–宇宙世紀0084年–
地球連邦軍最高司令部上層部高官執務室
「閣下、ロンド・ベル拡充人事案の追加分です」
副官が、いつものように書類束を机に置いた。
いつものように。
その言葉を使うのも嫌になるほど、最近の私の机の上は紙で埋まっている。
ロンド・ベル拡充。
シーマ艦隊保護手続。
アナハイム調査委員会。
アナベル・ガトーの司法裁判関連資料。
コウ・ウラキ少尉の再教育課程。
バスク・オム大佐の監査付き配置案。
作業船団補償。
星の屑作戦は終わった。
だが、書類の屑は終わらない。
そんな書類の中の一つで、私は手を止めた。
「これは……」
ロンド・ベル拡充人事案。
ロンド・ベル新任司令官候補。
階級、少将。
経歴欄には、地球連邦陸軍出身、平和維持任務、地上治安作戦、避難民保護作戦、のち宇宙軍統合作戦幕僚、艦隊運用課程修了とある。
知らない経歴ではなかった。
むしろ、その名は何度か私の机に上がっている。
平和維持任務で、現地部隊の暴発を抑えた報告。
地上治安作戦で、強硬派の突入案を退け、避難路の確保を優先した記録。
避難民保護作戦で、補給も兵力も足りない中、最後まで後衛線を崩さなかった戦闘詳報。
宇宙軍へ移ってからは、統合作戦幕僚として、補給、退避、救難、政治調整の面倒な仕事を引き受けている。
派手な戦功ではない。
むしろ、勲章にはなりにくい仕事ばかりだ。
だが、報告書の端々に同じ癖が残っていた。
先に逃がす。
最後まで残る。
そして、生き残った者に次を託す。
その名を見るたびに、私はいつも少しだけ胃が重くなる。
副官がこちらを見る。
「ご存じの方ですか?」
「ああ」
私は書類から視線を外した。
「昔、私を逃がした男の一人だ」
「逃がした、ですか?」
「正確には、私が死ぬつもりで残ろうとしたところを、命令違反で後送した」
副官の眉がわずかに動いた。
「処分対象では?」
「本来ならな」
私は椅子の背にもたれた。
「あの時の私は、彼らに生かされた。勝手に後を託されてな」
私は、再び書類の名前に視線を戻した。
「そして、彼も私同様に託され、生き延びた側だ」
当時は大尉。
今は少将。
約二十年。
人は変わる。
階級が上がれば、なおさらだ。
若い頃に正しかった者が、偉くなっても正しいままでいられるとは限らない。
あの出来事が彼をどう動かすのか気にしていた。
だから私は、彼の名前を見るたびに、少し意地の悪い目で報告書を読んできた。
美談に酔っていないか。
部下を数字で数えるようになっていないか。
避難民を作戦上の障害物として扱っていないか。
自分の責任を若い部下に押しつける側へ回っていないか。
少なくとも、私が見てきた限り、その男は踏み外していなかった。
慎重すぎるほど慎重に退避路を作り、嫌われるほど粘って補給を要求し、評価されにくい後衛任務を引き受けてきた。
ロンド・ベルを拡充する以上、前線の英雄だけでは足りない。
複数の機動群。
補給部隊。
情報班。
保護対象管理。
議会説明。
宇宙軍総司令部との軋轢。
それらをまとめるには、ただ勇敢なだけでは足りない。
誰かに託される重さを知り、誰かに託す残酷さを知っている者がいる。
「適任だ」
私は小さく言った。
副官が静かに問う。
「そこまで信頼されているのですか?」
「信頼はしている」
私は答えた。
「だが、それだけで人事を決めるほど、私は耄碌していない」
「では?」
「この二十年の働きだ」
私は書類を指で叩いた。
「彼を知っているからこそ、余計に疑って読んできた。その上で、適任だと思っている」
副官は黙っていた。
私は、書類の名前をもう一度見た。
この名を見ると、どうしてもあの出来事を思い出す。
遠い砲声の記憶が蘇る。
燃える装甲車。
崩れた検問所。
血と土埃の混じった空気。
そして、私を見つめていた古参曹長の目。
宇宙世紀0063年。
あの時、私はまだ中佐だった。
*
*
*
*
まだ私の髪が今より多く、胃薬の種類も少なかった頃の話だ。
地球連邦陸軍
中央アジア方面不安定地域平和維持派遣部隊 前線司令部
私は派遣部隊の指揮官だった。
地球連邦政府は、宇宙へ目を向け始めていた。
そして、ジオン共和国の独立宣言以降、連邦は宇宙での主導権確保を急いでいた。
ルナツーの軍事基地化。
宇宙艦隊の増強。
サイド自治権を巡る政治交渉。
連邦政府も、軍上層部も、視線は地球の空の上へ向いていた。
だが、地上にはまだ火種が残っていた。
貧困。
資源利権。
旧国家系軍閥。
反連邦武装勢力。
難民。
自治政府の崩壊。
宇宙がどう動こうと、地上では今日も人が逃げ、飢え、撃たれていた。
私の任務は、その一つの地域で停戦監視と市民避難支援を行うことだった。
部隊は、地球連邦陸軍の平和維持派遣部隊。
聞こえはいい。
だが実態は、軽装甲車、歩兵中隊、迫撃砲小隊、旧式ヘリ数機、輸送機誘導班、通信班、医療班。
本格的な機甲部隊ではない。
対する敵対勢力は、停戦合意を破った旧国家系軍閥だった。
戦車。
野砲。
装甲車。
重機関銃。
数も多い。
そして何より、彼らは避難民の列を政治的な人質と見ていた。
「中佐、上級司令部より通信です」
通信士が青ざめた顔で振り返った。
私は地図から顔を上げた。
「繋げ」
雑音混じりの通信が入る。
『中佐、敵勢力の進撃は確認している。だが、派遣群の主任務は停戦監視だ。正規戦闘への深入りは避けろ』
「避難民はまだ三千人以上残っています」
『現地自治政府軍に引き渡せ』
「その現地自治政府軍は一時間前に崩壊しました」
通信の向こうで沈黙があった。
私は続けた。
「ここで我々が退けば、市民は虐殺されます」
『中佐、部隊を失うぞ』
「市民を失うよりはましです」
『君は命令違反をする気か』
「いいえ」
私は静かに答えた。
「任務を遂行するだけです。停戦監視、避難支援、市民保護。最後まで」
通信が切れた。
司令部の空気が重くなる。
若い大尉が私を見た。
二十代後半。
冷静で、真面目で、軍規に厳しい男だった。
士官学校を優秀な成績で出て、平和維持任務で現場経験を積んでいる。
若いが、決して机上の士官ではなかった。
後に、彼は連邦軍の統合作戦畑へ進み、宇宙軍の艦隊運用も学び、四十代後半で少将となる。
だが、この時の彼は、血と泥の匂いを知ったばかりの大尉だった。
「中佐、本当に残るのですか」
「残る」
「敵は我々の三倍以上です。火力差もあります」
「知っている」
「増援は?」
「間に合えば幸運だ」
「間に合わなければ?」
「我々で持たせる」
私は地図に手を置いた。
避難路は一本。
山間の旧滑走路へ続く道。
そこから輸送機を順次離陸させる。
敵は北側の幹線道路と東側の乾いた河床から来る。
南側は崖。
西側は市街地。
市民を逃がすには、北と東を止めるしかない。
「第一検問所は橋を爆破して後退。第二検問所は高地から迫撃砲で足を止める。装甲車小隊は東側河床で囮になれ。敵戦車を市街地へ入れるな」
「囮、ですか」
「逃げる囮だ。死ぬ囮ではない」
私は若い大尉を見た。
「生きて時間を稼げ。死ぬのは最後の手段だ」
その時の私は、そう言った。
だが、戦場では、最後の手段はすぐに来る。
戦闘は昼過ぎに始まった。
最初の砲撃で、第一検問所の通信塔が吹き飛んだ。
だが、橋は爆破できた。
敵戦車は足を止められた。
第二検問所の迫撃砲小隊は、敵歩兵の進撃を三度止めた。
装甲車小隊は河床で敵を引きつけ、砂煙の中を逃げ回りながら、避難路から敵を遠ざけた。
私は前線司令部で指揮を続けた。
「第二検問所、弾薬残量は?」
『残り三割!』
「撃ちすぎるな。敵が河床へ移るまで待て」
『了解!』
「医療班、滑走路側へ下がれ。負傷兵は避難民誘導に回せ。動ける者は全員使う」
『了解!』
「輸送機の離陸間隔は?」
『予定より遅れています! 民間人の搭乗整理に時間が!』
「整理班を増やせ。泣いている子供から乗せろ。子供とその親、老人、負傷者、医療班の順だ」
命令を出すたびに、誰かが危険な場所へ行く。
命令を出すたびに、誰かの死ぬ確率が上がる。
それでも、命令を止める訳にはいかない。
指揮官が感情で止まれば、その瞬間に市民が死ぬ。
午後三時。
第二検問所から通信が入った。
『中佐、第二検問所、持ちません』
声は軍曹だった。
一年以上、私の下で働いていた古参だ。
「後退しろ」
『避難民がまだいます。道に取り残されています』
「人数は」
『二十名ほど。子供がいます』
私は拳を握った。
「三分だ」
『はい?』
「三分だけ持たせろ。三分で、必ず下げる」
通信の向こうで、軍曹が笑った気がした。
『了解。三分、買います』
私は通信を切り、すぐに命じた。
「予備班、避難路へ走れ! 第二検問所前方の市民を回収! 煙幕を張れ!」
「了解!」
三分後、避難民二十一名は救出された。
第二検問所からの通信は途絶えた。
私は一瞬だけ目を閉じた。
軍曹の顔が浮かんだ。
だが、すぐに目を開けた。
「第三防衛線、前へ。避難路を閉じさせるな」
若い大尉が私を見ていた。
何か言いたそうだった。
だが、彼は言わなかった。
その代わり、敬礼して走った。
夕方。
滑走路には、最後の輸送機が残っていた。
避難対象はあと百数十名。
弱者に席を譲った勇気ある市民、民間代表、通信記録を抱えた自治政府職員。
最後の機が離陸するまで、三十分。
敵は防衛線を突破しつつあった。
残存兵力は、五十名を切っていた。
弾薬は少ない。
装甲車は二両が行動不能。
迫撃砲も一門だけ。
通信は途切れがち。
若い大尉が、泥と血にまみれた顔で報告した。
「中佐、もう防衛線は維持できません」
「なら、こちらから前へ出る」
「突撃ですか」
「敵を止めるのではない。敵の足を止める。三十分だけだ」
司令部にいた兵たちが、静まり返った。
私はライフルを手に取った。
弾倉を確認する。
そして、銃剣を着剣した。
金属音が、やけに大きく響いた。
「中佐、それは」
「私も出る」
「指揮官が先頭に立つべきではありません」
「正論だ」
私は答えた。
「だが、今必要なのは正論ではなく、三十分だ」
兵たちが集まった。
疲れ切った顔。
泥だらけの軍服。
震える手。
それでも、彼らは逃げなかった。
私は彼らの前に立った。
「諸君」
声が自然に出た。
不思議と震えなかった。
「我々は、勝つためにここにいるのではない」
兵たちがこちらを見る。
「市民を逃がすためにここにいる」
遠くで砲声が響く。
「後ろには、武器を持たぬ連邦市民がいる。我々の助けを必要としている人々がいる」
私は滑走路の方を見た。
最後の輸送機に、避難民が乗り込んでいる。
「ここを抜かれれば、彼らは死ぬ」
息を吸った。
「ならば、我々が立つしかない」
私はライフルを掲げた。
「連邦市民を守れ!」
兵たちの背筋が伸びる。
「我らが、最後の盾なのだ!」
誰かが叫んだ。
それに別の誰かが続いた。
恐怖は消えない。
だが、足は前へ出る。
煙幕が張られた。
残った装甲車が唸りを上げる。
迫撃砲が最後の弾を放つ。
我々は、前へ出た。
銃撃。
爆発。
砂煙。
悲鳴。
怒号。
敵は多かった。
火力も上だった。
それでも、地形はこちらが知っている。
崩れた建物の影。
乾いた水路。
破壊された検問所の残骸。
そこを使って、我々は敵を細く引き伸ばした。
「左翼、撃つな! まだ引きつけろ!」
敵歩兵が近づく。
「今だ、撃て!」
一斉射撃。
敵の先頭が倒れる。
「装甲車、後退しながら撃て! 止まるな!」
砲弾が近くで炸裂した。
私は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
耳鳴り。
口の中に血の味。
それでも立つ。
「輸送機は!」
誰かが叫ぶ。
「あと二十二分!」
「なら、二十二分生きろ!」
「総員!連邦軍人としての本分を果たせ!」
その時、本気で思った。
ここが自分の墓場だ、と。
それでいいと思った。
市民が助かるなら、それで十分だと。
敵兵が肉薄する。
私はライフルを撃った。
弾が切れる。
銃剣で受ける。
肩に銃弾が走る。
左腕が痺れる。
額から血が流れる。
それでも、足は下がらなかった。
「中佐、後退を!」
「まだだ!」
「中佐!」
「まだ輸送機が飛んでいない!」
若い大尉が、私の横に来た。
彼も血まみれだった。
「中佐、あなたは下がるべきです」
「意見具申なら却下だ」
「意見具申ではありません」
彼はそう言った。
その声が妙に静かだった。
「お願いでもありません」
「何?」
「これは、我々の判断です」
背後に、古参曹長がいた。
彼は第二検問所で死んだ軍曹の友人だった。
「中佐、あんたはここで死ぬつもりでしょう」
「指揮官が兵を置いて逃げる訳にはいかん」
曹長は、何かを決めた目で私を見ていた。
煤と血で汚れた顔の中で、その目だけが妙に静かだった。
私は、その静けさの意味をそのときは理解できなかった。
「だから駄目なんです」
私は彼を睨んだ。
「命令違反だぞ」
若い大尉が頷いた。
「承知しています」
「私は兵たちと残る」
「だから、我々が止めます」
次の瞬間、腹に衝撃が走った。
古参曹長の拳だった。
いや、正確には拳と、鎮静剤の注射だったらしい。
視界が揺れる。
私は膝をついた。
「貴様ら……」
「申し訳ありません、中佐」
若い大尉が私を支えた。
「あんたは、残れば必ず最後まで戦う。だから、我々が止めます」
古参曹長が静かに語りかける声が聞こえた。
「私が……逃げるわけには……」
「逃げるんじゃありません」
彼の声が遠くなる。
「生きて、次の市民を守るのです」
私の体は装甲車に押し込まれた。
扉が閉まる。
外で兵たちが再び防衛線へ戻っていく。
私は動こうとした。
だが、体が動かない。
「待て……私は……」
意識が遠のく。
最後に見えたのは、滑走路から離陸する輸送機の影だった。
その機影を見て、残った兵たちが叫んでいた。
歓声だったのか。
怒号だったのか。
祈りだったのか。
今でも分からない。
次に目を覚ました時、私は野戦病院にいた。
白い天井。
消毒液の匂い。
包帯だらけの体。
腕は吊られ、胸には固定具、頭には包帯。
しばらく、自分が生きていることが理解できなかった。
「中佐」
声がした。
若い大尉だった。
彼も負傷していた。
片腕を吊り、顔には包帯。
だが、生きていた。
「……輸送機は」
「離陸しました」
彼は敬礼した。
「避難民は全員、退避完了しました」
私は目を閉じた。
「そうか」
「増援は、最後の輸送機離陸から十二分後に到着しました。敵勢力は撃退されました」
「残った部隊は」
大尉は黙った。
その沈黙だけで、分かった。
「名簿を」
「中佐、今は」
「名簿を持ってこい」
彼はしばらく迷い、それから折り畳まれた紙束を差し出した。
戦死者名簿。
行方不明者名簿。
重傷者名簿。
名前が並んでいた。
第二検問所の軍曹。
迫撃砲小隊の班長。
装甲車小隊の操縦手。
通信士。
医療班員。
若い兵。
古参兵。
私に鎮静剤を打った古参曹長の名前も、戦死者欄にあった。
私は名簿を見た。
文字が滲んだ。
泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
声は出なかった。
ただ、涙だけが落ちた。
大尉が言った。
「我々は、任務を果たしました」
「ああ」
私は名簿を握った。
「だが、彼らは帰らない」
「はい」
「彼らの名前は」
私は絞り出すように言った。
「私が記録に残す」
大尉は敬礼した。
「中佐なら、そう言うと思っていました」
私は彼を見た。
「なぜ私を逃がした」
「あなたが、これからもっと多くの市民を守る軍人になると思ったからです」
「買い被りだ」
「そうかもしれません」
大尉は静かに言った。
「ですが、我々はそう信じました」
その言葉は、今も私の中に残っている。
守れた市民がいた。
守るために死なせた部下がいた。
その両方を抱えて、私はその後も軍人であり続けた。
勝利の勲章よりも、戦死者名簿の方が重かった。
そして今も、重い。
*
*
*
*
–宇宙世紀0084年–
地球連邦軍最高司令部上層部高官執務室
「閣下」
副官の声で、私は記憶から戻った。
机の上には、人事案がある。
ロンド・ベル増強に伴う新任司令官候補。
あの時の若い大尉。
今は少将。
紙の上の経歴は、もう何度も見ている。
平和維持任務。
地上治安作戦。
避難民保護作戦。
統合作戦幕僚。
艦隊運用課程。
そこに並ぶ文字だけを見れば、順当に階段を上がってきた軍人に見える。
だが、私には、その一行一行の裏に別のものが見えていた。
撤退路を作るために、上級司令部と揉めた報告。
避難民の列を守るために、突入命令を遅らせた記録。
補給が足りないと、嫌われるほどしつこく要求した通信控え。
戦功にはなりにくい。
派手でもない。
だが、部下と市民を数字にしない者の痕跡だった。
人は変わる。
階級が上がれば、なおさらだ。
若い頃に正しかった者が、二十年後も正しいままでいられるとは限らない。
だが、少なくとも私が見てきた限り、あの男は踏み外していない。
0063年のあの日、彼もまた生き残った。
上官を後送し、仲間を戦場に残し、それでも任務の結果を引き受ける側に立たされた。
生き残った者は、戦場から解放されるわけではない。
託されたものを、別の形で背負い続けることになる。
その重さを知らない者に、ロンド・ベル全体は預けられない。
ブライト・ノア中佐は優秀だ。
実戦指揮官として、あれほど信頼できる男は少ない。
だが、増強されたロンド・ベル全体は、もはや小規模部隊ではない。
それを背負うには、中佐の肩には重すぎる。
現場には、刃が要る。
だが、その刃を折らせないための盾も要る。
「彼をロンド・ベル司令に推す」
私は言った。
副官が静かに確認する。
「ブライト中佐は?」
「第1機動群司令兼トロイホース艦長だ。現場指揮は彼に任せる。新任司令はロンド・ベル全体を統括し、政治と制度の盾になる」
「盾、ですか」
「ああ」
私は書類に署名した。
「ロンド・ベルには、剣だけを並べても駄目だ。誰かが、剣を振るう者たちの前に立たなければならん」
副官は少しだけ黙った。
「その少将なら、それができると」
「できる可能性が高い」
私は答えた。
「この二十年、あの男は華々しい勝利よりも、後送、退避、救難、補給、調整を積み上げてきた。自分が前に出るだけの男ではない。残る者と逃がす者、その両方の重さを知っている」
私は署名済みの人事案を、副官へ差し出した。
「だから推す。昔の記憶ではなく、二十年分の職務で判断する」
副官は書類を受け取った。
「承知しました」
「人事局には、推薦理由も添えろ。前線経験、避難民保護実績、統合作戦幕僚としての調整能力、宇宙軍運用課程修了。情緒的な話ではなく、職務適性として通せ」
「了解しました」
「それと、ブライト中佐の権限を削るような形にはするな。彼は現場の中核だ。新任司令は、彼を縛るためではなく、守るために置く」
「その表現で通しますか?」
「柔らかくしろ。人事局が胃痛になる」
「閣下ほどではないかと」
「比較対象にするな」
副官はほんのわずかに口元を動かした。
たぶん、笑った。
「閣下、次は即応治安・対テロ部隊構想の会議です」
「分かっている」
「その後、医務室です」
「……分かっている」
「逃げませんね?」
「逃げたら、あの日に生き残った意味がなくなる」
今度こそ、副官は少しだけ笑った。
私は書類を手に立ち上がった。
あの日、私は死ぬつもりだった。
だが、部下たちは私を生かした。
そして、若い大尉だったあの男も、生き残る側に立たされた。
生き残った者には仕事がある。
守れた市民のために。
守るために死なせた兵たちのために。
そして、これから守らねばならない人々のために。
私は今日も、書類に向かう。
あの日の盾に、恥じぬように。
地球連邦軍上層部は、昔から多忙です。