朱鷺子は読書が好きな温厚な妖怪である。
朱鷺子は今年を散々な年だったと回想していた。
道端で本を読んでいたら背後から巫女に襲われて本が奪われた。
更に本を取り返そうとしたら巫女の仲間と思わしき魔女にまたボコられた。
…多少腕に覚えがあった朱鷺子のプライドはへし折られた。
それ以来、巫女達に見つからないように朱鷺子はこそこそ隠れて読書をしていた。
外を恐れた結果、冬越しの食料確保すら遅れて朱鷺子は飢え死にしかけていた。
今日も冬の寒空の中、朱鷺子は飢えて弱った体に鞭打ち、食料を探していた。
「私が何をしたというの…」
朱鷺子はこの世に救いの神等いないと確信した。
…自らの失態もあるが、ここまで弱っては凍えて死ぬ。
朱鷺子は弱小妖怪を襲って食料を巻き上げようと考えた。
弱い奴から巻き上げる弱肉強食を朱鷺子は思い出していた。
本により培った理性等とかいう教えは無駄だった。
…朱鷺子には理性という考えが素晴らしく思えたが、この現実の前には何の意味もない空論だった。
妖怪の本能を朱鷺子は思い出し、川を下流していく人魚に目をつけた。
人里近くの方へ向かう人魚の手には山菜と思わしき物が握られていた。
「…この世に神なんていないのよ」
朱鷺子は諸悪の根源、神に仕える巫女の蛮行を思い出して呟いた。
だが、
「…素晴らしい!!」
朱鷺子の背後から男の声がした。
「何やら飢えているようですが、その考えは素晴らしい」
朱鷺子が振り返ると人間の男が自分の神への呪詛を賛美するような戯言をほざいていた。
そして、
「…同士よ!これを食べるが良い」
人間の男は持っていた握り飯を朱鷺子の口に押し込んだ。
…ただ食えと男は朱鷺子に言った。
「…!!」
朱鷺子は驚きながらも、口に押し込まれた握り飯に食いついた。
そして、朱鷺子は涙した。
…神はいないと思っていた時に、神から救いの手が差し伸べられたと思えたのだ。
「…泣きなさるな。同士よ」
男は朱鷺子にそう優しく声をかけた。朱鷺子はこの男がもはや神に見えた。
「…飢えた者にこそ、我が『有情地』は解放される。貴方にはそこに入る資格がある」
男はそう言って何かを唱え始めた。
すると突然、冬の寒空が春になった。
…朱鷺子は悟った。今までいたところから一歩も動いていない。
だが、春の光景がそこにはあった。冬の寒空と凍える風を感じない。
まさに楽園がそこにはあった。
…先ほどまでいなかった妖怪兎や弱小妖怪達がそこにはいた。
朱鷺子はまるで彼等を認識できなかった。
一歩も動いていないのに別世界に来たようだと朱鷺子は思った。
「ここは冬の間のみ解放される飢えた者に食料を与える我が領域、有情地です」
男はそう朱鷺子にそう語った。
…朱鷺子はここがどういうところなのか本で読んだ知識で察した。
ここはこの男の、否、神の世界、異界なのだと理解した。
「本来は山の妖怪に迫害された者の保護区として開放していましたが…」
男、否、神はそう言った。その理屈なら朱鷺子に入る資格はないと思った。
…朱鷺子は追い出されるのかと落胆した。期待しただけにその失意は大きすぎた。
「この地につけた名の『有情』は一切の生きものの総称です」
神は言葉を続ける。朱鷺子は仏教用語か何かだったと思い出した。
…詳しくは知らないが、この神は仏に関係しているのだろうかと朱鷺子は思った。
「…貴方のような者も探し出して、食料を与えられるべきだ」
神は朱鷺子の目を見て、救済を約束した。
…朱鷺子は歓喜した。自らは救われるのだと悟ったからだ。
「私の名はオオス。この先にある『有情湖』の管理人。…今更ながら貴方の名を尋ねたい」
神、否、オオスは朱鷺子にそう言った。
「私の名は朱鷺子と申しま…す…」
朱鷺子は自らの名を神に名乗った。
…朱鷺子は喉が渇いて彼の神を讃える言葉が続いて出てこない。
「…清蘭!すみませんが、ここにいる妖怪、朱鷺子さんに水を!」
オオスは清蘭という名の妖怪兎に声をかけた。
朱鷺子はその清蘭という妖怪兎を見てわかった。…清蘭は自らより強い妖怪兎だった。
「閣下、それは構わないのですが、その妖怪はそこそこ強いですよ?」
清蘭という妖怪兎はオオスに尋ねた。朱鷺子はオオスの最初の言葉を思い出した。
清蘭が正しい。朱鷺子も救われた上に目の前の上位者の言葉に黙るしかない。
「ああ、そうなんですが、例外もいました」
オオスはそう清蘭に言った。
そして、オオスは振り返って朱鷺子の目を見た。
今更ながら朱鷺子はオオスが美しく儚い容姿をしていることに気が付いた。
…思わず見惚れてしまう程に。朱鷺子は言葉を失った。
「朱鷺子さんには同じような境遇の者を探してもらえないか頼もうかと思いまして…」
オオスは朱鷺子にそう言った。オオスは朱鷺子のような者まで救おうと断言してくれた。
「ああ、飢えと渇きで正常な判断ができないでしょう」
オオスは見惚れて沈黙する朱鷺子の様子を誤解したようだ。
…朱鷺子はその任を喜んで受ける気でいた。
「清蘭、悪いのですが朱鷺子さんの食事と水を挙げてください…お願いして良いですか?」
オオスは清蘭に朱鷺子の介抱を依頼していた。
…神が自分から離れてしまう。朱鷺子はせめて彼へ一言感謝の言葉を述べようとした。
「わかさぎ姫さんも少々不用心だ。幸い朱鷺子のような思想の持ち主だからよかったが…」
オオスが何を言っているのか朱鷺子には最早わからない。…朦朧としていた。
だが、
「ありがとうございます」
朱鷺子は朦朧とした意識の中、オオスへこれだけは言えた。
朱鷺子はそうして意識を失った。張り詰めていた気力を失った。
…食料は食べた。妖怪の身である自分は死なないだろうと薄れていく意識の中で安堵した。
まだ生きて、彼の神に恩を返せるのだと朱鷺子は思った。