◆月面エアーズ市 バンガー工業外縁
バンガー工業の外壁は、月面都市の工業区画にありがちな灰白色だった。
無駄な装飾はない。
厚い隔壁。
資材搬入口。
作業用エアロック。
ジュニアMS格納区画。
外から見れば、ただの工場である。
だが、現地警備隊の車両が到着した時、その工場は既にただの工場ではなくなっていた。
警備隊長は、車両から降りるなり、端末に表示された構内図を確認した。
バンガー工業側から提出された図面は古い。
実際の格納区画配置と合っていない。
避難経路も、労務管理用の古い導線が残ったままだった。
「避難口を開けろ。正面だけでは足りない」
部下が頷く。
「企業側が、正面出入口以外の開放には法務部の確認が必要だと」
「今ここで法務部を呼ぶ気か」
警備隊長の声が低くなった。
構内から、短い通信が割り込んだ。
『こちらバンガー工業第三区画。退職予定者の一部がジュニアMS格納庫付近に集まっています。説得を試みていますが、反応がありません』
「武器は」
『確認中です。ただ、工具ではないものを持っている者がいます』
別の警備員が叫んだ。
「隊長、構内監視映像が切れました。第二区画、第三区画、格納区画の三系統です」
警備隊長は、工場外壁を見上げた。
嫌な静けさだった。
「月面方面軍へ送れ。状況悪化。避難路確保を優先。企業側同意を待てない」
「了解」
その直後、工場内部から最初の爆発音が響いた。
壁が震える。
空気が一瞬、工場側へ吸われるように動いた。
警備隊長は、反射的に叫んだ。
「全員、遮蔽物へ。負傷者確認。避難誘導を始めろ」
構内通信が乱れる。
『第三区画で発砲。繰り返す、第三区画で発砲』
『ジュニアMSが動いています。作業用です。武装は不明』
『旧式MSらしき反応、格納庫内で起動』
警備隊長は、端末を握りしめた。
最高司令部の注意喚起は、正しかった。
だが、正しいと分かった時には、もう遅れが出ている。
彼は月面方面軍へ回線を開いた。
「こちらエアーズ市警備隊。バンガー工業構内で武装蜂起発生。民間従業員多数。避難経路確保を最優先。月面方面軍の即時支援を要請する」
返信はすぐに来た。
『こちら月面方面軍警備調整室。先遣隊を出す。現地警備隊は避難路確保を継続せよ』
「敵性MS反応があります。旧式MS、最低でも三。ジュニアMS複数」
『確認した。交戦は避け、民間人退避を優先せよ』
「了解」
警備隊長は通信を切り、部下へ向いた。
「中へ入る。民間人を外へ出せ」
「旧式MSがいます」
「だから急ぐ」
工場内から、また発砲音が響いた。
企業法務の照会は、もう何の役にも立たなかった。
◆月軌道近傍 治安即応評価小隊
評価小隊一番機のパイロットは、ジム・クゥエルのコックピットで慣熟訓練の最終確認を行っていた。
機体の反応は鋭い。
鋭すぎるほどだった。
旧式ジムとは違う。
姿勢制御の癖も、加速時の沈み込みも、まるで別物だ。
隣の宙域には、火力支援仕様の僚機がいる。
ジム・キャノンIIを基礎にした機体で、クゥエルほど軽くはない。
だが、安定している。
前へ出る機体と、後ろから押さえる機体。
評価小隊は、そういう組み方をされていた。
通信が入った。
『評価小隊、緊急任務。エアーズ市バンガー工業にて武装蜂起。旧式MS三、ジュニアMS五、武装人員十数名。民間人多数。現地警備隊交戦中』
一番機のパイロットは、息を詰めた。
「ジオン残党か」
『旧公国軍系関与の可能性あり。市街区画への拡大を阻止せよ。任務目的は、武装勢力の即時制圧』
支援機のパイロットの声が入る。
『人質は』
短い沈黙。
『民間人多数。詳細不明』
一番機のパイロットは、モニターの中の月面都市図を見た。
バンガー工業。
工業区画。
その外側に居住区。
旧式MSが出れば、被害は広がる。
デラーズ紛争の記憶が、まだ新しい。
宇宙のどこかで、誰かが大義を叫び、市民が死ぬ。
また同じことを繰り返すのか。
彼は操縦桿を握り直した。
「一番機、出る」
支援機が続く。
『支援機、続く』
評価小隊の回線に、別の声が入った。
バスク・オム。
『躊躇するな。市街へ出る前に潰せ。君たちは、そのためにそこにいる』
一番機のパイロットは返答した。
「了解。武装勢力を制圧します」
『制圧では足りん。完全に沈黙させろ』
その言い方に、一番機のパイロットは一瞬だけ引っかかった。
だが、画面の向こうにはエアーズ市がある。
民間人がいる。
旧式MSが動いている。
迷っている時間はなかった。
「評価小隊、突入コースへ」
機体が加速する。
月の地平が近づいた。
◆宇宙軍総司令部 評価計画管制室
バスクは、評価小隊の降下経路を見ていた。
反応は速い。
月面方面軍より早い。
ロンド・ベルよりも早い。
それだけで、意味があった。
横に立つ参謀が言う。
「現地警備隊より、民間人保護と避難路確保を優先するよう要請が入っています」
「評価小隊へ回せ」
「内容は」
バスクは、少しも迷わなかった。
「武装勢力の市街区画流出阻止を最優先。民間人保護は制圧後、現地警備隊および月面方面軍に引き継ぐ」
参謀が一瞬だけ手を止めた。
「そのままですか」
「そのままだ」
「記録に残ります」
「残せ」
バスクは、壁面の映像を見た。
「旧式MSが市街へ出れば、民間人被害は何倍にもなる。制圧を遅らせることこそ市民への裏切りだ」
参謀は反論しなかった。
反論できなかったのではない。
反論しても変わらないと分かっただけだった。
別回線に、ジャミトフの名が表示される。
声だけだった。
『状況は』
「評価小隊が突入します。月面方面軍は遅れています」
『報道管制は』
「広報経由で準備中です。市街区画への被害拡大を防いだ事実を前面に出します」
『民間人被害は』
「制圧後に確認します」
わずかな沈黙。
『五分以内に終わらせろ』
バスクの目が細くなった。
「了解しました」
通信は切れた。
バスクは、評価小隊の軌跡を見つめた。
五分。
短い数字だ。
議会が覚えられる数字でもある。
◆月面エアーズ市 バンガー工業構内
現地警備隊の隊員は、退避誘導用の黄色い誘導灯を床へ置いた。
だが、工場内の照明が揺れ、煙が視界を塞いでいる。
民間従業員が数名、壁際に伏せていた。
その奥で、ジュニアMSが動いている。
本来なら資材を持ち上げる機体だ。
だが、工具腕に溶断機と鉄骨片を持てば、十分に凶器になる。
「こっちだ。走るな。姿勢を低くしろ」
隊員が手を伸ばす。
その瞬間、格納区画の隔壁が内側から裂けた。
旧式MSの腕が見えた。
警備隊員は、反射的に発砲しそうになった。
だが、拳銃でどうにかなる相手ではない。
『こちら警備隊。旧式MS起動確認。民間人が格納区画周辺に残っています。繰り返す。民間人が残っています』
評価小隊の回線が割り込む。
『こちら評価小隊。これより突入する。警備隊は退避しろ』
警備隊長が叫んだ。
「待て。避難路がまだ開いていない。第三区画に従業員が残っている」
『武装勢力が市街区画へ出る恐れがある。制圧を優先する』
「人質がいるんだぞ」
『制圧後に救出する』
「順番が違う」
返答は一拍遅れた。
『制圧を優先する』
それだけだった。
警備隊長は、歯を食いしばった。
「全員、退け。巻き込まれるぞ」
だが、退くには遅かった。
天井側の大型搬入口が外から開かれ、黒い機体が降りてきた。
ジム・クゥエル。
その機体は、工場の中ではあまりに大きく、あまりに速かった。
一番機のパイロットは、目標を捉えた。
旧式MS三機。
ジュニアMS五機。
武装人員十数名。
民間人反応、多数。
区別は難しい。
だが、旧式MSの一機が格納区画から外へ出ようとしている。
迷えば、市街へ出る。
「止める」
一番機は、クゥエルを前へ出した。
旧式MSの腕を撃ち抜く。
続けて脚部。
敵機が崩れる。
爆発させない。
できるだけ、爆発させない。
そう思っていた。
だが、工場の中には燃料も、圧縮タンクも、資材もある。
倒れた旧式MSが配管を潰し、白い蒸気が噴いた。
視界がさらに悪くなる。
支援機から声が入る。
『右、ジュニアMS二』
「見えている」
一番機は機体を旋回させた。
ジュニアMSが資材を投げる。
クゥエルはそれを避け、腕部を切るように撃った。
だが、切断された作業腕が床へ落ち、その下に隠れていた従業員の悲鳴が上がる。
一番機のパイロットの指が一瞬止まった。
「今のは」
『止まるな』
支援機のパイロットの声だった。
『一番機、旧式MSがもう一機出る』
「分かっている」
彼は前へ出た。
分かっている。
止まれば、もっと広がる。
分かっている。
だが、今の悲鳴は聞こえた。
聞こえてしまった。
◆ルナツー近傍航路 ロンド・ベル第1機動群旗艦
ロンド・ベルは、エアーズ市の映像を直接見ていたわけではない。
拾えているのは、通信断片と公開帯域の音声だけだった。
だが、それだけでも、十分に嫌なものは伝わる。
『避難路がまだ開いていない』
『制圧を優先する』
『退け、巻き込まれるぞ』
『第三区画に従業員が残っている』
ブライトは、椅子の肘掛けを握った。
「救難艇、出せるか」
副長が答える。
「距離があります。月面方面軍の管制許可も必要です」
「許可を取りに行け。月面方面軍経由でいい。こちらは救難支援だ」
「了解」
アムロは、音声だけを聞いていた。
顔に表情は少ない。
だが、肩に力が入っている。
「早いな」
「評価小隊か」
「ああ。速すぎる」
ブライトは、通信士へ命じた。
「現地警備隊の音声ログを保全しろ。切れた回線も時刻を残せ」
「了解」
「月面方面軍の回線は」
「混雑しています。企業回線と自治体回線も入り込んでいます」
「全部拾え。後で必要になる」
「了解」
アムロが、低く言った。
「後で、か」
「今、届かないなら、後で消させない」
ブライトは言った。
それは最高司令部の命令でもあり、自分の判断でもあった。
救えない時、記録だけが残る。
それは、ひどく重い仕事だった。
◆月面エアーズ市 バンガー工業構内
支援機は外周側を押さえていた。
工場内から逃げ出そうとした旧式MSの一機が、資材搬入口へ向かう。
その先は、工業区画の輸送路だ。
そこへ出れば、被害は広がる。
支援機のパイロットは照準を合わせた。
「逃がさん」
キャノン砲が発射される。
旧式MSの肩部が砕け、機体が横へ倒れた。
倒れた先に、搬送コンテナがあった。
コンテナが崩れ、作業通路を塞ぐ。
その奥に、作業服姿の人影が見えた。
支援機のパイロットは、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
「避難路を塞いだか」
返事はない。
誰に聞いたわけでもない。
彼は、一年戦争の頃に叩き込まれた判断を思い出した。
曖昧な敵には、曖昧な対応では勝てない。
テロや暴動は、初動で叩く。
迷えば、被害は増える。
その考えは今も変わらない。
変わらないはずだった。
だが、工場内の混線した通信には、従業員の声が混じっている。
『開けてくれ。こっちは武器なんかない』
『子供がいる。医務室に子供が』
『誰でもいい、外へ』
支援機のパイロットは奥歯を噛んだ。
「一番機、残り一機だ」
『了解』
ジム・クゥエルが格納区画へ飛び込む。
最後の旧式MSは、ジュニアMSを盾にしていた。
その背後に、武装人員がいる。
さらに奥に、民間人らしき反応。
一番機のパイロットは、照準を絞った。
動きを止める。
爆発させない。
民間人へ当てない。
それだけを考えた。
クゥエルの射撃が、旧式MSの膝関節を抜いた。
機体が崩れる。
同時に、武装人員が発砲した。
弾がクゥエルの装甲を叩く。
一番機のパイロットは反射的に反撃した。
短い射撃。
武装人員が沈黙する。
動きは止まった。
工場内に、機械の唸りと警報音だけが残った。
評価小隊の管制回線が告げる。
『武装勢力、沈黙。作戦時間、四分五十八秒』
五分を切った。
一番機のパイロットは、操縦桿から手を離せなかった。
モニターの端に、倒れた従業員が映っていた。
武器を持っていたのか。
持っていなかったのか。
そこからでは分からなかった。
◆月面エアーズ市 バンガー工業外縁
月面方面軍の先遣部隊が到着した時、工場の外壁には黒い焦げ跡が走っていた。
資材搬入口は歪み、避難口の一つは潰れている。
現地警備隊の車両が、負傷者を運び出していた。
白い担架。
破れた作業服。
煤に汚れた顔。
月面方面軍の警備担当大佐は、降車して数秒、言葉を失った。
報告は受けていた。
武装蜂起。
旧式MS。
ジュニアMS。
評価小隊突入。
制圧完了。
それでも、現場の匂いは違う。
工場の空気循環が乱れ、焦げた断熱材の匂いが外まで漏れている。
現地警備隊長が近づいてきた。
ヘルメットの片側が割れている。
「遅くなりました」
大佐はそう言うしかなかった。
警備隊長は、返礼しなかった。
「避難路を開ける前に突入されました」
大佐は顔を上げた。
「評価小隊か」
「ええ。こちらは民間人保護を要請した。第三区画に従業員が残っていると伝えた。返答は、制圧優先です」
月面方面軍の参謀が、小さく息を呑んだ。
工場内から、ジム・クゥエルが出てくる。
装甲には細かな傷がある。
大きな損傷はない。
強い機体だった。
その足元で、担架が運ばれている。
大佐は、評価小隊へ通信を入れた。
「こちら月面方面軍。評価小隊、現地状況説明を求める。民間人保護要請を受けていたはずだ」
一番機のパイロットの声が返る。
『武装勢力の市街区画流出阻止を優先しました』
声は硬い。
若い。
そして、どこか遠い。
大佐は続けた。
「民間人が残っている区画への突入判断は誰の指示だ」
短い沈黙。
『評価任務上、即時制圧を指示されていました』
「人質交渉、避難路確保、封鎖線形成を待つ選択はなかったのか」
今度は別の声が入った。
支援機のパイロットだった。
『旧式MSが外へ出れば、市街被害が拡大していました』
「それは分かる」
大佐の声が低くなった。
「だが、分かることと、納得できることは違う」
返答はなかった。
現地警備隊長が、横から言った。
「彼らは速かった。確かに市街へは出さなかった。だが、工場の中には人がいた」
大佐は、工場を見た。
崩れた隔壁。
塞がった通路。
救急班。
呆然と座る従業員。
ジム・クゥエル。
すべてが同じ視界に入っていた。
彼は端末を開いた。
「月面方面軍より最高司令部へ。評価小隊による制圧は完了。市街区画への拡大は阻止。ただし、民間人被害および施設損壊多数。現地警備隊は、突入前に民間人保護と避難路確保を要請していたと証言」
部下が、顔を上げた。
「そのまま送りますか」
「送れ」
「宇宙軍総司令部にも入ります」
「構わない」
大佐は、黒い機体を見た。
「これは、数字だけで済ませる話ではない」
◆宇宙軍総司令部 評価計画管制室
バスクは、結果を見ていた。
・作戦時間、四分五十八秒
・旧式MS三機無力化
・ジュニアMS五機無力化
・武装人員十数名沈黙
・評価小隊損害軽微
・市街区画への被害拡大なし
美しい結果だった。
少なくとも、軍事的な数字としては。
参謀が、別紙を出す。
・民間人死傷者、確認中
・工場施設損壊、多数
・避難路閉塞、複数
・現地警備隊より民間人保護要請あり
・月面方面軍より突入判断への照会あり
バスクは、その別紙を見た。
「市街区画への被害拡大は防いだ」
「はい」
「そこを前面に出せ」
「民間人被害は」
「ジオン残党の武装蜂起が原因だ」
参謀は、返事をしなかった。
バスクは、彼を見た。
「違うか」
「原因の一部ではあります」
「なら、そう書け」
「一部、ですか」
バスクの声が低くなる。
「民間人を盾にした残党がいた。旧式MSを起動した残党がいた。評価小隊は市街への拡大を阻止した。議会に必要なのは、その事実だ」
参謀は、端末に入力した。
その横で、広報担当が別回線を開いている。
”迅速制圧”
”市街被害阻止”
”治安即応能力”
”再発防止”
便利な言葉が並んでいた。
バスクは、それを止めなかった。
止める理由がない。
彼にとって、これは成功だった。
成功でなければならなかった。
◆ジャブロー地下 最高司令部第1会議室
最初に届いたのは、宇宙軍総司令部側の短報だった。
・作戦時間、四分五十八秒
・旧式MS三機無力化
・ジュニアMS五機無力化
・武装人員十数名沈黙
・評価小隊損害軽微
・市街区画への被害拡大なし
副官が読み上げる前に、私は手を上げた。
「次を待て」
「次、ですか」
「月面方面軍と現地警備隊の報告だ」
数分遅れて、月面方面軍の報告が届いた。
・民間人死傷者、確認中
・工場施設損壊、多数
・避難路閉塞、複数
・現地警備隊、突入前に民間人保護を要請
・評価小隊、制圧優先と回答
・月面方面軍、到着時に施設被害と救難遅延を確認
・現地警備隊通信ログ、保全中
会議室の空気が変わった。
情報局長が、低く言った。
「宇宙軍総司令部側の短報には、民間人保護要請の記載がありません」
「だろうな」
私は、壁面に二つの報告を並べさせた。
左側。
速い数字。
右側。
遅れて届いた被害。
同じ事件だ。
だが、片方だけを読めば、意味は変わる。
「監察部」
「はい」
「両方を同一報告に統合しろ。分けるな」
「表題は」
「エアーズ市バンガー工業事件暫定報告。治安即応能力および民間人保護上の重大懸念」
副官が手を止めた。
「長いです」
「短い見出しは、都合の悪いものを落とす」
「記録します」
私は続けた。
「宇宙軍総司令部へ、生ログ提出要求。評価小隊の突入前通信、現地警備隊との交信、バスク側管制回線、広報準備記録。全部だ」
監察部長が頷く。
「提出期限は」
「即時」
「拒否または遅延した場合は」
「拒否または遅延として記録しろ」
法務局長が確認する。
「民間人被害については、武装勢力による人質行為と評価小隊の突入判断を分けて整理します」
「そうしろ。残党という一語に戻すな」
「分類は」
法務局長が資料を開く。
・武装勢力
・武装関与疑い
・非武装従業員
・人質または逃げ遅れ
・旧ジオン系技術者
・退職予定者
・警備関係者
・医療搬送対象者
「その分類で進めろ」
私は、月面方面軍から届いた映像を見た。
黒い機体。
崩れた工場。
担架。
膝をついた従業員。
評価小隊一番機のモニター映像も、後で提出させなければならない。
彼らは命令に従った。
悪意で撃ったわけではない。
それが、余計に重い。
「ロンド・ベルは」
副官が答える。
「通信ログ保全中。救難艇は月面管制許可待ち。医療搬送支援は月面方面軍と調整中です」
「ブライトへ伝えろ。可能な限り負傷者搬送を支援。戦闘記録より先に救難だ」
「はい」
副官は短く頷いた。
別回線で国防総省から照会が入る。
件名は早かった。
エアーズ市制圧事案に関する議会説明用要約。
私は、その件名だけで視線を細めた。
「もう来たか」
副官が端末を確認する。
「はい。議会強硬派からも、治安即応評価小隊の有効性に関する照会が来ています」
「有効性だけでなく、現地で何が起きたのかも送れ。五分というキーワードだけを持っていかせるな」
「承知しました」
私は、会議卓に指を置いた。
「国防総省へも送れ。市街区画への拡大阻止は事実。民間人保護要請を退けたことも事実。両方を本文に入れろ。参考資料に落とすな」
「はい」
「議会向け要約にも、現地警備隊の証言を入れる。月面方面軍の所見も入れる。広報が嫌がっても入れろ」
「了解しました」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
制圧は終わった。
だが、処理は始まったばかりだった。
◆月面エアーズ市 バンガー工業医療仮設区画
一番機のパイロットは、コックピットから降りていた。
足元が少し揺れる。
重力のせいではない。
医療班が、負傷者を運んでいる。
工場内で救われた従業員もいる。
救えなかった者もいる。
その区別が、彼の中でまだ整理できなかった。
支援機のパイロットが近づいてきた。
「損害確認は終わっていない」
「分かっています」
「市街には出さなかった」
「分かっています」
「それでも、気にするか」
一番機のパイロットは答えなかった。
支援機のパイロットはしばらく黙り、低く言った。
「俺もだ」
その言葉は、意外だった。
一番機のパイロットは顔を上げた。
支援機のパイロットは、崩れた工場の方を見ていた。
「俺は、迷えば被害が広がると思っている。今もだ。だが、迷わなければ被害が消えるわけでもないらしい」
一番機のパイロットは、何も言えなかった。
遠くで、現地警備隊長が月面方面軍の大佐と話している。
怒鳴ってはいない。
だが、怒っている。
その方が、彼には堪えた。
評価小隊の回線に、短い命令が入る。
『小隊、機体点検後、待機。報道対応は宇宙軍総司令部が行う。個別発言は禁止』
一番機のパイロットは、通信に返事をした。
「了解」
それだけだった。
言える言葉が、それしかなかった。
彼はもう一度、工場を見た。
自分たちは、街を救った。
そう言える結果はある。
だが、工場の中にいた人々が、自分たちを救助者として見ているかは分からなかった。
ひとりの従業員が、担架の上からこちらを見ていた。
その目にあったのは、感謝ではなかった。
一番機のパイロットは、その視線を忘れないようにした。
忘れれば、たぶん次は撃つことがもっと簡単になる。
◆ジャブロー地下 最高司令部第1会議室
深夜になっても、資料は減らなかった。
むしろ増えていた。
・宇宙軍総司令部短報
・月面方面軍暫定報告
・現地警備隊通信ログ
・ロンド・ベル受信記録
・医療搬送一覧
・バンガー工業施設損壊図
・報道各社初期原稿
・国防総省議会説明用要約案
・監察部生ログ提出要求案
副官が、別紙を差し出す。
「広報系の初期原稿です」
私は読んだ。
”治安即応評価小隊、五分で武装残党を制圧”
”月面都市への被害拡大を未然に阻止”
”新型MS部隊の高い即応能力を証明”
”再発防止に向けた治安体制強化の必要性”
「民間人被害は」
「確認中、の一文のみです」
「差し戻せ」
「はい」
「確認中なら、確認中のまま本文に入れろ。消すな」
「承知しました」
私は、机上の水を見た。
ほとんど減っていない。
副官が、それを見逃さなかった。
「閣下」
「分かっている」
「飲んでください」
「分かっていると言った」
「飲むまで記録しません」
私は水を飲んだ。
副官は満足そうではなかったが、端末へ戻った。
「監察部からです。宇宙軍総司令部側が、評価小隊の一部通信について整理後提出と回答しています」
「整理前を出せと返せ」
「はい」
「整理後は、整理後として受け取る。だが、整理前を出さない理由も記録しろ」
「承知しました」
壁面には、二つの映像が並んでいる。
片方は、ジム・クゥエルの突入映像。
もう片方は、現地警備隊のヘルメットカメラ。
同じ工場。
同じ時間。
だが、見えているものが違う。
突入映像では、旧式MSが見える。
ヘルメットカメラでは、逃げ遅れた従業員が見える。
どちらも事実だった。
だから、片方だけを残してはならない。
「副官」
「はい」
「月面方面軍と現地警備隊の記録保全担当へ礼を出せ」
「礼状ですか」
「違う。業務連絡でいい。現状の証言とログの保全を継続せよ、と」
「承知しました」
「ついでに、企業法務からの照会記録も押さえろ」
「バンガー工業側ですか」
「そうだ。警戒強化を遅らせた一因だ。責めるかどうかは後でいい。まず残せ」
副官が入力する。
その横で、国防総省から再び照会が届く。
件名は変わっていた。
エアーズ市事案に関する総合報告作成協議。
少しだけましになった。
だが、まだ足りない。
私は椅子に背を預けた。
目を閉じる時間はなかった。
エアーズ市の工場は、五分で沈黙した。
だが、その五分をどう記録するかは、これから決まる。
その仕事の方が、ずっと長くなる。
「副官」
「はい」
「次の資料を出せ」
「食事が先です」
「資料だ」
「食事です」
「緊急だ」
「閣下の体も、ある意味では緊急です」
会議室の空気が、わずかに緩んだ。
私は、少しだけ副官を見た。
「勝てる気がしない」
「勝たせる気がありません」
「味方だろう」
「味方なので甘くしません」
副官は、食事予定を会議卓の中央に表示した。
その横に、未処理資料の赤い表示が並んでいる。
私は、赤い表示を消さなかった。
消せるはずもなかった。
エアーズ市の名は、もう事件名になっていた。
その名前が、誰かにとって都合のいい実績だけにならないようにする。
今は、それが最初の仕事だった。