違和感はあった。
なんとなく人通りが少ないなぁとか、妙に静かだなぁとか思ってはいたけれど、……でも、それだけ。それ以上には思い至ることはなく、ただ当初の目的通り動物病院へと歩いていました。それでも、私が陥っている現状を認識できたのは、否応なく感じさせられる強烈な視線故でした。
なんか、すごく見られてる。
気がする、ではなく。確信できるほどに強い、見られているという感覚。
こんなに、人がいないのに……。
いったいどこから?――と。
そこでようやく、私は気付いた。
どうしてこんなに、人がいないんだろう――って。
時間としてはまだ4時半くらいのはずなのに、この10分くらい全くほかの人の姿を見ていなかった。決して人通りの多い道というわけではないけれど、住宅街という性質上、下校中の学生がそれなりにいてもおかしくない時間帯のはずなのに。
そこまで気付いて最初に感じたのは、ただただ恐怖。人は自分の理解できない現象に見舞われたときが最も恐怖を感じるという話をテレビで見たことがあったけれど、それは本当なんだと否応なく思い知らされる。そして、その何か得体の知れないものに狙われているとなれば、なおさらでした。
どうしよう……。どうするべきなんだろう……。考えながらも、歩みは止めません。なんとなく戻ることはできないような気がして、でも立ち止まるともう動き出せなくなりそうな予感から、とにかく動物病院へと足を動かし続けます。ただ、ぴりぴりと肌を刺すような視線を感じつつ。
途中、曲がり角で嫌な予感があったので遠回りしてみると、少しの間見られている感覚が弱くなりました。でも、直感がまだ安心できないと告げています。今の間に急ごうと少し早足に。こういう時は無暗に走ってはいけないと、以前お兄ちゃんに言われていたような気がしたから。――こういう時?
見られている感覚が弱まったおかげで、周りを見る余裕ができたのかさっきまで気付かなかったことが見えてきました。
まず、時間帯に対して少し辺りが暗すぎるような気がします。……とは言っても、日が暮れたというような暗さではなくて……そう、フィルターを通して見ているような感じ。
そしてもう一つ、人の気配は全くしないけれど、信号機は普通に動いています。さすがにこの状況で信号待ちをする気も起らず、今は一応横断するときに注意する程度で赤信号でも渡ってしまっていますけど……それくらいいいよね?
最後に、信号機が動いていることで思い出したのですが、携帯電話は?と思い取り出してみますが、案の定圏外。アンテナが一本もありません。社長さんみたいに禿げちゃってます。イヌさんのところじゃなくてリスさんやキノコさんのところなら通じていたかも……なんて、若干芽生えた苛立ちを理不尽な八つ当たりに変えて気を紛らわせてみるけれど、そんなことをして意味があるはずもなく。……なんて、私らしくないよね。やっぱりこんな状況に考え方がおかしくなっているのかもしれません。
……でも、少し落ち着いてきました。そして、昔お兄ちゃんから聞いた“こういう時”のお話を少し思い出してきました。それは確か、“不思議なこと”のお話。
『なのは、この世界にはね、科学では決してわからない不思議なことは必ず存在するんだ。』
『不思議なこと?お化けとか?』
『それも一つだ。幽霊や妖怪、そういう不思議なものは、基本的には良いも悪いもないけれど、たまに人にいたずらするような悪い奴もいるし、逆に助けてくれるいいやつもいる。ただ、どちらと出会ったとしても、決して慌てないことだ』
『慌てたらだめなの?どうして?』
『不思議なものをびっくりさせてしまうからだね。不思議なものはみんな結構怖がりなんだ。こっちが慌てて、向こうもびっくりして、ひっちゃかめっちゃかになってしまうと、どうしようもなくなってしまうからね。だから、できるだけ落ち着いて、相手がお話ししてくれるならお話しする。何かいたずらしようとしているなら、相手が何をしようとしているのか見極めるんだ』
『見極めて、どうするの?』
『何か欲しがっているなら、あげられるものならあげてしまいなさい。こちらに害を与えようとしているなら、相手を刺激しないように逃げてしまいなさい。言葉が通じるのならお話しして説得するのもいいけれど……あまりお勧めはできないかな。』
『わかった、不思議なものと会ったときは気を付ける。』
多分、そんな感じだった気がする。うろ覚えすぎて、そもそもその話し相手が本当におにいちゃんだったかもあやしいけれど……。そう言えば、どうしてこんな話を聞くことになったんだろう?
――なのは!――
きつねさん?なんとなく、思い浮かんだイメージ。だけど、それもすぐに霧散してしまった。
ううん。そんなことより、今大事なのはこの状況をどうすべきか。うろ覚えなお兄ちゃんの話から考える限り、私のことをずっと見ている不思議なものが悪いものなのは確実だと思う。その目的が、何か欲しいのか、単純に私にいたずらしようとしているのかはわからないけれど……。というか、いたずらというレベルで済むのであれば、まだましなんじゃないかなとすら思う。
いったい、どうしたらいいんだろう。
そんなことを考えつつ歩いてきて、ついに最初の目的だった動物病院が見えてきた。ただ、このまま病院に入るのかというと、それは何か違う気がするの。中に入ったとして、先生はいないような気がするし、フェレットさんもいるのかどうか……。
――と目的地を目の前にして、私は足を止めた。
瞬間、戻ってくる得体の知れない何かからの強烈な視線。見られている感覚。ただ、さっきとは違うのは、それに怒気が含まれているということ。多分、私がわざと回り道をして、見失わせたことへの怒りなのだろう。
――足を止めて数瞬、直感に従って怪我をするのも厭わずただ前に転がり出る。
その直感は、御神流という武術を受け継いできたお父さんにお兄ちゃん、そしてお姉ちゃんの血を引いているという証拠なのかもしれない。……なんて、こんな状況にもかかわらず妙に冷静に考えてる自分に少し驚き。
―――鈍―――
「ふぇぇ!?」
一瞬の暗転と、すぐ背後から響いてきたコンクリートごと破壊する大きな衝撃音。つい漏れてしまった自分の声が情けないったらないの。飛び込んだ勢いを殺さずそのままでんぐり返り。そして立ち上がろうとして――後ろからの衝撃で躓いてしまった。
けれど、それはむしろ幸運。
轟という音とともに頭上を通り過ぎる何か。髪の毛が掠る感覚が伝わってきて、凍るんじゃないかと勘違いするほどの寒気が全身を包んだ。
蹲って泣き出したい衝動を不屈の心で抑え込み、顔を上げる。やっと目で捉えた私を見ていた何か。それが、50メートルほど先の塀があったはずの場所に存在していた。
――それは真っ黒だった。
ちっちゃい子がクレバスでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような黒。それが随時ぐちゃぐちゃと蠢いていて、立体なのに平面のように錯覚させられる。ただの真っ黒でも、まっくろくろすけみたいな感じならふわふわ感もあっておばけって感じになるのに、そこにいるのは闇落ちしてしまったイノシシの神様みたいな感じで、本当に化け物としか言いようのない見た目が、私の精神力ががりがりと削っていく音が聞こえてきそうなの。
不思議なものの中にはたまにいたずらするものもいる?そんな生易しいものじゃないの。コレは明らかに私を殺しに来ている。百歩譲って、クマがじゃれている的なものだったとしても……どちらにせよ結果は変わらないよね。
塀にぶつかったソレが緩慢な動きで振り返る。真っ赤な宝石のような二つの目が、私の姿を真っ直ぐに見据える。その瞳に吸い込まれるような錯覚に陥りそうになるのを振り払って、病院の手前にある脇道――今の私がいる場所から約5メートル――へ駆ける。
「――――っ!」
――1メートル。
真っ黒なアレがこっちに向かって突進してくる。ほかに避けられるような場所はない。もう一度躓いて頭上を通過するような幸運を期待するほど私は私の運を信じられない。
――2メートル。
私が1メートル走る間に、アレは10メートル近づいてくる。ぎりぎり間に合うか間に合わないか。間に合わなければ私は吹き飛ばされて終わり。こんなことなら運動神経が悪いなんて言い訳せず、もっと速く走る練習をしておけばよかったの。
――3メートル。
距離が近づくにつれて、真っ黒で大きなアレの大きさがはっきりとわかってきたの。真っ黒のぐちゃぐちゃで平面みたいに錯覚させられるなんて言っていたけれど、遠近感も錯覚していたみたい。50メートル離れたところで見た時に感じた大きさよりも全然大きいの。
――4メートル。
アレの大きさに、生物としての本能が恐怖を訴えているみたいで、私の意思とは関係なしに体が震える。竦んで崩れそうになる足に鞭打って無理やりに走る。
――そして、5メートル。
先ほどと変わらず、何のひねりもなく、走る勢いを殺すことなく、着地のことなんて全く頭にないまま脇道へと向かって飛び込んだ。
すぐ横を通り過ぎていく真っ黒な巨体。なんとか間に合った?
――なんて、思う間も無く。
――その巨体が私の肩を掠めた。
掠めただけ。それなのに、私は今まで受けたことのないような衝撃を全身に感じた。映画で見たイノシシの神様もかくやという巨体に比べれば、わずか9歳の私の体なんて小石を弾く程度のもの。掠めただけということと、横に向かって飛んでいる分で衝撃はかなり逃がせているのかもしれないけれど、それでもその衝撃は私を10メートルほども吹き飛ばして、さらにゴロゴロと転がらせ、塀にぶつかるまで止まらないほどの勢いでした。
「あぐ――っ!?」
人生初体験な滞空時間の間に猫さんのように体を丸めていたおかげで、転がる小石のようにコロコロ転がって衝撃は逃がせたけれど、塀にぶつかった衝撃は私に数秒間呼吸を忘れさせる。幸いにも致命傷と言えるような怪我はなさそうだったけれど、致命傷がないから動けるというわけでもない。
体を動かすだけで、体のいたるところに痛みが走る。でもこれだけ痛いのに、動くのには問題ないというのが恨めしい。
「ううぅ……」
そして、動けるなら頑張ろうと思ってしまう自分がもっと恨めしいの。
引きずるように体を起こして、でも立ち上がるまではいかず、塀に背中を預ける。
なんか方がスース―すると思ったら、黒いのが掠ったところの服が破けて肌が見えていた。ちょっとセクシーな感じ?でも9歳にセクシーも何もないよね。というかこれ恥ずかしいです。
身体中が痛いと感じてはいたけれど、どうやら見たところ血が出ているのは――と言ってもかすり傷程度だけれど――掠った肩と露出した足くらいのもので、ほかには特に見当たらない。見えないところで青痣はできているかもだけど。
……こんなことならスカートじゃなくてズボンにしておくんだったと今更後悔しています。早く帰って汗を流したいけれど、怪我が沁みることを考えると少し憂鬱かも。
「……にゃはは」
なんて、こんな状態でまだ私は帰れると考えていることが可笑しかった。
ずるずると真っ黒な巨体を引きずって、ソレは私に近づいてきた。さっきみたいに飛び掛かって来ないのは、私がもう逃げられないと思ってのことなのか……それとも、この黒いのも何回も走って塀にぶつかってしてたし、疲れているのかもしれません。それならもう諦めて欲しいの。鬼ごっこはタッチしたら鬼は交代。
今度はあなたの逃げる番だよ?
それなのに、私の目の前に来て動かなくなる黒いの。その巨体は座り込んだ私の視界を埋め尽くす。二つの真っ赤な宝石のような目と、塗り潰したような真っ黒なぐちゃぐちゃ。遠目の感想で闇落ちしたイノシシの神様みたいなんて言ったけれど、それは案外的を得ていたのかもしれない。真っ黒なぐちゃぐちゃは、近くで見ると理解を拒否したくなるような感じに蠢いていて、呪いを目に見えるようにしたらこんな感じになるんじゃないかと思う。イノシシさんが纏うことになったのはタタリだったけれど、この黒いのは何かが呪いを纏っているのか……実は、眼のように見える二つの赤い宝石のようなのが本体だったりするのかもしれない。
……赤い宝石?
「あ……」
どうして気付かなかったんだろう。赤い宝石は、私も持っていたのに。
見ていると吸い込まれそうな感覚になる真っ赤な宝石。フェレットさんを助けた時に一緒に拾ったもの。
左手をスカートのポケットに入れて手探り、それがあることを確認する。
ピクリと反応する黒いの。
掌に握り込み、取り出そうとして……少し、躊躇する。
本当にこの宝石を渡してしまっていいの?
本当にこれを渡したら見逃してくれるかなんてわからないのに?
本当は渡したら駄目なものなんじゃないの?
そんなことを考えたけれど、もう私には、『この宝石を渡したら見逃してくれる』そんな望みにかけて、この宝石を差し出すしか方法はない。迷えるような選択肢なんて存在しないの。
左手を取り出して、前に突き出した。掌を広げた。
どうして?――相手に見えやすいように。
何のために?――相手が受け取りやすいように。
どうやって?――相手が手で掴んで。
――手なんてあったっけ?
パクリ――と、真っ黒なぐちゃぐちゃのどこからか現れた真っ黒な口が、私の腕ごとむしゃぶりついた。
「……………え?」
うぞうぞと腕に無数の芋虫が這いずり回るような感覚/大丈夫感覚があるならまだ食い千切られたわけじゃない/きもちわるい/掌の上にはまだ宝石が/どうして/形感触匂い味全て確かめるように隙間なく/わんちゃんが餌と間違えて一緒に手もかんじゃうみたいなものかも/たすけて/目的が分からない/衣服の中に入り込んできたそれは腕を伝って肩の方に上ってきて/ネガティブな私が言う、見たまま私をぱくりと食べちゃおうとしてるんじゃないかな/待ってやめてそれ以上来ないで/宝石ごと私も嘗め回されているような/いやだいやだいやだいやだいやだ/上りきったソレは肩口から――。
――ピピピピピピ――
唐突に、電子音が鳴り響いた。
どうしてこうなった