--宇宙世紀0080年末--
地球連邦軍最高司令部
一年戦争は終わった。
そう、記録上は書かれている。
だが、ゴップは、その言葉を信用していなかった。
戦争とは、停戦文書に署名した瞬間に終わるものではない。
焼けた都市。
裂けた補給線。
失われた艦隊。
帰らない兵。
行き場を失った難民。
捕虜収容所に積み上がる名簿。
そして、勝者の顔をして次の利権を探し始める者たち。
それらが残っている限り、戦争は形を変えて続く。
ジャブローの奥深く、地球連邦軍最高司令部の執務区画で、ゴップは退役前の書類を整理していた。
ゴップの退役は、すでに内定している。
表向きには、名誉ある退役だった。
一年戦争を勝利に導いた地球連邦軍大将の一人。
最高司令部の中枢で、軍政、兵站、予算、物資調達を支えた男。
だが、ゴップ自身は、自分を英雄だと思ったことなど一度もなかった。
英雄という言葉は、前線で兵を鼓舞し、歴史の表に名を刻む者に与えられる。
レビルのような男には似合う言葉かもしれない。
だが、ゴップはその言葉を羨んではいなかった。
レビルは前で兵を動かした。
自分は後ろで兵を飢えさせなかった。
前線で勝つ者が必要なら、後方で戦争を続けさせる者も必要だ。
旗を掲げる者がいるなら、その旗を掲げ続けるための燃料、弾薬、食料、金、人事、政治的根回しを揃える者もいる。
どちらが清いかなど、どうでもよい。
どちらが欠けても、連邦は一年戦争を戦い抜けなかった。
ゴップは、そう理解していた。
「……さて」
ゴップは、一枚の人事資料で指を止めた。
そこには、すでに大将へ昇進した一人の軍人の名前だった。
最高司令部高官の男。
一年戦争中、最高司令部の中枢で、戦時民間防衛、兵站統制、被災地復旧、戦後処理の多くに関与していた。
前線で華々しく名を上げた人物ではない。
だが、ゴップはこの男をよく知っている。
資料の上だけではない。
実務の上で、何度もその名を見てきた。
ブリティッシュ作戦後の被災地域への救援割当。
ジオン地球侵攻時の民間避難計画。
ジャブロー防衛時の非戦闘員退避経路。
オデッサ作戦後の捕虜、避難民、負傷兵の処理。
戦後の残党対策と復興物資配分。
どれも派手ではない。
勲章映えもしない。
だが、失敗すれば何十万、何百万の市民が死ぬ仕事だった。
そして、この男はそれを処理していた。
愚痴を言いながら。
胃薬を飲みながら。
部下に怒られながら。
それでも、現場に責任を押しつけずに。
ゴップは、半年前の会話を思い出した。
◆ゴップの執務室
宇宙世紀0080年中頃。
ゴップ大将は、最高司令部高官を執務室へ呼び出した。
その時点で、彼の階級は中将だった。
入室した最高司令部高官は、姿勢を正して敬礼した。
顔色は悪い。
目の下には疲労が滲んでいる。
軍服はきちんとしているが、どこか書類に埋もれていた人間特有のくたびれ方がある。
ゴップは、その様子を見て内心で少し笑った。
この男は、戦後になっても戦場にいる。
ただし、その戦場は机の上だ。
「座りたまえ」
「はっ」
最高司令部高官は椅子に座った。
座り方にも疲労が見える。
「睡眠は取っているかね」
「必要最低限は」
「必要最低限という言葉を使う者は、大抵足りておらん」
「医務室にも同じことを言われました」
「医務室は正しい」
ゴップは資料を閉じた。
「君を、大将に推す」
あまりにも平然とした声だった。
最高司令部高官は、一瞬、言葉を失った。
「……私を、ですか」
「他に誰がいる」
「私は、まだ中将としての職務も片付けきれておりません」
「片付く日は来ない」
ゴップは短く言った。
「軍務とはそういうものだ。机の上が綺麗になったら昇進する、などという制度は存在せん」
「しかし、私には大将職は重すぎます」
「重いに決まっている」
ゴップはようやく顔を上げた。
その声は穏やかだった。
だが、逃げ道を許さない声だった。
「大将の階級章が軽いはずがない。軽いと思う者には付けさせん。重いと知っている者にしか、付けさせる意味がない」
最高司令部高官は、何も言えなかった。
ゴップは続けた。
「君には出世欲がない。それは知っている」
「でしたら」
「だが、出世欲がないことを美徳だと思うな」
その言葉は、刃のようだった。
「出世欲がない。権力欲がない。名誉に興味がない。聞こえはいい。だが、それは時に、責任ある地位に就くことから逃げるための、もっとも上品な言い訳になる」
「私は、逃げているつもりはありません」
「ならば、なぜ大将職は重すぎると言った」
最高司令部高官は沈黙した。
ゴップは、その沈黙を逃がさなかった。
「君は市民を守りたいと言う。現場を使い潰したくないと言う。補給を切らすな、避難経路を確保しろ、戦後処理を現場に押しつけるな、と言う」
「それは当然のことです」
「当然ではない」
ゴップは即座に否定した。
「それを当然だと言える者は少ない。だから、君のような人間が上に立たねばならん」
最高司令部高官は、わずかに眉を寄せた。
「私は、軍を私物化するつもりはありません」
「誰が私物化しろと言った」
ゴップの声が、わずかに低くなった。
「権力を嫌う者ほど、権力の使い方を誤ることがある。自分は権力を欲していない。だから清廉だ。そう思った瞬間、権力への責任を見なくなる」
「……」
「君は権力を握ることを、汚いと思っているのではないか」
その問いに、最高司令部高官は答えられなかった。
ゴップは静かに言った。
「汚いものだよ、権力は」
その言葉は、妙に穏やかだった。
「人事を動かす。予算を奪う。艦隊を前に出す。誰かを昇進させ、誰かを退ける。時には、誰かに死地へ行けと命じる。綺麗なもののはずがない」
ゴップは椅子に深く座り直した。
「だが、汚いからといって触らなければ、もっと汚い者が持っていく」
最高司令部高官は、顔を上げた。
「君が持たなかった権限は、君より市民を見ていない者が持つ。君が拒んだ階級章は、君より兵を数字で見る者が付ける。君が嫌った椅子には、君より責任から逃げることに長けた者が座る」
ゴップは淡々と言った。
「それでも君は、自分は出世欲がないから関係ない、と言えるか」
答えは出なかった。
出せなかった。
ゴップは、その反応を見て、わずかに目を細めた。
「君を善人だとは思わん」
「……そうですか」
「善人なら、とっくに潰れている」
その言葉に、最高司令部高官は少しだけ苦笑した。
「では、私は何ですか」
「面倒な軍人だ」
ゴップは即答した。
「市民を守ると言いながら、軍を嫌い切れない。権力を嫌いながら、権力がなければ守れないものがあると知っている。現場を信じると言いながら、現場に丸投げする者を許さない」
ゴップは書類を一枚、机の上に置いた。
それは、大将昇進に関する推薦資料だった。
「だから君を推す。推薦人にも、私の名を連ねる」
最高司令部高官は、資料を見つめた。
「……ゴップ大将が、ですか」
「不満かね」
「不満ではありません。ただ、私がゴップ大将の後継者と見られれば、軍内で敵を増やします」
「増やせばいい」
ゴップは即答した。
最高司令部高官は、言葉に詰まった。
「大将になるとはそういうことだ。敵を作らずに大将の星を付けられると思っているなら、その時点で器ではない」
「私は派閥政治を好みません」
「好む必要はない。だが、避けられると思うな」
ゴップは推薦書に視線を落とした。
「権力を持てば、敵はできる。人事を動かせば恨まれる。予算を動かせば奪われた者が憎む。艦隊を動かせば、死者の遺族に名を覚えられる」
ゴップは、そこでわずかに声を低くした。
「それでも立てる者でなければ、大将など務まらん」
「私に、あえて矢面に立てと仰るのですか」
「そうだ」
ゴップは即答した。
「私の推薦で敵が増えるなら、それも背負いたまえ。安全な道など、これからの連邦軍には残っておらん」
最高司令部高官は黙った。
「ただし、勘違いするな」
ゴップは書類に指を置いた。
「私は、君に首輪を付けたいわけではない。私の駒にしたいわけでもない。派閥を継がせたいわけでもない」
「では、なぜ」
「君が私の後継者を名乗るようなら、推薦などせん」
ゴップは笑った。
「君には似合わん。私は、君を私の後継者にしたいのではない。私の後に、軍の中で立っていられる者を残したいだけだ」
「同じことではありませんか」
「違う」
ゴップは短く言った。
「後継者とは、前任者の旗を継ぐ者だ。君は私の旗など継ぐ必要はない。君が掲げるべき旗は、君自身がすでに持っている」
最高司令部高官は、言葉を失った。
ゴップは、少しだけ声を低くした。
「私は退く。軍は変わる。戦争に勝った軍ほど、勝利の毒に酔う。ジオンへの憎悪、スペースノイドへの恐怖、復讐心を利用したい者たち。そういう連中が必ず出てくる」
「……」
「その時、軍の中に、権力を欲していないのに権力を持たされた者が一人くらいいてもいい」
ゴップは、最高司令部高官を見据えた。
「ただし、勘違いするな。権力を欲していないことは免罪符ではない。持たされた以上、使え。嫌でも使え。泥に手を入れろ。綺麗なまま市民を守れると思うな」
その言葉に、最高司令部高官は深く息を吐いた。
「厳しいことを仰いますね」
「君に甘い言葉をかける者は多いだろう」
ゴップは言った。
「市民を守った。兵を使い潰さなかった。戦後処理を支えた。そう褒める者はいる。だが、君に必要なのは褒め言葉ではない」
「では、何が必要だと」
「君が逃げようとした時に、逃げるなと言う者だ」
部屋が静まった。
ゴップは書類を閉じた。
「君は大将になる。君の意思とは関係なくな」
「横暴ではありませんか」
「政治とはそういうものだ」
ゴップは悪びれなかった。
「不服なら、昇進後に私の判断が誤りだったと証明してみせろ」
「どうやって」
「市民を守れ」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
「権力を嫌うなら、権力を使って市民を守れ。階級章が重いと言うなら、その重さに潰されずに立て。君が本当に軍人なら、それで答えになる」
最高司令部高官は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに敬礼した。
「……了解しました」
ゴップは満足そうにはしなかった。
ただ、いつものように老獪な顔で、短く言った。
「結構。では働け、大将候補」
「まだ中将です」
「すぐに逃げ道はなくなる」
そう言って、ゴップは再び書類に目を落とした。
◆寄生虫の理屈
最高司令部高官が去った後、ゴップはしばらく椅子に座ったままだった。
良い男だ。
だが、危うい。
市民を守るという信念は強い。
現場を知っている。
血も見ている。
兵站も知っている。
政治の汚さも、完全に知らぬわけではない。
だが、それでもまだ、権力をどこかで忌避している。
それは美徳ではない。
権力を嫌ったまま権力を持つ者は、時に判断を遅らせる。
自分の手を汚すことを恐れ、他人の手が汚れてから怒る。
それでは遅い。
ゴップは、自分が善人でないことを知っていた。
連邦政府も、連邦軍も、肥大化した官僚組織も、清らかなものではない。
富を食い、予算を食い、人を動かし、時には市民の苦しみの上に制度を作る。
寄生虫のようなものだ。
だが、宿主を殺す寄生虫は愚物である。
人類という宿主。
連邦市民という宿主。
地球圏社会という宿主。
それが死ねば、連邦も軍も政府もない。
自分たちは、そこに生かされている。
だからこそ、生かしてもらった分、宿主を殺してはならない。
それが、ゴップにとっての義務だった。
理想ではない。
贖罪でもない。
ただの計算であり、矜持である。
「私は、市民を宿主とは呼びたくありません」
あの中将なら、そう言うだろう。
ゴップは小さく笑った。
それでいい。
あの男は、それでいい。
自分のような寄生虫が一人いるなら、軍の中には盾を名乗る者が一人くらいいてもいい。
ただし、盾にも手入れが必要だ。
理想だけで磨かれた盾は、泥の中で割れる。
泥に沈め、汚し、それでも折れないかを見る必要がある。
だから、ゴップは主人公に甘い道を用意するつもりはなかった。
推薦する。
敵も増やす。
責任も背負わせる。
そのうえで、首輪は付けない。
あの男が立てるなら、それでよい。
立てなければ、そこまでの器だったというだけの話である。
◆推薦状
大将昇進に必要な推薦は軽くない。
先任の現役大将。
国防総省局長級以上の行政官。
連邦議会国防委員会の委員。
それぞれが推薦に名を連ねるということは、単に「優秀だから昇進させる」という意味ではない。
この人物が大将となった後、その判断が連邦軍全体へ与える影響について、自分も責任を負うという意味である。
ゴップは、その重さを理解していた。
だから、安易な推薦はしない。
だが、この中将については、すでに腹を決めていた。
推薦理由は、思想ではない。
思想など、書類に書けば政敵の餌になる。
書くべきは実績だ。
ブリティッシュ作戦後の被災地救援割当。
地球侵攻時の民間避難統制。
ジャブロー防衛時の非戦闘員退避計画。
オデッサ作戦後の補給再編。
戦後捕虜処理と残党情報整理。
現場部隊を使い潰さない補給基準。
軍政と現場の双方を理解した危機対応能力。
それらを淡々と並べる。
派手な言葉はいらない。
英雄譚もいらない。
数字と結果で十分だった。
「ゴップ大将」
側近が声をかけた。
「本当に、この方を推薦なさるのですか」
「不満かね」
「不満ではありません。ただ、この方は派閥を作る人物ではありません」
「だからよい」
ゴップは書類に署名した。
「派閥を作りたい者なら、私が推す必要はない。勝手に誰かへ媚びる」
「ですが、ゴップ大将の推薦を受ければ、あの方は軍内で敵を増やします」
「増やせばよい」
側近は口を閉ざした。
ゴップは、署名した書類を封筒に入れる。
「大将とは敵を持つ階級だ。敵が増えることを恐れる者に、大将の星は重すぎる」
「守っては差し上げないのですか」
「守る?」
ゴップは小さく笑った。
「私は推薦する。責任も負う。だが、庇護はしない」
「なぜです」
「庇護されねば立てぬ者なら、私が推薦する意味がない」
ゴップは淡々と言った。
「ただし、私の駒だとは思わせん。そこだけは違う。敵は増やしてよい。だが、首輪は付けん。あの男には、自分の足で立たせる」
側近は、ようやく理解したように頷いた。
「厳しいですね」
「甘い時代ではない」
ゴップは短く答えた。
◆大将昇進
宇宙世紀0080年中旬。
最高司令部高官の大将昇進が正式に決まった。
本人は、見事に困惑していた。
ゴップは、それを聞いて声を出して笑いそうになった。
笑わなかったのは、周囲に人がいたからである。
昇進後、最高司令部高官はゴップの執務室へ報告に来た。
肩には、大将の階級章があった。
まだ馴染んでいない。
階級章の方が、本人に遠慮しているようにすら見える。
「昇進の報告に参りました」
「見れば分かる」
ゴップは書類から目を上げた。
「階級章が増えた分だけ、逃げ道が減ったな」
最高司令部高官は、少しだけ苦い顔をした。
「逃げるつもりはありません。ただ、背負うものが増えすぎました」
ゴップは内心で満足した。
それでいい。
背負うものの重さを分からぬ者に、大将の星を付けさせるわけにはいかない。
「重いか」
「重いです」
「ならば、まだましだ」
「まし、ですか」
「重さを感じない大将ほど、始末に負えんものはない」
ゴップは言った。
「君は今日から、失敗の桁が変わる」
最高司令部高官は黙った。
「中佐の失敗は大隊を殺す。大佐の失敗は艦や基地を殺す。中将の失敗は艦隊や方面軍を殺す。大将の失敗は、国家の一部を殺す」
ゴップの声は淡々としていた。
「君が避難経路を誤れば、都市が死ぬ。君が補給を読み違えれば、前線が崩れる。君が艦隊を出し惜しみすれば、地球が焼ける。君が撃つべき兵器を撃たなければ市民が死に、撃つべきでない兵器を撃てば味方が死ぬ」
最高司令部高官は、ただ聞いていた。
「それでも君は、権力が嫌いだと言っていられるか」
「……いいえ」
「結構」
ゴップは短く言った。
「嫌いでも持て。汚いと思っても使え。使った以上は記録に残せ。責任を下に投げるな」
「それを、ゴップ大将は私に望まれるのですか」
「望むのではない。要求している」
ゴップは、最高司令部高官を見た。
「君は大将だ。君が望む望まないに関係なく、もうそういう立場になった」
最高司令部高官は、静かに敬礼した。
「肝に銘じます」
ゴップは、今度こそ少しだけ笑った。
「肝だけでなく、胃にも銘じておけ。君はそのうち胃を壊す」
「すでに兆候があります」
「ならば医務室へ行け」
「書類が」
「大将になって最初に覚えるべきことを教えてやる」
ゴップは言った。
「自分が倒れると、周囲の仕事が倍になる」
最高司令部高官は、反論できなかった。
◆退役前夜
回想を終え、ゴップは退役前の執務室で、人事資料の控えを閉じた。
軍を去る。
正確には、軍服を脱ぐ。
だが、権力から退くつもりはなかった。
次は議会だ。
連邦軍の外側から、軍を縛る。
予算を動かす。
人事に影響を与える。
時には軍人ではできない取引もする。
戦争に勝った軍は、危うい。
勝利は毒だ。
ジオンへの憎悪。
スペースノイドへの不信。
復讐を正義と呼びたい者たち。
治安維持を名目に、暴力を制度化したい者たち。
そういう者たちは必ず出てくる。
ゴップは、それを予感していた。
だからこそ、軍の内側にあの男を残した。
大将となった最高司令部高官。
出世欲はない。
権力欲も薄い。
だが、権力者であることから逃げることを嫌うようになった。
少なくとも、ゴップはそう見ている。
もちろん、完璧ではない。
甘さもある。
市民を守るという言葉に、時に自分を縛りすぎる。
女性関係で妙な誤解も受けそうな男だ。
体調管理も怪しい。
だが、それでもよい。
完璧な人間など、軍に置けばかえって危険である。
欠点を持ち、胃痛を抱え、部下に怒られながら、それでも責任を取る者の方がまだ信用できる。
側近が尋ねた。
「閣下。あの方に、退役後の構想を伝えなくてよろしいのですか」
「必要ない」
「軍の内側に残す安全弁として見ていることも?」
「言えば嫌がる」
「でしょうね」
「それに、本人が知る必要はない」
ゴップは退役関係の書類に目を通した。
「私は外から泥を押さえる。あの男は中から盾になる。それで十分だ」
「約束は交わさないのですか」
「交わさん」
ゴップは即答した。
「約束を交わせば、あの男は律儀に背負いすぎる」
側近は苦笑した。
「では、言葉にしない約束ですか」
「そういうものだ」
ゴップは窓のない執務室の壁を見た。
ジャブローの地下からは、空は見えない。
だが、地球の重さは分かる。
この星を、この社会を、この腐った連邦を、完全に美しくすることはできない。
少なくとも、自分にはできない。
だが、明日も誰かが飯を食い、子を育て、仕事へ行き、愚痴を言い、眠る。
その程度の日常を守るためなら、泥に手を突っ込む価値はある。
自分は寄生虫でいい。
宿主を殺さぬ寄生虫であれば、それでいい。
そして、あの男は盾であればいい。
綺麗な盾ではない。
傷だらけで、胃薬臭く、書類に埋もれた盾だ。
それでも、誰かの前に立つなら意味がある。
ゴップは、最高司令部高官の大将昇進推薦書の控えを、最後にもう一度だけ見た。
推薦人欄には、自分の名がある。
他にも、数名の高官の名があった。
ゴップは小さく笑った。
「腐った連邦にも、まだ少しは見る目がある」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
やがて彼は書類を閉じた。
軍服を脱ぐ日は近い。
だが、仕事は終わらない。
戦争は終わった。
しかし、日常を守るための泥仕合は続く。
ゴップは、自分を善人だと思ったことは一度もない。
だが、善人でなければ守れないものばかりではない。
泥を知る者にしか、泥の中へ沈む者を引き上げられない時もある。
ならば、自分は外から泥を押さえる。
あの男には、中から盾になってもらう。
それが、寄生虫と盾の、言葉にされない約束だった。
そして、退役する者にも、残すべき仕事はある。