◆地球連邦軍最高司令部第1会議室
エアーズ市の映像は、まだ壁面に残っていた。
黒い機体。
崩れた工場。
担架。
現地警備隊のヘルメットカメラに映った、逃げ遅れた従業員の影。
会議室に窓はない。
ジャブロー地下の厚い構造壁の向こうに、月面都市の煙は届かない。
届くのは、整理された報告と、整理される前に消されかける記録だけだった。
私は、会議卓に並んだ資料を見た。
・宇宙軍総司令部短報
・月面方面軍暫定報告
・現地警備隊通信ログ
・ロンド・ベル受信記録
・医療搬送一覧
・バンガー工業施設損壊図
・報道各社初期原稿
・国防総省議会説明用要約案
・監察部生ログ提出要求案
同じ事件の資料とは思えないほど、紙ごとに顔が違う。
宇宙軍総司令部の短報は、早かった。
・作戦時間、四分五十八秒
・旧式MS三機無力化
・ジュニアMS五機無力化
・武装人員十数名沈黙
・評価小隊損害軽微
・市街区画への被害拡大なし
月面方面軍の報告は、遅れて届いた。
・民間人死傷者、確認中
・工場施設損壊、多数
・避難路閉塞、複数
・現地警備隊、突入前に民間人保護を要請
・評価小隊、制圧優先と回答
・月面方面軍、到着時に施設被害と救難遅延を確認
・現地警備隊通信ログ、保全中
「短報だけなら、綺麗な勝利だな」
誰も答えなかった。
答えなくていい。
その沈黙が、この部屋の答えだった。
情報局長が、壁面の右側を示した。
「報道各社の初期原稿です。広報経由で流れた表現と、かなり重なっています」
画面に単語が並ぶ。
”迅速制圧”
”市街被害阻止”
”治安即応能力”
”再発防止”
どれも短い。
短い言葉は、よく広がる。
その代わり、落ちるものも多い。
「現地警備隊の要請は」
監察部長が答える。
「宇宙軍総司令部短報にはありません。月面方面軍報告と、現地警備隊ログにはあります」
「消されたのか」
「少なくとも、短報には載せられていません」
「では、載せる」
私は言った。
「エアーズ市バンガー工業事件暫定報告は、二本立てにするな。一つの報告に統合しろ。作戦時間と、民間人保護要請拒否を同じ本文に入れる」
法務局長が、端末を操作する。
「表題はどうしますか」
「エアーズ市バンガー工業事件暫定報告。治安即応能力および民間人保護上の重大懸念」
副官の手が止まった。
「閣下。長いです」
「短くすれば、何かが落ちる」
「記録します」
副官は反論しなかった。
その代わり、会議卓の端に小さな紙包みを置いた。
「食事です」
「今は会議中だ」
「会議ではありません。連続勤務の延長です」
「同じことだ」
「医務室には別の言い方をします」
私は、紙包みを見た。
食べる気はない。
だが、副官は退かない。
「後で食べる」
「後で、という時刻を記録します」
「副官」
「はい」
「味方だろう」
「味方なので甘くしません」
会議室の空気が、わずかに緩んだ。
それで十分だった。
私は水を飲み、すぐに画面へ視線を戻した。
「宇宙軍総司令部へ、生ログ提出要求。評価小隊の突入前通信、現地警備隊との交信、評価計画管制室の指示、広報準備記録。全部だ」
監察部長が頷く。
「提出期限は」
「即時」
「整理後提出と返ってきた場合は」
「整理前を出せ、と返せ。整理後は整理後として受け取る。だが、整理前を出さない理由も記録する」
「了解しました」
「ロンド・ベルは」
副官が答える。
「第1機動群が現地警備隊の音声ログを保全中です。救難支援は月面方面軍と調整しています」
「ブライトへ伝えろ。救難を優先。映像解析は後でいい」
「はい」
壁面情報表示盤の片隅に、新たな照会が表示された。
国防総省。
件名は早かった。
エアーズ市制圧事案に関する議会説明用要約。
私は、件名だけで目を細めた。
「もう来たか」
副官が確認する。
「はい。議会国防委員会の一部委員からも、治安即応評価小隊の有効性に関する照会が入っています」
「有効性だけではなく、現地で何が起こったのかも送れ。都合の良い五分というキーワードだけを持っていかせるな」
「はい」
私は、会議卓に指を置いた。
「国防総省へも送れ。市街区画への拡大阻止は事実。民間人保護要請を退けたことも事実。両方を本文に入れろ。参考資料に落とすな」
「はい」
「議会向け要約にも、現地警備隊の証言を入れる。月面方面軍の所見も入れる。広報が嫌がっても入れろ」
「了解しました」
情報局長が、別の資料を開いた。
「議会側の動きです。強硬派を中心に、治安部隊構想の制度化を急ぐ声が出ています」
「早いな」
「エアーズ市の数字が効いています」
壁面に、議会内照会の件名が並ぶ。
・地球圏治安維持特別部隊の常設化
・コロニー落とし未遂後の再発防止策
・残党即応制圧能力の強化
・議会国防委員会による特別監督権限の検討
最後の一行で、会議室の温度が下がった気がした。
「特別監督権限の検討だと」
私は、その文字を凝視した。
「所管は国防総省という話ではなかったのか」
法務局長が答える。
「直近の関係部局との調整では、連邦軍内部の特別治安部隊として整理する方向です。国防総省所管、長官署名、最高司令部監察条項の一部存置。そういう建て付けでした」
「なら、なぜ議会が監督枠などということを言い出す」
誰もすぐには答えなかった。
情報局長が、少し間を置いて言った。
「宇宙軍総司令部内の一部から、議会筋への説明資料が流れています。正式な上申ではありません。ですが、言葉は整っています」
「誰が整えた」
「確定はしていません」
「確定していない名前を言え」
「ジャミトフ准将周辺です」
会議室に、低い空調音だけが残った。
私は、エアーズ市の映像から視線を外さなかった。
「なるほど」
数字が政治へ渡った。
その横に置くはずの被害記録は、別紙へ落とされようとしている。
そして、治安部隊は軍の内側から外へ押し出されようとしている。
「政務側が動くな」
副官が端末を見る。
「既にタガール側では対応を協議中との通知が来ています」
「なら、連絡が来るな」
「はい」
「来る前に、こちらの記録を送っておけ」
「既に送信準備中です」
「なら送れ」
「はい」
私は、椅子に背を預けた。
疲れはあった。
だが、眠気ではない。
目が冴えている。
悪い時の冴え方だった。
◆地球連邦首都タガール 議会国防委員会関係者用会議室
その部屋に、軍服は少なかった。
議員秘書。
委員会スタッフ。
国防関係の政策顧問。
退役軍人団体の代表。
報道対応を知る者。
そして、宇宙軍総司令部から来た数名の実務者。
ジャミトフ・ハイマンは、部屋の中央には座らなかった。
壁際に近い席。
だが、発言が届く位置。
そういう席だった。
ジャミトフは、バスクに現地指揮を一任し、結果が届き次第、すぐに動けるようダカールで待機していたのだ。
机上には、エアーズ市の要約資料が置かれている。
最初の紙には、短い数字が並ぶ。
・作戦時間、四分五十八秒
・旧式MS三機無力化
・ジュニアMS五機無力化
・市街区画への被害拡大なし
・評価小隊損害軽微
議員の一人が、その紙を指で叩いた。
「これだ。市民に示せるのは、こういう数字だ」
別の議員が頷く。
「コロニー落とし未遂の後だ。遅い対応は許されん。五分で止めたという事実は大きい」
ジャミトフは、すぐには口を開かなかった。
議員たちが欲しがる言葉を、自分たちの口で言うまで待つ。
それでいい。
政策顧問が、二枚目の資料に目を落とした。
「ただし、最高司令部は民間人被害と現地警備隊の保護要請拒否を本文へ入れるよう求めています」
部屋の空気が少し重くなる。
「また、あの大将か」
誰かが呟いた。
ジャミトフは、そこで初めて顔を上げた。
「最高司令部としては、当然の処置でしょう」
反発を抑えた声が返る。
「准将、君はあの大将の肩を持つのかね」
「いいえ」
ジャミトフは穏やかに答えた。
「監察部門は記録を残す。軍令上、それは当然です。ただ、記録を残すことと、政治判断の速度を落とすことは同じではありません」
議員たちの視線が集まる。
「エアーズ市では、市街区画への流出を防いだ。これは事実です。民間人被害も事実です。問題は、どちらを制度設計の中心に置くかです」
「制度設計の中心」
「はい。国防総省案では、治安部隊は連邦軍内部の特別部隊として整理されます。国防総省所管、長官署名、最高司令部監察条項付き。生ログ、民間人処遇記録、研究機関利用記録、推薦者記録も残るでしょう」
「悪いことではないように聞こえるが」
「悪いことではありません」
ジャミトフは、少しだけ間を置いた。
「ただし、遅くなります」
その一言は、部屋によく染みた。
「最高司令部の監察、法務局の事後審査、コロニー駐留軍との任務分界、ロンド・ベルとの調整。全て必要です。必要だからこそ、即応は鈍ります」
「では、どうする」
「議会国防委員会が、特別監督枠を持つべきです」
誰かが、息を呑んだ。
言葉にすれば簡単だ。
だが、それは軍制の内側から、外へ出るということでもある。
ジャミトフは続けた。
「議員は、軍を日々指揮したいわけではないでしょう」
「当然だ。我々は軍人ではない」
「なら、必要なのは日々の命令権ではありません。市民に対して、議会が治安回復を監督していると示せる枠組みです」
政策顧問が、ゆっくり頷いた。
「国防総省と最高司令部に任せれば、手続きで遅れる。議会が特別監督する部隊なら、市民に成果を示せる」
「その通りです」
ジャミトフは、資料の一部を指した。
”市民保護”
”迅速な治安回復”
”再発防止”
「看板は、この三つでよろしいかと」
「国防総省は嫌がる」
議員の一人が言った。
「国防総省は、軍事組織を議会が直接監督する前例を嫌うだろう」
「ですから、国防総省には行政窓口を残します」
ジャミトフの声は変わらない。
「予算、署名、制度調整、議会説明資料。そこは国防総省が担う。ですが、部隊の政治的監督枠は、議会国防委員会が持つ」
「最高司令部は」
「監察条項の一部は残せばよいでしょう。完全に削れば、国防総省、延いては国防長官もお困りになるでしょう」
「君は、最高司令部の大将を嫌っているのではなかったのか」
皮肉混じりの声だった。
ジャミトフは薄く笑った。
「嫌いで済む相手なら、楽でした」
部屋が静かになる。
「あの大将は、記録を残します。約束を紙にし、紙を命令にし、命令を部隊任務にしてしまう。邪魔ではありますが、同時に、あの記録がなければ長官も議会も後で逃げ道を失う」
「評価しているのか」
「危険視しています」
そこで一度、言葉を切った。
「危険視する程度には、評価しています」
その言い方で、数人が小さく笑った。
だが、ジャミトフは笑わなかった。
「だからこそ、通常の軍令の内側に置いてはならない。最高司令部の縄は、軍令系統の中でこそ効く」
彼は資料を閉じた。
「なら、軍令系統の外側へ置けばいい」
その場の空気が決まった。
誰かが、すぐにメモを取り始める。
議会国防委員会特別監督枠。
まだ正式な案ではない。
だが、言葉になった。
言葉は、制度を作る。
制度は、権限を作る。
ジャミトフは、それを知っていた。
◆地球連邦首都タガール 国防長官オフィス参謀次官執務室
参謀次官は、議会側から回ってきた非公式要望書を読んでいた。
一枚目で、眉が動いた。
二枚目で、眼鏡を外した。
三枚目で、机の端を軽く叩いた。
「……早すぎる」
秘書官が、前に立っている。
参謀次官の机に積まれる紙は、軍令ではない。
だが、軍を動かす前に通らなければならない紙だった。
この肩書きは、軍の幕僚を意味しない。国防長官オフィスに置かれた、政務と軍事政策を扱う高官である。
最高司令部の軍令系統には属さず、大将に命令される立場でもない。だが、制度案、予算案、議会説明資料、そして国防長官の裁可に至る紙の流れに触れる位置にいる。
制服の大将が軍を動かすなら、参謀次官は軍を動かすための紙を動かす。
互いに命令はできない。
だが、互いに無視できる相手でもなかった。
「議会国防委員会の推進派からです。正式要求ではありませんが、委員長周辺にも回り始めています」
「長官は」
「まだご覧になっていません。副長官側には先に入っています」
参謀次官は、そこで少しだけ顔をしかめた。
副長官側に先に入った。
それだけで、流れは半分決まる。
「国防総省所管案はどうなった」
「制度調整局案は維持されています。連邦軍内部の特別治安部隊、長官署名、最高司令部監察条項の一部存置。生ログ提出義務、民間人処遇記録、研究機関利用記録、推薦者記録も一部残す方向です」
「それでよかった」
参謀次官は低く言った。
「危険ではあるが、まだ責任の線が引ける。長官が判を押すなら、縛りも残せる」
秘書官は黙っていた。
参謀次官は、議会側の紙をもう一度見る。
議会国防委員会特別監督枠。
直接指揮とは書いていない。
だが、通常の軍令系統から外す含みがある。
国防総省には、行政窓口だけが残る。
予算。
署名。
説明。
責任。
「都合がよすぎる」
参謀次官は呟いた。
「部隊は欲しい。成果も欲しい。だが、不祥事が起きれば長官の責任になる。議会は監督したと言い、軍は通常の指揮系統ではないと言い、国防総省だけが責任を持たされる」
「副長官は、議会との調整を重視されるかと」
「知っている」
参謀次官は、机上の別紙を開いた。
最高司令部から届いた報告だった。
エアーズ市バンガー工業事件暫定報告。
表題は長い。
長いが、逃げていない。
・市街区画への被害拡大阻止
・民間人保護要請
・制圧優先回答
・避難路閉塞
・施設損壊
・評価計画管制室指示記録要求
・広報準備記録要求
・生ログ提出要求
参謀次官は、しばらくその資料を見ていた。
「面倒な大将だ」
秘書官は、返事に困った。
参謀次官は続けた。
「だが、必要な面倒さでもある」
「評価されているのですか」
「評価という言葉は軽い」
彼は、最高司令部からの報告に視線を落としたまま言った。
「あの大将は、政治資料としては扱いづらい。余計な死者名、余計な時刻、余計な拒否記録を本文へ入れたがる。議会説明には重すぎる」
「はい」
「だが、軽くすれば、後で長官に累が及ぶ」
秘書官は、ようやく意味を理解した。
参謀次官は、赤字で一箇所に線を引いた。
現地警備隊、突入前に民間人保護を要請。
「ここを完全に消せば、国防総省が隠したことになる」
「別紙化でしょうか」
「本文からは落とす。ただし、完全には消さない」
「最高司令部は反発します」
「するだろう」
参謀次官は、眼鏡をかけ直した。
「反発してもらわねば困る時もある」
秘書官が顔を上げる。
「と、言いますと」
「こちらが削り、あちらが残す。議会には軽い紙を出す。長官には重い紙を残す。後で誰かが、全部知らなかったとは言えなくなる」
「それを、あの大将は承知しますか」
「承知はするだろう。同意はしない」
参謀次官は、端末を操作した。
タガールからジャブローへの秘匿通信準備。
「それでいい。あの大将がすぐ同意するようなら、むしろ危うい」
秘書官は、通信手続きを進めた。
「長官と副長官の意向として接続しますか」
「そうだ。長官は記録を消す意向ではない。副長官は政治問題化を嫌がっている。その両方を伝える」
「議会の特別監督枠については」
「まだ決定ではない。だが、圧力が来ていることは伝える」
参謀次官は、議会側の紙を閉じた。
「長官へ上げる前に、最高司令部の反応を取る」
「大将は強く反発すると思われます」
「だろうな」
参謀次官は、わずかに口元を動かした。
笑みというほどではない。
「だから、話す価値がある」
◆ジャブロー地下 最高司令部第1会議室
副官が、手元の端末を確認した。
「閣下。タガールの国防長官オフィスより秘匿通信接続要求です」
「相手は」
「参謀次官です。長官および副長官の意向を伝えるとのことです」
「繋げ」
「はい」
壁面の一部が切り替わった。
通信画面の向こうに、背広姿の男が映る。
背景には、地球連邦政府庁舎の紋章があった。
タガール。
国防長官オフィス。
軍服ではない。
だが、軽い相手ではない。
参謀次官は、最高司令部の部下ではない。こちらが命令できる相手ではなく、向こうもまた、私に直接命令できる立場ではなかった。
だからこそ、言葉を間違えれば命令違反ではなく、政治問題になる。
『お時間をいただきます、大将』
「承ります」
参謀次官は、資料を手元に置いていた。
顔色に疲れはある。
だが、言葉は乱れない。
『長官は、エアーズ市における民間人被害記録を消す意向ではありません』
「当然です」
『ただし、議会説明資料の本文に全てを入れれば、治安部隊構想そのものが止まりかねない、との御判断です』
「止まって困る構想なら、最初から再検討すべきです」
『止まれば、議会強硬派は、最高司令部が市民保護を妨害したと言います』
「市民保護を妨害したのは、保護要請を退けた側です」
『その点は、別紙に記載します』
「別紙に落とせば読まれません」
『読ませたい相手には読ませます。読ませたくない相手にまで読ませる必要はありません』
「それを隠蔽と言います」
『政治では調整と言います』
私は、画面越しの男を見た。
参謀次官は、こちらを軽んじてはいなかった。
むしろ、こちらがどう返すかを読んだうえで、言葉を選んでいる。
だからこそ厄介だった。
「では、その調整を求めた部署名と担当者名も記録します」
『長官オフィスとして、それを拒むものではありません』
「承知しました。最高司令部保全資料には、別紙化要求の経緯を添付します」
『それで結構です』
少し、間が空いた。
参謀次官は、別の資料を開いた。
『大将。もう一点あります』
「伺います」
『長官オフィスの当初案は、国防総省所管の連邦軍内特別治安部隊です。長官署名、最高司令部監察条項の一部存置、生ログ提出義務、民間人処遇記録、研究機関利用記録、推薦者記録。全てを消す案ではありません』
「その認識で、こちらも調整していました」
『ですが、議会国防委員会の一部が、より強い監督権限を求め始めています』
「議会直轄に近い形ですか」
『現時点で正式な要求ではありません。ですが、議会国防委員会特別監督枠という文言が出ています』
会議室の空気が、また重くなる。
私は、画面から目を逸らさなかった。
「長官オフィスは、その案を支持しているのですか」
『慎重です』
「反対ではなく、慎重」
『大将。政治では、その二つに大きな差があります』
「軍でもあります」
参謀次官は、ほんの少しだけ目を細めた。
不快ではない。
評価に近い反応だった。
『長官は、軍事組織を議会が直接監督する前例を軽く見ておられません。責任所在が曖昧になります。不祥事が起きた場合、結局は長官責任へ戻る。最高司令部との摩擦も深まる』
「ならば、止めるべきです」
『止めるには、材料が要ります』
「エアーズ市の被害記録では足りませんか」
『足ります。ただし、議会を止める材料としては重すぎる。重すぎる材料は、時に閉じられます』
「軽い材料だけが通る」
『その通りです』
参謀次官は、そこで一度言葉を切った。
『大将。あなたの報告は扱いづらい』
「承知しています」
『ですが、扱いづらいからこそ、長官オフィスにとって必要な部分もあります』
私は、わずかに眉を動かした。
『五分で制圧したという情報だけを長官が持てば、後で長官の責任問題に波及しかねない。民間人保護要請があったこと、制圧優先で退けられたこと、それを最高司令部が記録したこと。これは長官にとっても保険です』
「保険として使うために、本文から落とす」
『議会説明資料の本文からは、です』
「軍の保全記録からは」
『外しません』
「研究機関利用記録、推薦者記録、生ログ提出義務は」
『削られる可能性があります』
「誰が削るのですか」
『議会側、副長官周辺、制度調整局の一部です』
「担当者の名前は開示いただけるのですか」
『正式文書になれば出ます』
「正式文書になる前に消える名前もあります」
『そのために、こちらも内部記録を残します』
参謀次官は、静かに言った。
『大将。あなたほど綺麗には残せませんが、何も残さないほど愚かでもありません』
私は、その言葉を聞いた。
国防長官オフィスは味方ではない。
だが、全てを消したいわけでもない。
自分たちの責任を守るために、こちらの重い紙を必要としている。
それは信用ではない。
だが、使える。
「参謀次官」
『はい』
「議会国防委員会特別監督枠が進む場合、最高司令部の通常監察から外れる危険があります」
『理解しています』
「理解しているだけでは足りません」
『だから通信しています』
参謀次官の声は、わずかに低くなった。
『長官オフィスは、全てを止められる立場ではありません。副長官周辺は議会との調整を重視しています。世論も治安部隊を求めている。エアーズ市の数字は、強い』
「五分、ですか」
『はい。五分です』
私は、壁面に残る担架の映像を見た。
五分。
短い数字だ。
人の死を隠すには、十分に短い。
「最高司令部としては、同意ではなく保留として記録します」
『承知しました』
「別紙化要求の経緯、議会側からの特別監督枠要求、長官オフィスの慎重姿勢、副長官周辺の推進姿勢。全て記録します」
『その記録を、必要な相手へ読ませる方法も考えてください』
参謀次官の言葉に、私は少しだけ黙った。
「それを専門とする国防長官オフィスが、我々にそれを言いますか」
『政治資料は、読まれなければ存在しないのと同じです』
「軍の記録は、残すことが先です」
『残しただけでは、負けることがあります』
その声には、皮肉だけではないものがあった。
この男は、こちらを使おうとしている。
同時に、こちらが何をしようとしているかを完全には否定していない。
「ご忠告として承ります」
『忠告ではありません。実務上の所見です』
「では、実務上の所見として記録します」
『それはおやめいただきたい』
「冗談です」
副官が、横で一瞬だけこちらを見た。
珍しいものを見た、という顔だった。
参謀次官も、ほんのわずかに口元を緩めた。
だが、すぐに表情を戻した。
『大将。長官は、何も残らない部隊に判を押すつもりはありません』
「その言葉を文書でください」
『調整します』
「調整では困ります」
『政治では調整と言います』
「軍では保留と言います」
『では、互いに保留と調整で進めましょう』
通信は、そこで一区切りついた。
最後に参謀次官は、少しだけ声を落とした。
『大将。エアーズ市の重い紙は、長官オフィスでも残します。あなたの書き方では議会を通りにくい。ですが、あなたの書き方でなければ残らないものもある』
「承りました」
『では』
通信が切れた。
壁面は、再びエアーズ市の映像へ戻る。
副官が、静かに言った。
「評価されていましたね」
「利用価値を見ただけだ」
「それを評価と言う場合もあります」
「副官」
「はい」
「記録するな」
「今の発言は記録しません」
「今の、は?」
「必要なものだけ記録します」
私は、少しだけ息を吐いた。
「参謀次官との通信記録。要点を整理しろ」
「はい」
副官の端末に、短い項目が並ぶ。
・長官オフィス当初案は国防総省所管の連邦軍内特別治安部隊
・長官は民間人被害記録を消す意向ではない
・議会説明資料では別紙化要求あり
・議会国防委員会特別監督枠の非公式圧力あり
・長官オフィスは慎重
・副長官周辺は議会調整重視
・最高司令部は同意ではなく保留
・別紙化要求経緯を保全資料へ添付
・監察条項、生ログ、推薦者記録の削減可能性あり
・国防長官オフィスも内部記録を保持予定
私は、その最後の行を見た。
「予定、か」
副官が答える。
「確約ではありません」
「だから、こちらで残す」
「はい」
会議室の奥で、情報局長が別の資料を開いた。
「議会筋への接触記録、続報です。ジャミトフ准将周辺の動きが増えています」
「出せ」
画面に、点が増える。
議員秘書。
退役軍人団体。
政策顧問。
宇宙軍総司令部の連絡担当。
月面企業系の安全保障研究会。
まだ線にはしない。
だが、点は打つ。
「情報局」
「はい」
「確定しないまま断定するな。だが、消すな」
「了解しました」
「監察部。治安部隊構想の改訂案に、議会側承認記録欄を追加しろ」
監察部長が、少し眉を上げた。
「議会側ですか」
「そうだ。議会が監督したいなら、議会側の誰が承認したか残す」
「反発されます」
「承認したなら名前を残せるはずだ」
「記録します」
法務局長が続ける。
「長官オフィスからは、本文ではなく添付資料に落とすよう求められる可能性があります」
「落とされた経緯も残せ」
「はい」
私は、机上の資料に視線を落とした。
軍の内側なら、命令で押せる。
押せない相手が増えている。
国防長官オフィス。
議会国防委員会。
副長官周辺。
宇宙軍総司令部の強硬派。
ジャミトフ。
紙は、軍の外へ伸び始めていた。
その紙を、誰に読ませるか。
誰に握らせるか。
誰が黙れなくなるか。
その答えを、私はまだ持っていなかった。
◆月面エアーズ市 現地警備隊仮設詰所
現地警備隊長は、端末に届いた照会票を見ていた。
また、欄が増えている。
・保護要請発信時刻
・受信相手
・拒否回答の有無
・拒否回答の文言
・避難路閉塞箇所
・民間人残留区画
・通信断絶時刻
・映像記録保全担当者
部下が、横から覗き込んだ。
「またですか」
「ああ」
「今度は時刻までですか」
「前から時刻は取っていた」
「こんな細かくは取ってません」
警備隊長は、返事をしなかった。
その通りだった。
いつもなら、現場判断で片付けられる。
企業側の法務が遅れた。
警備隊の判断が遅れた。
残党が悪かった。
軍が制圧した。
そういう形で終わる。
だが、今回は違う。
誰が、いつ、何を言い、誰が退けたか。
それを書かされている。
「上で揉めてるんですかね」
部下が言った。
「揉めてなきゃ、こんな欄は増えない」
「俺たちの要請、消されてないんですか」
「今のところはな」
「珍しいですね」
「ああ」
警備隊長は、端末を閉じかけて、もう一度開いた。
最後の欄。
照会者名。
誰がこの記録を求めたか。
そこまで残る。
「気味が悪いです」
部下が小さく言った。
「まだ俺たちに何の指示もない」
警備隊長は、壊れたヘルメットを机に置いた。
「だが、なかったことにはされていない」
詰所の外では、まだ救急車両が往復している。
五分で終わった事件の後始末は、終わっていなかった。
◆地球連邦首都タガール ゴップ議員私室
通信は、予定より遅い時刻になった。
画面の向こうで、ゴップは湯気の立つ茶を手元に置いていた。
こちらは水だけだ。
副官が、食事の残量を横で確認している。
「ゴップ議員。遅い時間に失礼します」
『君が時間を気にするようになったか。副官に叱られたな』
「通信を切ってよろしいですか」
『その程度の冗談に逃げるな、大将』
ゴップの声は柔らかい。
だが、逃がす気はない。
『エアーズ市の報告は読んだ』
「早いですね」
『君が議会向けの書類作成が下手だということは分かった』
私は、少しだけ黙った。
「議会側が動いています」
『当然だ。五分という数字は、短くて強い』
「民間人被害も同じ本文に入れています」
『それはいい。だが、まだ足りん』
「足りませんか」
『足りん。君はまだ、軍の中で紙を重くしようとしている』
「軍の問題ではありませんか」
『違う。軍の問題として始まった政治の問題だ。そこを間違えるな』
ゴップは茶を置いた。
『議会は五分という数字を持っていく。市民保護、治安維持、再発防止。どれも看板として使いやすい』
「その横に、民間人被害と保護要請拒否を置きます」
『置くだけでは読まれん』
参謀次官と似たことを言う。
私は、少しだけ眉を寄せた。
ゴップはそれを見逃さなかった。
『長官オフィスにも言われた顔だな』
「参謀次官から、似た趣旨の実務上の所見を受けました」
『ほう。あの男がそこまで言ったか』
「ご存じですか」
『知らん相手なら、君に注意しろとは言えんよ』
ゴップは、少しだけ笑った。
『あれは軍人ではないが、紙の重さは分かっている。軽くするために削るが、消しすぎる怖さも知っている。面倒な男だ』
私は、少しだけ息を吐いた。
「政治ですか」
『君が好まない政治の世界の人間だよ』
ゴップは、すぐに表情を戻した。
『大将、君は連邦軍大将だ。軍の中では最高位の一人だろう』
「はい」
『だが、地球連邦政府という人類史上最大の統治機構の中では、君は数多いる高官の一人に過ぎん』
「……数多いる高官の一人、ですか」
『そうだ。大将、君は弱者なんだよ』
その言葉は、分かっていても重い。
「……弱者、ですか」
『連邦軍内では強者でも、連邦政府全体では違う。軍の外では、君の命令がそのまま通るとは限らん。むしろ通らないほうが多いだろう。だからこの地球連邦全体でみれば君は弱者なんだよ、大将』
「厳しいことをおっしゃる」
『慰めを聞きたくて呼んだわけではあるまい。弱者なら、弱者なりの戦い方を覚えたまえ』
「軍の中だけでは足りない、ということですね」
『そうだ。君の紙を、誰に読ませるか。誰に握らせるか。誰が黙れなくなるか。そこまで考えたまえ』
私は、会議卓の端に置かれた資料を見た。
エアーズ市。
長官オフィス。
議会国防委員会。
ジャミトフ。
まだ、線は細い。
「ジャミトフが、議会側へ動いています」
『だろうな』
「驚かれませんか」
『驚いてほしいのかね』
「いいえ」
『なら続けたまえ』
「長官オフィスは当初、国防総省所管の連邦軍内特別治安部隊として調整していました。監察条項も一部残すつもりだった。だが、議会側から特別監督枠の圧力が出始めています」
『ジャミトフは、軍令の縛りを嫌う』
「分かっています」
『分かっているだけでは足りん。彼は、議員が欲しがる形を与えている。議員は、自分たちが市民を守ったと言いたい。そこへ五分を渡せば、簡単に食いつく』
「長官オフィスは難色を示しています」
『示すだろう。だが、押し切られるかもしれん』
「そう見ますか」
『長官は慎重でも、副長官周辺が同じとは限らん。世論もある。エアーズ市の数字もある。反残党感情もある。大将、政治は正しい案が通る場所ではない。通せる形になった案が通る場所だ』
「なら、私はどうすれば」
『まず、名前を残せ』
「名前」
『誰が推薦したか。誰が承認したか。誰が装備を渡したか。誰が研究機関を使わせたか。誰が民間人処遇記録を別紙へ落としたか。誰が読んだか。誰が読まなかったことにしたか』
「記録なら、残しています」
『軍の中に、だろう』
「軍の記録は、軍の中で扱うものです」
『だから軍人は、よくそこで止まる。私は軍服を脱いだから、それに気づいたわけではない。軍服を着ていた頃から、命令書だけでは届かん場所があることは分かっていた。だから議会へ行った』
ゴップの声は穏やかだった。
しかし、そこに甘さはない。
『君は市民を守ろうとしている。それは立派だ。だが、市民を守るという言葉は、ジャミトフも使う。バスクも使う。議会強硬派も使う。なら、違いを見せなければならん』
「違い、ですか」
『約束を守れ』
私は、すぐに答えられなかった。
ゴップは待った。
待たれる方が、きつい。
「シーマ艦隊の件なら、すでに最高司令部保護命令として処理しています。ロンド・ベルにも保護任務を付け、法務記録にも残した。私が倒れても、個人の気分でひっくり返せないようにしたつもりです」
『知っている。だから言っているんだよ、大将』
ゴップは、少し声を低くした。
『君はもう一度、それをやっている。約束を紙にし、紙を命令にし、命令を部隊任務にし、部隊任務を記録に残した。シーマ艦隊は、君個人ではなく、制度に守られる形になった』
「だからこそ、簡単には広げられません」
『うむ』
「シーマ艦隊は、情報協力者でした。取引があり、対価があり、記録があり、こちらも相手も条件を理解していた。エアーズ市周辺にいる旧ジオン系技術者や補給屋、生活困窮型の協力者まで同じ扱いにすれば、線引きが曖昧になります」
『同じ扱いにしろとは言っておらん』
「線引きを誤れば、戦犯の逃げ道になります。毒ガス、虐殺、民間人殺傷に関わった者まで、武器を置いたという一言で紛れ込む」
『だから、分類するんだよ』
「分類だけでは足りません。保護名簿を作れば、ティターンズは必ず要求してきます。危険人物の確認、治安維持、残党協力者の洗い出し。理由はいくらでも付けられる」
『全面開示すれば、彼らは狩られる』
「秘匿すれば、こちらが残党を匿っていると言われます」
『言わせておけばよい』
「議会はそう簡単ではありません」
『だから、軍の外に読ませる者を作れと言っている』
ゴップは、私を見据えた。
『君が守るのは、ジオン残党ではない。約束の効力だ。シーマ艦隊に対して君がやったのも、それだろう』
「……シーマには、約束を守る方が得だと思わせました」
『そうだ』
「だが、それは四年分の取引と、守られた約束があったからです。彼女は危険です。部下を守るためなら、こちらの首を値札に乗せることもある。ですが、こちらが約束を守る限り、彼女はそれを踏みにじる側には回らない。少なくとも、私はそう見ています」
『なら、今度も同じことをするんだよ』
「相手は一人ではありません」
『だから制度が要る』
「制度にすれば、約束の相手が増えます。守れなかった時の裏切りも増える。シーマ艦隊一つとは規模が違う」
『その通りだ。だが、約束を小さく保てば、裏切りも小さく済む代わりに、救える者も小さい。エアーズ市で見ただろう。武器を持つ者と、武器を持たずに巻き込まれる者を同じ箱に入れれば、次も五分で片付けられる。そして、その五分は政治になる』
私は、何も言わなかった。
言えなかった。
ゴップは続ける。
『出口を作れ。出口の先で撃たれない保証も作れ』
「保証できるほど、連邦は綺麗ではありません」
『綺麗である必要はない。約束を破れば損をする仕組みにすればよい』
「約束を破れば損をする連邦、ですか」
『そうだ。君らしいではないかね。綺麗事を命令書にする。約束を破った者を査問にかける。保護対象を撃った部隊の名前を残す。名簿を要求した者の名前も残す。読ませるべき議員に読ませる。守る方が得だと、連邦の中に思わせる』
「守る方が得になる状況を作る」
『君がシーマに対してやったことだよ、大将。今度は、それを連邦の内側に向けてやる』
「……簡単に言ってくださる」
『簡単ではないから、君に言っている』
ゴップの茶は、もう湯気を失っていた。
『君一人が強くなろうとするな。君に守られた者を、君の記録を読んだ者を、君が黙らせなかった者を、君の後ろに立たせたまえ』
「約束を守られた者を、ですか」
『そうだ。シーマ艦隊も、都市警備隊も、エアーズ市の証言者も、武器を置いた旧整備兵も、良識派の議員も、実務官僚もだ。全てが綺麗である必要はない。全てが味方である必要もない。ただ、約束を破られると困る者を増やせ』
「私は政治家ではありません」
『知っている。だから、政治家である私が言っている』
「その道は、軍人としてはかなり危うい」
『その通りだ』
「それでも、必要だと」
『必要だ。やらなければ、ジャミトフやバスクが同じ言葉を使う。市民保護、治安維持、残党対策。君が中身を作らなければ、彼らが中身を詰める』
私は、目を閉じた。
一瞬だけ。
すぐに開けた。
「……分かっています。ですが、納得はしていません」
『それでいい。納得できんことを飲み込むのも、上に立つ者の仕事だ』
通信が切れた後も、ゴップの言葉は残った。
弱者なら、弱者なりの戦い方を覚えたまえ。
私は、会議卓の資料を見た。
軍の中では、命令を書けば動く。
だが、軍の外では違う。
読ませる相手を作らなければならない。
黙れなくなる者を作らなければならない。
約束を破れば損をする形にしなければならない。
「副官」
「はい」
「シーマ艦隊保護区画との定期面談記録を出せ」
副官は、一瞬だけこちらを見た。
「今からですか」
「今からだ」
「食事は」
「食べながら読む」
「医務室へ報告します」
「読むだけだ」
「読みながら食べる場合、医務室に報告します」
「……分かった。食べてから読む」
「記録します」
副官は、ようやく少しだけ満足した顔をした。
私は、紙包みを開いた。
味はしなかった。
それでも食べた。
机の上には、まだ多くの資料が残っている。
・エアーズ市暫定報告
・議会説明用要約案
・国防長官オフィス通信記録
・ジャミトフ周辺接触記録
・治安部隊構想制約条項改訂案
・議会側承認記録欄追加案
・シーマ艦隊保護命令継続確認
・旧ジオン系技能者暫定分類票草案
最後の一枚は、まだ草案ですらない。
ただの紙だった。
だが、紙は時に、銃より長く残る。
それを知っている者が、こちらにも、向こうにもいる。
参謀次官は、こちらを評価しているのではない。
利用しようとしている。
たぶん、それでいい。
こちらも、あの男の記録を利用する。
ゴップが言った通りだ。
味方だけを探している余裕はない。
読ませる者を作る。
握らせる者を作る。
黙れなくなる者を作る。
私は、冷めた食事を飲み込み、次の資料を開いた。