月から逃げた兎が地上から戻って来た。
私達綿月姉妹の恩師で在られる八意様の手紙を携えてだ。
私達はその兎を餅つきの現場から月の都の守護、つまり自分達の宮殿に住まわせることにした。
その兎の名はかつてのペットと同じ『レイセン』にした。
そして、八意様の手紙を読み、私達は行動を決めた。
月へ攻め込むという人間達を迎えるために準備をしていた。
反逆の噂は無視することにした。
来るべき時に来る地上の先兵が私の疑いを晴らしてくれるという。
私は八百万の神々の神降ろしをすることができた。
…ここ最近、不明な神降ろしが多発していた。
私、否、綿月姉妹に反逆の意図ありと目をつけられていた。
八意様の教え子ということもあり元々月の中では異端扱いだった私達に恰好の火種だった。
…そんな矢先に八意様の手紙が来た。まさか月へ攻めて来る人妖が居ようとは少し驚いた。
しかし、そのお陰もあり、私は行動が定まり、噂を気にしないようになった。
だが、姉の豊姫は違うようだった。
まだ手紙が来て二日も経たないのにも関わらず姉は海を眺めていた。
熾烈な生存競争の末に穢れた地上の海ではなく、月の静かな穢れ無き海を。
「お姉様、海を見てらしたのですか?…海で何かあったのですか?」
私、依姫は姉の様子を見て言った。…手紙の内容が内容だけに気になったのだろうか。
「いや、まだ変化はないはず何だけどね。八意様の手紙の内容からしても間違いはないわ」
姉はぼんやりとした声で、否、私の心の内を読んで言う。
「…」
私の方が手紙のことが気になっていた。…思わず沈黙してしまう。
行動が定まり、噂を気にしないようになっても気になる物は気になった。
姉の言うことから目を逸らし、何もない海を見つめながらも、どうしても考えてしまう。
「やはり、あの二通目が気になるのね」
姉も気になっているのだろうに飄々として私に問いかけた。
「…八意様のお手紙を読めない方が気になります」
私は姉の言うことについ反応して意地の悪い返しをしてしまう。
だが、
「私はこうやって海を見ると昔、千五百年以上前を思い出すのだけど」
姉は私の返しに含まれる感情を無視して全然違うことを言い出した。
…姉は緊張感に欠けると常々思うが、何千年経っても姉なので中々言い返せない。
「…ああ、確か、亀に乗って地上の人間が来たことがありましたね」
私は気持ちを切り替えて、姉の言葉を頼りに記憶を引き出した。
海に映る月を見て飛び込んで月の都に偶々たどり着いた平凡な地上人だった。
月の都ではなく竜宮城と偽り、匿っていたのだ。…危機感よりも好奇心が勝ってしまった。
だが、ある日彼は帰りたいと言い出してしまった。
そのまま帰らせて月の都の存在を発覚させるわけにはいかなかった。
…困り果てた私達姉妹は師である八意様に相談した。
結果、八意様により人工冬眠で眠らせ、玉手箱と評した老化剤を持たせて地上に返すことにした。
…その行為の本当の意味がわかる頃には八意様は反逆者として地上へ行かれてしまった。
「一介の平凡な漁師が今では神。筒川大明神よ。随分出世したわよね」
姉は地上で祀り上げられ神となった一介の漁師のことを言う。
三百年前のことを知る老人は当時の淳和天皇の耳に入り、蓬莱国へ行った者だとされた。
淳和天皇は彼に会えはしなかったが、その功績を讃え神として祀った。
八意様は地上に忘れかけた月の権威を齎しつつ、漁師を神として祀り上げさせた。
そこまでの計略を練られる師を尊敬した。…そして、自らの浅はかさを悟ったのだ。
「あんな欲深き凡庸な人間を神として祀っているというのは滑稽ですが」
私はかつての失態を胸に秘めて姉へ言う。
「八意様は即断で殺せっておっしゃっていたわよね…」
姉は最初に八意様の答えを思い返した様に言う。
…私達姉妹が躊躇すると、八意様は代案として先ほどの計略を言われたのだ。
優しさは思慮を伴わなければ意味がない。
だから、私は追い返すのみに専念すると誓ったのだ。
「急にそんな昔の話を持ちだしてくるなんてどうかされたのですか?」
私はそう胸に秘めた思いは姉も同じのはずと思い、何故そんな話を持ちだしたのか尋ねた。
「…今度は同じ人間でも毛並みが違う者が来そうな気がしてね」
姉は意味深な発言を持って私に返した。
「…お姉様も二通目が気になっているのではないですか」
私は呆れて姉へ返した。姉も結局は同じなのだ。
「ふふふ。そうね。…だから、海を見ているのかもね」
姉はそう言って海を再び見つめていた。
「…お姉様。運動しないでぼうっとして良い理由にはなりませんよ」
私は運動不足の上に桃を食べ過ぎて糖分取り過ぎな姉に注意した。
「…ふふふ」
姉は笑って誤魔化した。
穢れ無き月の海は今日も静かな音をたてていた。