───私、好きな人がいるんだ。
ありえないと思った。今の海老名さんが、自分の環境を自ら変えるはずがない。誰より停滞と不変を望んでいる彼女が、それを自ら壊すようなことはしないと確信していた。
『誰から聞いたの?その話』
海老名さんの反応は、予想していたものとずいぶん違っていた。材木座にだけその話をしていたのなら、訊き方が違っている筈だ。つまり、彼女がそう答えた心当たりのある人物は複数いるということ。
「噂で聞いたんだよ」
『ふぅん、なるほどね。でも残念、それ嘘なんだ』
白けてみると、予想通りだ。彼女はその話を周りにしている。それが葉山などの関係の近い者たちなのかは未だわからないが、平然としている辺り、こうなることは予想していたのだろう。
もう少し深堀りしてみることにする。
「どういうことだ?」
『三年になってから、なんだか告白されることが増えたんだよね』
「よかったじゃんか」
『本当にそう思ってる?』
笑うような口調で訊かれ、俺は押し黙った。一瞬、陽乃さんと電話をしているような感覚に陥る。しかし、それもすぐに治まった。そこから続く言葉は、陽乃さんでは絶対に出てこない。
『私は今のままがいい。誰とも付き合う気はないし、付き合えないんだよ』
「なら、素直にそう言えばいいだろ。俺をフッた時みたいに」
『そうしたいけどね。なかなか諦めてくれないんだ、これが』
「だからわざと嘘をついたのか」
わかった口を聞くと、ため息交じりにうん、と小さな返事が帰ってくる。モテたくてモテているわけじゃない。これはモテない人間にとっては最悪にウザい言葉なのかもしれないが、実際にそれで悩む人間もいることを知った。だからと言って共感はできないが。
「理由はわかった。だがお前から電話をかけてきた理由はまだ聞いてないよな」
『そうだね』
海老名さんは少し間を置いた。
『単刀直入に言うね。
「はぁ……!?」
海老名さんからその話を聞いた時、俺はなんとなく事情を察した。なぜ俺なのかはともかく、偽の彼氏になってほしいという頼みは、頼んできてもおかしくはない(来るまでまったく想像していなかったが)。だから驚いてしまったが、答えはすぐに出た。
「無理だな」
『どうして?
それを聞くのは野暮なんじゃないですかね。なんて言っても、彼女は引き下がってはくれないだろう。リア充は時にオタクよりしつこい。
「いやいないけど……。わかるだろ? 俺は浮くのが嫌いなんだよ」
『十分浮いてると思うけどね』
微笑交じりの正確なツッコミが入ってくる。否定はしない。
「ボッチとして浮くのは別にいいんだよ。だが、変に浮くのは本意じゃない。それに、お前に気があるやつの反感を買うのも御免だしな」
『それはわかるけど、私も困ってるんだよ?』
口調から一ミリも伝わってこねえよ。来るのは変わらす不気味な声音だけだ。聞いているだけで身が竦みそうになる。
俺はそれを悟られないように努めて平然と答える。
「それは俺には関係ない。それに──」
なぜか、由比ヶ浜の顔が思い浮かんだ。修学旅行の日、俺の袖を掴んで叫んだ由比ヶ浜の叫びが、耳の奥で鳴っていた。
──人の気持ち、もっと考えてよ……。どうして色んなことがわかるのに、それがわからないの……!
彼女の言葉が、続く俺の言葉を出すヒントなのだと思った。けれど結局わからず、時間だけが過ぎていった。
『それに、何?』
「……いや、なんでもない」
『そう』
つんと張った声。電話を切ろうとしない海老名さんに、俺は早く切ってほしくて訊ねた。
「ていうか、どうして俺なんだ? 他にも適任はいただろ」
『いないよ、
そう言い切った海老名さんは続けて俺に言ってきた。もはや脅迫の類だとしか思えない。
『明日の放課後、特別棟の屋上に来て。
「……わかった」
そうしてブツっと通話が切れると、俺はさっきよりも少しだけすっきりしている自分に気づいた。ボッチってやつは、つくづく卑屈で根倉で無愛想で、他のやつより随分と
「寝るか」
そうして俺は横になった。しかし頭の片隅ではずっと彼女のことばかり考えていた。だがこれが俗に言う恋心ではないことは、確かめずともわかった。
×××
憂鬱な学校生活というのは案外存在するものらしい。人生で初めて、本気で学校に行きたくないと思ってしまった。今まではどれだけ雪ノ下に冷たい目をされようが、由比ヶ浜に「うわー……」という目でドン引きされようが一回も思うことはなかったのに。……というと俺はMなのでは?
そんな、しょうもない一人芝居をしなければ自分を保てないほど、俺は追い込まれているらしい。
とぼとぼと学校に向かうと、今現時点この瞬間で誰よりも会いたくない奴に会ってしまった。
「あ、
「……おう」
昇降口で鉢合わせるなんて。今までに一度もなかった出来事に待ち伏せが頭をよぎる。海老名さんは挨拶を済ませると一瞬だけこっちを見て、いつもの笑っているのか笑っていないのかわからない表情で、俺に訴えかけてくる。
──わかってるよね?
そう、目が言っていた。ただ口元を釣り上げただけの微笑に、俺は射竦められる。小さく頷きを返すと、彼女は後ろを向いて去っていった。
一色、お前がかわいく思えたのは生まれてはじめてだ……。
などと、どこぞの小悪魔女子の決め顔を思い出してぶれた心を落ち着かせる。……よもや一色に助けられるとは。女子ってコワい……。
教室に入ると、由比ヶ浜と雪ノ下とまず目が合った。席に座ると、雪ノ下がそれとなく気づかれないように話しかけてきた。目線を外して、どこか明後日の方を向くようにして。
「体調は戻ったの?」
「まぁな。……心配かけたか?」
「いえ、ただの確認よ」
そっけなくそう答えて、雪ノ下は席に戻る。由比ヶ浜もあはは…と下手な作り笑いを浮かべた。
「でもヒッキー顔色悪いね、ほんとに大丈夫?」
下から覗き込むようにして由比ヶ浜が俺を見てくる。そのアングル……ダメだ、ツッコむ気力もないらしい。
「昨日よりは幾分かマシだ」
せめて心配はかけまいと強がってみせる。
「あ、そっか。ならよかった」
由比ヶ浜は安心したように笑う。……俺は本当に随分と弱っているらしい。戸塚と同じくらいドキッとしてしまった。
そのことに心で感謝を述べる。言葉では、ちゃんとした言葉は出てきそうになく、苦笑交じりの謝罪で誤魔化す。
「心配かけて悪かったな」
「ううん全然、ゆきのんもああ言ってたけど、本当はすごく心配してたんだよ」
「へぇ……それはそれは」
俺は雪ノ下の方を見た。本を読んでいる。誰も近寄るな、とオーラを発しながら。
デレを隠すツン、それが雪ノ下雪乃らしい。デレといえるほどか難しいところだが……。
「まあとにかく、今日は来てよね、部室」
「ああ、わかってるよ」
頷いて、その上げた手に手を振り返す。だがその前に、俺にはやることがある。
ちらと彼女の席に視線を向け、俺は再び精神統一に勤しんだ。
×××
昼休みになり、俺は静かに席を立つ。誰にも気づかれず、悟られない、それが前までの俺だったはず。だがしかし……。
──どこ行くの?
──一体どこへ消える気かしら。
そんな言葉を内に秘めながら、二人が教室を出ようとする俺を見ている気がした。だが俺が視線を合わせたあと目を泳がすと、二人は小さく頷いて、そっと視線を外した。
この時俺は、事情を説明できないことに悩んでいた。公に言えることではないから、理由を訊かれると答えられない。
しかし二人はそれをわかってくれた気がした。気のせいかもしれないが、頷いた時、俺はそう感じた。
屋上へと続く特別棟の階段をゆっくり登りながら、俺は昨日の海老名さんの言葉を思い出していた。なぜわざわざ彼女がここを指定したのか、それにはやはり意味があるように思えたからだ。
しかし結局分からず終いで、俺は扉のノブを捻った。
音が聞こえたのか、後ろ向きのまま、海老名さんは話しかけてきた。俺は動揺を隠すように一歩ずつ彼女に近づく。
「へぇー、本当に来たんだ。来ないかと思ったのに」
「依頼者を差別しないのが、
「まあご立派なことで!」
振り返り、笑顔でパンと手を叩く。その仕草の、全てがわざとらしい。
「そんな怖い顔しないでよ。ていうか、
彼女はほえーとわざとらしく驚いて見せる。
ここは俺らしく答えるべきだ。大事なことは言わず、煙に撒くように自虐を述べる。
「心配しなくてもデフォルトだよ」
「へぇー、そう」
彼女はさも関心のないような反応をして見せると、嘲笑を向けた。
「………
それが本来、海老名姫奈であると俺は理性的に理解しているが、しかしどうしても彼女はそう断言することはできないと感じた。たとえるなら『それ』は、もう一人の海老名姫奈。時折彼女が見せる素顔そのままに、『それ』は全てを見透かすような視線を俺に向けてきた。
「……なに?」
しかしすぐにいつもの取り繕った笑顔に戻る。
ああ、やっぱりだ。全てとまではいかないし認めたくないが、彼女と俺は少しだけ似ている。
だからこんなことも、嗤って言えてしまう。
「知ってるか? そういうことを言えるのは、本当の嘘つきだけなんだよ」
言うと『それ』は見たこともない爆笑を打ち出し、すぐに冷めた目で俺を見つめた。口元には薄ら寒い笑顔が浮かんでいる。
「あっはっはっは! バレちゃったか! そうだよ。私は嘘つき。……でも、
それから『それ』は俺に話した。
「……実は私ね、よくここに来るんだ。どうしようもなく我慢できない時とか、誰にも知られずに一人になれる場所ってここくらいだからさ」
「どこかで聞いたセリフだな」
「そう? でもだから、君が文化祭の時に真っ先にここに来たって聞いて、私は君に興味を持ったんだよ」
同じ穴の狢。そういうことらしい。まあ、納得はしないが。だからこいつは二度も俺に協力を仰いできた。
「材木座と知り合ったのも、ここか?」
「へぇー、よく知ってるね。あの人が言ったの?」
「いや、ただの勘だ」
「……嘘は、ついてないね」
じっと見つめて、確信したように『それ』は言う。エスパーかよ。
「でも、あの人が君に言ったんだよね。私に好きな人ができたってこと」
「ああ」
こいつには、嘘も詭弁も通じない。そして見透かされているのだ、何もかも。だから全身全霊の俺で、クズで根暗で卑怯な比企谷八幡で、真っ当にやり合うしかない。
「
「そうだよ。たまたま偶然だったけどね」
聞くと、『それ』は思い出すように語った。
ここは谷です。