地球連邦軍上層部はいつも多忙です。   作:はにわはにわ

24 / 24
第八話 月の商人たち

 

◆月面都市フォン・ブラウン 月商工会議所技能者相談窓口

 

「また欄が増えてる」

 

月商工会議所の技能者相談窓口で、係員は端末を睨んだまま呟いた。

 

隣の年配職員は顔も上げない。

 

「上から来た様式だ。今日から使え」

 

「その上って、商工会議所ですか。企業連絡会ですか。軍ですか」

 

「知らん。判子が三つも付いてる時点で、誰も責任を取りたくないってことだ」

 

係員は息を吐きかけ、窓口の前に並ぶ人影を見て口を閉じた。作業服の男、港湾用の簡易防塵服を肩に掛けた女、腕に古い火傷痕のある中年の整備工。後ろでは、呼び出し番号の表示が一つずつ遅れている。

 

端末には新しい項目が並んでいた。

 

照会者名。旧所属。保有技能。証言協力の可否。監察受容の可否。現在の雇用状況。家族帯同の有無。軍・警備隊からの照会履歴。

 

係員の指は「家族帯同」の欄で止まり、その下の欄へ滑った。

 

「……これ、揉めた時用ですよね」

 

「もう揉めてる」

 

年配職員は、古い紙束を机の端へ寄せた。そこにも付箋が何枚も貼られている。

 

「エアーズ市の件からこっち、相談が増えっぱなしだ。旧ジオン系の整備工、港湾作業員、契約を切られた工員。会社は人手が欲しい。警備隊は嫌がる。軍は問い合わせてくる。本人は書きたがらん」

 

「それが全部ここに来るんですか」

 

「月の工場と港が止まれば、苦情はここに来る。昔からそうだ」

 

呼び出し番号が点滅し、中年の整備工が席に着いた。

 

係員は背筋を伸ばし、声を仕事用に戻した。

 

「旧所属の記入をお願いします」

 

男の眉が、わずかに動いた。

 

「旧所属って、どこまでだ」

 

「以前所属していた軍、企業、組合、工場、整備班などです」

 

「軍もか」

 

「該当する場合は」

 

男は笑わなかった。

 

「書いたら捕まるんじゃないのか」

 

係員は端末に表示された説明文を見た。新しい様式と一緒に送られてきた、いかにも法律顧問が整えた文章だった。

 

「この相談票は、雇用照会と技能確認を目的としています。拘束、連行、処罰を目的とするものでは――」

 

そこで声が少し鈍った。読み上げながら、自分でも薄い紙の上を歩かされている気がした。

 

男も気づいたらしい。

 

「つまり、書いても捕まらないんだな」

 

係員は答えなかった。

 

横から年配職員が口を挟んだ。

 

「書かないと、仕事は来ない」

 

男がそちらを見た。

 

「脅しか」

 

「窓口の説明だ。企業は旧所属を気にする。軍や警備隊から照会が来ることもある。何も書かなければ、こちらは技能も経歴も確認できん」

 

「連邦を信じろって話か」

 

年配職員はそこで初めて顔を上げた。

 

「違う。何も残らないよりは、まだ紙がある方がましだって話だ」

 

男は端末へ視線を落とした。

 

旧所属。保有技能。証言協力の可否。監察受容の可否。

 

その下に、見慣れない欄があった。

 

照会者名。

 

男はそこを指で叩いた。

 

「これは」

 

係員が答える。

 

「あなたについて、企業、軍、警備隊、その他の機関から問い合わせがあった場合、問い合わせた側の名前を残す欄です」

 

「誰が俺を調べろと言ったか、残るのか」

 

「はい」

 

男は黙った。端末の明かりが、荒れた指先を照らしている。

 

「売った奴の名前も残るなら、少しはましか」

 

納得した声ではない。信用した声でもない。ただ、席を立つ気配だけは消えていた。

 

係員は入力欄を開いた。

 

「保有技能からお願いします」

 

男は端末を少し引き寄せた。

 

「モビルスーツ用の主動力炉補機。旧式艦艇の推進剤ライン。港湾クレーンの油圧系。ジュニアMSの関節調整も少し」

 

係員は入力の手を止めかけた。

 

「多いですね」

 

男は肩をすくめる。

 

「飯を食うには、何でも直すしかなかった」

 

その言葉を入れる欄は、どこにもなかった。

 

 

◆月面都市フォン・ブラウン 港湾労働者待合区画

 

港湾労働者の待合区画は、昼でも薄暗い。

 

月面港湾へ続く通路からは、細かな振動が絶えず伝わってくる。貨物用リニアの走行音、加圧ゲートの開閉音、作業員の靴音。空調は乾いていて、金属と古い油の匂いが混ざっていた。

 

壁面端末には、数日前から同じ記事の要約が表示されている。

 

サイド6の民間報道ネットワークの記事だった。見出しは派手ではない。連邦軍を持ち上げる内容でもない。命令書、通達、責任者名、補償条件。そういう退屈な単語が並んでいるのに、端末の前で足を止める者がいた。

 

「これ、読んだか」

 

港湾用の手袋を外しながら、若い作業員が言った。

 

向かいのベンチに座る元整備兵は、携帯端末から目を上げなかった。

 

「ああ」

 

「連邦軍を褒めた記事かと思った」

 

「褒めてるように見えたか」

 

「いや。途中で分からなくなった」

 

元整備兵は端末を閉じた。

 

「あの記者は、連邦を許してない。そこだけは分かる」

 

若い作業員は、胸ポケットから相談票の控えを出した。折り目が雑についている。

 

旧所属。保有技能。監察受容。照会者名。

 

「じゃあ、これも同じなのか」

 

「知らん」

 

元整備兵は即答した。

 

「あの記事に出てきた大将と、この紙を作らせた奴が同じかどうかも知らん。名前も出てなかった」

 

「最高司令部の大将って書いてあったろ」

 

「最高司令部に大将が一人しかいないと思ってるのか」

 

若い作業員は口を閉じた。

 

少し離れた席で、女の港湾労働者が鼻で笑った。

 

「どっちでもいいよ。上の誰かが急にまともな顔をしたって、うちの弟の契約は戻らない」

 

「弟は?」

 

「バンガーの下請け。切られて、今は港の夜勤」

 

彼女は紙コップを握っていた。潰すほどではない。ただ、白い縁が少し歪んだ。

 

若い作業員が言う。

 

「記事には、元シーマ艦隊の兵士も出てたんだろ」

 

「ああ。保護区画で服務規程を読まされてるとか、最高司令部の保護命令があるとか」

 

女は苦い顔をした。

 

「旧ジオンまで守るのかよ」

 

元整備兵が静かに返す。

 

「守るってより、縛ってるんだろ」

 

「同じじゃないのか」

 

「違う。撃つより、閉じ込めて、名前を残して、証言させた方が都合のいい時もある」

 

「ずいぶん連邦寄りだな」

 

「連邦なんか信じちゃいない」

 

元整備兵は、足元の工具袋を引き寄せた。

 

「ただ、工具しか持ってない奴まで残党扱いされたら、本当に残党になる。そこまで馬鹿を見るのはごめんだ」

 

しばらく、誰も話さなかった。

 

壁面端末の記事は、最後の段落へ移っていた。若い作業員は何行か追いかけたが、途中でやめた。相談票の控えに目を落とし、照会者名の欄を親指でこすった。

 

「嫌な記事だな」

 

女が尋ねる。

 

「何が」

 

「連邦を嫌いなまま読める」

 

元整備兵が小さく笑った。

 

「だから回ってるんだろ」

 

それ以上、誰も記事の大将を褒めなかった。

 

若い作業員は、相談票を破らずにポケットへ戻した。

 

 

◆月面都市フォン・ブラウン 月商工会議所法律顧問団会議室

 

法律顧問団の会議室には、木目調の机が置かれていた。

 

本物の木ではない。月で木目を再現した樹脂板だ。金属と強化樹脂ばかりの執務室よりは柔らかく見えるが、机の上に広げられた相談票の修正案は、その印象をすぐに消していた。

 

朱書きが多い。

 

多すぎる。

 

月商工会議所の理事が、赤字の入った紙を指で叩いた。

 

「現場から苦情が来ている」

 

法律顧問は頷いた。

 

「処理量は増えます」

 

「責任も増える」

 

「はい」

 

「それで、なぜ照会者名まで残す」

 

顧問は端末を操作した。画面に月面港湾部会からの照会記録が映る。企業名、工場名、作業員番号、問い合わせ日時。その端に、新しい欄が足されていた。

 

照会者名。照会元部署。照会理由。

 

「誰が問い合わせたか分からなければ、後で説明できません」

 

「軍や警備隊でもか」

 

「その場合こそです」

 

理事は椅子に背を預けた。

 

「軍の中で何が起きているのか、こちらには分からん」

 

「だから、こちら側の記録を置きます」

 

「政府や軍のためではなく?」

 

「月側のためです」

 

理事の一人が、壁面端末に表示された別資料を見て顔をしかめた。サイド6の民間報道ネットワークの記事である。

 

「この記事か。港湾の連中が回していると聞いた」

 

「読まれています」

 

「宣伝ではないのか」

 

「宣伝なら、もっと嫌われて終わりです」

 

顧問は淡々と答えた。

 

「書いた記者は、連邦軍を許していません。そこが厄介です。反連邦の弁護士も、旧ジオン系の技能者も、記事ごと捨てにくい」

 

港湾部会の代表が腕を組んだ。

 

「旧ジオン系を全部切れば、書類は減る」

 

月の港を知る人間なら、その言葉がただの正論では済まないことを知っている。

 

別の理事が言った。

 

「書類は減るな。港も工場も止まる」

 

会議室に短い沈黙が落ちた。

 

旧ジオン系。元整備兵。元補給兵。港湾作業員。偽装船籍に関わった者。軍属だったが直接戦闘には出ていない者。家族を抱え、月で食っていくしかない者。

 

ひと括りにすれば楽になる。楽にした分だけ、後で燃える。

 

法律顧問は相談票を一枚持ち上げた。

 

「旧所属だけで判断すれば、危険人物も技能者も同じ扱いになります。無記録で雇えば、事故や事件が起きた時に企業側が持ちません。ですから、分類します。証言協力の可否を見る。監察を受け入れるか確認する。照会が来た場合は履歴を残す」

 

「軍の書類みたいだな」

 

「軍の書類ではありません。月側の防御記録です」

 

理事は相談票を見つめた。

 

「最高司令部に、記録を消させたがらない高官がいるという話は聞いた」

 

「記事にも、それらしい人物は出てきます。名前は伏せられていましたが」

 

「その男と直接結ぶ気はない」

 

「結べば、こちらも軍の記録に巻き込まれます」

 

顧問の返事は早かった。

 

「軍と直接つながる記録は、盾にもなります。ただし、扱いを誤れば、こちらが軍の下請けに見える」

 

「では、誰と話す」

 

「軍内の穏健派。月側と話ができる政治筋。退役軍人支援団体に近い将校。窓口を一つにしない方がよろしいかと」

 

特定の名前は出なかった。

 

月商工会議所は、軍内の派閥を正確に読める立場ではない。誰が何を企んでいるのか、どの部署がどの政治家に近いのかも、断片でしか分からない。

 

分かっているのは、港と工場を止められないこと。無記録で旧ジオン系技能者を抱えれば、何か起きた時に月側が燃えること。そして、記録がなければ反論の足場もないことだった。

 

理事は赤字の入った相談票に署名した。

 

「現場には何と言う」

 

法律顧問は少し考えた。

 

「面倒な紙が増えた、と」

 

「そのままだな」

 

「ただ、増やさなければ、次は紙では済みません」

 

理事は苦笑した。

 

「最悪の説明だ」

 

「現場向きではありませんね」

 

「現場向きに直せ」

 

「努力します」

 

会議室の端末に、修正後の相談票が保存された。処理完了の表示が出るまでに、妙に長い間があった。

 

 

◆月面都市フォン・ブラウン アナハイム・エレクトロニクス本社会議室

 

アナハイム・エレクトロニクス本社会議室の窓は、月面都市の内壁を映していた。

 

窓の外に地球は見えない。見えるのは、巨大企業が作った都市の光、広告、軌道連絡便の時刻表、月面に張り巡らされた物流の線だった。

 

メラニー・ヒュー・カーバインは、月商工会議所から回ってきた相談票の写しを読んでいた。

 

ウォン・リーは、その向かいに立っている。

 

「面倒な様式になりました」

 

「使えるか」

 

メラニーは目を上げない。

 

「使えます。旧ジオン系技能者を受け入れる時には、むしろ都合がいい」

 

「整備屋、輸送屋、補給係か」

 

「はい。全部を切れば、月の工場も船も回りません」

 

「危険な者も混じる」

 

「混じります」

 

ウォンは平然と答えた。

 

「名簿と監察を付けます。遠ざければ、闇港湾に戻るだけです」

 

メラニーは薄く笑った。

 

「善人の顔はしないか」

 

「月の港でそれをやるには、油の匂いが強すぎます」

 

会議室の端末には、複数の資料が並んでいた。

 

月商工会議所相談票。港湾照会管理案。旧ジオン系技能者の雇用リスク一覧。系列企業での受け入れ時に必要な監察照会控え。そして、連邦軍最高司令部からの監査関連文書。

 

ウォンは最後の文書を見て顔をしかめた。

 

「最高司令部は、また細かい」

 

「細かいから厄介なのだ」

 

メラニーは静かに言った。

 

「あの大将は信用できる。こちらの味方ではないがな」

 

ウォンは否定しなかった。

 

「ガンダム開発計画の後始末で、こちらを監査している相手です」

 

「直接触れば、こちらの指紋まで残る」

 

メラニーは相談票の照会者名欄を指で軽く叩いた。

 

「この欄を見るだけで分かる。誰が触ったかを残したがる男だ。敵に回せば面倒だ。味方にしようとすれば、なお面倒になる」

 

「信用できるが、使いにくい」

 

「そこを間違えるな」

 

会議室の空調音が低く響いた。

 

ウォンは別の資料を表示した。画面に映ったのは、連邦軍内の一人の将校に関する公開経歴だった。

 

ブレックス・フォーラ。

 

メラニーは、ようやく顔を上げた。

 

「彼は政治を理解している」

 

「軍人です」

 

「軍人だが、軍だけで物事が済まないことを知っている。月側と話ができる。議会にも、退役者団体にも顔がある」

 

ウォンは目を細めた。

 

「最高司令部の大将ではなく、ブレックスを見る」

 

「記録を残す男ではなく、受け皿になれる男を見る」

 

「受け皿には金が要ります」

 

「だから我々がいる」

 

ウォンは短く笑った。

 

「金を出すなら、口も出します」

 

「当然だ」

 

メラニーは端末を閉じた。

 

「ただし、急ぐな。治安部隊構想はまだ形を変えている。議会国防委員会の特別監督枠も、決まったわけではない。準備だけはしておく」

 

「旧ジオン系技能者の受け入れは」

 

「使える者は使う。危険な者は避ける。避けきれない者は記録する。月商工会議所の紙を使わせろ」

 

「最高司令部にも写しを?」

 

「必要なものだけだ。全部渡すな」

 

メラニーの声には、企業人の冷たさがあった。

 

「あの大将は信用できる。信用できる相手だからこそ、すべてを見せてはならん」

 

ウォンは頷いた。

 

月の商人たちは、誰かの理想で動いているわけではない。港が回り、工場が動き、帳簿が合い、訴訟で負けず、次の契約を取れること。必要なら旧ジオン系技能者も使う。連邦軍の書類も使う。軍内の穏健派にも、政治家にも、値を付ける。

 

メラニーは、最後にもう一度、相談票の照会者名欄を見た。

 

「面倒な紙だ」

 

ウォンが答える。

 

「面倒な紙ほど、後で効きます」

 

「君らしい」

 

「会長ほどではありません」

 

二人は笑わなかった。

 

 

◆シーマ艦隊保護区画 整備ブロック

 

整備ブロックでは、古い工具の音が響いていた。

 

完全な自由はない。完全な監禁でもない。シーマ艦隊保護区画は、そういう半端な場所だった。

 

移動は記録される。外部通信は制限される。作業工具は管理される。服務規程は何度も読み上げられ、そのたびに署名を求められる。

 

その代わり、撃たれない。勝手に連れていかれない。最高司令部の保護命令とロンド・ベルの保護任務が効いている限りは。

 

シーマ・ガラハウは、整備台に置かれた端末を眺めていた。

 

最高司令部から回ってきた案内文。法務局確認印。監察部照会控え。そして、やたらと地味な題名。

 

保護区画外技能確認試験。シーマ艦隊限定就労試験案。旧ジオン系技能者暫定分類票。外部企業受け入れ時の照会記録。

 

シーマはしばらく無言で読んでから、鼻で笑った。

 

「相変わらず、色気のない紙だね」

 

通信画面の向こうで、最高司令部の大将が答えた。

 

『色気は要らない』

 

「少しは要るさ。こんな題名じゃ、うちの連中は外へ出る前に寝ちまうよ」

 

『寝る前に読ませろ』

 

「胃薬大将らしい返事だ」

 

シーマは端末を指で叩いた。

 

「で、これは檻を磨く紙かい。それとも、外へ出る足場かい」

 

通信の向こうで、紙をめくる音がした。

 

『保護区画外で働くための試験案だ。制度ではない』

 

「試験。確認。暫定。あんたの好きそうな言葉ばかりだ」

 

『正式制度にすれば、潰しに来る者が増える』

 

「分かってるよ」

 

シーマの声が少し低くなった。

 

整備ブロックの奥では、部下の一人が古い推進剤ポンプを分解していた。別の者は、月面港湾用の小型牽引機の駆動部を調整している。

 

腕はある。手も動く。この区画の中だけでは、その腕も手も鈍っていく。

 

「だから聞いてる。これは、うちの連中を外へ出す紙になるのかい」

 

『条件付きだ』

 

「条件なんて山ほど付けな。監察付きでいい。名簿管理でもいい。照会者名でも推薦者名でも、好きなだけ書かせりゃいい」

 

シーマは、整備台の向こうにいる部下を見た。

 

「ここで腐らせるよりはましだ」

 

通信の向こうは、すぐには答えなかった。

 

「安全な檻は、結局は檻なんだよ。食わせられない保護なんて、きれいな檻と変わらない。工具を持ってる奴には工具を握らせろ。外で働ける奴には、外の空気を吸わせろ」

 

『逃げる者も出る』

 

「出るだろうね」

 

『戻らない者も出る』

 

「戻らないだけなら、まだいい。外で食えなきゃ、昔の旗を持った奴が拾いに来る」

 

端末の光が、シーマの顔を青白く照らしていた。

 

「残党ってのは、旗だけで残ってるわけじゃない。飯と薬と寝床が切れたところに、昔の旗を持った奴が来るんだよ」

 

『全員を外へ出す気はない』

 

「出せる奴からでいい」

 

『戦犯の逃げ道にはしない』

 

「そこを間違えたら、あたしが先に止める」

 

シーマは軽く言った。声は笑っていなかった。

 

「大義だの理想だので大勢を殺した奴まで、仕事がなくて可哀想です、で済ませる気ならね」

 

通信の向こうで、大将は短く答えた。

 

『そのつもりはない』

 

「なら、紙を増やしな。あんたの得意なやつだ」

 

『増やせば現場が嫌がる』

 

「嫌がるだろうね。でも、紙がなけりゃ誰も外へ出せない」

 

シーマは端末を見据えた。

 

「約束を守る方が得だって、こっちにも思わせ続けな」

 

『そちらもだ』

 

「あんたが約束を守る限り、こっちも安売りはしないよ」

 

整備音だけが残った。

 

シーマは画面越しに、こちらの返事を待っているようで、待っていないようでもあった。彼女が何を信じているのかは分からない。信じるという言葉を使えば、鼻で笑われるだろう。

 

最初は損得だった。

 

次に約束が積まれた。

 

いま端末の向こうにいるのは、その二つを秤にかけ続けている女だった。

 

『試験案は監察部と法務局で詰める。外部企業受け入れ時の照会記録も残す。月商工会議所の様式と照合する』

 

「地味だねえ」

 

『地味でいい』

 

「面白くはないね」

 

『面白さで部下は守れない』

 

シーマは、そこで少しだけ口元を緩めた。

 

「そこだけは同感だよ、大将」

 

通信が切れた。

 

保護区画外技能確認試験。

 

退屈で、紙臭く、足の遅い題名だった。

 

シーマは整備ブロックの奥へ向き直った。

 

「おい、手を止めるんじゃないよ」

 

部下の一人が顔を上げる。

 

「何かありましたか」

 

「外で働けるかもしれないってだけさ」

 

整備ブロックの音が、一瞬だけ止まった。

 

シーマは笑った。

 

「勘違いするんじゃないよ。自由じゃない。監察付き、名簿付き、照会付きの、面倒な外だ」

 

若い整備兵が呟いた。

 

「それでも、外ですか」

 

シーマは答えなかった。

 

端末に残った題名を見て、小さく言う。

 

「檻か、足場か」

 

その声は、すぐに工具の音へ紛れた。

 

 

◆地球連邦軍最高司令部 監察部記録室

 

監察部記録室に窓はなかった。

 

ジャブロー地下の厚い構造壁の向こうに、月面都市の光は届かない。あるのは、低く唸る空調音、壁面モニター、積み上がる報告書、遅れて届く通信ログだけだ。

 

月は、紙でしか見えない。

 

月商工会議所技能者相談票。港湾照会管理案。法律顧問団修正意見。アナハイム系列技能者照会の監察部照会控え。シーマ艦隊限定就労試験案。保護区画外技能確認試験案。

 

監察部長が、端末上で様式の差分を表示した。

 

「月商工会議所側の相談票です。照会者名、旧所属、保有技能、証言協力、監察受容、雇用状況、家族帯同、照会履歴が追加されています」

 

私は画面を見た。

 

「月側が自分で増やした欄もあるな」

 

「はい。照会者名と照会履歴については、法律顧問団が強く残すよう求めています」

 

「理由は」

 

「訴訟対策、雇用責任、港湾管理上の防御記録。表向きは、その三つです」

 

「表向きで十分だ」

 

監察部長が頷いた。

 

法務局の担当官が、別の資料を差し出す。

 

「シーマ艦隊限定就労試験案について、法務局から条件案です。対象者は保護区画内登録者に限定。外部企業受け入れ時は、受け入れ企業、照会者、作業場所、監察担当、移動時間を記録。違反時は即時停止」

 

「証言協力者の扱いは」

 

「別枠です。雇用可否に直結させると、証言強制と取られる恐れがあります」

 

「分けろ」

 

「はい」

 

「旧所属だけで分類するな」

 

「分かりました」

 

監察部長が入力していく。

 

私は続けた。

 

「武装者と、工具しか持たない者を同じ箱に入れるな。工具を持っているだけで免責もするな。証言協力、監察受容、再武装意思、照会履歴を分けて見ろ」

 

「記録します」

 

副官が静かに言った。

 

壁面モニターには、月商工会議所の相談票が映っていた。

 

照会者名。

 

そこに名前が残ったとして、人が守れるとは限らない。名前が残っても、潰される時は潰される。記録があっても、読まれなければ机の中で眠る。命令書があっても、現場が間に合わなければ死ぬ。

 

それでも、空欄のままよりは扱える。

 

情報局長が、端末を一つ差し出した。

 

「月の港湾関係者の間で、例の記事が回っています」

 

「例の記事?」

 

「サイド6の民間報道ネットワークの記事です。命令書、通達、補償条件、記録義務、責任者名が使われた件です」

 

「読むなと言ったはずだ」

 

「命令対象は私ですか、月の港湾労働者ですか」

 

私は黙った。

 

情報局長は、半笑いを隠さなかった。

 

「少なくとも、好意的な読まれ方ではありません。連邦を許していない。軍も信用していない。ただ、書類を破る前に一度見直す者が出ています」

 

「それでいい」

 

「よろしいので?」

 

「私を信用されても困る」

 

副官が、机の右側へ薬包を置いた。

 

「胃薬です」

 

「まだ飲まない」

 

「記事の話が出た時点で必要と判断しました」

 

「判断が早い」

 

「記録に基づく判断です」

 

監察部長が咳払いをした。

 

私は薬包から目を逸らし、モニターに戻った。

 

「月側の様式を写せ。こちらの保全記録と照合する」

 

「はい」

 

「照会者名を外すな」

 

「記録します」

 

「監察受容を、忠誠確認のように扱わせるな。監察を受けることと、連邦を信じることは違う」

 

法務局の担当官が頷いた。

 

「文言を修正します」

 

「保護区画外技能確認試験は、制度名にするな。まだ暫定段階の試験でいい。大きく掲げるな」

 

「正式制度化は見送りますか」

 

「見送るのではない。潰されない大きさで始める」

 

記録室の空調音が低く続いていた。

 

遠隔指揮は、いつももどかしい。

 

月の窓口で係員が何に詰まっているのか。港湾の待合区画で、旧整備兵がどんな顔で相談票を見ているのか。シーマの部下が、外で働けるかもしれないと聞いた時、期待したのか、疑ったのか。

 

ここには届かない。届くのは、整理された紙だけだ。

 

「シーマ艦隊限定就労試験案は、ロンド・ベル保護任務の範囲と衝突しないよう整理しろ」

 

「はい」

 

「月商工会議所、法律顧問団、港湾照会窓口の記録は、軍の命令書とは別に残させろ。月側の記録として扱う」

 

「最高司令部記録への写しは」

 

「必要部分のみだ。月側を軍の下請けに見せるな」

 

監察部長が、少し意外そうな顔をした。

 

「よろしいのですか」

 

「よくはない」

 

私は短く言った。

 

「月には月の逃げ道が要る」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

壁面モニターの隅で、相談票の小さな欄が点滅している。

 

照会者名。

 

副官が、もう一度薬包を机の右へ押し出した。

 

「胃薬です」

 

私は今度は拒まなかった。

 

 

◆月面都市フォン・ブラウン 月商工会議所技能者相談窓口

 

相談窓口の業務時間は、予定より一時間延びた。

 

係員は最後の相談票を保存し、目頭を押さえた。

 

処理件数は、前週の倍近い。記入漏れも多い。旧所属を書きたがらない者。監察受容の意味を尋ねる者。家族帯同の有無で黙り込む者。照会者名欄を何度も見返す者。

 

ほとんどの者が、最後に同じような顔をした。

 

信じた顔ではなかった。

 

「終わったか」

 

年配職員が声をかけた。

 

「今日の分は」

 

「明日の分も来てる」

 

「見たくありません」

 

「俺もだ」

 

係員は、保存済みの相談票を一枚だけ開いた。

 

旧所属欄は、最後まで空欄のままだった。保有技能欄には細かく書かれている。

 

港湾クレーン制御。旧式推進剤ライン。民間作業艇補機。月面工場用整備ロボット。

 

証言協力の可否は保留。監察受容の可否は条件付き。家族帯同は有。

 

照会者名欄は空白だった。

 

係員はその空白を見て、奇妙な疲れを覚えた。欄が増えたせいで仕事は増えた。説明も増えた。怒鳴られる回数も増えた。

 

「また明日もこれですか」

 

係員が呟くと、年配職員は肩をすくめた。

 

「たぶんな」

 

「面倒ですね」

 

「ああ」

 

年配職員は、端末の電源を落とした。

 

「面倒な紙がないと、もっと面倒なことになるらしい」

 

係員は、保存済みの相談票を閉じた。

 

窓口の外では、港湾行きの通路に人が流れている。旧ジオン系かどうか、見ただけでは分からない。整備兵だったのか、補給兵だったのか、ただの工員だったのかも分からない。

 

分かるのは、彼らが仕事を探していることだった。

 

飯と薬と寝床と、家族を置く場所。

 

係員は端末を消す前に、もう一度だけ先ほどの相談票を開いた。照会者名の欄には、まだ何も入っていない。

 

しばらく見てから、保存ボタンを押した。

 

確認画面が出る。

 

係員は一拍遅れて、承認を押した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

旧型サラミスで生きる1年戦争(作者:カズkaz)(原作:機動戦士ガンダム)

ありきたりな転生ものです。機動戦士ガンダムをそこそこに知っている主人公が旧型のサラミスに乗り込み、なんとか1年戦争を生き抜こうと奮闘する物語。▼思い付きで投稿していますので続かないかもしれません。▼箸休めにご覧ください


総合評価:3143/評価:8.29/短編:21話/更新日時:2026年06月20日(土) 20:55 小説情報

戦犯にはなりたくない!(作者:蒼天)(原作:ガンダム)

一年戦争の初日にコロニーに毒ガスを注入してしまったオリ主(ニュータイプ)が、戦犯にならないためにいろんなガンダム作品のキャラクターたちと交流しながら奔走するお話。▼※一部原作キャラクターの設定を変更しておりますので、ご注意ください。


総合評価:1270/評価:7.73/連載:71話/更新日時:2026年07月02日(木) 18:00 小説情報

偽書・ガンダム機動戦記(作者:雑草弁士)(原作:ガンダム)

宇宙世紀0079、サイド7ノアの1バンチコロニーグリーンノア在住のアルバイター、エグザベ・オリベは難民である。故郷であるサイド5ルウムを地球連邦とジオンの戦争で破壊しつくされた彼は、どうにかサイド7に流れ着き、ジャンク屋で働きつつ生活を立て直そうとしていた。しかし0079の9月18日、ジオン軍の英雄シャア・アズナブル少佐率いる特殊部隊がサイド7を急襲。エグザ…


総合評価:1846/評価:8.67/連載:54話/更新日時:2026年03月11日(水) 05:39 小説情報

ちょっと変わったガンダム世界を行く(作者:乾燥海藻類)(原作:ガンダム)

本作は拙作『後方支援者面シリーズ』を統合したものです。▼統合前の作品はしばらくの間は残しておきます。


総合評価:2813/評価:8.6/完結:41話/更新日時:2026年04月21日(火) 19:25 小説情報

愛と勇気と正義にかけて、市民をお守りいたします!(作者:イングラマン)(原作:機動警察パトレイバー)

某巡査の娘が特車二課第二小隊に配属される、原作再構成二次小説です。▼自分が読みたいがために投稿しました。▼・TVアニメ版を軸にOVA、漫画版や小説版をミックスしています。▼・転生オリ主最強です。▼・一部キャラクターの生年と経歴を変更しています。▼・作者は警察組織やコンピュータについてはネットで調べた程度の知識しかありません。▼以上の点を踏まえて、本文をお読み…


総合評価:2887/評価:9.06/連載:15話/更新日時:2026年06月26日(金) 21:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>