オオスは寺子屋でゆとり教育の授業をしていた。…本日のテーマは翻訳である。
翻訳と言っても英文を日本語に訳するわけではない。
オオスの言う翻訳とは慧音の授業の内容を理解しているか、授業を真面目に聞いているかの確認だった。
今日のオオスがやったことはその時々の授業の要約と慧音の言葉の言い換えだった。
歴史や論語を中心に生徒一人一人が自分の言葉で纏めたり、言えるかを求めた。
「…及第点、合格ですね」
オオスは寺子屋の生徒達にそう言った。
「「はぁ…」」
生徒達は安堵のため息を吐いた。
…オオスの授業対策の為に慧音の授業の内容を皆で確認し合っていた。
その結果、たどたどしいながらもオオスの問に答えることができたのだった。
生徒達は全員が全員、ホッとしていた。
「最低限は出来ていました。おめでとうございます」
オオスはそんな生徒達に賛辞の言葉を述べた。
しかし、
「…まだ時間的に授業は終わっていませんよ?」
オオスは生徒達への尋問…授業がまだ終わっていないことを告げた。
「えっ…嘘…」
女生徒は思わずオオスの言葉に耳を疑い、時計を見た。
時計の時間を見れば終了まで残り三十分程度時間があった。
「終わっていない…だと」
一番勉強ができない男子生徒は皆からの事前対策でどうにか乗り切ったと安堵していた。
それ故に、目の前の時計の進みが信じられない。
「…」
生真面目な生徒はオオスがこの程度で終わると思っていなかった。
…オオスは『考える』授業だと言っていた。今回は事前に考えていた。
今、この授業の中で考えたというには不足だと心のどこかで思っていた。
「そこの君はわかっているようですが、私の授業がこの程度なわけがありません」
オオスは生徒達に言い切った。この程度で終わるわけがない。
だが、
「しかし、私は優しい先生です」
オオスは白々しさを全く隠さずに生徒達に安心するように言った。
「今日は勉強を碌にしてこなかった生徒が遅れを取り戻せる期間をあげました」
オオスは今日の授業は小手調べだと言い切った。
「考えること…思考の予習を済ませていた君達の為に本番は次回にしましょう」
オオスは次回が本番だと宣言した。
オオスは生徒達が団結して取り組まなければ達成できないギリギリのラインを設けていた。
「そんな…」
限界ギリギリまでやって漸く何とかオオスの問に答えられた男子生徒は声を漏らした。
「…今日できたのなら次回はもっとできますよね?」
オオスは漏れ出た声に反応して言い切った。
オオスは自分の都合もあるが、先ずは遅れた生徒に合わせるように二週間も設けたのだ。
「…残りの時間は自習ですか?」
秀才君はオオスに尋ねた。オオスがそのようなことをすると思えない。
彼は次の授業がオオスの授業を受ける前の自分のギリギリを攻めて来ると確信していた。
彼はオオスの教育により、皆に教える側の立ち位置になった。
そして、彼はオオスの教育方針がわかりかけてきていた。
…オオスは生徒にとって極めて理不尽だが、本当に不可能なことは提示しないのだ。
限界ギリギリで嬲るように生徒達へ課題を押し付ける。だが、一切手を抜かない。
オオスの及第点という言葉は本気であると彼は確信していた。
「いいえ」
オオスは秀才君に微笑みかけた。…オオスとしてはもっと追い詰めたいところだ。
だが、次回のヒントも出さずに彼だけが合格しても一人でもミスをすれば零点にする。
オオスは第三回目で零点卒業式をするとフランドールの家庭教師を任されないと思った。
「次回の授業の内容は明かしませんが、今の授業を再開には少しばかり時間が足りません」
オオスはそう言って授業が続けられないことを残念がった。
しかし、オオスは生徒全員に平等に機会を与えるのだ。
その上で達成できないならば仕方なく零点卒業式だが、機会の不平等は是正すべきである。
…秀才君には今回の復習を担当して貰うことにした。
それを以て皆が思考を纏める最低限度の能力が身に着けられるだろう。
オオスは僅か一か月で幼子に論理的思考の前段階、要約を身に付けさせていた。
秀才君は大変だろうが、その代わりとして、オオスは予習の例題を挙げる。
…オオスの授業は皆が不公平にならない。平等に成長して貰うのだ。
今回の授業の内容程度ならば、皆で集まるまでもなく即答えならなければならない。
それで初めてオオス式ゆとり教育の本番が始まるのだ。オオスは手を抜くつもりはない。
「君達に貸す課題だったものを答えの一つとして例にあげましょう」
オオスはゆとり教育の次の段階へ移行することにした。
…今行った授業の内容を批判をするのだ。それができて初めてオオスの最低限であった。
オオスは黒板にこれまでの生徒達に纏めて貰った内容を書いていく。
それは生徒達が答えた順番ではなく、オオスが好き勝手な順番で書いているように見えた。
だが、生真面目な生徒はあることに気が付いた。
「これは…歴史が関連している?」
彼はオオスが纏めさせた国語の内容と歴史の内容を改めて見つめた。
…彼は古代中国の歴史との関連性を見出した。
「子貢曰く、紂の不善は、是のごとく之甚しからざりしなり。是を以て君子は下流に居ることを悪む。天下の悪皆焉に帰すればなり」
オオスはその中の一文を抜き出して言った。
「要するに殷の紂王は言う程悪くはなかったかもしれないけれど、悪いところにいたからもっと悪く言われるようになったということですね」
オオスは簡単な言葉でわかりやすく、生徒達の纏めた文章の中から抜き出して言った。
歴史の授業で暴虐の限りを尽くしたとされる紂王がそれ程悪くはなかったと国語の教材で書かれていることを指摘した。
「皆さんは封神演義を読んだことはありますか?」
オオスは生徒達に尋ねた。殷周革命について面白おかしく書かれた仙人主体の物語である。
「…ないです」
生徒達は読んだことがないので正直に答えた。オオスが何を言いたいのかわからなかった。
「そうですか…まぁ、それは各自暇があれば読んでみてください」
オオスは生徒達が本当に読んでいないことを悟った。…要約させるつもりでいたが辞めた。
「封神演義は簡単に言うと殷周革命。殷から周への政権交代の政争と戦争の物語です」
オオスは慧音の授業で取り上げた大陸の歴史について語って聞かせた。
「周の武王が人を面白半分で焼き殺したりする極悪人の紂王を討ち取り、殷を倒して周を建国した」
オオスは商とか面倒な国名は持ち出さずに大筋の物語を語った。
「皆さん、質問です。これは善ですか?それとも悪ですか?」
オオスは生徒に尋ねた。…明白な答えをである。
「え、善でしょう?どう考えても」
オオスの問に思わず素で返したのは成績不良だった少年だ。
…今では慧音の授業を皆で復習することでそこそこの成績になってきていた。
「そう善です」
オオスは肯定した。話だけ聞けば全く持って善である。
「しかし、これは武力による国家転覆…反逆です。それは善ですか?」
オオスは再度同じことを尋ねた。善か悪かをその生徒に問うた。
「…善です」
生徒はオオスの反逆という言葉に一瞬、間が空いた物の善と返した。
「そう善です。仁義という錦の旗を掲げて、皆で暴君を打倒し、国まで滅ぼした」
オオスは生徒の答えを肯定しながらも、付け加えるように言った。
「ですが、暴君の紂王ではなく善政を敷いていた王ならどうですか?」
オオスは別の人物を挙げて生徒に聞いた。これは善かと目を見て尋ねる。
「それは…悪です」
生徒は善政を敷いていた王へ反逆し、国まで亡ぼすことは悪だと思った。
オオスの授業は正直に答えなければならない。なので、正直に答えた。
「何故ですか?仁義という善を掲げて、武力による反逆というのは変わりないはずでは?」
オオスは生徒に矛盾を指摘した。同じことをしているのに、どうして悪なのか尋ねていた。
「そ、それは…」
生徒は戸惑った。…同じことなのに何故善悪が違うと思うのか。
「……紂王が悪人だからです」
生徒は無理やり答えを引き出した。…こうとしか言えないし、正しい答えだと思ったからだ。
「そうですね。紂王は悪人だから反逆した。…善というのは間違ってはいませんね」
オオスは生徒の答えを肯定した。
だが、
「最初に私が書いた論語の一節がどんな内容だったか答えてください…今度は君が」
オオスは女生徒を指名して尋ねた。オオスは敢えて秀才君に指名をしない。
オオスは秀才君に敢えて指名しないことで全体的な視野を以て授業の予習をさせていた。
「ええ…紂王はそれほど悪くなかったかもしれないけど悪いところにいたから悪かった?」
女生徒はオオスの問にうろ覚えながらも答えた。
「そうですね、ありがとうございます」
オオスは質問に答えた女生徒に礼を言う。
そして、
「話を戻します。…私が言いたいのは、紂王が悪人かどうかは問題ではないのです」
オオスは話の、考えることを提示することにした。
「周の武王は仁義を押し立てて殷を倒し、新しい王朝を建てました」
オオスは黒板に書かれた慧音の授業の要約、歴史の流れを指し示して言った。
「しかし、ですね。周王朝の側近達は仁義が政治的に必要なことだと理解していたはずなんです」
オオスは歴史の授業を総括しつつ、生徒自身に考えさせた内容とリンクさせた。
そして、
「仁義という『善』を看板にしないと、武力による反逆という『悪』が隠しきれないからです」
オオスは悪を隠す善を説いた。方法論としての大義名分である。
…オオスは子ども達に汚い大人の思考回路を叩きつけた。
「なっ…」
紂王を悪とし、その反逆を善とした生徒は絶句した。
これは果たして善なのか。彼はそう考えてしまった。
「…他の見方をするとこの戦争、善悪だけで片づけられない部分があると思いませんか?」
オオスは子ども達に政治的な善悪を説いた。
「これは果たして善なのか悪なのか。…歴史の授業ではこれを善としています」
オオスは善悪で語る子ども達へ善であると肯定した。
「…そろそろ時間ですね」
オオスはそろそろ授業が終わる時間だと悟った。…リップサービスが過ぎたと反省した。
「今回、私が勝手に話してしまいましたが、次回からは様々な視点で考えてみましょう」
オオスは生徒達へ授業の終わりの言葉としてそう締めくくった。
「では、皆さん再来週こそ本番です。では、さようなら」
オオスはそう挨拶すると前回同様にさっさと帰って行った。
…質問は受け付けない。それは次回の授業だとオオスは行動で示した。
オオスは子ども達に考えることを最後に投げつけて帰って行った。
オオスが帰った後、生徒達は周王朝の側近達の判断が正しいことなのか話し合っていた。
「先生は善だと言っていたけど…本当に正しいのかな?」
紂王を悪と断じて変えなかった生徒は他の生徒に尋ねていた。
…何だか自信がなくなったのだ。
「悪だろう。…だって、紂王は悪なんだから」
他の生徒はオオスの言葉に考えるところはありつつも悪だと断じた。
「ねぇ、貴方はどう思う?」
女生徒は秀才君とオオスに呼ばれた生徒に尋ねた。
「…僕は」
秀才君が答えようとしたその時、
「まだ残っていたのか?…何を話しているんだ」
慧音が未だに残っている生徒達を見つけ、教室に入って来た。
「あ、慧音先生!その…ちょっと」
他の生徒が慌てて言い訳を考えた。
…オオスの件では慧音を心配させないと生徒達の間でいつの間にか決まっていた。
だが、
「…ちょっと授業の復習をしていたんです」
秀才君と呼ばれ始めている生徒は堂々とオオスの授業について話合っていたと言い切った。
「ちょっと!」
女生徒が小声で秀才君を小突いた。
「…そうか。皆、最近勉強熱心だな」
慧音は最近の生徒達の熱心さから特に疑うことなく納得していた。
「でもな。あんまり遅くなると親御さんも心配するからな」
慧音は生徒達に視線を合わせるように言い聞かせた。
…熱心なのは良いが少し張り切り過ぎであると思い、生徒達を慮っていた。
「「…」」
生徒達は慧音の思いやりと限界ギリギリのラインで零点にする気満々のオオスを比べた。
…生徒達は改めて慧音に頼らずにオオスの授業を乗り越えて見せると心に誓った。