グレーテルと私   作:バイオレンスチビ

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月下の鍵盤

“消したい記憶はありますか?”

そう問われて“1つもない”と断言できる人間はいない。そう思う。消し去りたい過去なんて山ほどある。

忘れることは、実際のところ悪いことではない。見聞きしたことに体験したこと。そのすべてを覚えていたら、とても生きてはいけない。

…日が昇り、目覚めたリコに少年の記憶はないだろう。ジャンさんは記憶操作や条件付けを躊躇ったりしない。

それを“幸福”か“不幸”と決めるのは、リコだ。断じて私ではない。

 

消灯後の廊下を歩くのに使用したキャンドルランプを吹き消して、窓を開け放つ。月明かりだけで十分だ。ピアノの蓋を持ち上げて冷たい鍵盤に指を這わせる。

…肌を刺すような風が今は心地よかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

月明かりの差し込む部屋でピアノを弾く影。傍らには、廊下を歩くのに使ったキャンドルランプが置かれている。弾く曲は讃美歌にクラシック、歌謡曲。そこに規則性はなく、誰かに聞かせようという意思すら感じない。それどころか、気の向くままに指を動かしているようにも感じる。

 

明るく親しみやすい昼間の彼女。グレーテルとの連弾を楽しみ、少女たちに寄り添う彼女とは別人のようだった。この姿を見るのは、初めてじゃない。部屋の外から聞いたこともあった。部屋の中に入れてもらったこともあった。彼女は月が沈み空が白むまで演奏する。

 

「シャーリー、何をしている?」

 

いたずらに刺激しないように気を配りながら問いかける。彼女を驚かせて怪我でもされたら大変だ。

 

「…ピアノを弾いているの。」

 

「そうか。」

 

ピアノを弾く指は止まらない。月明かりだけを頼りに鍵盤は叩かれる。

 

「…すみません。寝付けない上に少しセンチ入っちゃって。」

「気にしなくていい。こっちも寝付けないから少し散歩をしていたんだ。」

 

おそらくは、リコのことだろう。条件付けや記憶操作は義体に大きな負担を強いる行為だ。それを躊躇わずに実行したことに思うことがあるのだろう。

義体の身体は信じられないくらいに頑丈だ。身体の大半を人工物に置き換えられた彼女たちの死。それは、脳死のみである。そして条件付けや記憶操作は脳に大きな負担を掛ける。その副作用は、味覚障害や記憶障害という形で徐々に彼女たちを侵食していく。そして確実に命を削っていくのだ。

 

「ねぇ、ジャンさん。」

シャーリーは指を止めない。

「私は、諦めません。」

シャーリーは振り返らない。

「…私は、グレーテルを諦めません。」

決して大きな声ではなかった。ピアノの音に負けてしまうような声だった。しかし、そこには強い意思が感じられた。

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