下水道の獣   作:あらほしねこ

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地獄の番犬

 目の前で次々と繰り広げられる殺戮劇、怒り狂ったケルベロスの前に、ゴブリンは引き裂かれ、噛み砕かれ、踏み潰されていく。地底の清冽な空気と闇の中をたちまち覆いつくす、汚らしい絶叫と、血と臓物と糞尿の臭い。

 仲間がやられている隙に半闇狩人や巡礼尼僧へ駆け寄ろうとする、この期に及んでなおも浅ましいものもいたが、それらはすべて、半闇狩人の放った矢で顔面を貫かれた。

 そして、全てのゴブリンが、ゴブリンだったものに変えられた後、ケルベロスは、その三つの狼頭、竜の顎(あぎと)で、ゆっくりと半闇狩人たちの方を振り返り睨みつけた。これは食事になるのか、それを確かめようとするかのように。

 こうなったら、やるしかない。

 半闇狩人は、手足の震えを懸命にこらえ、覚悟を秘めた表情で短弓に矢をつがえる。自分がこのバケモノ相手にどこまで戦えるかわからない。けど、やれるかやれないかじゃない、やるんだ。

 そう、あの時、赤毛の大熊と戦った父のように。自分を守って、全てを振り絞って戦った、勇敢だった父のように。

 ……U……AAA……UU……

 その時、暗闇の向こうからかすかに耳に届いた音。うめき声のようにも、嗚咽のようにも聞こえる声。自分と巡礼尼僧の他に、誰もいないはずの場所で聞こえたもの。思わず声の方向を振り返ろうとした瞬間、首筋に打ち据えられた強烈な衝撃。そして、何が起こったのか理解する暇もなく、半闇狩人の意識は闇の中に滑り落ちて行った。

「狩人様、もう結構でございますよ」

 首筋への当て身、くてりと気を失った半闇狩人の体を抱きとめた巡礼尼僧は、感情の見えない微笑を浮かべつつ石塁の隅にそっと寝かせる。

「さて、もう一度、番犬を上に戻さなければ」

 巡礼尼僧は、相変わらずの怒気を噴き上げ続けるケルベロスに向き直る。それにしても、どうして今日に限って、これはここまで追いかけてきたのか。まあ、そんなことはどうでもいい。こんな状況では、却って好都合だった。

 胸元に提げた鎖を引き寄せ、豊かな谷間に隠した小指ほどの銀の笛を取り出す。魔獣使いの魔銀笛、その吹き口に唇を近づけたその時、何の前触れもなしに暗闇がかき消され、突然の光に驚いたケルベロスの咆哮が大広間に響き渡る。

 何の前触れも無しに灯った明かり、不意に明るく浮かび上がった視界に、巡礼尼僧は混乱するように目を瞬かせる。しかし、その目に映った姿を見た瞬間、彼女の顔に鋭い光が横切った。

「やあやあ、どうもどうも。遅くなってしまって、申し訳なかったねぇ」

 朗らかな声と共に、まるで宴の席に遅刻したかのような調子で現れた退役軍人。そして、その隣には、忠実に付き従う衛兵のように、油断なく剣を構えている若い戦士の姿。

「いやあ、遺跡の照明装置がまだ生きててくれて助かったよ。瓦斯にこんな使い方があったとは、やっぱり昔の人は偉大だねぇ」

 いつもの調子で現れた退役軍人は、改めて周りの状況を見回す。もはや原型を留めないほどに破壊された、ゴブリンだった肉塊があたり一面に散らばる。それと、顔面に矢が突き刺さっているもの。これは言うまでもなく、半闇狩人の奮戦の証だろう。

 そして、自分たちを威嚇するように唸る、その馬車馬ほどもある巨体。三つの狼頭、そして、竜の顎を持った尻尾を持つ魔獣の姿に、退役軍人は感慨深そうな様子で何度も頷く。

 軍団の旗印にも採用された、地獄の番犬。よもや、こんな所で、こんな時に、本物の姿を目にすることになるとは思いもしなかった。

「それにしてもだよ、尼僧殿。少し、悪戯が過ぎるんじゃぁないのかい」

 不機嫌そうにこちらを睨むケルベロスの背後には、巡礼尼僧。しかし、彼女は今までとは別人のように、凍り付いた目でこちらを見据えている。いや、もはや別人と化してしまったのかもしれないが。

(まあ、そんなわけはないね)

 そう、彼女は、彼女のままだ。よもや、こんな形で的中してほしくはなかったが。そして、退役軍人は、崩れた壁の向こう、祭壇のような石造りの台座に横たわるものへと目を移す。動屍體かとも思ったが、違う。あれから感じるのは、何か法術の残渣。そも、死臭も怨念も感じないのなら、それはただの魂のない肉体か。いや、そうではない。あれは、邪法。何人であろうと禁じられた、禁忌の術。

「どうやら、弟くんは見つかったようで、なによりじゃないか」

 一通り観察を終え、やがて、退役軍人は相変わらずの口調で声をかけた。

「本当に、なによりだよ」

 いつもの調子の笑い混じりの声、だがその全身はひとかけらも笑ってはいない。

「ええ、おかげさまで」

 それに応えるように、穏やかな笑みと共に一礼する巡礼尼僧。だが、その目は深淵の縁のように暗く深い闇を湛える。そして、ケルベロスは巡礼尼僧の前にゆっくりと進み出ると、退役軍人と若い戦士に向けて低く深い唸り声を上げた。

「君、無闇に動いたり大声を出したりして、アレを刺激しちゃいけないよ」

「は、はい……!」

 巡礼尼僧に対して詰問の声をあげようとした若い戦士を、退役軍人は穏やかに制止する。地獄の番犬を従えるように立つ巡礼尼僧、そして、石塁の片隅に横たえられている半闇狩人の姿。確かに聞きたいことは山脈一つ分もあるが、今は彼女に状況を問う時ではない。

 それよりも深刻な問題が、目の前で三つの狼頭、竜の顎でこちらを睨みつけている。退役軍人と若い戦士は、それぞれの武器を油断なく構えながらも、目の前に立ちはだかる冥府の魔獣を前に、お互い援護できる距離に立つ。

「この子は、やはり?」

 退役軍人の、わざとらしい問いかけに、巡礼尼僧は微かに口元をゆがめる。誇るでも驕るでもない、笑みに見えない笑み。

「ええ、これは、私めが冥府より連れてきたのでございますよ」

 退役軍人への返事と共に、巡礼尼僧は自嘲するように笑う。そう、番犬が空腹になる時を待ち続け、主の忠誠よりも餌への渇望の均衡が揺らいだその隙に付け入り、魔獣使いの魔銀笛で従わせ幽世(かくりよ)の隙間から連れ出した。

 勤勉忠実かつ獰猛だが、どこか抜けた性分だから出来たこと。同じ眷族でも、これが凶暴一辺倒でしかないオルトロスならそうはいかなかっただろう。しかし、よもや、餓鬼(ゴブリン)まで抜け出していたとは思わなかったが。

「黒騎士様、お尋ねしたいことが山とあるのでございましょう?どうぞご遠慮なさらずに、なんなりとお尋ねくださいませ」

「え?いいのかい」

「はい、この期に及んで隠し事もございません。それに、何も知らぬままでは無念でございましょうから」

「おやおやおや、これはこれは、お気遣い感謝するよ」

「恐れ入ります」

 言外に、生かして帰さないという意思をはらんだ言葉。魔道具に邪法、それらを悉く見られて只で済ませる故も無し。それでもなお、まるで朝食の席で今日の予定を話し合うような気安さ。

「では、ケルベロスを地下下水道に放ったのは、君ということなんだね?」

「おっしゃるとおりでございます」

「そうか、それで大鼠や黒蟲達が、怖がって奥から逃げ出してしまった訳なんだねぇ。しかしだよ、尼僧殿。これはちょっとひどいんじゃあないのかい?おかげで、命を落としてしまった若い子たちがいるんだ。うちの子だって、もう少しで危なかったんだよ」

「そのことにつきましては、大変残念に思います」

「ふぅむ」

 まるで他人事、そんな巡礼尼僧の言葉に、退役軍人は小さく息を吐き出す。

「だいたいあれだよ?君に似合いそうなのは、白くてふわふわの賢そうなワンちゃんじゃないか。なんだって、こんなおっかなそうな子を連れているんだい」

 思いもしない退役軍人の言葉に、若い戦士は思わず目が点になり、巡礼尼僧はころころと鈴の音のような声で笑い出した。

「恐れ入ります、黒騎士様よりお授かりいただけるのであれば、大変嬉しく存じます」

「うん、知り合いにつてがあるから、君が気に入ってくれそうな子を連れてきてあげるよ。だから、もうこんな危ないことはやめなさい」

「まあ……それは、重ね重ね恐れ入ります。ですが、私めの身に余るお気持ちゆえ、恐れながらご遠慮させていただきたく存じます」

「おやおや、振られてしまったねぇ」

「滅相もございません、黒騎士様」

「あ、そう言えば」

「どうかなされましたか?黒騎士様」

「もしかして、あの時、私の荷物に加重(インクリースウェイト)をかけたのは君だね?」

「ええ、おっしゃる通りでございますよ。あの時は、大変失礼をいたしました」

「いやいやいや、ひどいじゃないか、本当にびっくりしたよ」

 そんな退役軍人の言葉に、巡礼尼僧は鈴が転がるようにころころと笑い、つられるように退役軍人も肩を揺らして笑いだす。場違いもいい所な楽しげな会話と笑い声、ひとり若い戦士だけが、緊迫した表情でふたりの会話の成り行きを見守る。そして、今のところ、ケルベロスも大人しくしているが、いつまた暴れ出すか判らない。

「しかしだよ」

 退役軍人は、不思議そうな仕草で巡礼尼僧に問いかける。

「どうして、私たちの一党に加わった時、私たちを始末しようとしなかったんだい?私達の行動は、君にとって都合が悪かったんじゃないのかな?君なら、その気になれば、いくらでもそうできたんだろう?」

「滅相もございません」

 巡礼尼僧は、困ったように笑いながら応える。

「黒騎士様の動向さえわかれば十分でございました、私めに必要だったのは、時間だけでございましたから」

 そう、時間。冥府の門から番犬を引き離し、その間に、冥界をさまよっているであろう弟の魂を探しに行く時間。しかし、外法を駆使しても、禁呪に頼っても、自分のように生あるものが冥界に踏み込める時間はそう長くない。それでも、こうして探しにいけるだけましな話。

 だから、地獄の番犬を魔道具の笛で呼び寄せ、地下下水道に誘い出して放置した。地上に逃げ出す心配など考えなかったし、別にそれならそれでいいとも思った。そもそも、冥府の闇の中に住まうケルベロスにとって、地上の清廉な光は、草鳥頭(トリカブト)の花を吐き出し生み出すほどに嫌悪すべきものだから。

「なるほど、なるほど」

 巡礼尼僧の言葉に、納得したような仕草で何度もうなずく退役軍人。確かに、そう言われれば、これまでの流れは全て理解できた。それに、手際の巧拙がどうあれ、暗殺を疑われる騒ぎが起きれば、それこそ話が大きくなるだろう。

 となれば、相手の懐に潜り込み、その動向を把握できるだけでも十分。それは、かつて現役だったころ、魔神王に与する者達の邪教集団や、そのセクトに対して軍団でもよく使った手法。

「それじゃあ、あの御遺体を弔ってあげたのも、尼僧殿なんだね?」

 退役軍人の言葉に、巡礼尼僧は否定も肯定もせず、ただほろ苦い笑みを浮かべる。

「思い返してみれば、動屍體や食屍鬼に堕ちた御遺体にでくわしたことはなかったからねぇ。あれだけ残念な事になったのに、無念の一つも残さずに逝けたということは、やはり、そういうことだったんだねぇ」

 しみじみと、しかし、納得するようにうなずきながら、退役軍人は巡礼尼僧に向き直る。

「それにしても」

 退役軍人は、広場の奥、崩れた石塁の向こうにある祭壇代わりの石の台座の上を見て呟く。そう、これまで何度も見てきた光景。古の王を、賢者を、戦士を、そして、心から愛した人を。再び求めるため、再び会うために。しかし、それを行ったのは、邪教の使徒や宗徒達。ほんのひとつまみの例外もあったが、全て、処した。

「反魂香の祭禮は、久しぶりに見るよ」

 祭壇の上に横たわる體、しかし、その姿は、濁った瑪瑙の彫刻のような姿に蛇紋を滲ませている。それは、外法で組み上げた偽りの肉体。とてもではないが、これから黄泉還りを待つようなものでは、決して無い。

「偽りなどではございませんよ、黒騎士様。あれには、しかと弟の骨身が納まってございます。あとは、魂さえあの体に戻れば――――――」

「なるほど、地獄の番犬を冥府の門から引き離したという事は、君はその向こう側に用事があったと言う訳だね。そして、とにかく、探しに行くための時間が必要だった、と」

「ええ、おっしゃる――――――とおりでございます」

「なるほど、ありがとう、よくわかったよ。でもね、アレはここにいちゃあいけない存在だ。なんとしてでも、帰ってもらわなきゃいけないよ」

「もちろん、いずれそうするつもりでございますよ」

 そう、冥府の門の向こう側にいる弟の魂。それを探し出して、用意した体に戻してやるまでは、弟を、黄泉還らせるまでは、

「今は、帰ってもらうわけにはまいりませんが」

 そして、巡礼尼僧の息吹を吹き込まれた魔銀笛は、音のない音を響かせてケルベロスの耳を打つ。

 

 おなかがすいているのでしょう

 ごはんがたべたいのでしょう

 ほら

 だったら

 だったら

 いうことをききなさい

 いいこにして

 いうことをききなさい

 

 そして、番犬のように控えていた魔獣は一転、大気を振動させる咆哮を上げる。そして、三つの狼頭、竜の顎の尾を猛らせ、退役軍人と若い戦士に襲い掛かった。

 

 

「この!待て!伏せ!お座り!ああやっぱり駄目だね!!」

 本気なのか冗談なのかわからない大声を上げながら、振り下ろされる爪や牙をフランジメイスで受け流しつつ、退役軍人は一撃を見舞う隙を窺う。しかし、三つの頭、尾の先の龍の顎は伊達や酔狂などではなく、本当に死角がない。向こうからの攻撃はどうにか防げてはいる、しかし、こちらの攻撃もことごとくかわされてしまう。

「うわっ!?」

 振り下ろされた鉤爪の一撃を辛うじてかわすが、一瞬火花が散ったその胸甲に、地金が見えるほどの爪痕が刻まれた。

「誰もお手なんて言ってないじゃないか!!」

 飼い犬を叱るような父親のような大声を上げながら、退役軍人はケルベロスの脇を回りこむように駆け抜けようとした瞬間、その目の前に、竜の顎が牙を剥いて飛びかかってきた。

 しかし、驚くより先に、長年の経験が沁み込んだ体が動く。急停止から右脚を振り上げ、間髪入れず石畳を踏みしめた瞬間、全身のバネと力で加速された両手持ちのフランジメイスが、フルスイングの唸りを上げる。

「そぉいっっ!!」

 渾身の一撃が竜の顎に炸裂し、鉄の扉を叩くような轟音を上げた王者の打撃の前に、竜の顎は折れ砕けた牙をまき散らしながら、カウンターで打ち返された衝撃で弾き飛ばされた後、血泡を吹きながらよろよろと鎌首を持ち上げ、警戒するように退役軍人を見おろすように睨む。

 しかし、その痛打は竜の顎の戦意を削いだ代わりに、メイスの縁刃が何枚か折れて吹っ飛び、石畳の上で甲高い音を立てて散らばった。

 そして、その反対側では、若い戦士がケルベロスに懸命に斬りかかっている。自分めがけて振り下ろされた鉤爪を、肩に担ぐように構えた剣の鎬で受け流し、手首の軸で翻す勢いのまま切っ先をケルベロスの肩口に叩きつける。しかし、返しが不十分なまま繰り出された斬撃は、その針金のような強靭な毛皮を幾ぶんか削っただけで、さした痛痒も与えられない。

 最初の会敵の時と違い、今度は明確な敵意を持って襲い掛かる牙や鉤爪に、戦士は必死に剣を振るって応戦するが、絶対的に技量が足りない。その一撃一撃が重く強烈な打撃となり、受け流しきれなかった衝撃が、確実にその体力を消耗させていく。

 腕が痺れ、指に力が入らなくなる。それでも、必死に剣を翻し、牙を鉤爪を、弾き、受け流す。鎬には無数の傷跡が刻まれ、刃こぼれは限界に達しつつある。

「GUWOOOOOOOOOOO!!」

 弱った得物を叩き潰そうとするかのように、若い戦士の頭上に鉤爪が振り下ろされる。やられる、そう思った瞬間、咄嗟に翻った手首が剣を盾のように掲げ、鉤爪がその刀身の上を滑り降りた。そして、獲物を仕留めそこなった鉤爪が石畳を叩くと同時に、目の前でがら空きになった左の狼頭。

「GUWON!?」

 全身の筋力とバネを総動員して、ケルベロスの顎下を貫かんと突き上げた切っ先。しかし、それは狙いが反れ、片方の耳を貫き引きちぎるように切断した。

「GUWOOOOOOOOOOO!!」

 思いもしなかった反撃に、怒りの咆哮を上げるケルベロス。そして、再びその牙が若い戦士に襲い掛かろうとしたその時、滑り込むように駆け寄った退役軍人の振るう渾身の一撃が、ケルベロスの前足を叩き潰さんとばかりに振り下ろされた。

「GYAN!?」

 分厚い毛皮にも、強靭な筋肉にも覆われていない箇所への一撃に、ケルベロスは悲鳴じみた咆哮を上げる。しかし、それがすぐさま怒号混じりの咆哮に戻るのは、そう時間はかからなかった。

「GUUWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!」

 青銅の塊を引き裂くような、絶叫にも似た咆哮が鎧や兜をびりびりと震わせる。それは鼓膜を貫き頭蓋を粉砕するような衝撃となって襲い掛かり、戦士と退役軍人の全身を硬直させた。

「危ない!!」

 いち早く動いた退役軍人の声と共に突き飛ばされ、若い戦士は吹っ飛ぶように転がる。そして、彼の代わりに、退役軍人の左腕に据えられた小盾に四本の鍵爪の痕が刻まれた。

「固まってちゃ駄目だ、挟み込むよ!」

「は、はい!!」

 猛り狂うケルベロスの前に、退役軍人は嵐のように繰り出されてくる牙や鉤爪を、フランジメイスで打ち返しながら懸命に防戦する。そして、若い戦士も、油断なく剣を掲げながら反対側に回り込み、斬りつける隙を必死に探す。

 ケルベロスをを挟撃するふたりは、その鼻面や関節、足元に一撃を打ち込むが、急所とは程遠い箇所への痛痒は、この魔獣の怒りを加速させるだけ。そして、あまりにも足りない装備と戦力。このままでは一党の全滅はもはや必至。

「もはや、これまでかな」

「先生!?」

 思いもしなかった退役軍人の言葉に、若い戦士の顔に動揺が走る。

「約束はしたんだけどねぇ………少し、甘く見過ぎていたようだね」

 そうつぶやくと、退役軍人はフランジメイスを帯革の留め具に納め、小盾の裏に潜ませていたフリントロックを引き抜いた。

「先生!駄目です!それは!!」

「そうはいっても、君達の命には代えられないからねぇ」

 こんなことになったのも、自分の道楽に付き合わせたようなものだ。大鼠や黒蟲程度のつもりが、いざ蓋を開ければこんな怪獣が出てきた。何が起こるかわからないから、冒険。それは、最初から目標を定めて行動する軍とは、全く別の次元。これに比べたら、いくらでも想定できる敵の奇襲や伏兵など、大した話ですらない。

 冒険を甘く見るな。

 かつて言われた言葉が蘇り、退役軍人はほろ苦い笑みを浮かべる。

「本当に、おまえの言う通りだったよ」

 ならば、その清算は自分が。退役軍人はフリントロックを構え直し、マントを翻しながら石畳を蹴ると、ケルベロスの側面に位置取るように走る。そして、左手で銃をなぞるように撃鉄を起こし、銃口の狙いを前足の付け根のやや後ろへと向けた。

 雷轟電撃、轟音と共に閃いた砲炎と硝煙が舞い上がり、撃ち放った弾丸は、吸い込まれるようにケルベロスの心臓に突き刺さった。

「UWOOOOOOOOOOOO!?」

 胸郭を、いや、体全体を揺さぶるような強烈な衝撃に、ケルベロスは驚愕の悲鳴を上げてその巨体を身じろがせる。

「まず、ひとつ」

 退役軍人は、すかさず距離をとると、落ち着き払った、そして、流れる動作で銃口に装薬と弾丸を込め直す。そして、心臓を鷲掴みにされるような痛みが全身を駆け巡った。

 まるで、さっさと弾を込め直し、早く撃て。7発全部、早く撃て、と催促するように。心臓が、肺が、頭の血管が、はちきれんばかりに脈動し始め、体と精神が耐えられるぎりぎりの痛みを与えてくる。

 契約の弾丸

 悪魔との契約、絶対の命中を約束する弾丸。そして、それは人の生命を代償にする7発の弾丸。最後の弾丸を撃ち放った時、自分か、あるいは誰かの命は、弾丸に撃ち抜かれることになる。しかし、1発だけ残すという選択肢はない。それをしたが最後、契約を反故にしたとして、悪魔は問答無用で自分の命を持っていくだろう。

 それが、呪力を提供する悪魔との契約。6発までは絶対の命中を、しかし、残りの1発は、悪魔が契約の対価としてふさわしい価値があると選んだものへ。それが、何であるかは、その弾丸が撃ち放たれるまではわからない、誰にも。

「先生!駄目です!」

「もうこれしかないんだよ、それに、ここで全滅するよりマシさ」

 必死に止める若い戦士の記憶に、あの時の酒場でのやり取りが蘇る。自分の命を代償にして絶対の命中を得るという弾丸。そして、2発目の銃声が轟く。そして一瞬だけ、すぅっと軽くなる痛み。その間に、退役軍人は装填を終わらせる。しかし、程なくして、再び痛みの脈動が始まった。

「GUWON!?」

 眉間に命中した弾丸は、分厚い毛皮を貫き、その堅牢な頭蓋に亀裂を入れる。しかし、その脳髄を破壊するまでには至らない。しかし、その強烈な衝撃に、左の狼頭は血泡を吹き白目を剥いて昏倒する。

「やはり、頭は駄目だったねぇ」

 退役軍人は、弾丸に宿る力を与えた悪魔に対して、わざとらしく呆れたようにぼやく。

「当たりはしても、仕留められないんじゃ意味ないよ」

 不服を申し立てるようこぼしながら、銃身から火薬を流し込み、弾丸を押し矢で詰め込む。そして、装薬した火皿の火蓋を閉じ次の撃発に備える。相当訓練を重ねたものでなければ為しえない、淀みなく正確な装弾。

「こうなったら、心臓狙いしかないね」

 そして轟く3発目の銃声、契約の弾丸は、猛り駆け回るその巨体を追うように飛び、再びその心臓にめり込み、その中の血液を激しくかき回した。

「UWOOOOOOOOOOOO!!」

 臓腑を鷲掴みにされるような激痛に、思わず転倒したケルベロスは、三つの狼頭から血反吐を吐きながら悲鳴じみた咆哮を上げる。しかし、退役軍人も、弾丸がケルベロスに命中する度、次発を督促するように与えられる、突き刺すようにも握り潰すようにも感じる胸痛に、思わず胸甲を押さえながら膝をついた。

「あいたたた……覚悟はしていても、流石に辛いねぇ……」

 口の中に血の味が広がり、こめかみが脈動するように痛む。

「これじゃあ、7発撃つ前に、私が倒れるんじゃないのかい」

 ふうふうと息をつきながら立ち上がる退役軍人は、肩で息をしながら再び弾丸を込め直す。時折目がかすむのは、10年ほど前から顕著になってきた老眼のせいだけではない。

 ケルベロスに撃ち込んだ銃弾は、1発が左の頭に。しかし、これは昏倒させるのが精一杯。そのうち目を覚ますだろう。そして、2発はその心臓に突き刺さっている。弾丸の鉛に混ぜた、破邪顕正の一撃を与える真銀の効果もあるのだろう。今や、見てわかるほど弱り始めている。

 冥王の忠実な番犬を邪悪と言うつもりはないが、それでも尋常でない損傷を与えている。残りの弾丸は後4発、残り3発でケルベロスを沈黙させられなければ、もう後はない。計算違いではない、そして、最後の1発を撃たないという選択肢もない。

 装填するたびに、撃発するたびに、急かすように全身を苛む痛みは、契約を反故にした途端、一気に全身の血管を破り、心臓を破裂させるだろう。そして、最後の1発が何に当たるか。自分か、獲物か、あるいは、一番大切にしている人間か。それは、その瞬間まで、誰にもわからない。

「こんなことなら、あの時撃っとけばよかったねぇ」

 大義そうに肩で息をしながらも、やがて、思い直したように背筋を伸ばす。

「いや、違うかな」

 かすむ視界に映る、ケルベロスの注意をそらそうとするように、懸命に剣を振るう若い戦士。信じられないものを見るような目でこちらを見る巡礼尼僧。そして、気を失ったまま、まだ目を覚まさない半闇狩人。いや、今は目を覚まさないほうがいいのかもしれない。彼女にとって、辛いものを見せてしまうだろうから。

「今が、これの最高の使い時さ」

 そして、迷いなく引き金を引き、4発目の銃声を轟かせた。

 

 

 血反吐を吐き、咳き込みながら唸るケルベロス。心臓にめり込んだ契約の弾丸は、徐々に、そして確実に魔獣の命を削っていく。しかし、退役軍人自身も、全身を苛む激痛に呼吸が荒くなる。そして、突然その場にしゃがみこんだ瞬間、先ほどまで彼の頭があった場所を、錫杖の一撃がうなりを上げて振り抜けた。

「いきなりなにをするんだい、危ないじゃないか」

 素早く地を蹴って転がるように距離を空けた後、寝起きの中年男のように大儀そうに立ち上がった退役軍人は、背後から錫杖の一撃を見舞ってきた巡礼尼僧に抗議の声を上げた。

「これ以上、それを使わせるわけにはまいりませんよ、黒騎士様」

「おやおや、心配してくれるのかい?」

 相変わらず、何を莫迦なことを。巡礼尼僧の眉が一瞬吊り上がり、構える錫杖に明確な敵意がこもる。あの時酒場で聞いた話、冗談なのか本気なのか、しかし、注意しておくに越したことはないと思っていた。

 しかし、それがここまであのケルベロスを追い詰めるとは。先ほどまでの凶暴さが鈍り、時折せき込むように血反吐を吐き散らしている姿に、巡礼尼僧はぎりと歯噛みする。

「先生の邪魔をするな!」

 駆け付けた若い戦士が間に割って入ると、巡礼尼僧を牽制するように剣を構える。その程度の技量で何ができる、そう言わんばかりに小さく鼻を鳴らす巡礼尼僧。

 もはや刃は全て潰され、折れていないのが不思議なほどの剣の傷み。しかし、切っ先だけはまだ鋭利さを残している。自分も、この剣も、まだ戦える。その刀身は上下左右の打撃に備え、切っ先は隙あらばいつでも繰り出せるように機をうかがう。

「そこで、大人しくしているんだ」

 相手は銅等級、明らかに格上の相手に自分の剣が通用するか。しかし、勝てないまでも、時間を作る。流れは自分達に向き始めている、今まで動きを見せなかった彼女が、こうして妨害に動いたのが何よりの証左。

「先生の、邪魔はさせない」

 強固な意志と覚悟を宿し、若い戦士は巡礼尼僧の動きを牽制するように、油断なくその一挙手一投足全てを視界に納める。そして、その背後で、5発目の銃声が轟いた。

 

 

「う………」

 目を覚ました時、首筋の痛みと、予想外に明るい視界に顔をしかめる。しかし、目の前の光景を認識した瞬間、半闇狩人は首の痛みも忘れて跳び起きた。

 師が、三つ首の狼と戦っている。

 戦士が、巡礼尼僧に剣を向けている。

 師の手には、あの時酒場で見た『鉄砲』が握られている。

 落雷のような音と同時に、怪物の毛皮が爆ぜ、悲鳴が上がる。

 どうして、なぜ、こんなことに?

 まだ自分は夢を見ているのだろうか、まったく想像もしていなかった事態が繰り広げられている様に、半闇狩人は呆けたようにその光景を眺め続ける。

「まいったね、まさか、これだけ撃っても倒れないなんてねぇ」

 未だ猛り狂うケルベロスは、辛うじて意識を保っている真ん中の頭で敵の姿を捉え、その牙を剥く。左の頭に1発、その心臓には、既に5発の弾丸が撃ち込まれ、鼓動が乱れ破裂寸前。右側の頭も、朦朧とした様子で血泡を吹いている。

 それでもまだ、地獄の番犬としての矜持を示さんとするかのように、ケルベロスはその四肢と鈎で石畳を砕かんばかりに踏み締め続ける。

「さて、最後の一発。これが私の心臓を砕くか、君の心臓を砕くか。ひとつ、勝負と行こうじゃないか」

 彼女の耳に、死を覚悟したような師の呟きがはっきりと届き聞こえた瞬間、全身がぞわりと粟立った。装填し終えたフリントロックを静かに構え、ケルベロスもまた、血走った目で飛びかかる隙を伺うように姿勢を低くする。

 

 最後の一発

 だめだ

 あの弾丸を放ってはいけない

 

 鉄砲ごとあの弾を壊す、半闇狩人は心の中で師に詫びながら、傍らに落ちていた短弓を拾う。そして、迷いなく選んだのは、錐のように鋭い丸根先細の鏃(やじり)。鎧兜を貫く徹甲の矢、一番速く一番硬い矢を選んだ、あとは、この矢に全ての力を乗せるだけ。半闇狩人は、つがえたこの矢が一番早く飛ぶように、今まで半分しか引けていなかった弦を、渾身の力で引き絞る。

「うっ・・・・・・うあぁぁぁぁっっ……!」

 父と共に拵えた時、この弦が最後まで引けたら一人前。そう言われた短弓。そして今、限界まで引き絞る弓弦。今まで、ここまで引き絞ったことなどなかった弦が、ぎりぎりとうなりを上げ、背中が、肩が、胸が、全ての筋肉が悲鳴をあげ、奥歯が軋む。それでも、懸命に弦を引き続け、退役軍人の一挙手一投足を凝視して、撃発の瞬間を待ち構えるように狙いを定める。

 鉄砲の火がついた後なら、約束どおり撃ったことになる。その後で邪魔が入っても、それはお師匠様のせいなんかじゃない。できるかなんて考えない、やるんだ、自分が、やるんだ。もう、それしかないんだ。

 短弓につがえた最速の矢、その鋭利な鏃の向かう先。全身の力と全ての精神力を集中する、そして、眠っていたなにかを叩き起こすかのような未曽有の過負荷。それに応じるように、半闇狩人の体の奥底で、まさにこの時を待つように眠り潜んでいた闇人の血が、ぞわり、とざわめきだした。

 金貨に落とした一滴のインクのように丸い瞳が完全に縮む、そして、再び見開かれた瞳は純粋な闇人のような縦長の瞳に形を変え、その虹彩は翠玉のような光を放つ。

 刹那、耳に、肌に、目に、ありとあらゆる音が、流れが、光がなだれ込み、頭の中で、体の中で、濁流のように渦巻き、反響し、叩きのめし合い始め、ありとあらゆる感覚が緩急様々なうねりとなって、半闇狩人の全身を翻弄する。

 薄暗かった景色が突然真昼のように明るくなる。生ぬるい匂いを伴った空気が粘液のように動くのが見える。水の流れる音、空気が這いずりまわる音、鼻につく臭気。時の流れが緩やかになる感覚と共に、それら全てが目に映る波の流れとなって、頭の中身をかき混ぜ、全身をばらばらにしてしまいそうな衝撃となって頭蓋の中を駆け巡る。

 それでも

 それでも

 必死に耐える、そして、矢をつがえる指は決して緩めない。その時、退役軍人が地を蹴りケルベロスに向かって突進する。弾が反れる前に当てようとするかのように、零距離射撃を敢行しようと突き出したその手の先には、最後の弾丸を込めたフリントロック。

 刹那、頭を串刺しにするような轟音と熱。それがゆっくりと視界を揺らめかせ、一粒の弾丸が、炎と共にゆっくりと鉄砲の中を進んでいくのを感じ取る。

 

 笑っている

 嗤っている

 哂っている

 へらへらと

 げらげらと

 にやにやと

 悪意の塊

 いつか村で見たそれとは比べ物にならない

 決してこの世に存在させてはいけない

 悪意のカタマリ

 

 いらない

 おまえなんか、消えてなくなれ

 

 自分の呼吸が、自分の心音が、割れ鐘のように鳴り響く。眼の奥が痛み、涙が止まらない。それでも、やるんだ。自分が、やるんだ。半闇狩人は、ありとあらゆる感覚の濁流の中で、憎悪にも似た視線で鉄砲を凝視する。そして、限界に達した指先が、その弦を放そうとしたその時。

 

 それじゃあ、駄目だ

 ふわり、と、暖かい空気が指先を包む。

 痺れ、引きつった指にじんわりと感覚が帰ってくる。

 矢で射るんじゃない、心で射るんだ

 懐かしい声、懐かしい匂い。そうだった、すっかり、忘れてた。

 だいじょうぶ、おまえならできる

 そっと瞼をなでるような、暖かい空気。ふわりと、涙が止まる。

 ほら、もう、だいじょうぶだから。

 暖かい声、覚えていないのに、覚えている。

 いつかその胸に抱かれた、おぼろげな暖かい匂い。

 

 蘇った感覚、蘇った視界。そして、感覚の揺らぎが収束集中し、集まった先は鋭利な鏃の先。身体の、感覚の、ありとあらゆるものと融合した鏃の先が、まるで自分の指を伸ばしたように感じられる。手を伸ばしたように感じられる。

 そして、乱雑に散らかった紙が、その角を全て揃え整ったような感覚。あれだけ響き渡り、鼓膜を叩き続けた音が止んだ。頭の中をかき回し、揺さぶるような光や匂いも止んだ。鏃の先が自分の指先となって弾丸を捉え、つまみとったような感触が伝わる。そして、弾丸を真っ直ぐに穿ち、貫き、砕く。それに至る、見えるはずがない矢の軌跡が、導くようにはっきりと見えた。

 つかまえた。

 その刹那、黒檀のような指が抑える矢を解き放つ。ひゅん、という短い音。乱れなく、滑らかに、軽やかに空を切る音。そして、銃口と毛皮の間に浮かぶ弾丸を捉えた矢は、楊枝で葡萄の実を刺すように、ぷつりと打ち貫いた。

 その刹那、断末魔の悲鳴にも呪詛の罵声にも似た耳障りな音が耳朶を打つ。そして、誰かの心臓めがけて飛ぼうとしていた弾丸は、刺し貫いた矢ごと彼方の方向へと弾き飛ばされた。

 まだだ、まだ終わってない。半闇狩人は、激しくこみ上げてくる嘔吐感を抑えつけ、全力で走り出した。

 

 

 最後の銃弾を放ったはず、しかし、ケルベロスは倒れない。だが、自分の左胸が爆ぜる感覚もない。では、他の誰かに?

 あの子は、無事だろうか。

 朦朧とする意識の中、最後に愛弟子の無事を案じながら、退役軍人の意識が遠くなる。そして、その頭をケルベロスが噛み砕こうとしたその刹那、疾風のように体当たりしてきた半闇狩人に突き飛ばされた。そして、ふたり一緒になってもんどり打ち、石畳の上に転がり倒れたその真上を、怒気とともにかすめていく牙が打ち鳴らされる音。

「――――――ごめんなさい」

 絞り出すような謝罪の声、退役軍人が朦朧とした視界に捉えたのは、自分をかばうように、両手を広げて真っ直ぐにケルベロスをみあげる半闇狩人の小さな背中。

「ごめんなさい……ごめんなさい………!」

 懸命に謝罪の言葉を繰り返す半闇狩人、がちがちと鳴り続ける歯の根は合わず、恐怖で抑えを失った下半身は漏れた小水で濡れ、こらえきれない涙があふれ落ちる。それでも、彼女は師の前から逃げることはしない。

「食べるなら、わたしを食べてください!食べ物もみんなあげます!だから、このひとだけは、このひとだけは食べないでくださいっ……お願いです!……お願いです!!」

 背負っていた背嚢をかなぐり捨て、震える手で革袋に詰め込んだ食料を自分の前に放り出した半闇狩人を、ケルベロスは怒りの息を吐き散らしながら警戒し、威嚇するように唸る。

『GORUUUUUUU…………!』

 腹の底まで響くような唸り声に、半闇狩人は恐怖で思わず固く目を閉じる。しかし、それでも、震えるその足は、その体は、師を守るように決してその前から動かない。そして、半闇狩人は、その牙が、その爪が、自分を引き裂く瞬間を覚悟する。

 

 さようなら、お師匠様。

 あなたに会えて、わたしは

 しあわせでした。

 

 覚悟と感謝を込めて、心の中で師へと送った言葉。しかし、ついぞその最期の瞬間は訪れない。恐る恐る目を開いた半闇狩人の目に映ったのは、自分が差し出した革袋の中からパンケーキの包みを引っ張りだし、覚醒した左右の狼頭と共に、一口一口を惜しむように、舐めるように味わっているケルベロスの姿。

「あ……」

 獣人女給が差し入れてくれたパンケーキ、半闇狩人は、無意識のうちに雑嚢を探り、蜂蜜の入った瓶を取り出すと、ケルベロスを刺激しないように膝をすり、そろり、そろりと近づきなから小瓶の栓を抜き、中の蜂蜜をパンケーキの上に全部ふりかけた。

 少しでもこの魔獣が満足するように、少しでもその食欲を満たせるように。惜しいとか、もったいないなどとは、みじんも思わなかった。

 三つの狼頭で用心深くその動きを見守るように、食事を中断していたケルベロスは、竜の顎の尾を軽やかに振ると、残りのパンケーキを分け合うように全て平らげた。

 次は、自分の番。

 お師匠様にもらった命、だから、今ここで、お師匠様にお返しする。

 既に覚悟を決めた半闇狩人は、ケルベロスにかしずくように身を捧げ、静かに頭を下げる。そんな彼女の頬を、かすかに蜂蜜の匂いがする大きな舌がひとなめする。さらに固く目を閉じた半闇狩人の耳に、ゆっくりと遠ざかっていく足音が聞こえた。

「―――――――――?」

 もう一度目を開けたその先には、暗闇に続く大広間の門の奥、陽炎のように立ち昇る紫色の炎の向こう側にゆっくりと消えていくケルベロスの姿。

 そして、再び、地下大広間は静寂に包まれた。

 


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