神奈子は昨日、オオスが帰れるように天狗を呼んでいた。
神奈子はオオスの帰還の奥の手とやらは知らないが、どうせ碌でもない物であると察した。
そこで天狗を呼んだのだった。神奈子としては飽くまでオオスへの善意の行為であった。
オオスは善意による攻撃に弱い。…オオスはまだ天狗とは会いたくなかった。
本来なら、オオスが神奈子の好意に断りを入れることになったかもしれない。
未だに天魔に行ったオオスの狼藉の影響は残っていたからだ。
だが、オオスの考えは覆されることになる。
守矢神社へ来た天狗が、天魔からオオスについて命を受けた犬走椛だったのが原因だった。
…それは偶々だった。身分が低い白狼天狗が守矢神社への遣いに寄越されるのはまずない。
本当に偶々手が空いている天狗がいなかった。…妖怪の山も冬で大変なのだった。
妖怪は神秘の塊であるからこそ人間より信心深く、神仏を敬い畏れていた。
だからこそ、冬の各種行事の準備で忙しかった。
だが、神奈子の、神の依頼を断ったり、遅れたりする方が無礼と白狼天狗の椛が派遣された。
椛は下っ端ではあるが殿上間に出入りする程の礼節がある。それを買われてのことだった。
しかし、守矢神社にて椛はオオスを見つけてしまった。
…それは天魔から直接の依頼であった。
「八坂様、どうかお願いしたいことが…」
椛は無礼を承知で神奈子にさるお方がオオスに会いたいと言っていることを伝えた。
最高位の天狗、天魔の望みを叶えることに椛は必死だった。
…天魔が椛は張り切り過ぎであり、大丈夫かと心配していたことが起きてしまった。
「…それは私が誰かわかって言っているのかい?」
神奈子は椛に不快感を露わにした。…この天狗は神である自分に対して不敬だと思った。
椛の提案は神奈子からすれば天狗の慢心、夜郎自大に感じられたのだ。
だが、
「私はそのお方というのに会ってみたいです」
オオスはこの場において不敬を承知で椛が言うさるお方というのに会ってみたかった。
…オオスも本来はまだ天狗に会いたくないが、椛の必死さを感じ取ったのだ。
「…まあ、いいや」
神奈子はオオスの言葉に引き下がった。
…よくよく考えたらオオスという究極の罰当たりがいるのに天狗の行為等些事であった。
冷静さを取り戻して、椛の必死さを客観視できたというのもあった。
「では、早苗さん、神奈子さん、諏訪子さん。…お世話になりました」
オオスは守矢神社の面々に優雅な礼をもって別れを告げた。
オオスは椛から大天狗達を通して、最終的に天魔の住まう社に案内されていた。
…オオスは誰が自分を呼んだかを薄々察していた。天魔から呼ばれることに驚いていた。
こちらから会いに行くつもりであったが、天魔も大胆なことをすると思った。
オオスも天狗が年末にむけていそがしい時期だと知っていた。
…まさかその頂点から招かれるとは思わなかった。
御簾が垂れた社の上座に天魔はいた。凛とした姿勢が影から伝わって来た。
当たり前であるが、社の主人であり、天狗の頂点である天魔が口を開いた。
「皆の者、客人と二人きりで話したい。下がれ」
天魔は透き通った声で大天狗達に言った。オオスと二人で話したいと告げた。
「…しかし、天魔様」
大天狗が苦言を呈した。このオオスは以前不敬を働いた狼藉者である。
天魔の言葉と、神との関わりがなければ自分が誅したい程であった。
「下がれと言ったのだ。…二度は言わせるな」
天魔は有無を言わせない意思を示した。圧はないが、言葉には重みがあった。
…これほど強い意志を見せた天魔は久方ぶりだと大天狗は思った。
「…はっ!」
大天狗はそれを汲み取って、大急ぎで人払いをした。
天魔の意思こそ、大天狗にとって絶対であった。
そうして、天魔とオオスの二人きりになった。
漸く二人きりになれた天魔は天狗達の融通の利かなさに少々疲れていた。
だが、自分の我儘を聞いてくれたことに感謝もしていた。
「…身分とは難儀な物だ」
天魔はポツリと呟いた。いつぞやと同じように。
「…失礼ながら、何故私を呼んだのでしょうか?」
オオスは純粋な疑問を天魔に聞いた。オオスもよくわからなかった。
興味があるからついて来たが、天魔は何をしたいのだろうか。
取引か交渉かそれ以外かオオスは天魔の考えが読めなかった。
「太古の天狗の術を使う人間に興味を持った…というのは遅いか」
天魔がオオスを招いたのは色々あるが、一番は個人的な感情による物だった。
…それを言うのは恥ずかしいのでどう言ったものか天魔は考えていた。
「…御客人に問いたい。我々は、今の天狗はどう見える?」
天魔はオオスに聞きたいことを思い出し、尋ねた。
それは、天魔がオオスを見つけた時に最初に感じたことでもあった。
「…障碍の民の祖は二つに分かれ、天狗は山に住み、人から離れることで神秘を得た」
オオスは天狗の歴史を踏まえて淡々と客観的な天狗像を述べた。オオスの天狗像だ。
天魔が真面目な話を望んでいるとオオスは感じ取ったので、その通りに答えることにした。
「神の世界からみれば、天狗は一切の救いから切り離された存在と言えるでしょう」
オオスは摩多羅隠岐奈とは別の道を歩んだ天狗の歴史を述べた。
…それはオオスが知った太古の天狗の在り方だった。
だが、
「…本来は」
オオスはこれを現在の天狗に当てはめるのは無理があると思っていた。
「かつての天狗は厳しい修行こそあれども、自由な存在だった」
オオスは妖怪の山に住む天狗の現状を見て感じたことをそのまま天魔に伝える。
そこに遠慮はなく、殺されようが知ったことではなかった。
オオスは天狗の頂点である天魔にこそ一言言いたかった。
「…私はかつてのあなた方を知れば知る程、今の天狗の支配体制が歪んで見える」
オオスは人間の身で言うべきことではないと思いつつも、天魔に、天狗に在り方を問うた。
「それを是とするのは本来の天狗の在り方ではないと私は思います」
オオスはそう締めくくった。…それは無礼千万であった。
本来であればその場で斬り殺されてもおかしくないことをオオスは言い切った。
しかし、
「…左様か」
天魔はオオスの答えをそのまま受け入れた。
…天魔はオオスの無礼な言葉にも全く動じていなかった。
「…やはり、貴方はそう思うか」
天魔はオオスとかつての天狗達を重ねた。…もう天魔以外知らぬ過去へ思いを馳せていた。
「我ながら随分なことを言ったと思うのですが」
オオスは天魔の反応にやや困惑しながらも表向きは平然を保ちつつ言った。
何故、天魔はこれを聞いたのか。オオスは何となくだが、天魔の状況を察した。
…オオスも似たようなことがあったからだ。
「構わない。…聞いたのは私だ」
天魔はそう言った。そしてオオスとの間にある煩わしい御簾を払いのけた。
天魔は立ち上がってオオスの前に近づいた。
そこに現れたのは美しい長い黒髪の凛とした女性だった。
白い羽織を羽織り、立ち振る舞いは美しいものであった。
…天魔はオオスの目だけを見ていた。
「この山の支配体制は鬼の名残りだ。…我らはそれを引き継いだ」
天魔は御簾の上座からも立ち上がり、過去を振り返るようにオオスへ言った。
天魔は全くの部外者であるオオスに内心を溢していた。
「言い訳になるやも知れぬが、我らにとってはその時は最善だったのだ」
天魔は今でも自信をもって言い切れた。
鬼という絶対者がいなくなり、混乱する妖怪の山を落ち着ける為に動いた。
…自分を、天魔を頂点としたシステムを再構築した。
「…」
オオスは天魔の言葉を黙って聞いていた。
…オオスは自らを機関と化した天魔という存在の孤独を感じ取っていた。
「…我らはそれでも今を維持せねばならぬのだ」
天魔は自身の職責を語る。自分に言い聞かせるように。
オオスはそれに思うところがあった。…だから、もう行動することをオオスは決めていた。
天魔の話を聞く姿勢を保ちつつも、オオスは事を成すための計算していた。
「貴方を見つけたのは偶々だ」
そんなオオスの内心を知らない天魔は話題を変えることにした。
オオスは天魔と同じ術を使い、山へ幾度となく不法侵入を繰り返していた。
天狗の頂点である天魔が気が付かない方がおかしかった。
同じようにオオスも気が付いていたようだったが。
…天魔は自由気ままに隠れながらも堂々と振る舞うオオスの姿に魅入っていた。
「…その有り様はかつての天狗のようであった」
天魔はオオスへ言った。…要するに天魔はオオスが羨ましかったのだ。
「だから、話をしたいと思った。…交渉という名目はあったが、それはついでだ」
天魔は私的なことでオオスを呼び出したと言い切った。
…そこには普段の天狗の頂点としてではなく、個人としての天魔がいた。
「…私的な感傷だ」
天魔はそう呟いて、オオスに背を向けた。天魔はオオスを直視できなかった。
…これ以上ない程恥ずべきことをほぼ初対面の人物に漏らしたのだ。無理もなかった。
しかし、
「…面倒臭い」
オオスは天魔を面倒臭いと思った。だから、はっきり言った。
「…何?」
天魔は想像しないオオスの返しに思わず振り返った。
いつの間にかオオスは立ち上がっていた。そして、オオスも天魔の目を見ていた。
オオスは天魔のすぐそばまで近づいていた。…手が届くくらい近くに。
「貴方はいつもここにいるのでしょう?」
オオスは天魔の目を見つつ尋ねた。
つまらないだろうと、それを確認するように。オオスは天魔だけを見ていた。
…オオスは天魔の姿だけでなく、その在り方をも見ていた。
「…だったら暇なときに抜け出しましょうよ」
オオスは無邪気な子どもの悪戯を提案するように天魔へ言った。
オオスは天魔を遊びに誘っていた。…一人では寂しいだろうとオオスは遊びに誘うことにした。
「私が言うのも何ですが、今の在り方も良いのではないでしょうか?」
オオスは前言を翻すようなことを言った。
それは最初とは反対の提案だが、込めた感情もまた別だった。
「…貴方は最初に本来の天狗ではないと言ったと思うのだが」
天魔は思わずオオスへ指摘した。…今のままで良いとはどういうことかオオスへ問うた。
「山の中で灯をともす油もないが、自分の心の月を輝かせばよい」
オオスは天魔の目を見つめて、そう言った。
天魔には心に余裕がない。風情が失いつつあるとオオスは暗に言った。
…それが伝わるか、オオスはわからなかったが。
「貴方は深く考えすぎだ。…孤独という鳥籠に囚われている」
オオスは困惑する天魔を無視して言の葉を続ける。天魔は鳥籠の中にいた。
…かつての己の様に。
「だったら、今から鳥籠から抜け出しましょうよ」
オオスはそう言って天魔の手を取って、否、引っ張って外へと連れ出した。
誰もいない人気のないのを計算して、天狗の頂点を連れ出した。
「…ああ」
天魔はオオスに振り回されながらもオオスの手を振り払うこと無く着いて行った。
…天魔はオオスの我儘に振り回されることにした。
それは他の天狗が違和感に気が付くまでのほんの三十分程度の短い冬の山の散策だった。
オオスは自然を見つけてははしゃぎ、冬の自然に歓喜していた。
天魔とは無関係に天狗の住処にある自然を見ては天魔へ話を振っていた。
…天魔はその時間が永遠に続けば良いのにと思った。
そして、
「ね?簡単に抜け出せたでしょう?」
オオスは天魔に純粋な子どものような振舞いで尋ねた。
天魔はオオスの純粋な姿に魅了されていた。…冬の自然の美しさよりも何よりも。
「ああ…そうだな」
天魔はオオスに改めて魅了されている自分に気が付いた。
…それは初めてオオスを見つけた時からの天魔の思いであった。