私は普通に歩いているが、知覚障害が治り、普通の世界に見える郁紀には床を這いずるような歪な音が聞こえているのだろう。
郁紀の居る部屋の前まで行くと、中から懐かしい声がする。
「沙耶なんだね?」
「……」
その声に思わず返事をしそうになったが、今の彼には私の言葉は普通には聞こえない。せっかく会えたのに、話したい事はいっぱいあるのに、喋れば確実に郁紀は驚くだろう。
そんな葛藤の中、郁紀はさらに言葉を続けた。
「なぁ、どうして声を聞かせてくれないんだ?」
「……」
喋る事を躊躇っていた私は、手元にあった携帯を手に取った。
メニュー画面からメモ機能を起動し、テキストを入力。これなら喋ることなく郁紀と会話できる。
『わたしの声、きっと変に聞こえるから』
そう入力し、扉に会った細い覗き窓に携帯を入れた。
それを見たであろう郁紀は、クスリと笑った。多分私が恥ずかしがっていると思っているのだろう。
「そんなこと、僕はぜんぜん気にならないよ。君の声が聞きたい。姿が見たい」
郁紀はそう言って、覗き窓から電話を返してきた。
(嬉しい……)
そう思うが、私は声に出さない。
『あなたが憶えている姿の沙耶でいたい。お願い。許して』
携帯にそう入力し、覗き窓から携帯を差し込む。それを見た郁紀は「……そうか」と呟いた。
多分、郁紀も薄々は察していたのだろう。全てが歪に見える世界で、唯一普通に見えた私。それが、どんな意味を示しているのかを。
少ししてから、郁紀が言葉を続けた。
「あの日、君に言おうとしてたこと──保留になってたの、憶えてる?」
郁紀はそう私に質問し、携帯を返してくれた。
あの日──私が郁紀の脳内をいじる前。彼は何かを言おうとしていた。
『もう忘れてくれてると、思ってた』
携帯に入力し、郁紀に返す。
あの運命の日からどれだけ時が過ぎたのだろう?その事を思えば、忘れて当然だと思った。
「忘れたりするもんか」
そう言って、郁紀は黙ってしまう。部屋の中で、郁紀がテンキーを入力する音が聞こえる。
ピ─── ───
ピ、ポ───
ピ、ポ───
ピ、ポ、パ、ポ───
ピ、ポ、パ───
ピッ、ピッ───
そして、覗き窓から携帯が返される。そのディスプレイには……
『愛している』
「っ!!」
思わず出そうになる嗚咽を、必死にこらえる。涙がボロボロと流れるが、声を出してはいけない。郁紀に聞こえてはいけない。
そうして声を殺して泣き続ける私に、郁紀は優しい声音で続けた。
「僕は構わなかったんだよ」
郁紀はそう言ってくれる。
私だって、本当は郁紀と一緒に居たかった。ずっとずっと一緒に居たかった。
郁紀の覚悟は私も知っていた。私がどんな醜い化け物だろうと構わない。何処までも一緒に手を取り合って生きて行く覚悟が、郁紀にはあった。
だから私は、郁紀の言葉を制止した。その言葉を言ってしまえば、郁紀は後には戻れなくなってしまうから。
そうなる前に、私は全てを終わらせて、郁紀の元から去ったのだ。
『ごめんなさい。わたしは、意気地なしだった』
震える手で入力し、覗き窓から携帯を入れた。
「君だけが悪いんじゃない。あのとき僕に迷いが無ければ、君だって勇気を出せた。そうだろう?」
彼の言葉に、私は首を振る。
『あなたが、怖かった。わたしのせいで変わっていくあなたが』
「仕方がないさ」
携帯の画面を見たであろう郁紀は、そう呟く。
そう、仕方が無いことなのだ。私は郁紀を奪い尽くす事が、郁紀は全てを擲つ覚悟が出来ていなかった。わたし達ふたりは、幸せになるには弱すぎたのだ。
「沙耶は、これからどうするんだい?」
郁紀のその言葉を聞いた私は、あれからずっと続けていた事を話す事にした。
『またパパを捜す。あの人なら、私を還す方法を知っているはず。わたしの、もと居た場所に』
「そうか……帰りたいんだね?沙耶は」
郁紀の言葉に、私は文字を打つのをためらった。
もしも帰りたくないと言えば、郁紀はわたしを受け入れてくれるだろう。醜い外見をした、こんな私でも。
だけどそれは出来ない。わたしは、この世界に居てはいけない存在だから……
『うん』
その二文字は、わたしが見ても、妙に心許ない文章に見えた。
「そうか……お父さん、見つかるといいね」
『がんばる』
別れの時。わたしは道を決め、郁紀はそんな私を祝福してくれた。その先に、言葉なんて必要ない。
「もしも気が変わったら……僕はずっとここに居るから。いつでも来ていいからね」
『うん、ありがとう。さよなら、郁紀』
その文章を見た郁紀は携帯を私に返し、別れを告げた。
「さよなら、沙耶」
(さよなら……郁紀)
声には出さない代わりに、扉を優しく叩き、わたしはその場を去った。
そして夜の静寂の中、わたしは独り歩きだした。
その日以来、沙耶を見た者はいない。
沙耶は還るべき場所に還ったのかも知れない。
もしかしたら、父親の行方を捜し続けて、今日もまだ何処かをさまよい歩いているのかもしれない。
だけど、もし沙耶が孤独に耐えきれなくなり、挫けそうになったときには、郁紀のもとを訪れるだろう。
沙耶に優しい言葉をかけて、慰めてやれるのは、彼しかいないのだから。
だから彼は待つ。彼女の声を、面影を夢に見続けながら待ち続ける。
この白い彼だけの世界で、いつまでも……
「愛してる」を打つシーンは沙耶の唄で一番好きなシーンなのですが、今の子にはガラケーで文字を打つ音が通じないんじゃないかと思う今日このごろ