下水道の獣   作:あらほしねこ

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禁じられた遊び

 おとうさま

 おとうさま

 あなた

 あなた

 御館様

 御館様

 ぼっちゃま

 ぼっちゃま

 お師匠様

 お師匠様――――――!

 

 懐かしい声、暖かい声が呼ぶ。優しく包み込む穏やかな光、それに呼び起こされるように目を開けると、そこには、愛すべき愛弟子の顔。とりすがるように頬を押し付け、わあわあと泣き続ける半闇狩人の姿、その向こうに落ちているのは、鏃に撃ち穿たれた契約の弾丸。

「そうだったのか……」

 すべてを理解した退役軍人は、未だ痛みに疼く体をどうにか起き上がらせると、愛弟子の肩を抱きしめた。

「君が……助けてくれたんだね」

 退役軍人は、慈しむようにその銀色の髪をなでる。

「ありがとう……本当にありがとう……!」

 退役軍人が放った最後の弾丸、その代償に選んだもの。それは、彼自身の心臓か、それとも、愛弟子の心臓か。いずれにしても、悪魔の呪詛を鋳潰した契約の弾丸は、半闇狩人の乾坤一擲の矢の前に撃ち落された。

 そして、退役軍人の目の前で、鏃に撃ち貫かれた弾丸は、抉り出された心臓のように、一度、ぶるりと脈動すると、粉々に砕け散った。

「使わないって言ったじゃないですか!使わないって言ったじゃないですかぁっ!!」

「ああ、ごめんよ、本当に、ごめんよ」

 悲痛な声と共にぽかぽかと胸甲を叩き、再びすがりついて泣き続ける愛弟子の姿に、退役軍人は素直に自らの非を詫びる。

「本当にごめんよ、私が悪かったから、どうか、もう泣かないでおくれ」

 どこまでも健気な我が愛弟子、退役軍人は、心の底から詫び、心の底から感謝する。

「さあ、私にはまだやらなけりゃならないことがあるからね」

 微かに抵抗する半闇狩人をなだめながら、ゆっくりと彼女の腕を解き、退役軍人は、未だ抗議の悲鳴を上げる全身を奮い起こすように立ち上がった。

「あんまり気が進まないんだけどね」

 気楽な言葉と裏腹に、その表情は覚悟と決意に引き締まる。

「悪いことをしたら、叱らないといけないからねぇ」

 

 

「もう少しで……もう少しで、あの子の魂をつれてこれたのに……!」

 真っ青な顔でつぶやく巡礼尼僧、しかし、その目は、狂気に満ちた怒りで歪む。

 意味がわからない、あの男が最後の弾丸を撃ち、目を覚ましたあの子が矢を射たと思えば、あの忌々しい弾丸は撃ち落とされ、あの男を噛み殺すはずだったケルベロスは、お菓子を食べて帰ってしまった。

 一瞬でこれだけの光景が現れて消えた。こんな莫迦な話がどこにある、こんなくだらない喜劇にもならないような話のために、自分がこれまでかけてきたものが、全て無駄になった、全てぶち壊しになった。

 こんな、こんな莫迦な話がどこにある。

「番犬が追い返された、もう、通り抜けられない……!」

 わなわなと震える手は、血の気が引くほどに強く錫杖を握りしめる。飢えと渇きで縛り、従わせていたケルベロス。しかし、よりによって、冥府の魔獣が最も愛する甘味でその飢えと渇きを満たされてしまった。そうなってしまったら、もう正気に戻った魔獣を再び呼び戻すことは容易ではない。まだ、弟の魂を探し当ててもいないのに。

 こんな、こんなくだらないことで。巡礼尼僧は、まったく思いもしなかった結末を前に、その細い腹におさまる臓腑が煮えくり返るような怒りが沸き上がる。

「よくも……よくも・・・・・・!」

 巡礼尼僧は、怒りと憎悪の入り混じった息を吐き出すと、振りかざした錫杖を水平に構える。そして、呟いたのは魔力付与の呪文。頭の中に、神がうるさく何かを訴えかけてくる。さっきからずっとそうだ、ごちゃごちゃと、ぎゃあぎゃあと。だが、知ったことか。お前が今まで一体何をしてくれた、誰も、何も、救えないくせに、救ってくれないくせに。

「雷与(エンチャント・サンダー)」

 巡礼尼僧の詠唱と共に、錫杖の杖頭が紫電の如き光を放ち始める。その瞬間、光の矛と化した錫杖を旋風のように振りかざし、唸りを上げる雷撃のような一撃を退役軍人めがけて繰り出した。

 地底の仄暗い空間に一瞬飛び散る電光、錫杖の一撃を左腕の小盾で受け流した退役軍人は、それでもなお、巡礼尼僧から目をそらすことなく対峙する。さっきよりは随分ましになったとは言え、呪いの残渣か、呪いを成就できなかった悪魔の報復か、未だ全身を激痛が駆け巡る。しかし、なにするものぞ。自分の痛みに比べれば、彼女の痛み、苦しみはいかほどのものか。

(私が邪魔したようなものなんだ)

 退役軍人は、そう自分に言い聞かせると、精一杯の気力と見栄を振り絞って胸を張る。血の匂いのする鼻の奥、血の味がする口の中、今にも耳から脳みそが噴き出しそうな圧迫感を伴う頭痛。胸の中を、腹の中を焼け火箸でかき回すような疼痛。それでも、それら全てを意識の隅に押しやる。

(私が、なんとかしなけりゃあね)

 確固たる決意とともに、退役軍人は、紫電の光を帯びる錫杖を手に、見たことのないような目で自分を見据えている巡礼尼僧の前へと歩みを進める。

「またやりなおしだ……また、最初から……っ!」

「次はないよ、もう、こんなことは許さないからね」

 退役軍人は、穏やかに言い返すと、自分をかばうように駆け寄ってきた若い戦士に話しかけながら、彼の構える剣を指さす。

「君、すまないけど、少し剣を貸してくれないかい?」

「は……はい!どうぞ、先生!」

「ありがとう、お借りするよ」

 とうとう、あの剣技を。退役軍人の思いがけない言葉と、湧き上がる期待に若い戦士は鼓動を高鳴らせる。そして、戦士から剣を借り、その刃こぼれが酷く、傷み切った鋼の剣を掲げる。

「すまないとは思うけれどね、もう諦めてはもらえないのかな?」

 穏やかに問いかけた退役軍人に対する巡礼尼僧の返答は、憎悪に歪んだ顔の中に光る緑色の目。かつて見た、そんな見覚えのある光景に、退役軍人は用意していた言葉が虚しく消えていくのを感じる。

「――――――そうか」

 退役軍人は、寂しそうにため息を吐き出し、まっすぐに彼女を見る。

「残念だよ」

 そして、右手に提げた剣の感触を確かめるように握りしめ、一言、魔力付与の呪文を頭の中で組み立てる。後は詠唱するだけ。しかし、体力はもう限界、果たしてこんな有様でもつだろうか、そんな弱気な考えが一瞬頭をよぎる。

(なにを言ってるんだい、あの時に比べたら、ぜんぜん『まし』じゃあないか)

 退役軍人は、そんな逃げ腰の自分を叱り、笑い飛ばす。相手は銅等級、在野の冒険者としていうならば、熟練された技量をもつと考えて構わない存在。一方で、こちらは気力体力も限界に近い、若く、そして銅等級である冒険者相手に、どこまで戦えるか。

(なんでもかんでも、歳のせいにするのはいい加減やめたまえよ)

 頭の中で自分を鼓舞し、叱咤してみる。しかし、そうは言っても、辛いものは辛い。それでも、できるかできないかではない、やるのだ。自分が、やるのだ。

「――――――炎与(エンチャント・ファイア)」

 何十年ぶりかに唱える、魔力付与の呪文。突然の無茶な要求に、心臓が抗議するかのように一瞬大きく脈打ち、頭が爆発してしまいそうな激痛が襲う。それでも、歯を食いしばり、懸命に、懸命に、退役軍人は意識を繋ぎ止めようと懸命に呼吸を続ける。

 そして、退役軍人の握る傷だらけの剣は、炎を凝縮し鎺(はばき)から切っ先へと光を帯び始め、その刀身を深紅に染めあげていく。大気を紅い鮮烈な光で照らし上げる光り輝く刀身、それはさながら、光の剣。

 久しぶりに詠唱した魔法、消耗しきった体には耐え難い負担。燃え上がるような肺へと空気を送り続けるため、繰り返す呼吸は面頬の中でこもり、喘息を患った者のように低く響き渡る。

「もう一度聞くよ、諦めては、もらえないのかい?」

 素知らぬ顔で苦痛を覆い隠し、巡礼尼僧に向かっていつもの調子で問いかける。最後通牒のようにも、懇願のようにも聞こえる退役軍人の声。しかし、彼女の回答は、唸りをあげて繰り出された紫電の一撃。

「仕方のないひとだねぇ、まったく」

 胸板めがけて繰り出された錫杖の一撃を、赤く光る刀身が翻りすくい上げるように受け流す。それでも、空間を翻り、なおも稲妻のように繰り出される錫杖の連撃を、退役軍人は取り乱すことなく軽やかな剣さばきで受け止め、受け流し続ける。

 紅く閃く刀身が、虚空を踊るような軌跡で光の残像を残し、それはまるで、演武の舞のように洗練された、鮮烈な軌跡を描き上げる。

 深紅と紫電の光がめまぐるしく空中に踊る、退役軍人の喉元に向けて鋭く撃ち込まれた一撃が深紅の剣に弾かれるが、杖頭の遊環が退役軍人の兜を掠め、サレットヘルムの表面から火花が飛び散る。兜下を通してでさえ、頭蓋を揺さぶるような強烈な衝撃に、一瞬本気で意識が飛びそうになったが、意地と根性でどうにかつなぎ留めた。

「君、頭はよしなさい、頭は。ものすごく響くんだよ」

「うるさい!!」

 こんな時にまで、いつもの軽口。巡礼尼僧は、より一層目を釣り上げ、怒りのままに打ちかかるが、退役軍人も正確な太刀筋で受け止め、魔力同士の斥力で一撃一撃を弾き返していく。

 ほとんどその場から足を動かさず、虫か何かを追い払うかのような片手で無造作に振るう剣さばきに、巡礼尼僧の怒りと苛立ちが加速する。しかし、それも退役軍人がそう仕掛けたこと。

(惜しいね、でも、冷静になられたら、おしまいだからねぇ)

 突きが、打ち込みが、横払いが、千変万化の組み合わせで襲い掛かってくる。こんな時でもなければ、見惚れるような杖捌き、そして立ち回り。しかし、稲妻のような閃光とともに繰り出される錫杖は、彼女自身の怒りの感情に絡み取られ、それが打ち込みの鋭さを鈍らせ、どうにかしのぐことができている。

 それでも、間合いの違いと、元からの高い技量から繰り出される暴風のような連撃は、一撃でもまともに喰らえば、電撃の魔力を帯びた錫杖が自分の肉や骨を粉砕してしまうだろう。

 もはや立っているだけでも精一杯、鉛のように重く、疼痛が響く両足で、こうして立っていられるだけでも、自分で自分を褒めたくなる。

 しかし、そんなことを言っている場合ではない。場合では、無いのだ。もっと大事な、大切なことに始末をつけなければならない。それは、自分の責任でなさねばならない。事の善し悪しはどうあれ、彼女の希望を自分が踏み潰したのは事実なのだから。

「君の気持ちは理解できるつもりだよ、大切な人を亡くした辛さや寂しさは、他人の言葉じゃどうにもならないってこともね」

 目の前でめまぐるしく軌道を変える錫杖を迎え撃ち、受け流しながら、退役軍人はなおも巡礼尼僧に言葉をかけ続ける。かけがえのない家族であった弟を失った気持ち、それは痛いほどわかる。

「うるさい!お前に何がわかる!お前が邪魔さえしなければあの子は帰ってくるんだ!!」

 そして、彼女の言い分であれば、弟は魂を取り戻し、この世に帰ってくるはずだったという。

(そんなわけ、ないじゃあないか)

 退役軍人は、なおも激しく打ち込まれる錫杖の打擲の隙間から、祭壇に横たわる巡礼尼僧の弟の姿を見る。血の気どころか生気すらなく、その体は、外法によって組み上げられた偽りの血肉のためか、濁った瑪瑙のような蛇紋すら浮かび上がる。

「A……U……AAAA……」

 開いた口からは、だらしなく液体が流れ続け、質の悪い大理石を埋め込んだような目は、ぼんやりと開かれているが、もはやどこにも焦点を結んではいない。

(もう、これ以上彼を苦しませるのはやめなさい)

 偽りの肉体に、むりやり押し込めようとした魂。彼女は、地獄の番犬が冥府へと帰っていったことで、御破算になったと思っている。だが、本当にそうだろうか。

(よく見なさい、彼が、苦しんでいるじゃないか)

 もはや、怒りと憎悪で曇りきった彼女の目には、もうそれすらも映らない、気づかない。

(彼が、泣いているじゃないか)

 半闇狩人にしても、若い戦士にしても、今この場にいる人間で、彼女の気持ちが推し量れないものがいるだろうか。いや、彼らだけではない、誰だって大切なものを失い、それに向き合って、辛さ、痛さ、悲しさ、それらと懸命に折り合いをつけて、それでも前に進もうとあがいてきた。

 去りゆく人、残された人、どちらが辛いか、どちらが苦しいか、そんなことは論じるだけ無意味なこと。ただひとつ確かなことは、残されたものは、今を生きていかなければならない、ただそれだけ。

「ねえ、ひとつだけ言わせてもらうよ、尼僧殿。君は、あの弟くんの姿を見て、なにも思う所はないのかい」

「なにを………っ!?」

 退役軍人の一言に、錫杖の動きにほんの一瞬迷いが生じる。その刹那を逃すことなく、退役軍人の剣は錫杖の杖頭を抑えつけた。互いの武器が帯びた魔力の斥力で激しい火花を散らし、溶接してしまったかのようにびくとも動かない力に、巡礼尼僧の振るう錫杖は動きを封じられる。

「私はね」

 錫杖を押さえ込みながら、退役軍人は苦しい呼吸を懸命に整えつつ巡礼尼僧に話しかける。面頬の奥で響く呼吸音が、さらに高くなる。

「軍団を裏切り、家内を死に追いやった者を許さなかった。だから、どこまでも追いかけて、八つ裂きにしたよ」

 およそ、この男の口から聞くとは思わなかった、酸鼻な言葉。しかし、その言葉も、態度も、いつもと変わらぬ、優しく穏やかなもの。

「私はね、兄さんを殺したんだよ」

 それすらもまるで、昔を懐かしむような穏やかな声に、巡礼尼僧に戸惑いと動揺の色が浮かぶ。

「とても優しい兄さんだったんだ、少し体は弱かったけれど、それでも、子供のころからいつも一緒だった。沢山遊んでもらったし、いろんなことを教えてくれたよ。冒険者だった家内との結婚だって、家族みんなが反対しても、兄さんだけは味方になってくれたんだ」

 懐かしい日々、暖かく、優しい思い出をなぞるように、退役軍人の言葉は、いつになく穏やかになる。

「それなのに」

 汲んできたばかりの水の上に落とした、一滴のインクのような陰りと闇をはらんだため息。

「魔神王の力に絶望し、祈らぬものの外法に魅入られた。それならいっそ、本当は私を嫌いだったから、憎んでいたから、そんな理由だったらどんなに良かったことか」

 退役軍人の声は、どこまでも深く、穏やかに語り続ける。

「あんなに優しかったひとが、あんなに愉快だったひとが、あんなに聡明だったひとが、人外の身になり果てて、人の心も失って、そんな姿なんか、見たくはなかったよ」

 そして、退役軍人は、開いた左手で、兜を、面頬を、兜下を、そして、紅い色眼鏡を外し、うち捨てていく。その顔は、血の気が失せ蝋燭のように蒼白となり、白目を塗り潰す紅い目だけが、強い意志の火を示すように光る。

「君は、いつか治癒の魔法や奇跡で、傷痕を治さないのかって聞いたね?でもね、これは、兄さんからもらった最後の贈り物なんだよ。消せるわけないじゃないか、治せるわけないじゃないか。

 だってこれは、兄さんがこの世に存在していた証なんだから。忘れちゃいけない、無かったことにしちゃいけないものなんだよ」

 顔中を覆う火傷の痕、創傷、そして、満ちた血の引かない、紅く染まった目。それでも、退役軍人の表情は、どこまでも優しく、穏やかにあり続ける。

「私だってね、今でもまだ思い出にすがっているんだ。だから、君に説教できる筋合いじゃないのはよっくわかっているよ。でもね、そのために未来ある若い子たちを犠牲にした事だけは―――」

 気持ちを固めるように一瞬途切れた言葉、そして、退役軍人は紅く染まる眼で真っ直ぐに巡礼尼僧を見据えた。

「許すわけには、いかないよ」

 瞬時に踏み込んだ爪先、そして、バネのように跳ね上がる手首。力の均衡を引き込み崩すように巻き上げた切っ先と共に振り上げた剣に弾かれ、大きく跳ね上がる錫杖の勢いで巡礼尼僧の足元が僅かに傾ぐ。そこへすかさず左右から打ちのめすような連撃に、錫杖が激しく振動するように暴れ、凄まじい火花と共にその手から弾け飛んだ。

「ぅあっっ!?」

 紅い光の帯を引き、力と技の剣が踊る。そして、衝撃の余波は戦意を喪失しかけた彼女の足をよろめかせ、そのまましりもちをつくように石畳の上に転ばせた。

「それでもね、私は君を嫌いにはなれないんだよ」

 大きなため息と共に吐き出された言葉。それは安堵か、苦痛の吐露か。しかし、呆然と石畳にへたり込む巡礼尼僧を前にして、退役軍人はふと振り向くと、石畳に手をつき、子供のように泣きじゃくっている半闇狩人の姿に、心底辛そうに表情を曇らせた。

(ああ、ごめんよ)

 退役軍人は、心の中で半闇狩人に詫びる。こんな有様、本当は見せたくなかった。あの子が、心から信頼していたひとが、実の姉のように慕っていたひとが、怒りと憎しみに駆られるままその色に塗り潰されている。そして、それを容赦なく打ち倒したのは、他ならぬ自分。

 尼僧殿だけじゃない、自分は、あの子の心も、思いも踏みにじってしまった。結局、自分はこういう生き方しかできないんだろうか。誰かを悲しませて、誰かを怒らせて、誰かを絶望させて。そして、誰かに憎まれて。

 やっぱり、そう簡単には人は変われやしない、ということなのかな。退役軍人は、全てを諦めたような重い嘆息を吐き出す。そして、恐怖の色に塗り潰された巡礼尼僧に目を向けた。

「君は、あの子を守ろうとしてくれたよね」

 一歩、歩み寄る退役軍人。

「ひ………っ!」

 そんな退役軍人を見上げ、巡礼尼僧はまなじりを見開き、魔物を前にした少女のように、へたり込んだまま逃げるように後ずさる。

「地下下水道で命を落とした子達を、弔ってくれたよね」

 退役軍人は、心の底から怯えている巡礼尼僧を前に、小さくため息をつく。無理もない、今の彼女には、自分が血も涙もない悪鬼に見えるだろう。そして、彼は諦めたように、思いやるように立ち止まった。

「私だって、もう一度会えるものなら、会いたいよ」

 そう言って、退役軍人は照れくさそうに笑う。

「兄さんに会えるのなら、会いたいよ。家内に会えるのなら、会いたいよ」

 そう言って、退役軍人は今にも泣きそうな顔で笑いながら、炎与の魔法を打ち消し、紅く光る刀身は、もとの鋼の剣に戻っていった。

「だから、わかるよ」

 静かに巡礼尼僧の前に膝をつき、まっすぐに彼女の目を見て言った言葉。

「私はね、やはり冒険者になってよかった、そう思っているよ」

 そういって、退役軍人は、泣いている半闇狩人を、唇を噛みしめる若い戦士を振り返り、そして、ひどく震えている巡礼尼僧に目を向ける。

「君達に会えたんだから、でなけりゃ、私は今でも失ってばかりの負け犬のままさ」

 悲嘆、後悔、感謝、およそありとあらゆる感情が入り混じったその笑顔。

「だから、私は君達に感謝してるんだ」

 退役軍人は、剣を収めるように左手に持ち替え、右の掌を胸に沿える。そして、どこまでも穏やかな笑顔で言葉を贈る。

「嫌いになんて、なれるわけないじゃないか」

 

 

 やはり、私は間違っていたの?

 冷たい石畳の上にへたり込みながら、巡礼尼僧の中で、これまでのことが浮かんでは消える。

 両親と死に別れ、歳の離れた弟とふたり。自分が、親代わりになる覚悟はあった。しかし、弟と共に、農園を営む伯父夫婦に引き取られた。それでも、決して楽ではなかった生活。来る日も来る日も、弟や従兄妹たちと肩を並べ、朝日が昇り、陽が沈むまで、畑と共に働いた。

 寺院に入ったのも、自ら口減らしになるつもりだった。どこかへ嫁ぐにしても、持参金の工面などできるはずもなく、かと言って、伯父夫婦にそれを期待することなど、これ以上の負担を強いるなど、とてもできることではなかった。

 ちがう、それは建前。本当は、農奴として一生を終わるのが嫌だった。従兄弟たちですら避けられぬ運命、それがどうして、自分達姉弟が免れるはずがあろうか。だから、弟には、必ず迎えに来るからと約束し、伯父夫婦の家を出た。

 僧侶となり、神職を務め、それでも、未だ修行の身ゆえに各地を巡礼する必要があったから、冒険者の資格も得た。冒険者として得た金は、全て伯父夫婦に送った。逃げた罪滅ぼしに、弟の居場所を守るために。

 そして、ある日寺院を訪れた冒険者から受け取った弟からの便り。どこで字を習ったのか、読みづらかったが、それでも懸命に書かれた弟の字は自分にこう伝えた。

 自分も冒険者になった。

 あの家で、粗末にされていたとは、いじめられていたとは思えない。実際、伯父夫婦も、決して裕福ではなかったが、それでも親身になって自分達姉弟の面倒を見てくれていた。従兄弟たちも、本当の兄弟のように仲良くしてくれた。

 そのことは、今でも本当に感謝している、誓って嘘はない。それでも、弟はあの家を出て自分の力で生きて行こうと決めた。それでも、仕方ないと思った自分がいたのは事実。それでも、弟からの手紙を心から楽しみにして、心の糧とした。そして、いつか会いに行こう。そう思っていた矢先のこと。

 弟が流れ着いたこの町から冒険者を介して送られた手紙は、ある日を境に途切れてしまった。初めのうちは、忙しいのかと、冒険者としてもう誰にも気兼ねすることなく、自身の力で日々を生きているのだと思っていた。

 それでも、ざわつくような予感。朝も、昼も、夜も、それはいつまでもまとわりつき続けた。そして、意を決して訪ねたこの町で、この町の地下下水道で、弟は消息を絶ったことを知った。

 何日も、何日も、地下下水道を捜し歩き、そして、ある日とうとう見つけた、僅かな骨の欠片と、ぼろきれのようになった衣服と、白磁の認識票。全部かき集めても、両手の平に乗る分しかなかった。

 間違いだと思いたかった、これは、他の誰かのものだ、そう思いたかった。そう信じたかった。しかし、白い板に刻まれた名前は、何回読み返しても、どんなに夜をまたいでも、それは他の誰かの名前になってくれることは決してなかった。

 弟は、塵芥になってしまった。

 自分が、弟を残して家を出なければ。

 自分が、冒険者にならなければ。

 自分が、

 自分が、

 どんなに考えても、どんなに後悔しても、取り返しのつかない現実。考えれば考えるほど、狂いそうになった、命すら断ちたいと思った。なのにできなかった、狂うことも、死ぬことも。

 他人の死に立ち会って、したり顔で説法をしていた自分を張り倒したくなった。いざ、自分の身に降りかかってみてわかる、その辛さ、その痛さ。両親を亡くしたあの痛みが鎌首を持ち上げて蘇り、神仏の道を修めたはずの自分の心をずたずたにした。

 当然だ、自由欲しさに逃げ出した自分には。神仏に仕えると言うことを、もっともらしい言い訳にした自分には。どうして受け止められようか、鎮めることができようか。

 まるで臓腑を全てもぎ取られてしまったかのような、どうにもならない喪失感を抱えたまま帰路についた旅路の途中で手に入れた、小さな銀の笛。それが、歯車をおかしくした。いや、自分がおかしくした。

 寺院に隠れて魔道を学び、魔術を学び、外法に手を染めた。躊躇いも迷いもなかった、今から考えれば、本当にどうかしていたとしかいいようがない。何人たりとも許されない、禁じられた遊び。ことある度にやかましく問い掛けてくる神仏の声も、無理やり聞こえないふりをした。

 機が熟し、扉の場所に選んだのは、弟が命を落とした町の地下。弟が、迷いなく還ってこれるように。そして、とうとう現世と幽世の扉を開き、その向こう側に足を踏み入れた時、冥府の門を守る番犬を目の当たりにした時、真っ先に感じたのは、恐怖ではなく希望。弟の魂を、再び明るい地上に連れ戻せるという、希望。

 地獄の番犬を欺いて、人々を欺いて、それでも、その一切に目を向けなかった、いや、反らしていた。本当はよくわかっていた。全部、全部間違っていることを。似非僧侶と神仏から誹られようが、どうでもよかった。

 それでも、病に苦しむ者に対しての奇跡は、不承不承ながらも認められたが、前より自由にはならなくなった。それでもかまわない、とさえ思った。自棄などではなく、本当にそう思っていた。

 弟さえ帰って来れば、全てを投げ出してしまっても構わないと思っていたから。そして、一縷の希望にすがり続けた、すがりたかった。そうでもしなければ、到底耐えられなかったから。そして、そうしている内に、何が正しくて、何が間違っているのかも曖昧になった。

 ふと顔を上げると、彼の肩越しに見えた、粗末な石造りの祭壇に横たわる弟。遺骨の欠片を芯にして、禁呪で組み上げたその體。ただ横たわり、うめき声をもらし、意思の光も感じられない目を虚空に向けるその姿は、動屍體とさえ言えない有様。

 

 みんな、

 みんな、無駄だったんだ。

 もう、疲れた。

 もう、やめよう

 ただ、その前に――――――

 

 唇を噛み締め、険しい覚悟を秘めた目で、巡礼尼僧は静かにその顔を上げた。足は萎え、立ち上がることができない。それでも、この詠唱を紡ぎ上げることに何の支障もない。もう、あれだけうるさかった神仏の声も聞こえない。当然だ、これだけの事をしておいて、なおも加護や慈悲をくだすことなどありえない。

 もう、何もかもに、見捨てられた。

 いらない、もうなにも。

 みんな捨ててしまおう。

『カリブンクルス―――――クレスクント―――――ヤクタ』

 火球の呪文、詠唱しきったその刹那、巡礼尼僧が掲げた両手の平に、蒼く燃え上がる炎が浮かぶ。そして、ゆっくりと炎の渦が凝縮していき、やがてそれは炎の砲弾へと変わる。およそ、神仏に仕える者が身に付けていいものではないはずの技がなす、魔術の炎を頭上に掲げる。

 それを前にしてもなお、魔術の炎に照らされてもなお、退役軍人は微動だにせず、ただ静かに巡礼尼僧を見守り続ける、そして、巡礼尼僧も、真っ直ぐに、穏やかに、自分を見守るようなその目に気付く。それは、いつもと変わらない、心ごと包み込むような、温かで穏やかな目。

「う………うぅ…………うあぁああああああああああああああああっっ!!」

 慟哭じみた叫びと同時に撃ち放たれた火球。それは、真っ直ぐに退役軍人に向かって渦を巻いて唸りを上げる。そして、彼の肩を僅かに炙るようにかすめて飛び抜けた魔術の炎は、石積みの祭壇に横たわる弟の體を包み込んだ。

「A・・・・・・AUAAAAAAAA・・・・・・」

 炎に包まれ燃え上がる體は、よろよろと起き上がるように祭壇からまろび落ちる。火にあぶられた死体がその身を縮めるのはよくあること。しかし、その體は、ぎこちなく、それでも、意思ある者のように立ち上がり、緩慢に、そして、まっすぐに歩みを刻み始めた。

 魔道の、外法の軛(くびき)を、炎が焼き払い、解き放ったかのように。

 姉の元へ、一歩、一歩。

 魂がないはずの、弟の體。それが、自分の元へと歩いてくる。

 その時、ようやく気がついた。

 あの中に、弟はいたのだ、と。

 冥府の闇の中を、どれだけ探しまわっても、歩きまわっても、ついぞ見つけられないと思っていた弟の魂。しかし、見つけられなかったのではなく、気づかなかった、見えなかっただけだったのだろう。当然だ、外法や禁呪で目が曇り、神仏の慈悲に背を向けた自分には。

 もしかしたら、初めて冥府に足を踏み入れたその時、一緒について来てくれていたのかもしれない。こんな、愚かな姉を案じてくれたのかもしれない、見かねたのかもしれない。けれども、もしそうだったとしても、それに気づけない、気づかなかった、本当に莫迦な自分。

「………ごめんね」

 巡礼尼僧は、震える膝で懸命に立ち上がる。そして、頼りない足取りで弟の元へ、そして、炎に包まれたその体を抱きしめた。

「ごめんね………ごめんね…………!」

 手の平が、頬が、髪が、炎で炙られることもいとわず、その手は弟の頬をいとおしむように撫でる。そして、それが別れの合図であったかのように、その體は炎と共にざあっと崩れ落ち、やがて、一握の灰となった。

 

 ありがとう、ねえちゃん

 

 風の吹き抜ける音にも似た声。退役軍人は、静かに黙祷を捧げる。そして、二度も弟を失い、押し黙ったまま膝を落とし、何もかもが抜け落ちたような表情を浮かべた巡礼尼僧は、罪人のようにぎこちなく膝をすり、退役軍人へ向き直ると静かに頭を垂れた。

「――――――黒騎士様、どうか、お願いがございます」

「なんだい」

「私めの犯した罪、償う覚悟はできております、せめて……せめて、黒騎士様の手で、介錯をたまわりとう存じます」

「嫌だよ」

 退役軍人は、自分の前に跪き、首を垂れる巡礼尼僧に簡潔な答えを返す。

「これ以上、私に嫌な事をさせないでおくれ。もうこれ以上は、たくさんなんだよ」

 穏やかで、しかし、確固とした拒絶の言葉。巡礼尼僧は、退役軍人の靴にとりすがり、額を擦りつけるようにひれ伏して懇願し続けた。

「黒騎士様、そこを曲げてお願い申し上げます。どうか……どうか、この愚か者に、お慈悲をお与え下さいませ……!」

「だから、嫌だと言ってるのに。しつこいね、君も」

 大きくため息をつきながら、退役軍人は、まるで罪人のように縮こまる巡礼尼僧の背中に言葉をかける。

「君は、死ぬことは許されないよ、生きて、一生、死ぬまで生きて行くんだよ」

 残酷な言葉。そんな、もうこれ以上、私にどうしろと。

「何故……何故でございますか……黒騎士様………」

「決まっているじゃあないか、君ともあろうものが、楽な道に逃げてどうするんだい?法や神様が許しても、私は、そんなこと絶対に許さないよ」

 あくまでも拒絶を貫く退役軍人の言葉に、巡礼尼僧は打ちひしがれるように力なく肩を落とし、虚ろに目を泳がせる。そんな彼女の前に、退役軍人は静かに膝をついた。

「君、私を見なさい」

 厳かな退役軍人の声に、巡礼尼僧は抗うこともなく素直に顔を上げる。その瞬間、頭の天辺に軽い衝撃が走る。

「黒騎士……様……?」

 父親が、悪さをした娘に与える罰のような、強くもなく弱くもない力で振るわれた拳骨ひとつ。それが、退役軍人が巡礼尼僧に下した、罰。

「自分の命くらいで、償いをした気になってもらっちゃ困るよ?君はこれから、生きて大変な目に会いながら、それでも、自分のしたことを償っていかなきゃならないんだから」

 退役軍人は、拳骨を浴びせた頭をいたわるように、一度優しくなでた後、静かに巡礼尼僧の目を見て言う。

「君には、さっきの声が聞こえなかったのかい?君は、弟くんを故郷に連れて帰ってあげるんじゃなかったのかい?それを忘れちゃあ、いけないよ」

「私は…………」

 聞こえた、確かに、聞いた。あの子が、最後にくれた言葉。

「辛いのはこれからだろうね、それは間違いないよ。でもね、君は、自分のしたことを決して忘れちゃいけない、そして乗り越えないといけないよ。それが、償うってことじゃないのかい?」

 退役軍人は、静かに笑うと巡礼尼僧の肩に手を置いた。

「でもね、それが終わったら、いつでも帰っておいで。私たちは、君が帰ってくるのを待っているよ。ずっと、待っているからね」

 静かで、穏やかな退役軍人の言葉。初めて会った時のように、昼下がり、大きな木の木陰で身を休めているような。まるで、子供の頃に帰ったような、あの安心感。

「黒騎士……様…………!」

 こんな自分を、それでも待つという。抑えきれない感情が、堰を切って溢れ始める。火傷でただれたその手の下にある弟の遺灰、それをかき寄せ、手に包みながら、胸の底からこみ上げてくるありとあらゆる感情を抑えきれなくなる。

 そして、巡礼尼僧は子供のように背中を丸め、声の限りにわあわあと泣いた。ただ心が求めるままに、全てを吐き出そうとするように。そんな彼女を、退役軍人はただ静かに見守る。

「いいんだよ」

 退役軍人は、細い肩に手をおきながら、静かにうなずいた。

「誰だって、辛い時は泣いていいんだ」

 退役軍人は、やがて静かに巡礼尼僧の肩から手を放し、深く息を吐く。そろそろ、自分も限界の時が近づいてきた。

「すまない、君、彼女たちのこと、後は頼んだよ」

 そう、すべて終わった。そして、見守るように立ち尽くしていた若い戦士にひとつ頼み事を言い終わり、いつもの調子で笑顔を浮かべた後、退役軍人の視界は静かに闇の中に滑り落ちていく。

「黒騎士様?……黒騎士様!!」

「先生!?」

「お師匠様!!」

 ぐらり、と、その大きな体が傾いて、退役軍人は、そのまま石畳の上に崩れ落ちた。

 

 

「お師匠様、嫌です!起きてください!お師匠様!!」

 退役軍人に取りすがり、声の限りに叫び続ける半闇狩人の姿を、巡礼尼僧はただ茫然と見つめ続ける。そして、その姿が、かつて昔、両親を亡くした時の、弟の姿と重なった。

 わたしは、いったいなにをしてしまったの。

 あの時と、同じ苦しみを、痛みを、悲しみを。何の関係もなかったこの子に与えてしまった。自分が、この子から、生きる希望を奪い取ってしまった。

 わたしは、いったいなにをしてしまったの。

 再び、同じ問いを自分に投げかける。

 こんなはずじゃ、こんなつもりじゃなかったのに。

 うそだ、またわたしはうそをついた。あのとき、死んでしまってもかまわないと思ってケルベロスをけしかけたくせに。

「お師匠様!お師匠様!起きて!起きてくださいよぉっっ!!」

 血を吐くような、悲痛な声。あの時と、全く同じ、同じだ。あの子が泣いている、なのに、自分はもう何もできない、する資格もない。神仏に見放されてしまった、自分には。

 どんなに祈り、請うても、神からの返事はなく、ただむなしく時だけが流れていく。そして、ただ、ただ。あの子の慟哭が耳を打つ、この子には、あんな思いはさせたくなかった、それなのに。

 それなのに、あの、おおきくて、やさしかったひとは、いまはもう虫の息。聞きたい、もう一度、あの声を聞きたい。叱られてもいい、怒られてもいい、だから、せめてもう一度。

 それなら、自分の魂と引き換えにしよう。

 せめて、このひとだけは。覚悟と決心、これが、わたしの最後の祈り。

 誰もいない部屋にむかって懸命に呼びかけているような虚しさをふりきって、それでも、巡礼尼僧は暗闇に向かって祈り続け、呼びかけ続けた。それでも、だめ、なにもきこえない、なにも、かえってこない。

 お願いです、許さないというのなら、この魂を持って行ってください、この命を、持って行ってください。どうか、このひとを、あの子を、悲しみから、痛みから救わせてください。どうか、どうか、どうか、どうか――――――――――――

 何かが、激しく、散々言い争っているような声が聞こえる。あのふたりが、自分を責めているのかと、最初はそう思った。それは仕方のない事、罵られても仕方のないことを自分はしてしまった。けれども、何かが違う、何かがおかしい。

 頭の中に直接届くような声、そして、やがてその片方が折れたように、諦めたように、語気が弱くなる。そして、もう片方が、急かすように、励ますように語りかけてくる。

 こんなわたしにも、まだできることがあるの?

 戸惑いと希望がないまぜになったまま、巡礼尼僧は横たわる退役軍人に向けて、治癒の奇跡を祈り詠唱する。そして、鍵の開いた扉のように、再び顕現する奇跡の光が照らし上げる。その、小癒の光とは比べ物にならない光が退役軍人の身体を包む。しかし、彼は目覚めない。

「どうして……どうして…………!?」

 じわりと這い上がる焦燥、恐怖、動揺、それらを打ち消して、もう一度向き直る。ならばもう一度、自分の意識が、精神がすり減り無くなってもかまわない。この力が続く限り、奇跡を祈り続ける。そして何度も祈り、請うた治癒の奇跡。

 しかし、それでも退役軍人の意識は戻らない。限界を迎えつつある精神と肉体。頭が割れるように痛い、眼球が飛び出しそうになり、体を焼け火箸でかき回されるような痛みが貫く。

 あの人は、これに耐えていたの。

 巡礼尼僧は、彼と剣を交えた時の事を思い出す。ならば、自分も、全てをなげうってでも、たとえここで力尽きてもかまわない。それで、このひとと、あの子をすくえるなら。

「もういい」

 若い戦士の声、制止するような声と共に、静かに首を振る。

「貴女が倒れても、先生は喜ばない。もう、いいんだ」

 そんな、でも、それでも。

 動揺、絶望、焦燥、それらがないまぜになったその時、笑い声のようなものが聞こえた。

 へらへらと

 勝ち誇るように

 自分を、自分達を、嘲笑っている。

 彼の魂の在処、そこに、小さな悪魔がしがみついている。なんで、お前がそこにいる。でていきなさい、そこは、お前のいていい場所なんかじゃない。

 彼を、まだなおも縛る呪い。契約が成就されなかった腹いせに、ならば彼の命を、魂を持ち去ろうというつもりか。そうはさせない、誰がお前などに、このひとの魂を、命をくれてやるものか。

 最後に残った心の火種、今にも消えそうなくらいに揺らめくそれに、彼女はためらいなく祈りの息吹を吹き込み、燃え上がる炎に変える。わたしがわたしでなくなっても構わない、でも、最後の炎は、今この時の為に。

 我が掌は火焔の如く、されど、その心は明鏡止水。巡礼尼僧の右手が、紅く燃えるように光を帯びる。そして、退役軍人の顔を覆うようにその手を乗せた刹那、彼女の掌は光の波動となって、その顔の向こうに浸透していく。

 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶―――――――――――――――――――――

 灼けつくような掌の痛み、爪を剥がされ、生皮を剥がれるような激痛。手指の骨を割り砕き、手首から先を消し飛ばしてしまいそうな衝撃に、顔を、全身を、冷たい汗が覆いつくす。それでも、巡礼尼僧は真言の詠唱を唱え続け、その精神をなおも研ぎ澄ませていく。そして、神仏からの最後の加護と共にあるその細指は、やがて禍々しきものを掴み取った。

 神の加護の宿る指から逃れようと、もがき、暴れる契約の呪い。しかし、その指は決してそれを離さない、許さない。やがて、静かに引き上げたその手には、紫炎の揺らぎがなおも見苦しく揺らめき動く。

「剥呪(リムーブ・カース)」

 巡礼尼僧の呟きと共に、握りしめた神の指。その刹那、呪いの残渣は完全に握り潰された。

 

 

 地下下水道の暗闇の中を、半闇狩人はひたすら走る。呼吸を取り戻した師、それと引き換えに、力を使い果たし昏倒した巡礼尼僧。ふたりは、戦士が守ってくれている。こんな暗闇の中を、明かりももたず走り抜けられるのは自分しかいない。そして、今まで辿ってきた道のりを空で覚えているのも自分だけ。

 地底の急傾斜を必死に這い上がり、真っ暗な地下下水道を駆け抜け、そして、町へ。汚泥にまみれ、それでもひた走る半闇狩人を、町をゆく人々は何事かと立ち止まり、振り返る。それでも、彼女は冒険者ギルドを目指し、今にも外れ落ちそうな膝を叱咤しつつ、走り続ける。

 ようやくたどり着いたギルドの建物、安堵に緩みそうになる心を胸の奥に押し込め、夕暮れに染まり始めたその扉に体当たりするように飛び込んだ。そして、ギルドの広間に駆け込み、もつれた足がからまり床の上に転がり倒れる。それでも、半闇狩人は懸命に体を引き起こし、あらん限りの声で叫んだ。 

「助けてください!誰か、助けてください!!」

 ギルドの真ん中で助けを叫ぶ、その刹那、半闇狩人の身体も限界を訴え、血の混じる咳を吐き出しながら背中を丸める。

「お弟子ちゃん?………お弟子ちゃん!?」

 そして、苦悶に呻きながら、糸の切れた操り人形のように床の上に崩れ落ちた彼女に、悲鳴じみた呼びかけと共に獣人女給が駆け寄った。

 


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