『お前、よく頑張ったな。さすが、俺の弟だ』
懐かしい声、ずっと、ずっと聞きたかった、あの声。
『あなた、お疲れ様でした』
ずっと願っていた、もう一度聞きたかった、あの懐かしい声
『疲れたろ、今はゆっくり休め。誰も文句は言わない』
ああ、兄さんだ。僕の兄さんだ。
『でもな』
思い直したように、口調を変えた。
『ひと休みしたら、すぐ帰れよ』
どうして、僕はここにいたい。兄さんのいる、ここにいたい。
『あなた、あまりお義兄様を困らせては駄目ですよ』
なんだ、お前まで。久しぶりに会えたのに、ひどいじゃないか。
『いいじゃないか、そう言ってやるな。こいつも、ずっと頑張ってきたんだ』
『お義兄様、あまりこのひとを甘やかさないでくださいね』
『相変わらず厳しいな、君は』
『それはそうです、このひとには、まだすることがあるんですから』
すること?僕が?
『ああ、確かに、そうだな』
『はい』
『そういうことだ、慌てなくても俺達はどこにもいかない。だから、そんな顔するな』
だけど、それでも。
『それと――――――』
言葉を選ぶように口ごもる、大事なことを言う時の、兄さんの癖。
『あの時は――――――本当に悪かった』
あの時?あの時って―――――――――
『それじゃ、しっかりな』
『あなた、あの子たちをお願いしますね』
待ってくれ、待ってくれ、まだ私は―――――――――
「――――――何も、話しちゃいないじゃないか」
そう言って、目を覚ました退役軍人は、大きく、大きくため息をついた。
「お弟子ちゃーん、おはよーう!」
「さあ、朝ご飯を持ってきたよ。起きれるかい?」
「あ……あい、ありがとうごじゃいましゅ、お師匠しゃま、お姉しゃん……」
朝食を載せたトレイを持ち、獣人女給とともに半闇狩人の居室を訪れた退役軍人は、だいぶ回復してきた愛弟子の様子に安堵の笑顔を浮かべる。
極限まで覚醒させた神経、そして筋力。それは、空中を飛ぶ弾丸を短弓の狙撃で撃ち落とすという神業を実現させたことと引き換えに、彼女の肉体を極度に疲弊させた。
目は余計な光が差し込まないよう包帯が巻かれ、耳は余計な音を拾わないよう綿が詰められ、鼻や口は吸いこむ空気の雑味をこしとる綿布のマスクで覆われた。逆に、全身の感覚がほとんど麻痺してしまったため、身体を冷やし過ぎぬよう、熱がこもり過ぎぬよう亜麻布の寝間着。
「それじゃあ、君、申し訳ないけれど、この子の食事、よろしくお願いするよ」
「あいあーい、りょーかいでーす」
そして、獣人女給にたすきを交代。
「ねえ、君。ここに私がいる意味があるのかい?」
いくら家族同然の弟子とは言え、若々しい曲線が浮かび上がる薄衣姿を目にするのは忍びないし、それを見て喜ぶ趣味もない。だから、部屋の隅っこで、椅子に腰掛けながら獣人女給が食事の世話が終わるまで待つ。それが、かれこれ一週間近くは続いているだろうか。それでも、彼女も忙しいだろうに、こうして弟子の看病を進んで協力してくれることには、感謝の念に堪えない。そして、その時間を快く割いてくれた圃人料理長にも。
「なにいってるんですかぁ、だって、先生がいないと怖がって食べてくれないんですよぉ?」
によによと笑いながら、獣人女給が振り返りつつ応える。
(そんな、狼の子じゃあるまいし)
退役軍人は、ふぅと小さくため息をつきつつも、まあそれも仕方ない、と考え直す。なにしろ、全身がほとんど麻痺しているのに、音や光だけは必要以上に伝わってくる。神殿の術師によれば、筋肉痛のようなもので一過性であり、時間の経過とともに回復すると保証してくれた。が、それでも。
「お師匠しゃま……お師匠しゃま……」
「ん?どうしたんだい」
幼児のような言葉に、退役軍人は思わず吹き出しそうになるのをぐっとこらえる。別にこの子は甘えている訳でもふざけている訳でも、ましてや心が壊れてしまった訳でもない。要するに、麻痺した感覚が彼女の舌の動きの滑らかさを奪っている、ただそれだけ。
「お師匠しゃま……わたちの手、ありましゅよね?わたちの足、ありましゅよね……?」
「大丈夫だよ、みんなちゃんとあるから、安心しなさい。それより、しっかり食べて、栄養を取らなきゃ治らないよ?」
「あい、わかりまちた………」
「うんうん、それじゃお弟子ちゃん、あーんして、あーん」
ようやく安心したのか、獣人女給に手伝われて朝食を食べ始めた半闇狩人の様子に、退役軍人も、それならそれでと安心しつつ、小さな椅子に身をよりかける。
「それにしても、ホント頑丈ですよねぇ、先生って」
「そうかい?」
「だって、みんなで地下から連れて帰った来た時、全然意識がなかったし、顔中傷だらけで」
「いや、これは元々だから」
獣人女給の冗句に、退役軍人は苦笑交じりに応える。自分が呪いの軛から逃れられた理由、それは、全てを見ていたこの子から聞いた。
「お坊様も一週間くらい寝込んだままだったし、戦士さんもしばらく具合悪そうにしてましたもん。先生だけですよ?一晩寝たら元気になったのは」
「ハハハ、まあ、それだけが取り柄だからねぇ」
そんなわけない。
心の中で、獣人女給に詫びながら、退役軍人は半闇狩人の言葉を思い出す。巡礼尼僧が、最後の願いを神仏に祈り、引き換えに彼女自身の命を差し出そうとしたことを。そして、崩れかけた自分の身体を、奪われかけた魂を取り返してくれたことを。
「……お師匠しゃまは、ちゅよいんでしゅ、だって、あたちの、お師匠しゃまなんでしゅ」
「うん、そうだよね」
玉子粥を飲み込んで、心から信じる言葉を呟く半闇狩人に、獣人女給は優しくうなずく。
「ホントに、そうだよね」
そんな彼女たちの言葉を聞きながら、退役軍人は寂しそうに笑う。
強くなんかあるものか。
弟子に、若者に、尼僧殿に助けられて、今自分はここにいる。彼らの誰一人欠けても、自分はここにいなかっただろう、助からなかっただろう。彼らに誇れるものがあるとすれば、ただ重ねただけの馬齢くらいなもの。だが、それこそ何の自慢にもならない。
楽し気な彼女たちの会話を聞くでもなしに、退役軍人は、ふと取り出した小さな銀色の笛を手の平の上で転がす。巡礼尼僧からの切実な願いで託された、魔銀の笛を。
「やあ、みんな、お疲れ様。よくきてくれたね」
ギルドのロビーに集まった面々を見て、退役軍人は大きな包みを傍らに、いつも調子で手を振って出迎えた。今日は、皆の体調が回復する頃合いをみて、ギルドと調整した報告会の日。
「どうしたんだい、みんな元気ないじゃないか」
若い戦士にいつもの朗らかさはなく、巡礼尼僧にいたっては、これから絞首台に向かうような悲壮な表情を浮かべている。理由は、わかり過ぎるくらいわかっている。
「こんな年寄りに負けちゃいけないなぁ、みんな元気出して」
ことさら明るく振舞う言葉も、今は虚しく空滑りするだけ。しかし、退役軍人もなかなか負けを認めようとはしない。
そう、これは必要な事。自分にとっても、彼らにとっても。彼に残るわだかまり、彼女に残る罪悪感、それは、いくら自分が言い聞かせたところで、そう簡単に消えはしないだろう。しかし、理由をつけて彼らを遠ざけ離しては、余計にその溝は深く、暗くなるだけ。だから、最後の締めくくりは、一党全員でなさねばならない。未だ体の自由が効かない、他の何よりも、休息が必要なあの子は仕方がないとしても。
「さあ、ともあれ最後までやるべきことはちゃんとやろう。大丈夫、何も心配いらないからね」
皆を励ますように声をかけ、退役軍人はギルドに提出する書類や証拠物品をひとまとめにした包みを抱え上げると、いざや報告会場であるギルドの面談室へと歩き始めた。
「ああ、それと」
何かを思い出したかのように、退役軍人は後ろをついてくる若い戦士と巡礼尼僧を振り返る。
「全ての報告と発言は、頭目の権限で私がするから、君達はそのつもりでいるように、いいね?」
ギルドからの要請による地下下水道の再調査、その報告会場に出頭した退役軍人たちの一党。まだ歩くことも、話すこともままならない半闇狩人は療養に専念させることとして、退役軍人と若い戦士、そして、巡礼尼僧が出頭し、地下下水道探索の顛末を報告することとなった。
(やはり、彼女がいるよねぇ)
退役軍人は、馴染んだ顔である受付嬢の隣に座る、監督官の姿に無言で唸る。それも当然だろう、通常の依頼任務遂行とは違い、これは、ギルドから直接要請された形の依頼。つまり、公務といってもいい。それに対し、虚偽報告の対策として監督官が同席するのは、当然の流れ。
(まあ、いいさ)
退役軍人は、すでに固めていた意思をもって、自身がまとめ上げた詳細な報告書と、若い戦士が回収していたケルベロスの耳と竜の顎の牙を合わせて提出し、一連の出来事を報告し始めた。
地下下水道は、深部に行くほど経年劣化と整備不足で破損が進んでいる。
したがって、再調査と再整備の必要性を具申する。
根拠資料として、調査結果資料及び見取り図、検証用模型等を提出する。
なお、地下下水道坑内で、ケルベロスと遭遇せり。
戦術的撤退及び転進中、ゴブリンの群体を発見、これと交戦せり。
その過程で発見、到達した地下下水道最深部にてケルベロスを邀撃せり。
当該個体については、一党の戦力を集中・連携してこれを撃退せり。しかし、撃破はならず。
証拠品として、ケルベロスの右耳及び竜頭尾の牙を提出するものとする。
大鼠禍および黒蟲禍の原因は、地下下水道に出現したケルベロスであると認められる。
その脅威により、最深部から大規模な大鼠及び黒蟲の移動が認められた。
当面の間は、これらの事例を示し地下下水道に赴く際は注意喚起の要を認める。
尚、ゴブリンの残党が存在する可能性があり、これの探索・掃討の要を認める。
以上、本事案に関する報告終わり。
「と言う訳なんだけどね」
報告を終えた退役軍人に、同席した監督官が、鋭い目を向ける。ギルドからの直接の依頼という特別性から、報告の場に同席した監督官は、看破(センス・ライ)の奇跡によって、意図的に隠蔽されたものの存在を察知していた。
「それは、『嘘』ですね。先生」
「おやおや」
「概ねその通りだというのはわかりました、けれども、貴方は何かを意図的に報告していない。貴方ともあろう方が、何故そんなことを?」
監督官の言葉に、若い戦士と巡礼尼僧は表情を硬くする。しかし、当の退役軍人は、少しも意に介した様子も見せず、悠然とした態度を崩さない。
「そりゃあもちろん、これが、私の『報告』だからだよ」
「先生、わかっているとは思いますが、貴方のしていることは、ギルドの規則に反しています。意図的な虚偽や怠業は、処分の対象になります。それはご存じのはずでは?」
やはり、見抜かれたか。退役軍人は、この仕事熱心で責任感の強いギルド職員を前に、小さく苦笑する。
「もちろん、そう判断されたのなら、私もそれ相当の責任は取らせてもらうよ」
「………本当のことをおっしゃるつもりはない、ということですか?」
「本当も何も、私たち四人で地下下水道を探索して、大鼠禍の原因も突き止めたし、排除もしたよ。こうして文書にもまとめて、みんなと読み合わせをした上で確認の署名も揃えた。これが、今回の全てさ。そして、この報告書の責任は、全て私にある。そういうことだよ」
「先生、本当にそれだけで済むと思っているんですか?他の一党の面子に、まったく累が及ばないと、本当に思っているんですか?」
「もちろんだよ、だって、彼らは責められるようなことは何もしていないんだからね」
さっきの報告の中に、意図的に隠されたものがあるという事はわかった。しかし、それ以降の退役軍人の言葉に、それ以上の隠蔽も嘘も感じ取れない。干渉を遮断する術を行使しているか、あるいは心の底から正しいと思っていなければ、こうはならない。それでもなお、監督官の言葉は鋭く、厳しい。
「場合によっては、資格の剥奪もあり得るんですよ?」
しかし、退役軍人はうろたえない。
「だから、責任を取る必要があるのなら、私が取るのさ。なんと言ったって、この一党の頭目は、私なんだからねぇ」
そういって、退役軍人は首に下げた冒険者認識票を外し、ほんの一瞬だけ、その小さな白磁の板へ名残惜しそうに視線を落とした。
「せっかく頂いた冒険者の認識票だけど、これは、進退伺の代わりにそちらに返上させていただくことにするよ」
「先生!?」
予想もしなかった退役軍人の言葉に、若い戦士は思わず声を上げ、巡礼尼僧の顔がさらに青ざめる。これじゃ、向こうの指摘を認めるようなものじゃあないか。退役軍人は心の中で苦笑つつも、まっすぐこちらに鋭い視線を向け続けている監督官を見る。
「規則に従わなければならないのは、当然のことだからねぇ」
「先生、おっしゃりたいことはわかります。ですけど、どうか落ち着いてください。私たちは、なにもそんな――――――!」
受付嬢の狼狽する声を制して、監督官はじっと鋭い目を退役軍人に向ける。
「その言葉に、二言はないととらえていいんですね?」
「もちろんだよ、せっかく冒険者になれたのに、もう辞めなければならないのはとても残念だけどねぇ。ともあれ、こうして地下下水道の状況把握ができた、そして対策も具体化できて問題解決はもう、すぐ目の前だ。そうなれば、このギルドの実績も上がるだろうね。実に、いいことづくめじゃないか。それに、道楽で冒険者を始めたおいぼれ貴族が、現実を思い知らされて冒険者を辞めた。そんなこと、良くある話だろう?」
そんな、あの時、あんなに冒険者になれたことを喜んでいたのに。あれが嘘だったなんて、とてもそうは思えない、思いたくない。少なくとも、自分にとっては。表情を曇らせる受付嬢の様子に、退役軍人は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。
「お嬢さんにも、ずっとお世話になりっぱなしだったのに、最後の最後でとんだ迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないと思うよ」
そして、退役軍人は巌のような胸板を張り、すっと姿勢を正すと、礼儀正しく監督官と受付嬢に一礼する。
「ともあれ、私の報告は以上だよ。この件について全ての責任は私にある、彼にも、私の生徒にも、尼僧殿にも、咎を受けるようなことは何一つないよ」
「………わかりました、上には、今のやり取りも含め、全て報告させていただきます」
「うん、そうしてくれたまえ。それじゃあ、もういいかな?」
「はい、御苦労様でした」
「ありがとう、さて、それじゃあいこうか、君達」
一党を促して、面談室を辞去した退役軍人。そして、そのテーブルの上には、進退伺の代わりに置いていった白磁の認識票が、静かに光る。そして、それを前に、ふたりのギルド職員は、それぞれの感情を抱えながら、しばらくの間、沈黙に包まれる。そして、ややあって、大きなため息が面談室に流れた。
「それじゃあ、みんな、お疲れ様。尼僧殿は、早く寺院に戻って手当てをしてもらいなさい。痕が残ってしまっては大変だからねぇ」
「はい……承知いたしました、黒騎士様…………」
「うん、それじゃ、お大事に」
退役軍人に一礼し、しおれた生け花のようにうなだれつつ、とぼとぼと歩き去っていく巡礼尼僧の後姿を見送りながら、退役軍人は、必死に感情をこらえている若い戦士に向き直った。
「すまないね、君。悪だくみの片棒を担がせるような真似をしてしまって」
「いえ………そんなことはいいんです、だけど、これはいくらなんでもおかしいですよ………!」
「うん、それは本当に申し訳ないと思っているよ。けれども、これが一番いいんだよ。君にも、とても頑張ってもらったからね。報酬の分配もそうだけど、私の裁量でどうにかできるものなら、君の希望どおりにするよ」
「そういうこと言ってるんじゃないんですよ!」
若い戦士は、たまりかねたように声を荒げて、退役軍人を睨みつける。
「どうして………どうして、こんなことになるんですか、どうして、先生が冒険者を辞めないといけないんですか………!」
若い戦士は、やりきれない感情をぶつけるように、退役軍人に叫ぶ。あれだけ真摯に、あれだけ誠実に、そして、自分の命を危険に晒してまで、懸命に事を成し遂げたというのに。そんな彼が、なぜこんな扱いを受けなければならないのか。
一瞬、あの女の顔が浮かぶ。あいつさえ、莫迦なことをしなければ。しかし、それは彼の望まぬ感情。地下下水道探索から帰還した後、目を覚ました退役軍人が自分達に対して言った言葉。それは、一党の頭目としての命令や指示ではなく、懇願。
彼がそこまで願うのなら。だからこそ、納得いかなくても、行き場のない憤りを感じても、それは口に出しちゃいけない。必死に感情を抑えつけながら、若い戦士は拳を握り締める。
それに、もし自分が、彼女の立場だったら。誰かを蘇らせることができるかもしれない、もう一度、あの子に会えるかもしれないとしたら。そんな希望が目の前に揺らめいていたら、どうして自分が、それを振り払うことができると言い切れようか。
「おかしいですよ!こんなの、絶対おかしいですよ、先生………!」
「君………」
「俺は………俺は、何もしていません……何もできなかった………」
力がない自分が悔しい、あんな危険な武器を使う決心をさせてしまった自分が情けない。もっと自分が強くあれば、彼の足を引っ張らずに済んだのに。血が出ん位に唇を噛む若い戦士を前に、退役軍人は静かに慚愧の溜息を吐き出す。
彼に責められるべきものなど何もない、責められるとしたら、自分の傲慢だ。夜回り程度に捉えていた地下下水道探索、それが、蓋を開ければ本物の問題に出くわすとは。だが、それはいい。見つけたのが、引退した自分だったから。
これが軍団だったら、彼女はもうこの世にいなかっただろう。見つけたのが自分だから良かったなどと言うつもりはない、自分の力を過信して、冒険というものを甘く見た。そんな思い上がりが、慢心が、彼に、皆に、辛い思いをさせてしまった。
「俺は、手柄が欲しくて先生と一緒に行った訳じゃないのに………!」
少年のように悔しがり、他人の為に憤りを露わにする若い戦士を前に、退役軍人は静かにうなずいた。
「私だって、手柄が欲しくて冒険をしているわけじゃないんだよ」
穏やかな言葉を聞きながら、若い戦士はただうなだれ続ける。
「私の目的は果たすことができた、でも、私ひとりじゃ出来なかった。あの子が、そして、君が手伝ってくれたからできたことなんだよ」
それに、尼僧殿がいなければ、あの子は無事では済まなかった。そして、自分も。その言葉を、敢えて飲み込みながら、退役軍人は、若い戦士の肩に、優しく、静かに手を置いた。それだけではない、彼女の弟の遺灰を、残さず集めおいたのは、彼。そんな彼に、全く余裕のない自分達がどれだけ救われたか。力だけの強さじゃない、人として本当に大切なことを知っている青年。
「これで、今日から町のみんなが安心して眠れる。それが、私にとって一番の御褒美さ」
「先生………!」
「なにもしてないなんてとんでもない、君がいてくれたから、私はここにいられるんだ」
退役軍人は、息子を励ます父親のように、力強く、優しい言葉を送る。
「ありがとう、本当に、ありがとう」
寺院を訪れた黒騎士は、見習い僧侶に案内され、巡礼尼僧の元を訪ねる。あれから、彼女は宿坊に戻らず、拝殿で懺悔と慰霊に明け暮れているという。自分のしたことの代償、それは、闘技以外の全ての力を失った。それでも彼女は、もう神仏に許しを請うこともなく、あるがままを受け止めているという。それが、僧侶としての死に等しいことだとしても。
「やあ、尼僧殿。怪我の方は、どんな具合かな?」
「これは……黒騎士様、ご足労、感謝いたします」
「何を言ってるんだい、君は。仲間に会うのが苦労なわけないじゃないか」
怯えるように畏まる巡礼尼僧に、退役軍人はいつもの調子で話しかける。そして、火傷の痕の残る顔と手の平に目を落とし、残念そうにつぶやいた。
「やはり、その痕は、治すつもりはないのかい」
「………はい」
力なくうなずく巡礼尼僧に、退役軍人は小さくため息をつく。
「私が言ったことを気にしているんなら、それは違うよ?君が気に病むようなことじゃないんだから。でもね、他はともかく、傷痕だけは綺麗にしておきなさい。そんなこと、弟くんも望んではいないと思うよ」
退役軍人の言葉に、巡礼尼僧は一瞬、小さく唇をかむ。両手と、左の頬に残った火傷の痕。贖罪、戒め、そして、弟との別離の証。いや、そんな綺麗なものじゃない。これは、自分の醜さの証。いつか、したり顔であの子に説教を説いた自分が、どうしようもなく滑稽に思える。しかし、ふと顔を上げると、精一杯の強がりのように笑顔を浮かべた。
「それならば、お兄様も同じことを黒騎士様に申し上げるかもしれませんね」
「ハハハハハ、これは参った、さすが尼僧殿、これは一本取られたねぇ」
楽しそうに笑う退役軍人を、巡礼尼僧はどこか悲しそうな笑顔で見つめる。あれだけのことを彼にしてしまったのに、どうして、この人はこんなにも笑っていられるのだろう。どうして、こんなにも穏やかにいられるのだろう。
「黒騎士様」
「ん、なんだい?」
「………どうして、黒騎士様は、私めのような愚か者をかばうのですか。罪は罪、その報いを受けるのは当然のことではございませんか」
「まだ言ってるのかい、君は。どうしてなかなか、真面目だねぇ………いや、真面目だからこそ、僧侶なんだしね。私とは、大違いさ」
「黒騎士様、私めはもう、覚悟はできております。こうしてこの愚か者の身を案じて頂けた、それだけでもう十分でございます!」
巡礼尼僧の訴えに、退役軍人はふと悲しそうな表情を浮かべる。
「君も、死んだ家内と同じことを言うんだねぇ」
「え…………?」
「兄を恨むな、仕方のないことだから。あの時、家内は私にそう言ったよ。もう、十分だから。ってねぇ」
時が止まったような寺院の中庭で、ただ風や草木のそよぐ音だけが、暫しふたりを包む。そして、退役軍人ひとりが時間の流れに逆らうようにうなずく。
「十分な訳ないじゃないか、それだと、残されたものはたまったものじゃないよ」
退役軍人は、紅眼鏡の奥の目を細めながら、どこか懐かしそうな表情を浮かべる。
「人には、『区切り』が必要なんだ。それさえもさせてもらえなかったら、あんまりにもみじめ過ぎるじゃないか」
退役軍人は、紅眼鏡の奥で、穏やかに目を細める。
「私だって、あの時この笛を手に入れたとしたら、きっと同じことをしたと思うよ」
そう言って、退役軍人は、帯革の弾薬盒の上に手を添える。七発の契約の弾丸が入っていた革の小箱は、今は巡礼尼僧から託された魔獣使いの魔銀笛が収められている。
「―――契約の弾丸を手を入れた時、自分が間違ったことをしてるなんて少しも思わなかったよ。後先なんて全然考えてなかった、ただ、家内の仇を取る。それしか考えていなかったからね」
しかし、そのための弾丸は、兄に向けて放たれることはなかった。いや、撃てなかった。そして、様々な感情と共に、あの七個の弾丸は弾薬盒の中にあり続けた。しかし、それももう今はない。そして、もう鋳出すつもりもない。そんな思いを隅に押しやり、退役軍人は、まるで少年のように照れくさそうに笑う。
「今でも、兄さんや家内のことを思い出すと、どうしようもなく苦しいよ。顔も、声も、はっきりと覚えている、それなのに、絶対に会うことは出来ないんだと思うとね。でもね――――――」
退役軍人が、ふと顔を向けた先。そこは、ギルドの社屋がある方向。そして、今も居室で傷を癒している我が弟子を思う。
「あの子が教えてくれたんだよ、生きているものは、先に逝ってしまったひとの分まで生きていかなければならないんだ、ってね」
両親を亡くし、村を追われ、放浪の末にたどり着いた町で、泥水をすすり、雑草を噛んで、それでも、決して生きることを諦めなかった少女。そんな彼女ですら、生死の縁に立ったあの時、死神と思った自分に向けた願い。父親に会いたい、ただそれだけを願った。
「私が、あの子の支えになれるなら、私は、この命が尽きるまで、あの子が、もういいというその時まで、喜んでその支えになるよ」
ずきり、傷を負っていないはずの胸が痛む。どうして、そんな気持ちになるんだろう。わかりきった答え、そして、なおもそれを誤魔化そうとしている浅ましい自分に、巡礼尼僧は唇をかんでうつむく。
「私は、いつまでもあの子のそばにはいられない。あの子と私とでは、持っている時間の長さが違うからね。それでも、あの子が望むなら、私の持つ全て、私の知る全てをあの子にあげるつもりだよ。それがあの子の、力になるならね」
「そう………で、ございますね」
くやしい。
なんで?どうして私は、そんなことを考えているの。わかりきっている感情を押し殺し、巡礼尼僧は、それでも静かにうなずいた。自分はいつもそう、他人を、自分を、何もかもを、誤魔化して、騙して、取り繕って、そんなのばかり。
「それにね」
退役軍人は、紅眼鏡の奥の目を、巡礼尼僧へと真っ直ぐに向ける。
「君も、あの子を大事にしてくれた。とても感謝しているよ、だって、もうあの子はひとりじゃないんだから。なんといっても、友達は何人いたって困らないからね」
「わ……私は………」
こんな自分が、あの子の友になる資格なんてあるわけない。だけど、それでも。あの子といた時間は楽しかった、これだけは、嘘じゃない。こんな自分を慕ってくれたあの子、まるで、妹が出来たようで、どこかに落としたものが、無くしてしまったものが戻ってきたみたいで。
あの時、あの子に危険が及ばぬように、騒ぎに紛れて共に水路へ引っ張ったことも、ゴブリン共をケルベロスで蹴散らしたことも。それでも、今ならそれが身勝手な独りよがりだとわかる。もしあのとき、彼が命を落としていたら、あの子はどうした?どうなっていた?それを考えると、自分の余りにも救いようのない愚かしさに、胸に大穴が開きそうになる。
「それに、こういうことを言ったら、君に叱られてしまいそうだけどねぇ。私は、神様のお告げなんかより、君が、もう一度やり直したいと思ってくれる方がよっぽど大事だよ」
「えっ……」
「神様が許さないというのなら、そんな神様、こちらから願い下げさ。今ここで生きているのは、神様なんかじゃない、私たちなんだからね。所詮、罪(ルール)なんてものを最初に考え出した、その程度の存在さ。そんなつまらない連中なんかより、私は君達にすがって生きていきたいよ」
「黒騎士……様………」
「まあ、そういうわけさ。それに、君があの時、治癒の奇跡を私に施してくれたんだろう?あの子たちから聞いたよ。君は、まだまだ神様と付き合っていかなきゃならないみたいだねぇ」
そういって、退役軍人はひとり可笑しそうに肩を揺すって笑う。
「君は、もうひとりなんかじゃないんだ。だから、もっと自分を大切にしてほしいんだよ」
そう言って、腰の雑嚢に丁寧に収めてあった小綺麗な包みを取り出すと、それを巡礼尼僧の手にそっと手渡した。
「銀等級の魔女殿から教えてもらった、薬効あらたかなお肌の薬だよ。君に使ってもらえたら、嬉しいね」
なにしろ、私には若い子の好みはわからないからねぇ。そんな照れ笑いと共に手渡された包みを胸に、巡礼尼僧は言葉を詰まらせる。何か言わなければならないのに、胸が、喉が、口が、言葉を出させてくれない。
そんな巡礼尼僧を前に、退役軍人は穏やかにうなずきながら、辞去の言葉を口にする。そして、それじゃあ、また、と言って立ち去った退役軍人の背中に、巡礼尼僧は深々と頭を下げた。
帰ってきた冒険者ギルドの社屋の前でふと立ち止まり、退役軍人は、思案に暮れるようにその建物を見上げる。早々に、ここを立ち去る準備をしなければならないだろう。その前に、まだ傷の癒えないあの子に、きちんと話をしておかなければならない。そう思いながら、夜の帳がおり始めた町の中にたたずむ退役軍人の前で、ギルドの扉が開き、ひとりの冒険者が姿を見せた。
「おや、君は――――――」
使い込みも過ぎた鎧兜を、一部の隙も無く着込んでいる。ああ、もしかして彼が、ゴブリンスレイヤー君か。そういえば、念のためにと、地下下水道の探索と掃討をギルドに具申したが、あの後どうなったのだろうか。
そんなことを考えながら、声をかけようとしたその時、何かに思い当たった様子で、向こうから声をかけてきた。
「地下下水道の最深部で、ゴブリンが出たと言っていたな」
「うん、そうだね。もしかして、君が確認に行ってくれたのかい?」
「ああ」
ゴブリンスレイヤーと呼ばれる若い冒険者は、そっけない返事と共にうなずいた。
「ゴブリンは、全て殺した。もう、心配はない」
「そうか、それは助かったよ。いや、手間をかけてしまったが、本当にありがとう」
「――――――いや」
ゴブリンスレイヤーは、退役軍人を見上げて、簡潔な言葉を向ける。
「ゴブリンは、皆殺しだ。何も問題はない」
「なるほど」
退役軍人は、そんな彼を前に、思うところあるような様子で尋ねた。
「失礼だけど、ひとつ聞いてもいいかな」
「なんだ」
「君は、兵士として戦場に行ったことがあるのかい?」
退役軍人の問いに、ゴブリンスレイヤーは、一瞬沈黙する。
「………いや、ない」
ややあって帰ってきた、短い答え。
「そうか、いや、おかしなことを聞いてすまなかったね」
「気にしていない」
どこまでも素っ気ない言葉、けれども、見栄や虚勢で出る言葉ではなく、実際に、彼そのものの思考がそのまま口に出た言葉。しかし、その様は、彼自身幾度となく見てきた、戦場で心を壊したもの特有の危うさを感じる。そんな者の末路は、知る限り大抵悲惨なもの。しかし、それを彼に言う資格は、今の自分にはどこにもない。
「ありがとう、そう言って貰えると助かるよ」
「ああ」
「うん、疲れているのに、引き留めてしまって申し訳なかったね。それじゃあ、また」
「ああ」
ゴブリンスレイヤーと呼ばれる冒険者と別れ、退役軍人はギルドの扉をくぐる。酒場では相変わらずの喧騒、そして、彼の一党らしき面子が、思い思いの酒や料理を前に、他愛のないくだを巻いているのが聞こえた。どうやら、彼の付き合いの悪さについて、愚痴をもらしているようだ。
「なんだ」
酔いの回った上森人の愚痴、それをなだめている見覚えのある若い女神官に、大酒をかっくらいながら呵々大笑する鉱人、そして、チーズを頬張り賛美の声を上げる蜥蜴人。彼らは、口々に、彼を思いやり、気遣い、そして、不平をぶちまけている。その、騒々しくも温かい心と言葉が飛び交う様子に、退役軍人は、ふっと小さく笑みをこぼす。
「心配御無用、というやつだね」
そう言って、退役軍人は酒場を横切り、借宿の居室へと続く階段を昇って行った。
「しょう……でしゅか」
退役軍人から、全ての話と説明を聞き終わった半闇狩人は、未だ不自由な口で返事をして、小さくため息をつく。
「本当に申し訳ない事をしたと思っているよ、すまなかったね」
「いえ……しょんなことないでしゅ、お師匠しゃまは、間違ってましぇん」
未だ舌足らずな言葉、けれども、今はもう可笑しいとは思わない。この子とて、思うように動かない自分自身を懸命に奮い起こして、こうして応えてくれるのだから。
しかし、まさかずっとこのままなんてことはないだろうね。退役軍人の胸中に、そんな懸念がふとよぎる。酒場の獣人女給には、可愛いと滅法気に入られたようだが。まあ、それはともかく。
しかし、もしそうだとしても、自分は一向に構わない。一緒に背負っていこう、それをこの子が許してくれるのなら。けれども、それを決めるのは自分ではなく、彼女だ。
「もう、君の師匠でいられなくなるかもしれないけど、君は、どうしたい?」
冒険者としての資格を失った自分、しかし、それだとしても、出来る限りのことはしてあげたい。心の底から、そう思った。
「………わたちは、いちゅだってお師匠しゃまのおしょばにいましゅ」
たどたどしいながらも、はっきりと自分の意思を告げる半闇狩人。そして、包帯を目に巻かれた顔を、苦労しつつも退役軍人に向ける。
「どうちて……しょんなことをきくんでしゅか?」
とがめるでもなく、悲しむでもなく、何故わざわざそんなことを、と言わんばかりの言葉。どこまでも、どこまでも真っ直ぐな、曇りなき心。
ああ、あなたはなぜ、この子を不自由のない家にお授けにならなかったのか。
巡礼尼僧に語った話でもないが、退役軍人は、見たこともないこの世界の神に、この世の不条理を嘆く。なぜ、この子から、暖かい両親を、思い出詰まる故郷を、大切なもの全てを取り上げてしまったのか、と。
この子に、何の落ち度があったというのか。何故、この子の運命を弄ぶような真似をしたのか。これが試練だというのなら、共に耐えもしよう。しかし、悪戯だというのなら、絶対に許さない。
「お師匠しゃま………?」
黙り込んだ退役軍人に、半闇狩人は気遣うように声をかける。そして、我に返った退役軍人が返事をしようとしたその時、部屋がノックされた。
『夜分失礼します、よろしいでしょうか?』
ドア越しに聞こえてきたのは、受付嬢の声。なんと、こんな時間まで残業とは。しかし、何の用事だろうか。
「やあ、お嬢さん、こんばんわ。この子のお見舞いに来てくれたのかい?」
いつもの調子で出迎えてくれる退役軍人と、ベッドの上で柔らかな寝具に包まれ、その身を休ませる半闇狩人の姿に、受付嬢はほろ苦い笑みを浮かべる。師弟を越えた絆、まるで、本当の家族のよう。
「はい、先生、今日は本当にお疲れ様でした。それと――――――」
いつもの笑顔と声、そして、受付嬢は、両手に包むように持っていた、一枚の認識票を退役軍人の前にさしだした。
「これは大事なものだって、最初に言ったじゃないですか。もう置き忘れなんてしたら、ダメですからね?」
「だけど君、これは――――――」
思いがけない出来事に、退役軍人は思わず声を詰まらせる。
「あと、伝言があります」
「伝言?」
「悪を裁くことではなく、悪があると気づかせることが、至高神の正義であり望み。だそうです」
受付嬢の困ったような笑顔を前に、退役軍人は全てを理解したようにうなずいた。
「ああ――――――なるほど」
さてさて、どうやら、子供じみていたのは自分の方だったようだ。退役軍人は、監督官の顔を思い出し、どうにもばつの悪そうな笑顔を滲ませた。
「ありがとう、彼女にも、そう伝えてくれないかい」
「はい、わかりました。それとこれ、お弟子さんに」
受付嬢が、ポケットの中から取り出して、退役軍人に手渡した小瓶。綿と麻布で蓋をした、柔らかで清々しい香気を穏やかに漂わせる、鎮静の効能をもつ香草のポプリ。
「私も使ってるんです、よく眠れるんですよ、これ」
「ああ、これはありがとう、こんないいものを頂いてしまって………そうだ、立ち話も失礼だし、どうか上がっていってくれないかい、あの子も喜ぶよ」
大きな体を縮めてお礼の言葉を繰り返す彼、まるで、本当のお父さんのよう。そんな退役軍人の姿に、受付嬢は穏やかに微笑んだ。
「いえ、私はこれで失礼します。お弟子さんには、ゆっくり休んでと伝えてくださいね」
「うん、わかったよ。本当に、ありがとう」
「はい、それでは、お大事に」
「先生、どうだった?」
帰り支度を済ませ、ギルドを退庁した受付嬢を待っていたのは、監督官の声。
「ええ」
受付嬢は、困ったように笑いながら応える。
「ありがとう、って伝えてくれって」
「そっか」
「待ってるくらいなら、一緒に来ればよかったんですよ」
わざと意地悪を言ってみる。
「それじゃ、感動的な場面にならないよ」
「え?」
「あれだけ厳しく突き放した至高神の神官が、実はちゃんと理解してくれていた――――――って、カッコよさがわからないかなぁ?」
「自分で言っちゃいます?それ」
監督官の言葉に、受付嬢はくすくすと笑う。
「あまりわかってもらえないと思うけど」
「そうかなぁ」
並んで帰路を歩き出しながら、ふたりのギルド職員は他愛もない会話を交わす。
「それより、いいの?ありのままを報告するんじゃなかったのかしら」
「だから、ありのまま報告するよ?先生が報告してくれたとおりにね」
監督官は、苦笑まじりに答え、指先で頬をかく。
「それよりさ、帰りどっか寄って食べてこうよ」
「あ、いいですね、それ」
「うん、君のおごりでね」
「意味わかりません」
それこそ、他愛のない会話を交わしながら、ふたりのギルド職員は、まだ開いていそうな店を探しに進む先を変えた。
「それでは、黒騎士様、この度はご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした。狩人様や戦士様にも、よろしくお伝えくださいませ」
まだ日も登りきらぬ早朝、巡礼尼僧を見送るため訪れた町の門で、退役軍人は別れの時間を名残惜しむ。彼女は今日、弟を故郷に葬るための旅に出る。半闇狩人は、まだ歩けるまでには回復していない、あの子には、まだ休息が必要。見送りに行けないのを心底残念がっていたが、枕元で交わした言葉と再会の約束は、しっかりとふたりを繋いでいる。
そして、若い戦士は、あれからまた、駆け出しの冒険者たちに請われ、共に依頼の場所へと赴いていった。むしろ、彼にとってはその方がいいのだろう。益体もない物思いに苛まれているよりも、彼は、彼を頼りとする仲間と共に、その力と心を輝かせている方が、あの真っ直ぐな魂にこそふさわしい。
それでも、と退役軍人はため息をつく。やはり、そう簡単に割り切れるものではないのだろう。それは、仕方のないこと。が、それにしても。
「いや、君。門出の挨拶にそれはないだろう?これからしばらく会えなくなるのに、そんなこと言われたら本当に寂しくなってしまうじゃないか」
不満そうな、そして、ワザとらしいすね方をする退役軍人の仕草に、巡礼尼僧は苦笑交じりにうなずく。
「それに、あの子との約束はどうするんだい。また、一緒に冒険をするって、約束してくれたじゃないか。君は、あの子の友達なんだろう?違うかい」
「そう……で、ございましたね………」
あの子が枕元で懸命に語りかけてくれた、あの純真な言葉を思い出す。そして交わした、必ず帰ってくる、その約束に誓って嘘はない。そして、微かに目を伏せながら、肩から下げた雑嚢に手を添える。そこには、姉の手で荼毘に付された弟の遺灰。それは、小さな壺に納められその胸に抱かれる。もう、後悔も心残りもない。最後に、別れを言えたから、謝ることが、できたから。
「それにしても、あんなに綺麗な髪の毛だったのに、そこまですることはなかったんじゃないのかい?」
白い頭巾の下、秋の日差しのような、暖かく、どこか郷愁を感じさせた柔らかな栗色の髪は、巡礼尼僧の手によって剃髪されてしまっていた。それで多少なりと彼女の気持ちに整理が付くのであれば、余人がどうこう言えた筋合いではないとは言え。
「でも、君がそうしたいというのなら、仕方なかったけれど………まあ、やってしまったものは仕方ないしね。そうだね、とりあえず、君の髪が元どおりになった時、また会いに来てくれると思っていいよね?」
「それは――――――」
わかりかねます、そう口にしかけて、それが音を為す前に飲み下す。そうじゃない、私が言いたかったことは、彼がききたかったことは、そうじゃない。
「お待ち―――いただけるのですか?」
「何を莫迦なこと言ってるんだい君は、当たり前じゃあないか。あまり、寂しいことを言うもんじゃあないよ、本当に」
まるで、娘の門出を見送る父のような言葉に、巡礼尼僧の表情がふと緩む。そして、大きくうなずく退役軍人。そして、帯革の弾薬盒から、銀色の小笛を取り出した。
「それと、これは君に返しておくよ」
「黒騎士様、ですが、これは………!」
どうして、私はもう、こんなもの必要ない。いや、見るのが怖い。自分の醜さを、自分の罪を、目の当たりにするのが嫌だ、思い知らされ続けるのが、怖い。
「女の子のひとり旅が危険なことくらい、知ってるつもりだよ。いいから、私の代わりだと思って、もっていきなさい」
そして、半ば強引に手の中に握らされた、銀の小笛。
「今の君なら、だいじょうぶ、私が請け合うよ」
自信に満ちた言葉と共に、自分の手を包み込む大きな手。そして、その紅い眼鏡の奥から向けられる穏やかな眼差し。こんな私を、それでも信じてくれるひと。そうだった、そんな彼の前で、もう取り繕うのはやめにしよう、自分自身の言葉で伝えよう。そう、決めた。
「はい………それじゃあ、いってきます!」
「うん、気をつけていってくるんだよ」
「ありがとうございます!それと………わたし、もう女の子じゃありません、おじさま!」
「お、おじさま!?」
思いもよらぬ言葉が返ってきたことに、退役軍人の目が丸くなる。相変わらず、黒い兜と色眼鏡に覆われているけれど。でも、今なら、ものすごく慌てふためいているのが、はっきりわかる。やっと、黒騎士様に一矢報いた。巡礼尼僧は、若草色の目をいたずらっぽく細めながら、落ち着かない様子の退役軍人をみつめる。
「あぁ、そうだったね、確かに、今のはちょっと失礼だったかな、ハハハ」
「そうですよ、おじさま!」
わざとらしく頬を膨らませて見せる彼女に、退役軍人は頭をかきながら詫びる。
「いやいや、御免御免、でも、君が元気になってくれたなら嬉しいよ。それじゃあ、また会える日を楽しみにしているからね」
「はい!だから、それまでさよならです、おじさま」
およそ僧侶らしからぬ、村娘のような言葉遣い。でも、これが、わたしの言葉。冒険者でも、僧侶でもない、わたし自身の言葉。そして、嬉しそうに、そして、大きくうなずく退役軍人を前に、巡礼尼僧も、晴れ晴れとした笑顔を返す。そして、訪れた別れの時。
けれども、さようならは別れの言葉なんかじゃなくて。
手を振る退役軍人に送られ、巡礼尼僧は一礼し、故郷へと続く道を歩き出した。一歩、一歩、確かめるように、踏みしめるように。遠ざかる町、遠ざかるあのひと、やがて、その頬を一粒の涙が滑り落ちる。
(私は―――わたしは――――――)
これから贖罪の旅に出る自分、それならば、もう一つ罪を加えても同じこと。
(貴方を―――あなたを――――――)
それでも、その先の言葉が出てこない。心の中でなら、どんなに思っても、叫んでも構わないはずなのに。どうしても、その先を言えなかった、形にできなかった。そんな彼女の心を知ってか知らずしてか、退役軍人は、その姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
いつまでも、いつまでも
私はここにいる、この場所で待ち続けている、と伝えるように。