◆月面都市フォン・ブラウン 月商工会議所技能者相談窓口
「また欄が増えてる」
月商工会議所の技能者相談窓口で、係員は端末を睨んだまま呟いた。
隣の年配職員は顔も上げない。
「上から来た様式だ。今日から使え」
「その上って、商工会議所ですか。企業連絡会ですか。軍ですか」
「知らん。判子が三つも付いてる時点で、誰も責任を取りたくないってことだ」
係員は息を吐きかけ、窓口の前に並ぶ人影を見て口を閉じた。作業服の男、港湾用の簡易防塵服を肩に掛けた女、腕に古い火傷痕のある中年の整備工。後ろでは、呼び出し番号の表示が一つずつ遅れている。
端末には新しい項目が並んでいた。
照会者名。旧所属。保有技能。証言協力の可否。監察受容の可否。現在の雇用状況。家族帯同の有無。軍・警備隊からの照会履歴。
係員の指は「家族帯同」の欄で止まり、その下の欄へ滑った。
「……これ、揉めた時用ですよね」
「もう揉めてる」
年配職員は、古い紙束を机の端へ寄せた。そこにも付箋が何枚も貼られている。
「エアーズ市の件からこっち、相談が増えっぱなしだ。旧ジオン系の整備工、港湾作業員、契約を切られた工員。会社は人手が欲しい。警備隊は嫌がる。軍は問い合わせてくる。本人は書きたがらん」
「それが全部ここに来るんですか」
「月の工場と港が止まれば、苦情はここに来る。昔からそうだ」
呼び出し番号が点滅し、中年の整備工が席に着いた。
係員は背筋を伸ばし、声を仕事用に戻した。
「旧所属の記入をお願いします」
男の眉が、わずかに動いた。
「旧所属って、どこまでだ」
「以前所属していた軍、企業、組合、工場、整備班などです」
「軍もか」
「該当する場合は」
男は笑わなかった。
「書いたら捕まるんじゃないのか」
係員は端末に表示された説明文を見た。新しい様式と一緒に送られてきた、いかにも法律顧問が整えた文章だった。
「この相談票は、雇用照会と技能確認を目的としています。拘束、連行、処罰を目的とするものでは――」
そこで声が少し鈍った。読み上げながら、自分でも薄い紙の上を歩かされている気がした。
男も気づいたらしい。
「つまり、書いても捕まらないんだな」
係員は答えなかった。
横から年配職員が口を挟んだ。
「書かないと、仕事は来ない」
男がそちらを見た。
「脅しか」
「窓口の説明だ。企業は旧所属を気にする。軍や警備隊から照会が来ることもある。何も書かなければ、こちらは技能も経歴も確認できん」
「連邦を信じろって話か」
年配職員はそこで初めて顔を上げた。
「違う。何も残らないよりは、まだ紙がある方がましだって話だ」
男は端末へ視線を落とした。
旧所属。保有技能。証言協力の可否。監察受容の可否。
その下に、見慣れない欄があった。
照会者名。
男はそこを指で叩いた。
「これは」
係員が答える。
「あなたについて、企業、軍、警備隊、その他の機関から問い合わせがあった場合、問い合わせた側の名前を残す欄です」
「誰が俺を調べろと言ったか、残るのか」
「はい」
男は黙った。端末の明かりが、荒れた指先を照らしている。
「売った奴の名前も残るなら、少しはましか」
納得した声ではない。信用した声でもない。ただ、席を立つ気配だけは消えていた。
係員は入力欄を開いた。
「保有技能からお願いします」
男は端末を少し引き寄せた。
「モビルスーツ用の主動力炉補機。旧式艦艇の推進剤ライン。港湾クレーンの油圧系。ジュニアMSの関節調整も少し」
係員は入力の手を止めかけた。
「多いですね」
男は肩をすくめる。
「飯を食うには、何でも直すしかなかった」
その言葉を入れる欄は、どこにもなかった。
◆月面都市フォン・ブラウン 港湾労働者待合区画
港湾労働者の待合区画は、昼でも薄暗い。
月面港湾へ続く通路からは、細かな振動が絶えず伝わってくる。貨物用リニアの走行音、加圧ゲートの開閉音、作業員の靴音。空調は乾いていて、金属と古い油の匂いが混ざっていた。
壁面端末には、数日前から同じ記事の要約が表示されている。
サイド6の民間報道ネットワークの記事だった。見出しは派手ではない。連邦軍を持ち上げる内容でもない。命令書、通達、責任者名、補償条件。そういう退屈な単語が並んでいるのに、端末の前で足を止める者がいた。
「これ、読んだか」
港湾用の手袋を外しながら、若い作業員が言った。
向かいのベンチに座る元整備兵は、携帯端末から目を上げなかった。
「ああ」
「連邦軍を褒めた記事かと思った」
「褒めてるように見えたか」
「いや。途中で分からなくなった」
元整備兵は端末を閉じた。
「あの記者は、連邦を許してない。そこだけは分かる」
若い作業員は、胸ポケットから相談票の控えを出した。折り目が雑についている。
旧所属。保有技能。監察受容。照会者名。
「じゃあ、これも同じなのか」
「知らん」
元整備兵は即答した。
「あの記事に出てきた大将と、この紙を作らせた奴が同じかどうかも知らん。名前も出てなかった」
「最高司令部の大将って書いてあったろ」
「最高司令部に大将が一人しかいないと思ってるのか」
若い作業員は口を閉じた。
少し離れた席で、女の港湾労働者が鼻で笑った。
「どっちでもいいよ。上の誰かが急にまともな顔をしたって、うちの弟の契約は戻らない」
「弟は?」
「バンガーの下請け。切られて、今は港の夜勤」
彼女は紙コップを握っていた。潰すほどではない。ただ、白い縁が少し歪んだ。
若い作業員が言う。
「記事には、元シーマ艦隊の兵士も出てたんだろ」
「ああ。保護区画で服務規程を読まされてるとか、最高司令部の保護命令があるとか」
女は苦い顔をした。
「旧ジオンまで守るのかよ」
元整備兵が静かに返す。
「守るってより、縛ってるんだろ」
「同じじゃないのか」
「違う。撃つより、閉じ込めて、名前を残して、証言させた方が都合のいい時もある」
「ずいぶん連邦寄りだな」
「連邦なんか信じちゃいない」
元整備兵は、足元の工具袋を引き寄せた。
「ただ、工具しか持ってない奴まで残党扱いされたら、本当に残党になる。そこまで馬鹿を見るのはごめんだ」
しばらく、誰も話さなかった。
壁面端末の記事は、最後の段落へ移っていた。若い作業員は何行か追いかけたが、途中でやめた。相談票の控えに目を落とし、照会者名の欄を親指でこすった。
「嫌な記事だな」
女が尋ねる。
「何が」
「連邦を嫌いなまま読める」
元整備兵が小さく笑った。
「だから回ってるんだろ」
それ以上、誰も記事の大将を褒めなかった。
若い作業員は、相談票を破らずにポケットへ戻した。
◆月面都市フォン・ブラウン 月商工会議所法律顧問団会議室
法律顧問団の会議室には、木目調の机が置かれていた。
本物の木ではない。月で木目を再現した樹脂板だ。金属と強化樹脂ばかりの執務室よりは柔らかく見えるが、机の上に広げられた相談票の修正案は、その印象をすぐに消していた。
朱書きが多い。
多すぎる。
月商工会議所の理事が、赤字の入った紙を指で叩いた。
「現場から苦情が来ている」
法律顧問は頷いた。
「処理量は増えます」
「責任も増える」
「はい」
「それで、なぜ照会者名まで残す」
顧問は端末を操作した。画面に月面港湾部会からの照会記録が映る。企業名、工場名、作業員番号、問い合わせ日時。その端に、新しい欄が足されていた。
照会者名。照会元部署。照会理由。
「誰が問い合わせたか分からなければ、後で説明できません」
「軍や警備隊でもか」
「その場合こそです」
理事は椅子に背を預けた。
「軍の中で何が起きているのか、こちらには分からん」
「だから、こちら側の記録を置きます」
「政府や軍のためではなく?」
「月側のためです」
理事の一人が、壁面端末に表示された別資料を見て顔をしかめた。サイド6の民間報道ネットワークの記事である。
「この記事か。港湾の連中が回していると聞いた」
「読まれています」
「宣伝ではないのか」
「宣伝なら、もっと嫌われて終わりです」
顧問は淡々と答えた。
「書いた記者は、連邦軍を許していません。そこが厄介です。反連邦の弁護士も、旧ジオン系の技能者も、記事ごと捨てにくい」
港湾部会の代表が腕を組んだ。
「旧ジオン系を全部切れば、書類は減る」
月の港を知る人間なら、その言葉がただの正論では済まないことを知っている。
別の理事が言った。
「書類は減るな。港も工場も止まる」
会議室に短い沈黙が落ちた。
旧ジオン系。元整備兵。元補給兵。港湾作業員。偽装船籍に関わった者。軍属だったが直接戦闘には出ていない者。家族を抱え、月で食っていくしかない者。
ひと括りにすれば楽になる。楽にした分だけ、後で燃える。
法律顧問は相談票を一枚持ち上げた。
「旧所属だけで判断すれば、危険人物も技能者も同じ扱いになります。無記録で雇えば、事故や事件が起きた時に企業側が持ちません。ですから、分類します。証言協力の可否を見る。監察を受け入れるか確認する。照会が来た場合は履歴を残す」
「軍の書類みたいだな」
「軍の書類ではありません。月側の防御記録です」
理事は相談票を見つめた。
「最高司令部に、記録を消させたがらない高官がいるという話は聞いた」
「記事にも、それらしい人物は出てきます。名前は伏せられていましたが」
「その男と直接結ぶ気はない」
「結べば、こちらも軍の記録に巻き込まれます」
顧問の返事は早かった。
「軍と直接つながる記録は、盾にもなります。ただし、扱いを誤れば、こちらが軍の下請けに見える」
「では、誰と話す」
「軍内の穏健派。月側と話ができる政治筋。退役軍人支援団体に近い将校。窓口を一つにしない方がよろしいかと」
特定の名前は出なかった。
月商工会議所は、軍内の派閥を正確に読める立場ではない。誰が何を企んでいるのか、どの部署がどの政治家に近いのかも、断片でしか分からない。
分かっているのは、港と工場を止められないこと。無記録で旧ジオン系技能者を抱えれば、何か起きた時に月側が燃えること。そして、記録がなければ反論の足場もないことだった。
理事は赤字の入った相談票に署名した。
「現場には何と言う」
法律顧問は少し考えた。
「面倒な紙が増えた、と」
「そのままだな」
「ただ、増やさなければ、次は紙では済みません」
理事は苦笑した。
「最悪の説明だ」
「現場向きではありませんね」
「現場向きに直せ」
「努力します」
会議室の端末に、修正後の相談票が保存された。処理完了の表示が出るまでに、妙に長い間があった。
◆月面都市フォン・ブラウン アナハイム・エレクトロニクス本社会議室
アナハイム・エレクトロニクス本社会議室の窓は、月面都市の内壁を映していた。
窓の外に地球は見えない。見えるのは、巨大企業が作った都市の光、広告、軌道連絡便の時刻表、月面に張り巡らされた物流の線だった。
メラニー・ヒュー・カーバインは、月商工会議所から回ってきた相談票の写しを読んでいた。
ウォン・リーは、その向かいに立っている。
「面倒な様式になりました」
「使えるか」
メラニーは目を上げない。
「使えます。旧ジオン系技能者を受け入れる時には、むしろ都合がいい」
「整備屋、輸送屋、補給係か」
「はい。全部を切れば、月の工場も船も回りません」
「危険な者も混じる」
「混じります」
ウォンは平然と答えた。
「名簿と監察を付けます。遠ざければ、闇港湾に戻るだけです」
メラニーは薄く笑った。
「善人の顔はしないか」
「月の港でそれをやるには、油の匂いが強すぎます」
会議室の端末には、複数の資料が並んでいた。
月商工会議所相談票。港湾照会管理案。旧ジオン系技能者の雇用リスク一覧。系列企業での受け入れ時に必要な監察照会控え。そして、連邦軍最高司令部からの監査関連文書。
ウォンは最後の文書を見て顔をしかめた。
「最高司令部は、また細かい」
「細かいから厄介なのだ」
メラニーは静かに言った。
「あの大将は信用できる。こちらの味方ではないがな」
ウォンは否定しなかった。
「ガンダム開発計画の後始末で、こちらを監査している相手です」
「直接触れば、こちらの指紋まで残る」
メラニーは相談票の照会者名欄を指で軽く叩いた。
「この欄を見るだけで分かる。誰が触ったかを残したがる男だ。敵に回せば面倒だ。味方にしようとすれば、なお面倒になる」
「信用できるが、使いにくい」
「そこを間違えるな」
会議室の空調音が低く響いた。
ウォンは別の資料を表示した。画面に映ったのは、連邦軍内の一人の将校に関する公開経歴だった。
ブレックス・フォーラ。
メラニーは、ようやく顔を上げた。
「彼は政治を理解している」
「軍人です」
「軍人だが、軍だけで物事が済まないことを知っている。月側と話ができる。議会にも、退役者団体にも顔がある」
ウォンは目を細めた。
「最高司令部の大将ではなく、ブレックスを見る」
「記録を残す男ではなく、受け皿になれる男を見る」
「受け皿には金が要ります」
「だから我々がいる」
ウォンは短く笑った。
「金を出すなら、口も出します」
「当然だ」
メラニーは端末を閉じた。
「ただし、急ぐな。治安部隊構想はまだ形を変えている。議会国防委員会の特別監督枠も、決まったわけではない。準備だけはしておく」
「旧ジオン系技能者の受け入れは」
「使える者は使う。危険な者は避ける。避けきれない者は記録する。月商工会議所の紙を使わせろ」
「最高司令部にも写しを?」
「必要なものだけだ。全部渡すな」
メラニーの声には、企業人の冷たさがあった。
「あの大将は信用できる。信用できる相手だからこそ、すべてを見せてはならん」
ウォンは頷いた。
月の商人たちは、誰かの理想で動いているわけではない。港が回り、工場が動き、帳簿が合い、訴訟で負けず、次の契約を取れること。必要なら旧ジオン系技能者も使う。連邦軍の書類も使う。軍内の穏健派にも、政治家にも、値を付ける。
メラニーは、最後にもう一度、相談票の照会者名欄を見た。
「面倒な紙だ」
ウォンが答える。
「面倒な紙ほど、後で効きます」
「君らしい」
「会長ほどではありません」
二人は笑わなかった。
◆シーマ艦隊保護区画 整備ブロック
整備ブロックでは、古い工具の音が響いていた。
完全な自由はない。完全な監禁でもない。シーマ艦隊保護区画は、そういう半端な場所だった。
移動は記録される。外部通信は制限される。作業工具は管理される。服務規程は何度も読み上げられ、そのたびに署名を求められる。
その代わり、撃たれない。勝手に連れていかれない。最高司令部の保護命令とロンド・ベルの保護任務が効いている限りは。
シーマ・ガラハウは、整備台に置かれた端末を眺めていた。
最高司令部から回ってきた案内文。法務局確認印。監察部照会控え。そして、やたらと地味な題名。
保護区画外技能確認試験。シーマ艦隊限定就労試験案。旧ジオン系技能者暫定分類票。外部企業受け入れ時の照会記録。
シーマはしばらく無言で読んでから、鼻で笑った。
「相変わらず、色気のない紙だね」
通信画面の向こうで、最高司令部の大将が答えた。
『色気は要らない』
「少しは要るさ。こんな題名じゃ、うちの連中は外へ出る前に寝ちまうよ」
『寝る前に読ませろ』
「胃薬大将らしい返事だ」
シーマは端末を指で叩いた。
「で、これは檻を磨く紙かい。それとも、外へ出る足場かい」
通信の向こうで、紙をめくる音がした。
『保護区画外で働くための試験案だ。制度ではない』
「試験。確認。暫定。あんたの好きそうな言葉ばかりだ」
『正式制度にすれば、潰しに来る者が増える』
「分かってるよ」
シーマの声が少し低くなった。
整備ブロックの奥では、部下の一人が古い推進剤ポンプを分解していた。別の者は、月面港湾用の小型牽引機の駆動部を調整している。
腕はある。手も動く。この区画の中だけでは、その腕も手も鈍っていく。
「だから聞いてる。これは、うちの連中を外へ出す紙になるのかい」
『条件付きだ』
「条件なんて山ほど付けな。監察付きでいい。名簿管理でもいい。照会者名でも推薦者名でも、好きなだけ書かせりゃいい」
シーマは、整備台の向こうにいる部下を見た。
「ここで腐らせるよりはましだ」
通信の向こうは、すぐには答えなかった。
「安全な檻は、結局は檻なんだよ。食わせられない保護なんて、きれいな檻と変わらない。工具を持ってる奴には工具を握らせろ。外で働ける奴には、外の空気を吸わせろ」
『逃げる者も出る』
「出るだろうね」
『戻らない者も出る』
「戻らないだけなら、まだいい。外で食えなきゃ、昔の旗を持った奴が拾いに来る」
端末の光が、シーマの顔を青白く照らしていた。
「残党ってのは、旗だけで残ってるわけじゃない。飯と薬と寝床が切れたところに、昔の旗を持った奴が来るんだよ」
『全員を外へ出す気はない』
「出せる奴からでいい」
『戦犯の逃げ道にはしない』
「そこを間違えたら、あたしが先に止める」
シーマは軽く言った。声は笑っていなかった。
「大義だの理想だので大勢を殺した奴まで、仕事がなくて可哀想です、で済ませる気ならね」
通信の向こうで、大将は短く答えた。
『そのつもりはない』
「なら、紙を増やしな。あんたの得意なやつだ」
『増やせば現場が嫌がる』
「嫌がるだろうね。でも、紙がなけりゃ誰も外へ出せない」
シーマは端末を見据えた。
「約束を守る方が得だって、こっちにも思わせ続けな」
『そちらもだ』
「あんたが約束を守る限り、こっちも安売りはしないよ」
整備音だけが残った。
シーマは画面越しに、こちらの返事を待っているようで、待っていないようでもあった。彼女が何を信じているのかは分からない。信じるという言葉を使えば、鼻で笑われるだろう。
最初は損得だった。
次に約束が積まれた。
いま端末の向こうにいるのは、その二つを秤にかけ続けている女だった。
『試験案は監察部と法務局で詰める。外部企業受け入れ時の照会記録も残す。月商工会議所の様式と照合する』
「地味だねえ」
『地味でいい』
「面白くはないね」
『面白さで部下は守れない』
シーマは、そこで少しだけ口元を緩めた。
「そこだけは同感だよ、大将」
通信が切れた。
保護区画外技能確認試験。
退屈で、紙臭く、足の遅い題名だった。
シーマは整備ブロックの奥へ向き直った。
「おい、手を止めるんじゃないよ」
部下の一人が顔を上げる。
「何かありましたか」
「外で働けるかもしれないってだけさ」
整備ブロックの音が、一瞬だけ止まった。
シーマは笑った。
「勘違いするんじゃないよ。自由じゃない。監察付き、名簿付き、照会付きの、面倒な外だ」
若い整備兵が呟いた。
「それでも、外ですか」
シーマは答えなかった。
端末に残った題名を見て、小さく言う。
「檻か、足場か」
その声は、すぐに工具の音へ紛れた。
◆地球連邦軍最高司令部 監察部記録室
監察部記録室に窓はなかった。
ジャブロー地下の厚い構造壁の向こうに、月面都市の光は届かない。あるのは、低く唸る空調音、壁面モニター、積み上がる報告書、遅れて届く通信ログだけだ。
月は、紙でしか見えない。
月商工会議所技能者相談票。港湾照会管理案。法律顧問団修正意見。アナハイム系列技能者照会の監察部照会控え。シーマ艦隊限定就労試験案。保護区画外技能確認試験案。
監察部長が、端末上で様式の差分を表示した。
「月商工会議所側の相談票です。照会者名、旧所属、保有技能、証言協力、監察受容、雇用状況、家族帯同、照会履歴が追加されています」
私は画面を見た。
「月側が自分で増やした欄もあるな」
「はい。照会者名と照会履歴については、法律顧問団が強く残すよう求めています」
「理由は」
「訴訟対策、雇用責任、港湾管理上の防御記録。表向きは、その三つです」
「表向きで十分だ」
監察部長が頷いた。
法務局の担当官が、別の資料を差し出す。
「シーマ艦隊限定就労試験案について、法務局から条件案です。対象者は保護区画内登録者に限定。外部企業受け入れ時は、受け入れ企業、照会者、作業場所、監察担当、移動時間を記録。違反時は即時停止」
「証言協力者の扱いは」
「別枠です。雇用可否に直結させると、証言強制と取られる恐れがあります」
「分けろ」
「はい」
「旧所属だけで分類するな」
「分かりました」
監察部長が入力していく。
私は続けた。
「武装者と、工具しか持たない者を同じ箱に入れるな。工具を持っているだけで免責もするな。証言協力、監察受容、再武装意思、照会履歴を分けて見ろ」
「記録します」
副官が静かに言った。
壁面モニターには、月商工会議所の相談票が映っていた。
照会者名。
そこに名前が残ったとして、人が守れるとは限らない。名前が残っても、潰される時は潰される。記録があっても、読まれなければ机の中で眠る。命令書があっても、現場が間に合わなければ死ぬ。
それでも、空欄のままよりは扱える。
情報局長が、端末を一つ差し出した。
「月の港湾関係者の間で、例の記事が回っています」
「例の記事?」
「サイド6の民間報道ネットワークの記事です。命令書、通達、補償条件、記録義務、責任者名が使われた件です」
「読むなと言ったはずだ」
「命令対象は私ですか、月の港湾労働者ですか」
私は黙った。
情報局長は、半笑いを隠さなかった。
「少なくとも、好意的な読まれ方ではありません。連邦を許していない。軍も信用していない。ただ、書類を破る前に一度見直す者が出ています」
「それでいい」
「よろしいので?」
「私を信用されても困る」
副官が、机の右側へ薬包を置いた。
「胃薬です」
「まだ飲まない」
「記事の話が出た時点で必要と判断しました」
「判断が早い」
「記録に基づく判断です」
監察部長が咳払いをした。
私は薬包から目を逸らし、モニターに戻った。
「月側の様式を写せ。こちらの保全記録と照合する」
「はい」
「照会者名を外すな」
「記録します」
「監察受容を、忠誠確認のように扱わせるな。監察を受けることと、連邦を信じることは違う」
法務局の担当官が頷いた。
「文言を修正します」
「保護区画外技能確認試験は、制度名にするな。まだ暫定段階の試験でいい。大きく掲げるな」
「正式制度化は見送りますか」
「見送るのではない。潰されない大きさで始める」
記録室の空調音が低く続いていた。
遠隔指揮は、いつももどかしい。
月の窓口で係員が何に詰まっているのか。港湾の待合区画で、旧整備兵がどんな顔で相談票を見ているのか。シーマの部下が、外で働けるかもしれないと聞いた時、期待したのか、疑ったのか。
ここには届かない。届くのは、整理された紙だけだ。
「シーマ艦隊限定就労試験案は、ロンド・ベル保護任務の範囲と衝突しないよう整理しろ」
「はい」
「月商工会議所、法律顧問団、港湾照会窓口の記録は、軍の命令書とは別に残させろ。月側の記録として扱う」
「最高司令部記録への写しは」
「必要部分のみだ。月側を軍の下請けに見せるな」
監察部長が、少し意外そうな顔をした。
「よろしいのですか」
「よくはない」
私は短く言った。
「月には月の逃げ道が要る」
誰もすぐには答えなかった。
壁面モニターの隅で、相談票の小さな欄が点滅している。
照会者名。
副官が、もう一度薬包を机の右へ押し出した。
「胃薬です」
私は今度は拒まなかった。
◆月面都市フォン・ブラウン 月商工会議所技能者相談窓口
相談窓口の業務時間は、予定より一時間延びた。
係員は最後の相談票を保存し、目頭を押さえた。
処理件数は、前週の倍近い。記入漏れも多い。旧所属を書きたがらない者。監察受容の意味を尋ねる者。家族帯同の有無で黙り込む者。照会者名欄を何度も見返す者。
ほとんどの者が、最後に同じような顔をした。
信じた顔ではなかった。
「終わったか」
年配職員が声をかけた。
「今日の分は」
「明日の分も来てる」
「見たくありません」
「俺もだ」
係員は、保存済みの相談票を一枚だけ開いた。
旧所属欄は、最後まで空欄のままだった。保有技能欄には細かく書かれている。
港湾クレーン制御。旧式推進剤ライン。民間作業艇補機。月面工場用整備ロボット。
証言協力の可否は保留。監察受容の可否は条件付き。家族帯同は有。
照会者名欄は空白だった。
係員はその空白を見て、奇妙な疲れを覚えた。欄が増えたせいで仕事は増えた。説明も増えた。怒鳴られる回数も増えた。
「また明日もこれですか」
係員が呟くと、年配職員は肩をすくめた。
「たぶんな」
「面倒ですね」
「ああ」
年配職員は、端末の電源を落とした。
「面倒な紙がないと、もっと面倒なことになるらしい」
係員は、保存済みの相談票を閉じた。
窓口の外では、港湾行きの通路に人が流れている。旧ジオン系かどうか、見ただけでは分からない。整備兵だったのか、補給兵だったのか、ただの工員だったのかも分からない。
分かるのは、彼らが仕事を探していることだった。
飯と薬と寝床と、家族を置く場所。
係員は端末を消す前に、もう一度だけ先ほどの相談票を開いた。照会者名の欄には、まだ何も入っていない。
しばらく見てから、保存ボタンを押した。
確認画面が出る。
係員は一拍遅れて、承認を押した。