◆地球連邦軍最高司令部第1会議室
治安部隊構想に対する制約案は、翌朝には各局へ回っていた。
ジャブロー地下の会議室に窓はない。
厚い構造壁の向こうで雨が降っているのか、晴れているのかも分からない。あるのは、空調の低い音と、壁面に表示された照会一覧だけだった。
会議卓の中央には、昨夜から残った資料が並んでいる。
・地球圏治安維持特別部隊構想修正案
・最高司令部制約条項案
・監察部追加記録項目
・法務局予防拘束制限案
・技術監査部研究機関利用制限案
・人事局選抜基準再確認案
・退役者台帳再照会結果
・月面方面軍警戒強化依頼案
その一つ下に、情報局が赤い印を付けた資料が置かれていた。
エアーズ市周辺不審情報統合表。
私は、その表題をしばらく見た。
「副官」
「はい」
「医務室から何か来ているか」
「来ています」
「内容は」
「休め、です」
「昨日より短いな」
「長文では読まれないと判断したようです」
「こちらも短く返せ」
「却下、でよろしいですか」
「そうしろ」
副官は、少しも表情を変えずに入力した。
情報局長が、会議卓へ資料を展開する。
・エアーズ市周辺の旧ジオン系技術者雇用履歴
・バンガー工業における人員整理予定
・ジュニアMS整備記録の増加
・旧式MS部品に関する倉庫使用申請
・医療品備蓄の不自然な移動
・搬送記録と実在船籍の不一致
・旧公国軍系符牒を使った短距離通信
・月面港湾での偽装船籍照会
・退職予定者と旧軍属関係者の接触記録
・保険業者への事前相談件数の増加
どれも、単独では事件にならない。
旧ジオン系技術者がいる。
工場で人員整理がある。
ジュニアMSが整備される。
医療品が動く。
船籍に不一致がある。
それだけなら、月面都市では珍しくもない。
だが、同じ地域、同じ時期、同じ企業周辺に重なれば話は変わる。
「情報局」
「はい」
「正規情報網だけではないな」
情報局長は頷いた。
「退役者台帳の再照会分が混じっています」
「内訳を出せ」
壁面の表示が切り替わる。
・退役整備兵からの旧式MS部品流通情報
・月面港湾OBからの偽装船籍照会
・民間船籍管理会社へ移った元事務官からの船籍不一致報告
・旧公社物流担当からの搬送記録照合結果
・月面医療組合に再就職した元軍医からの医療品備蓄移動報告
・コロニー駐留軍OBからの旧軍属接触情報
・退役者支援団体経由の生活困窮者相談記録
正規の情報網より汚い。
断片が多い。
主観も混じる。
しかし、生活の匂いがある。
机の上で整えられた情報ではない。どの港で薬が消えたか。どの船籍が名義だけ変わったか。どの旧ジオン系技術者が仕事を失いかけているか。どの保険業者が不自然に相談を受けたか。
そういう情報は、正規報告よりも先に退役者の酒場や港湾窓口を通る。
「裏取りは」
「半数は確認中です。残りは断片情報として保留しています」
「保留で消すな」
「記録します」
私は、エアーズ市周辺の地図を見た。
月面都市の工業区画。
バンガー工業。
周辺倉庫。
医療品の移動先。
港湾搬入口。
退職予定者の居住区。
線は、まだ細い。
だが、見えないふりをするには多すぎた。
「月面方面軍へ警戒強化を促せ」
作戦局長が確認する。
「通常照会ではなく、最高司令部注意喚起として出しますか」
「そうだ。エアーズ市周辺、バンガー工業、旧ジオン系技術者、人員整理、ジュニアMS、医療品移動。全部添付しろ」
「治安部隊構想との関連は」
「書くな。余計な政治が乗る」
副官が短く入力する。
・月面方面軍宛注意喚起
・エアーズ市周辺警戒強化
・民間人避難経路確認
・現地警備隊との連携確認
・港湾搬入口監視
・医療品移動確認
・バンガー工業周辺の旧式MS部品確認
「それで出せ」
「はい」
私は、壁面の月面図を見た。
警戒を促す。
簡単な言葉だ。
だが、月面で警戒態勢を上げることは、地上の紙ほど簡単ではない。
月面都市には自治体がある。
企業がある。
工場がある。
港湾がある。
保険がある。
そして、風評がある。
警戒態勢を上げれば、誰かが必ず問う。
何が起きるのか。
誰が危険なのか。
旧ジオン系雇用者を疑っているのか。
工場を止める気か。
株価に影響する。
保険料が上がる。
港湾が詰まる。
議会に知られれば、また治安部隊の話になる。
「遅れるな」
副官が顔を上げた。
「何がでしょうか」
「月面方面軍だ。警戒を上げるだけで、あそこは企業と自治体に説明を求められる」
「先回りしますか」
「できる範囲でな。こちらが強く押しすぎれば、今度は軍が月面自治へ介入したと言われる」
「難しいですね」
「簡単な案件なら、ここへ来ない」
副官は、それを否定しなかった。
◆月面方面軍エアーズ市警備調整室
月面方面軍の警備担当大佐は、最高司令部からの注意喚起を三度読み返した。
内容は明確だった。
エアーズ市周辺。
バンガー工業。
旧ジオン系技術者。
人員整理。
ジュニアMS。
医療品備蓄。
偽装船籍。
現地警備隊との連携強化。
民間人避難経路確認。
警戒態勢を上げろ、ということだ。
だが、命令書の文面は、警戒態勢移行命令ではない。
注意喚起。
確認要求。
照会。
最高司令部は、月面方面軍の指揮権を直接奪ってはいない。
それは正しい。
正しいから、面倒だった。
端末に、自治体からの問い合わせが入る。
「エアーズ市危機管理局です。バンガー工業周辺の警戒強化について、具体的危険情報の有無を確認したいとのことです」
別の回線が鳴る。
「バンガー工業法務部より、軍による警戒強化が雇用者に対する差別的調査と受け取られる懸念があるため、照会範囲の明文化を求めています」
さらに、月商工会議所。
「工業区画全体の警備強化が、取引先に治安不安を印象づける恐れがあります。警戒強化の根拠と期間を提示願います」
警備担当大佐は、額に手を当てた。
「根拠を出せば、旧ジオン系雇用者の話になる。出さなければ、軍の恣意的警備強化になる。どうしろというんだ」
隣にいた参謀が、声を落とす。
「最高司令部からは、現地警備隊との連携確認を優先せよと」
「分かっている」
「では、まず避難経路確認を名目に動かしますか」
「企業施設に避難経路確認を入れるには、企業側同意が要る。拒まれれば、強制点検にするしかない」
「強制点検にすれば」
「明日の月面経済紙に載る」
参謀は黙った。
警備担当大佐は、端末に並ぶ照会を見た。
・エアーズ市危機管理局からの根拠照会
・バンガー工業法務部からの照会範囲明文化要求
・月商工会議所からの風評被害懸念
・工業保険組合からの警戒レベル確認
・現地警備隊からの避難経路確認要請
・月面方面軍司令部からの説明資料要求
どれも無視できない。
だが、どれも対応していれば時間が削られる。
最高司令部の警告は、正しかった。
しかし、正しい警告を現地で動ける形に変えるまでに、月面では何枚もの同意書と説明資料が必要になる。
佐官は、現地警備隊への回線を開いた。
「こちら月面方面軍。バンガー工業周辺の避難経路を優先確認する。軍の警戒態勢移行は、自治体・企業側説明と並行して行う」
『並行で間に合いますか』
現地警備隊の声は硬かった。
大佐は一瞬、答えに詰まった。
「間に合わせる」
それは、命令というより、自分に向けた言葉だった。
通信を切ると、参謀が小さく言った。
「最高司令部へ、警戒強化に時間を要すると報告しますか」
「する」
「表現は」
大佐は、しばらく黙った。
正直に書けば、自分たちの遅れになる。
曖昧に書けば、最高司令部は怒る。
彼は端末を引き寄せた。
・月面自治体および企業側照会により警戒態勢移行手続きに遅延発生
・現地警備隊との避難経路確認を先行
・バンガー工業法務部より照会範囲明文化要求
・月商工会議所より風評被害懸念
・追加指示を求む
「そのまま送ります」
「送れ」
大佐は、壁面のエアーズ市地図を見た。
工業区画は静かだった。
静かすぎるほどに。
静かな場所ほど、後で騒がしくなる。
それを、彼は一年戦争で覚えていた。
◆ルナツー近傍 ロンド・ベル第1機動群旗艦ブリッジ
ブライト・ノアは、最高司令部からの命令文を読み終えた。
表題は、救難待機区域変更。
命令は短い。
・月軌道外縁部へ前進
・エアーズ市方面における不測事態発生時、救難初動を優先
・民間人避難支援、負傷者搬送支援、記録保全を実施
・交戦は最高司令部命令または明確な自衛判断に基づく
・治安即応評価計画関連部隊との指揮権混同を避けること
ブライトは、命令文を閉じた。
「救難待機で月軌道外縁部か」
副長が頷く。
「ルナツーから事件発生後に向かっても、間に合わないとの判断でしょう」
「最高司令部らしい」
「慎重、という意味ですか」
「いや。嫌な予感を、命令書にするのが早い」
副長は返答に困った顔をした。
ブライトは少しだけ笑った。
「褒めている」
「了解しました」
通信士が振り返った。
「アムロがブリッジへ上がります」
ほどなくして、アムロがブリッジへ入ってきた。
「月か」
「まだ月じゃない。月軌道外縁部だ」
「遠回しだな」
「救難待機だ。戦闘待機ではない」
アムロは壁面の航路図を見た。
ルナツーから月軌道外縁部へ伸びる航路。
その先に、エアーズ市方面の表示。
「嫌な配置だ」
「分かるか」
「間に合う位置へ出るが、先に撃つ位置じゃない」
「ああ」
ブライトは椅子に座り直した。
「最高司令部は、月面方面軍の動きが遅れると見ている。だが、こちらに治安出動をさせる気はない。救難と記録保全だ」
「記録保全」
アムロが短く繰り返した。
「戦闘より面倒なことがある」
ブライトは、命令文の一部を表示させた。
・救難初動
・民間人避難支援
・現地警備隊支援
・通信ログ保全
・映像記録保全
・負傷者搬送支援
・交戦時の指揮系統確認
アムロは、それを見ていた。
「新型の治安部隊が動くのか」
「まだ分からん」
「名目は」
「評価計画」
「便利だな」
「そうだな」
ブライトは、そこで一拍置いた。
「アムロ、出番がない方がいい」
「分かってる」
「だが、出るなら救難だ。敵を倒すために前へ出るな」
「市民が先か」
「市民が先だ」
アムロは、何も言わなかった。
その沈黙で十分だった。
ブライトは、副長へ命じる。
「月軌道外縁部へ前進。艦隊速度は抑えろ。向こうに圧をかけすぎるな」
「了解」
「医療班と救難艇を先に準備させろ。戦闘配備ではなく、救難配備だ」
「了解しました」
ブリッジの空気が変わった。
戦闘前の鋭さではない。
だが、弛緩でもない。
いつでも誰かを拾えるように、船全体が身構える。
ブライトは、航路図を見た。
まだ何も起きていない。
だが、何も起きていない場所へ艦を出すことほど、後で説明が難しいものはない。
最高司令部は、その難しさを承知で命令を出した。
ならば、こちらも承知で動くしかない。
◆シーマ艦隊保護区画 通信室
シーマ・ガラハウは、画面越しにこちらを見て、最初に笑った。
「今度は月の工場かい、胃薬大将」
「その呼び方は正式名称ではない」
「じゃあ、非公式で十分だね」
「用件に入れ」
「せっかちだね」
シーマは椅子に体を預けた。
保護区画の通信室は清潔だった。
だが、彼女が座ると、不思議と場末の取引場所に見える。
「エアーズ市周辺、バンガー工業、旧ジオン系技術者。何が見える」
「飯が足りない連中が見える」
「具体的に言え」
「工場の人員整理。旧式MSの部品。ジュニアMS。医療品。偽装船籍。どれも単独じゃ珍しくない。だが、同じ場所に重なれば、誰かが火を点けようとしてる」
「誰が」
「そこまでは知らないね」
「君が知らないなら、こちらも困る」
「買い被りすぎだよ。あたしは残党全部の母親じゃない」
シーマは、少しだけ表情を消した。
「ただ、匂いは分かる」
「続けろ」
「飯が切れて、仕事が消えて、昔の旗だけが残る場所の匂いだよ。そういう場所に、きれいな理屈を持った奴が来る。ジオンの誇りだの、連邦への復讐だのね」
「バンガー工業の人員整理か」
「だろうね。切られる整備屋、補給屋、工員。その中に旧公国軍に関わった奴が混じる。本人が残党じゃなくても、知り合いに一人くらいはいる」
「旧式MSを動かせる者もいる」
「いるさ。軍服を脱いでも、工具の使い方は忘れない」
私は、情報局の資料を横に置いた。
「医療品の移動は」
「怪我人を出すつもりか、怪我人が出ると知ってるか」
「不穏だな」
「不穏じゃない話なら、あんたはあたしに通信しない」
副官が横で短く記録している。
シーマは画面越しにそれを見た。
「また記録かい」
「記録が嫌なら、もっと曖昧に話せ」
「記録されるって分かってるから、こっちも言葉を選んでるんだよ」
「よい傾向だ」
「胃薬大将に褒められても嬉しくないね」
その軽口の奥で、シーマは別の資料を出した。
・月面闇港湾での短期船籍変更
・旧公国軍系整備屋への部品照会
・医療品の小口搬入
・エアーズ市外縁部での非正規通信
・アクシズ方面と直接断定できない家族照会
最後の一項で、私は目を細めた。
「アクシズか」
「断定するなよ。家族照会だ。外縁に親類がいる奴が、こっちの様子を聞いてるだけかもしれない」
「それでも記録する」
「好きにしな。だが、あたしの名前は出すな」
「出さない」
「本当だろうね」
「君の保護命令を軽くする気はない」
シーマは、わずかに黙った。
以前なら、そこで皮肉が返っただろう。
だが、この時は違った。
「……ならいい」
短い返事だった。
それで十分だった。
「シーマ」
「何だい」
「もし、バンガー工業周辺の旧ジオン系技術者が武装勢力に引き込まれるとして、止める方法はあるか」
シーマは、少し笑った。
「早く聞けばよかったのに」
「答えろ」
「仕事を残す。飯を出す。薬を切らさない。捕まっても全員まとめて撃たれないって思わせる。あとは、先に旗を持ってきた奴より高い値をつける」
「金で済む話か」
「金だけじゃない。怖さの値段だよ」
「怖さ」
「ティターンズみたいな連中が来れば、旧ジオン系ってだけで狩られる。そう思えば、連中は武器を取る。逆に、武器を置いた方が助かると思えば、迷う」
シーマは、画面の向こうで肩をすくめた。
「迷わせるだけでも、数は減る」
「今すぐ制度にはできない」
「なら、今すぐ制度のふりをするんだね」
「ふりでは困る」
「じゃあ、紙を作りな。あんたの得意分野だろ」
「人を紙で守れるならな」
「守れない紙もある。殺す紙もある。けど、あんたが前に出した紙は、今のところうちの連中を撃つ方じゃなく、止める方に働いてる」
シーマはそこで視線を外した。
感謝ではない。
少なくとも、そう言う顔ではなかった。
「だから、もう一枚くらい書いてみな。書けるうちにね」
通信はそこで終わった。
副官が、私を見た。
「記録しますか」
「全部だ」
「シーマ艦隊情報源は秘匿区分で」
「そうしろ」
私は、切れた画面をしばらく見ていた。
シーマ・ガラハウを、信用という言葉だけで扱うには、互いに積み過ぎたものが多すぎる。
最初は損得だった。
次に約束があった。
その約束を破らずに積み重ねた結果、今の彼女は、こちらの弱みまで見透かしたうえで、必要な時には刃の向きを変える。
裏切らないと断言する気はない。
彼女は部下を守るためなら、こちらの首を値札に乗せることもある。
だが、こちらが約束を守る限り、彼女はそれを踏みにじる側には回らない。
少なくとも、私はそう見ていた。
それは甘い信用ではない。
四年分の取引と、何度か守られた約束の重みだった。
「副官」
「はい」
「月面方面軍への追加文に入れろ。武装者、旧軍属、民間整備員、退職予定者、非戦闘員を同じ分類で扱うな」
「承知しました」
「現地警備隊にも回せ。最初に分類を間違えると、全員が敵になる」
「記録します」
会議室に、また一つ資料が増えた。
まだ政策ではない。
命令と言うにも粗い。
だが、紙にしなければ残らない。
◆宇宙軍総司令部 治安即応評価計画準備区画
バスク・オムは、評価小隊の準備状況を確認していた。
表示された機体は、ジム・クゥエル。
新しい。
反応が速い。
治安任務に使うには、過剰なほど高性能だった。
だが、過剰でなければ意味がない。
残党に、次がないと思わせる。
民間人に、連邦がすぐ来ると思わせる。
議会に、成果を見せる。
それが、評価計画の意味だった。
整備員が報告する。
「慣熟訓練は予定通り進行中です」
「出撃可能機数は」
「三機。予備調整中一機」
「遅い」
「新型です。部品の調整に時間が」
バスクは整備員を睨んだ。
整備員は口を閉じた。
「評価小隊に必要なのは、整った展示ではない。即応だ。動けなければ意味がない」
「了解しました」
端末に、ジャミトフからの短い確認が入る。
・月面方面訓練継続
・エアーズ市周辺情報注視
・現地部隊からの救援要請時、評価目的を維持
・民間人保護の名目を忘れるな
バスクは、最後の一行を見た。
民間人保護。
便利な言葉だ。
だが、彼にとって嘘ではない。
残党を速く潰せば、市民は守られる。
躊躇すれば、被害が広がる。
それが彼の理屈だった。
そこに疑いはなかった。
「小隊長へ通達。月面方面での慣熟を継続。緊急呼集に備えろ」
「了解」
「報告書には、治安即応性評価と書け」
「実戦想定ではなく、ですか」
「評価だ」
バスクは短く言った。
「言葉を間違えるな」
ジャミトフから学んだばかりのやり方だった。
言葉を間違えれば、最高司令部に縛られる。
なら、正しい言葉を選べばいい。
バスクは、ジム・クゥエルの黒い機体を見上げた。
強い刃だ。
鞘の中で腐らせる気はなかった。
◆月面方面軍エアーズ市警備調整室
警備担当大佐の机には、回答待ちの照会が増えていた。
・自治体危機管理局への説明案
・バンガー工業法務部への回答案
・月商工会議所への風評被害対応案
・現地警備隊への避難経路確認指示
・港湾搬入口監視強化案
・月面方面軍司令部への遅延報告
・最高司令部への追加報告
どれも必要だった。
そして、どれも遅い。
現地警備隊からの回線が入る。
『こちらエアーズ市警備隊。バンガー工業周辺で、退職予定者の一部が工場内へ戻っています。理由は不明』
「企業側は何と」
『私物回収、未払い確認、組合関係の話し合いだと』
「人数は」
『確認中です。ただ、ジュニアMS格納区画周辺にも動きがあります』
大佐は目を閉じた。
「避難路確認を急げ。企業側同意を待つな。安全確認名目で現地警備隊を入れろ」
『軍は』
「月面方面軍は後続で入る。こちらも動く」
通信を切る。
参謀が、低い声で言った。
「強めに出ますか」
「出る」
「企業側は反発します」
「反発してもらう時間はない」
大佐は、最高司令部への追加報告を開いた。
・バンガー工業退職予定者の再集合
・ジュニアMS格納区画周辺の動き
・企業側説明に不一致あり
・現地警備隊による避難路確認を先行
・月面方面軍部隊、待機段階から移行準備
最後の項目で、彼は手を止めた。
移行準備。
まだ警戒態勢移行ではない。
そこに、現場の遅れが出ている。
大佐は歯を食いしばった。
「送れ」
参謀は頷いた。
「最高司令部へ」
「そうだ」
送信が完了する。
だが、その数分後、別の回線が入った。
バンガー工業法務部。
警備強化に関する再照会。
大佐は、思わず机を叩きそうになった。
叩かなかった。
叩けば、その分また遅れる。
◆ジャブロー地下 最高司令部第1会議室
月面方面軍からの報告が届いた時、会議室には短い沈黙が落ちた。
・バンガー工業退職予定者の再集合
・ジュニアMS格納区画周辺の動き
・企業側説明に不一致あり
・現地警備隊による避難路確認を先行
・月面方面軍部隊、待機段階から移行準備
私は、その最後の行を見た。
移行準備。
まだ、移行していない。
「月面方面軍は遅れているな」
作戦局長が答える。
「自治体と企業対応に時間を取られています。ただ、現地警備隊への避難経路確認は先行させています」
「責めるだけでは済まない」
「はい」
「月面方面軍に追加指示。警戒態勢強化を待たず、現地警備隊との通信ログ保全を開始。バンガー工業周辺の医療班を待機。港湾搬入口の監視を月面警備名目で上げろ」
「了解しました」
「ロンド・ベルは」
副官が答える。
「第1機動群が月軌道外縁部へ前進中。救難配備へ移行済みです」
「ブライトへ通達。戦闘ではなく救難。現地警備隊と月面方面軍の通信ログを拾える位置へ出ろ。ただし、月面方面軍の指揮を越えるな」
「はい」
作戦局長が確認する。
「アムロへの個別指示は」
「不要だ。現場判断はブライトがする」
「了解しました」
情報局長が、別の資料を開いた。
「宇宙軍総司令部内で、治安即応評価小隊の月面方面慣熟が継続されています」
「位置は」
「月軌道から近い。エアーズ市方面へ動くなら、ロンド・ベルより早く入れます」
「偶然か」
誰も答えなかった。
私は、しばらく壁面の表示を見た。
最高司令部が警戒を促す。
月面方面軍は自治体と企業に縛られる。
ロンド・ベルは救難のため、届く位置へ動く。
治安即応評価小隊は、制約の外で近くにいる。
綺麗に並びすぎている。
「情報局」
「はい」
「治安即応評価小隊の移動記録を拾え。合法範囲でいい。無理に踏み込むな」
「承知しました」
「退役者台帳の月面方面再照会は続けろ。医療品、船籍、退職者、旧軍属接触。断片でいい」
「はい」
副官が、次の予定を表示した。
「閣下、この後、国防総省との調整があります」
「議題は」
「治安部隊構想制約条項の文言調整です」
「今やる話か」
「今やらないと、向こうで別文案が回ります」
「分かった」
私は、月面図から目を離した。
だが、視線を外しても、赤い点は頭に残った。
エアーズ市。
バンガー工業。
まだ何も起きていない。
そう言い切るには、情報が多すぎる。
◆ルナツー近傍航路 ロンド・ベル第1機動群旗艦
艦内放送が、救難配備への移行を告げていた。
戦闘配備ではない。
だが、医療班は動き、救難艇は整備され、通信士は月面方面軍と現地警備隊の公開帯域を確認している。
ブライトは、ブリッジ中央で航路図を見ていた。
副長が報告する。
「月軌道外縁部への進出、予定より六分早く完了見込みです」
「無理はするな。救難艇を先に疲れさせるなよ」
「了解」
アムロが、横に立っていた。
「近いな」
「近づきすぎれば、月面方面軍と企業が騒ぐ」
「遠ければ間に合わない」
「そういう命令だ」
ブライトは、月面図を拡大した。
エアーズ市。
バンガー工業。
工業区画。
アムロは、その表示を見たまま言った。
「新型の評価小隊は」
「月側に近い」
「救難より早いか」
「たぶんな」
「嫌な役回りだな、こっちは」
「市民を拾う役だ。悪くない」
アムロは少しだけ目を伏せた。
「拾えるならな」
ブライトは答えなかった。
その通りだったからだ。
拾えるなら、それは救難だ。
間に合わなければ、記録になる。
最高司令部は、両方を命じている。
それが重かった。
「アムロ」
「何だ」
「出番が来ても、前へ出すぎるな」
「分かってる」
「お前が先に敵を見つけると、皆が戦闘だと思う」
「なら、見つけても黙ってろと?」
「違う。救難艇が動く道を見ろ」
アムロは、少しだけ笑った。
「難しい注文だな」
「お前ならできる」
「便利に使うな」
「使えるものは使う」
「それ、誰かに怒られるぞ」
「最高司令部には記録されるな」
ブライトは、そこで口を閉じた。
通信士が振り返る。
「月面方面軍より、エアーズ市周辺の警戒移行準備に関する追加通信。現地警備隊がバンガー工業へ向かっています」
「音声拾えるか」
「公開帯域のみ」
「拾え。記録保全だ」
「了解」
ブリッジに、現地警備隊の短い通信音が流れ始めた。
まだ戦闘音はない。
まだ悲鳴もない。
だが、誰もその静けさを信じていなかった。
◆ジャブロー地下 最高司令部第1会議室
国防総省との文言調整は、予定より長引いた。
治安部隊構想の制約条項に、国防総省側は何度も表現の変更を求めてきた。
”予防拘束禁止”
これを、”予防的拘束には法的根拠を要する”へ。
”住民監視禁止”
これを、”恒常的住民監視を原則として認めない”へ。
”研究機関独自利用禁止”
これを、”研究機関連携には最高司令部承認を要する”へ。
言葉は柔らかくなる。
柔らかくなった言葉は、現場で別の形になる。
私は、三度目の修正案を見て言った。
「国防総省」
『はい』
「原則として、という言葉を増やすな」
『現実の運用幅を残す必要があります』
「運用幅という名の抜け穴になる」
『議会説明上、断定的な禁止表現は反発を招きます』
「反発してもらえ。反発した者の名を残せる」
画面の向こうの官僚は、明らかに困った顔をした。
副官が横から、端末の小窓を出す。
月面方面軍追加報告。
私は、国防総省との回線を維持したまま内容を読んだ。
・現地警備隊、バンガー工業外縁へ到着
・企業側、施設内立ち入りに制限を要求
・退職予定者の一部が格納区画付近で所在不明
・ジュニアMS一部、整備状態不明
・月面方面軍先遣、出動準備中
・治安即応評価小隊、月面方面慣熟区域から移動準備の兆候
私は、息を止めた。
一瞬だけだ。
だが、副官は気づいた。
「閣下」
「国防総省、文言調整は中断する。法務局へこちらの原案を保持させろ」
『閣下、まだ調整が』
「今は月だ」
通信を切る。
会議室の空気が変わった。
「作戦局」
「はい」
「月面方面軍へ、現地警備隊の保護を優先させろ。企業法務の照会は後でいい」
「はい」
「ロンド・ベルへ、救難艇即応待機。通信ログ保全。現地警備隊と月面方面軍の帯域を拾え」
「了解」
「情報局。治安即応評価小隊の動きを確認。直接止める権限はない。だが、動いた時刻と経路を記録しろ」
「はい」
「監察部。エアーズ市関連の資料は、今から全て保全対象だ。後で消されたものは、消されたものとして記録する」
「了解しました」
副官が、私の前に水を置いた。
「閣下、水です」
「今か」
「今です」
私は一口飲んだ。
水は、妙に冷たかった。
会議室に窓はない。
エアーズ市の空も見えない。
だが、壁面の月面図では、赤い表示が一つ増えていた。
バンガー工業。
警戒表示。
まだ事件名は付いていない。
付いていない方がよかった。
名前が付く時は、たいてい手遅れになってからだ。
私は、壁面を見たまま言った。
「月面方面軍にもう一度送れ」
副官が端末を構える。
「文面は」
「警戒を強めろ。民間人を外へ出せ。現地警備隊を孤立させるな。企業の面子より、人を先にしろ」
「そのままですか」
「いや」
私は、短く息を吐いた。
「法務局に読める形へ直させろ。ただし、意味は薄めるな」
「承知しました」
副官は入力した。
その横で、別の通知が点滅した。
治安即応評価小隊、月面方面慣熟区域より移動開始の可能性。
私は、その文字から目を離せなかった。
縛るべきものが、制約の外で動き始めていた。