昨晩、材木座から何か連絡でも来るかと思ったのだが、予想に反してバイブは鳴らなかった。
まああいつらに昨今のきゃぴきゃぴウフフな付き合いなど合ってはいないだろうと、今日の報告を楽しみに少し早めに登校した俺である。
教室の空気はもうすぐ夏休みということもありどこか浮かれているように感じた。しかし俺も三年最後の夏休みというラストティーンな感覚がないわけじゃない。夏期講習に模擬テスト、課題がない代わりにこの夏が勝負であるという危機感は当然抱く。逆に今更彼女を作ろうなどというバカがいるはずもないと薄ら笑いを浮かべたところで「あ、いたわ。バカじゃなくてオタクが」と思い出してその席に視線を向ける。
いつもはむふーと鼻息荒く両腕を組んで、しかし額には未だクラスに馴染めない緊張からか終始俺に熱い視線を送っていた材木座義輝の姿は、まだなかった。
平塚先生が扉を開けて入ってきた頃になっても、その席に座るものは誰一人として現れず、やがて鳴った一時限目のチャイムが、材木座の欠席を決定的とした。
対して海老名さんは普通に登校しており、普通に談笑に勤しんでいる。その姿はもはや腐女子といって差し支えなく、やはりいつもの海老名姫奈だ。
だがそれがどこか気に食わない。具体的にと問われてしまうと答えに困るが、抽象的にたとえるならモヤモヤした感じだろう。胸に巣食うこの正体不明の感情のせいで、放課後まで俺の精神状態はいかんせんよくなかった。
奉仕部の部室で、由比ヶ浜がぽつりと呟く。
「最近、誰もこないね」
パタンとケータイを閉じて、扉に視線を向けた。
雪ノ下も頷いて、同じ方向を見やる。
「そうね、受験勉強かしら」
六月といえば受験勉強を始める時期としては遅いかもしれないが、そういう理由なら納得がいく。
しかし俺たちは、今もこうして部室に来ている。勉強をしていないわけじゃない。俺は帰ってからしっかりやっている。由比ヶ浜も雪ノ下もきっとそうだろう。
だからといって、勉強を理由に部活を休むことはできるはずだ。去年、一度それを先生に言ったのだが、「却下だ」と職権を乱用された。間違いなく嘘だと見破られていたからだと思う。
「……ゆきのん、ここちょっと、教えてほしいんだけど…」
由比ヶ浜がケータイを鞄にしまい、ノートと参考書を取り出した。センター数学の参考書だ。
雪ノ下も本をしまい、ノートに視線を向ける。星のマークがついた部分を見ると、今度は参考書に視線を移した。
「ここは──」
そこからは勉強会だった。由比ヶ浜の質問に雪ノ下が答える。俺は普段どおり本を読んでいる。いってしまえば読書も勉強だ。速読が鍛えられる。
刻々と時間は過ぎ、やがて雪ノ下が時計を見て言う。
「そろそろ帰らないといけないわね」
「あ、ほんとだ。もう五時過ぎたんだ」
気づかなかったー、と由比ヶ浜は急いで勉強道具をリュックにしまった。
夕暮れの日差しが窓から差し込み、やわらかい風が吹き抜けカーテンを揺らす。
由比ヶ浜がノートを胸の前に出しておずおずと雪ノ下に言う。
「ゆきのん、明日も勉強教えてくれる?」
「……別に構わないけど」
「ホント!?」
やったー、と手を上げて喜ぶ由比ヶ浜。雪ノ下もまんざらでもない様子で明日の予習範囲を伝える。……結構厳しいよ、この先生。
と俺が目で由比ヶ浜に伝えていると、下校を知らせるチャイムが鳴った。
俺たちが続けてきた奉仕部が、少しずつ様相を変えていく。材木座を除き、誰もこなくなった今の俺たちにできることがただ待つことだけだとするならば、その時間を勉強に当てることほど有効な方法はない。それに学年トップの雪ノ下が講師を努めてくれるのだ、一人で勉強するよりもよっぽど捗っていることだろう。
「……あなたも、どう?」
そう雪ノ下が訊いてきた。普段の俺ならなんと答えるだろうか。いや、それも二年の時の俺だ。俺も、少しは変わっているということだろうか。
「まあ、数学くらいなら……」
そう答える。今まで誰かの力を借りようとしたことなんて、ほとんどなかったのに。ここに来てからだ、助けてもらうようになったのは。
そうだと気づいている自分がいることに、俺はだいぶ戸惑った。この先にある俺たちの未来図は、ならどうなっているのだろうか。今のままでいられるはずがない。
「……そう、わかったわ」
結局、答えを出すことはできなかった。雪ノ下のその言葉を最後に、俺たちの今日は幕を閉じた。ように思われたが、まだ俺の今日は終わっていなかった。
深夜、勉強中の俺のケータイが鳴った。
アドレスを教えた相手は、そうそう俺に連絡を寄越すような奴らではない──そもそも相手が少ない──ため、俺はケータイの通知をONにしていたのだ。
布団の上で充電していたケータイを引っ張り上げ、電源をつけてみる。
材木座からの着信が来ていた。
俺は何かあると確信し、応答に指を移動させる。
「どうしたんだ、こんな夜中に」
できるだけ平常心でそう訊ねた。
そこからしばらく、返答がなかった。やっと声が聞こえたのは、数分後。
「八幡っ……!我は…… 我はどうすればいい……!」
嗚咽を漏らしながら、材木座は俺にそう訊いてきた。しかし答えられるわけがない。
「落ち着け、何があった」
ううっ、ううっという声が電話越しに伝わってくる。
答えたくない、そんな気配を感じた。
「海老名と、何かあったのか?」
「八幡……」
「そうなのか?」
そう訊くと、材木座の啜り泣く声が次第に弱まっていった。昨日(もうすぐ一昨日になるが)の俺たちの行動を理解したのだろう。どこかで見られていたということに。
やがて返答が返ってくる。
「……うむ、そうだっ……ッ!」
歯を食い縛るように材木座は語り始めた。
×××
材木座は映画を見に行った後、思い切って食事に誘った。近くの喫茶店だったが、了承された時、高すぎるハードルを越えた時のような達成感と嬉しさが同時に爆発した。
当初はそこで告白するつもりだったが勇気が出ず、ついには帰る時刻になってしまった。
しかし、そこで材木座は心を決めた。告白する、その一心で膝を地面に着き、土下座をして叫んだ。
「我と付き合ってください!」
吠えるように空に向けて放ったその一言に、材木座は一瞬自分が何を言ったのかわからなかった。しかし溜め込んでいたものを吐き出したかのようなスッキリとした気持ちが確かにあった。
そして彼女の方を見た。
少し困ったような表情で、彼女は首を傾げた。材木座はそれを可愛いと思った。
しかし───、
「私、好きな人がいるから」
その言葉を聞いたとき、材木座はおもいっきり心臓を握りつぶされたような感覚になった。今まで受けてきた作品に対するどんな誹謗中傷よりもそれは胸に刺さり、材木座をどん底へと突き落とした。
そのことを話し終えると、電話がプツリと切れた。俺はもう一度かけ直そうと思ったが、かけ直して何になる。そう思った。
話を聞いている最中、俺は材木座に何も言えなかった。正直なところ、俺は最初から最後まで、あいつがどんな状態でいたのかわからないでいる。今までのあらゆる俺の事例に当てはめてみたが、まるでしっくりこなかった。
すると、ここまで俺は人を好きになっただろうか。そんな疑問が、ふと浮かんだ。そしてそれは、すぐに『無い』という回答を導きだした。
今まで俺がしてきたのは恋愛ではなく、ただの押し付けだったのではないか。ただ気になった女の子がいて、その子のことを考えている自分に酔っていたのではないか。
今では、そうだったのかもわからない。ただ、何度か告白まがいなことをして、翌日その子達は何の変化もなく過ごしていた。当の俺もフラれたのかどうかもわからない中、たぶんフラれたんだろうなと思いながらも、彼女達ほどではないが、それほどショックを受けてはいなかった。それよりも、そのことを教室で笑いのネタにされていることが余程辛く、早く忘れてしまいたいとさえ思った。
それらがただの子供の恋だったとか、今が高校生になった、本物の恋だとかは関係ないのだろう。
事実、俺はここまで真剣に恋に向き合ったことはなかったし、フラれてここまで泣いたことはなかった。
だからただ話を聞いてやるだけしかなく、そんな自分が情けないと思った。
翌日もその翌日も、材木座は学校に来なかった。平塚先生への誤魔化しもそろそろ効かなくなってくるだろう。というか、あの人はとうに気づいているのではないか。
そんなことを考えながら、俺は数学の問題文を解いていた。しかしまったく内容が頭に入ってこない。常に別のことを考えてしまっているからだ。
「ヒッキー顔怖いよ……」
雪ノ下を挟んで同じく数学をやっている由比ヶ浜が心配そうな顔を向けていた。その時の俺を鏡で見てやりたい。きっと、ひどく歪んだ顔をしていたことだろう。
「今日はもう帰りなさい。材……材津くんのことは私たちではどうしようもないわ。それよりも私たちにはあなたの方が深刻に見える」
「うん、ちゃんと休んだ方がいいよ。ヒッキー」
それは間違いだ、とは言えなかった。材木座に気づかされてしまった己の弱さに、俺は向き合えないでいたからだ。
今まで色んな相談事が持ち込まれ、俺も持ち込んできたこの奉仕部の教室に新たに持ち込まれた依頼。今まで全て解決とはいえなくとも、やりきった、これ以上の方法はない、という気持ちはどれにもあった。しかし、今俺は何も役に立てていないでいる。それが情けなくて仕方がない。
そんなちっぽけなプライドを持っていた自分についさっき気づいて、なんだか嗤えてきたのだ。
「材木座、な。悪い、そうさせてもらうわ」
微苦笑を浮かべてそう言い、俺は部室を出る。ここまで名残惜しいと思ったことなんてなかったが、言われて出たことがそもそも初めてだった。
だが家に帰っても気持ちは落ち着かず、勉強にも身が入らないでいた。小町が声をかけてくれたが、こればっかりは俺が解決するしかないと、「何でもねえよ」と言った。小町はその後、その事に関しては何も訊かなくなった。
その日の夜、プルプルとスマホがなった。その時はもう学校を休もうか、ぐらい気持ちが塞ぎ込んでいた時だったから、雪ノ下や由比ヶ浜からかかってきても、通話はしなかっただろう。
布団で横になりながら、耳元のスマホを手にとり電源を入れる。
「知らない番号……」
俺は起き上がり指で画面を操作した。
切ることは容易にできたが、逆に何かにこのイライラをぶつけたいという思いもあった。変な電話なら、今思っていることを大声で叫ぼうと決めて応答した。
「もしもし」
『あ、繋がった繋がった』
その時俺は、スマホを落とした。布団の上に落下したゆえか、スマホは傷一つなく、通話も切れてはいなかった。
俺はスマホを拾い上げ、再び耳元に近づけた。
「なんで俺の番号知ってんだよ」
『由依に教えてもらっただけだよ。ていうか、そんな怒らないでよ。突然かけたのは悪いと思ってるけど』
電話の相手は、海老名さんだった。
「いや、俺もお前に訊いてみたいことがあったから、ちょうどよかったわ」
『へぇー、そうなんだ。いいよ、先に訊いても』
いつもの話し方で話す彼女に、俺は少し苛立ちを覚えた。しかしそれは材木座のことがあったからじゃない。そのことがあった上でも、あの女子たちのように何事もなかったかのような、知らない人間には気づかれない普通さでいつもの海老名姫菜を演じる得体の知れない彼女に、俺は恐怖にも似た苛立ちを覚えたのだ。
「お前の好きな奴って、いったい誰なんだ?」