彼女たちの夏は、静かに始まった。
それもそのはず。観客など殆ど居ないのだから。
「先輩たちってかなり凄い選手なんでしょ? 何でこんだけしかいないの?」
「初戦は注目されないからねぇ……勝ち進めば増えると思うよ」
「それに相手が相手だしね」
茅ヶ崎西幡の選手のノックを見ると、緊張のせいか簡単な打球すらもこぼしていた。
怪物の中に一人混ざった一般人の浜矢としては、正直向こうの選手の気持ちも分かる。
初戦で観客がまばらとはいえ、一般人からすると公式戦というのは緊張してしまうのだ。
「さあ初戦! 5回でコールド決めるぞ!」
「オオー!」
5回で10点奪ってコールド勝ち。
部員の少ない至誠にとって、一番消耗せずに戦えるのはこの方法なのだ。
この打線と相手の守備力からすれば10点なんて余裕で取れるだろう。
至誠は後攻なのでまずは守備から。
(裏の方が有利だから別に良いんだけど、先発がよりによって私なのは一体何故なんだ……)
格下相手にエースを登板させる理由が無いからだ。
まあ青羽と浜矢なら後者の方が投手としての能力は高いので二回戦に回すという手もあったのだが、そもそも青羽はリリーフメインの起用なので選択肢にすら入ってなかったのだ。
『明日の先発は浜矢でいくぞ』
『え!? 正気ですか!?』
『私は至って正気だよ。中上は出したくないし、青羽はリリーフメインで起用する』
『だとしても私って……』
『浜矢は良い投手だよ。信頼してるぞ』
これが昨日の浜矢と灰原のやり取りである。
監督直々に良い投手と言われてしまえば、彼女の頭から断るという選択肢は消え去った。
自分に目を掛けてくれた灰原の期待を裏切りたくない、いつまでも初心者だからとウジウジしていられない、このチームの役に立ちたい。
そして何よりも、少しでもアピールしてプロに行ける確率を上げたい。
それが彼女の原動力となっている。
――プレイボール。
試合は始まってしまった。浜矢に逃げ場は無い。
(なら私がやる事はただ一つ……三人で抑えるだけだ)
記念すべき公式戦初戦、先頭打者への初球は覚えたてのツーシーム。
公立の弱小校とはいえ一番を打っているだけあり、この球にタイミングを合わせてくる。
セカンドの頭上を超えると思われた打球。
それを菊池は高くジャンプして掴んでみせた。
「ナイスセカン!」
「ワンナウトー!」
公式戦初対決でヒットを打たれるのとファインプレーによって打ち取るのでは気持ち的に全然違う。
(あんまり守備にばかり頼っちゃいられないな!)
二人目はスライダーを打たせてファーストゴロ。
三人目も追い込んでから低めのストレートを詰まらせショートゴロで終える。
「ナイピ!」
「ありがとうございます」
意気込んでいたもののまさか本当に三人で終わらせられると思っていなかったようで、浜矢は少し驚いた顔をしている。
今日のスライダーの調子は上々。相手の攻め方次第では完封も狙えるだろう。
「1回裏! まずは2点取るぞ!」
「ハイッ!」
1イニングで2点。それを5回繰り返せばコールド。
浜矢が点を取られない事が前提ではあるが、上手くいけば最短でコールドを決められる。
九番には打線のブレーキかつ塁に出ても各駅停車の浜矢がいるが、その分上位打線には隙がないので2点くらい取れるはずだ。
「由美香ー! まず出ろ!」
「いつものバッティングー!」
糸賀は初球をあっさり打ち返してツーベース。
(菊池先輩はバントかな……いや、あのサインは)
初球エンドラン。しかも完璧なタイミングでスタートを切った糸賀に動揺したのか、ストレートが甘く入るというオマケ付き。
菊池はそれを逃さず捉えてタイムリーツーベース。
「よし、先制!」
「ナイバッチー!」
「まだまだ点取ってくぞ!」
ノーアウト二塁、そしてここからはクリーンナップ。それらが意味するのは猛攻の始まり。
山田、柳谷、金堂の三人が続き3点追加。
当初の予定の二倍もの点を奪って初回を終える。
「猛攻にも程がある……」
「それがウチの打線だし。ほら、早く守備行こう」
「はいはい、抑えますよっと」
山田と青羽以外は守備力に難が無いので、浜矢は割と楽に投げられる。
それに加えて援護も大量と、投手としてかなりやり易い状況だろう。
(まあ、だからこそ自分の実力の無さが浮き彫りになるんだけど)
だが既に試合が始まってしまった以上、やるしかないのだ。
2回表、四番はそれなりに打力のある選手。
いくらバックの守備が良いからと油断してかかれば痛い目を見るのは明白。
柳谷の出したサインはスライダー。
(初球から内角か……当てそうで怖いけど、投げ切るしかない!)
顔の前を通過する内角高めのスライダーで仰け反らせ、ワンストライク。
一つ目のストライクを取った後は外角攻め。
二球続けて外角にストレートを続け、四球目に見せ球として内角のカーブ。
(最後は……スライダー)
サインに頷き、アウトローのストライクからボールになるスライダーを投じる。
追い込まれていたらつい手が出てしまう球。
一番警戒すべき四番打者から空振り三振を奪った。
「よしっ!」
「ナイピ!」
格下とはいえ四番を三振に切ったことで自信がついた浜矢は五番、六番も打ち取ってこの回も三者凡退に仕留める。
「これ5回までノーヒットいけるでしょ!」
「すぐ調子乗らない。二巡目から打たれるよ」
「そうだよ伊吹ちゃん。油断してると失点しちゃうよ?」
「ですよね〜……ごめんごめん」
だが、初心者が公式戦初登板でノーノーを達成すればそれなりに話題となるだろう。
それよりも彼女はクイックが絶望的に下手で、柳谷の強肩を持ってしてもランナーを刺すのが難しい。
なので極力ランナーを出したくないのだ。
「浜矢、ネクスト!」
「あっ、はーい!」
この後の投球について考えていてネクストの事をすっかり忘れていた浜矢だったが、灰原の声によって思い出すことが出来た。
ヘルメットを被り、バットを片手にネクストバッターズサークルにて中上の打席を観察する。
茅ヶ崎西幡の先発の球種はストレート、カーブ、スライダー。浜矢とほぼ同じだ。
中上はカーブを打ち返すも僅かなタイミングがズレてしまい、ライトフライに終わる。
「ドンマイです」
「カーブ狙い目かも」
「分かりました」
凡退してしまった先輩からアドバイスを貰った浜矢は右打席に入る。
カーブを狙いつつ、ストレートが甘いコースに来たら迷わず叩く。
スライダーと、球種に問わず高めは捨てる。
柳谷や糸賀のような一流なら狙い球以外も反応打ちが出来るが、浜矢にはそんな事は出来ない。
(なら自分が打てる球を待つのみ!)
初球のスライダーは見逃してストライク。
次の高めのストレートもボールと思って見逃すが、ストライクゾーンを掠めておりツーストライクと追い詰められる。
一球ボールを挟み、緊張をほぐすために息を吐く。
勝負の四球目は内角、少し甘めに入ったカーブ。
(このコースは当たらない、打てる!)
死球に対する恐怖心は強いが、試合の経験を積んだ事でこのコースは当たらないと分かっている。
ボールの軌道に合わせるようにバットを振り抜く。
しっかりと振り抜いた打球は三遊間を綺麗に抜けた。
「……よしっ!」
「ナイバッチ! 公式戦初安打おめでとー!」
「ありがとうございます!」
公式戦初打席初安打、スタートは上々だ。
(盗塁できたら良かったんだけどな……)
浜矢には盗塁を決められるだけの脚も投手のモーションを盗む観察眼も無い。
従ってこの状況での盗塁はほぼ100%不可能。
つまり今彼女にできるのは、糸賀や菊池が続くのを祈ることだけ。
(……エンドランか、よし)
糸賀が初球を見送ると、ベンチからエンドランのサインが出る。
彼女なら余程のことがない限り打ち上げない。
そう信じている浜矢は投球モーションに入って少しした後、スタートを切る。
その直後に金属音が響き渡り、打球の方向を確認すると一・二塁間を抜けていた。
「伊吹! 三塁!」
三塁コーチャーの青羽の指示に従い、浜矢は二塁を蹴って更にスピードを上げる。
三塁にスライディングをして危なげなくセーフ。
「ナイバッチです、糸賀先輩!」
「伊吹もナイスラン」
「先輩の声が無かったら二塁で止まってました、ありがとうございます」
脚が遅いと自覚していて、尚且つまだ走塁判断が苦手な浜矢を先輩がサポートする。
野手としてもやり易い環境だろう。
菊池の打席、内野は前進守備を敷く。
先程の打席でパワーがあまり無いと分かっているからか、外野も前進気味。
菊池は初球を弾き返し、打球はライトへの深めのフライとなる。
ボールがグラブに収まったのを確認してから浜矢は走り出し、無事ホームイン。
「ナイス最低限」
「ナイバッチナイスラン!」
「いえーい!」
ベンチに戻った菊池と浜矢は全員とハイタッチ。
その後更に1点を追加し6対0で2回を終える。
3回はお互い1点も入らず4回表の守備を迎える。
相手は三番からの好打順、ここは必ず抑えなければならない。
二球で追い込んでからのサインは、インハイボール球のストレート。
浜矢は頷いてからロジンバックを触り、コントロールミスがないよう心を落ち着ける。
腕を振り下ろし内角高めへのストレートを投げる。
打者はボールの下を振ってしまい三振。
追い込んでから釣り球を振らせる、理想的なピッチングだ。
四番、五番も抑えて4回表も終了。
ここまで浜矢は被安打2、四死球1の好投。
「ナイピ。伊吹のストレートはノビがあるから、高めに投げると振ってくれるな」
「ノビが……」
「受けてると分かるよ。時々弾くんじゃないかって思うし」
「そんなに凄くないですよ!」
「ストレートは自信持っても良いよ」
(ストレートは、かぁ……)
だが自信を持てる球種が一つでもあるのは心強い。
浜矢の特長とも言えるノビのあるストレート、これがあるから高めの釣り球が効く。
「この回であと4点取るぞ!」
「オオッ!!」
あと4点という明確な数字が出たことにより打線が奮起する。
クリーンナップから始まったこの回は、山田の特大ホームランを含む5連打で一挙4得点。
浜矢はやはり続けなかったが、これで次を0に抑えればコールド成立となる。
「この回しっかり抑えていくぞ!」
「ハイッ!」
「伊吹ちゃん頑張ってね!」
「任せろー!」
千秋からの声援も受け取った、援護も当初の予定通り10点貰った。
なら、投手はただ抑えることに専念する。
先頭は二球で追い込んでから釣り球のストレートを振らせ三振。
次は内角のスライダーを打たせてショートゴロ。
最後の打者は守備は良いが打力は無い。
落ち着いて投げれば抑えられない相手ではない。
公式戦初勝利が目の前にあるが、浜矢は気分の高揚を抑えて打者と向き合う。
まだ試合をやりたい、コールドにはしたくない。
そんな事を考えている顔をしていた。
(……ちょっと複雑だけど、私にも勝たなきゃいけない理由があるんだ)
ど真ん中に向かって初球を投げる。
失投だと思ったのか全力でバットを振ってくる。
しかし、浜矢が投げたのはツーシーム。
絶好球と思われたその球は手元で変化し内角へ。
勿論詰まった打球になり、サードゴロで試合終了。
「終わった……」
「伊吹! 初勝利おめでとう!」
「伊吹ちゃん、ナイピ」
次々と仲間からお祝いの言葉を贈られるが、浜矢に勝利の実感は湧いていない。
コールド勝ちだからなのか、それとも単純に試合慣れをしていないからなのか。
「ほんとに私が勝ち投手……?」
「何言ってるの伊吹ちゃん、完封したんだから正真正銘の勝ち投手だよ」
「今年の公式戦初の勝利投手は伊吹ちゃんだよ!」
二人にそう言われ、ようやく実感が持てた。
浜矢が投げ切ったのだ、浜矢が勝ったのだ。
「初戦突破! けど物足りないだろうし帰ったら練習するぞ!」
「はいっ!」
「城南のデータもあるので、見たい人は言ってくださいね」
「じゃあ私は見させて貰おうかな」
千秋の言葉に中上はそう答えた。
彼女は次の試合の先発、相手チームの情報を頭に入れておきたいのだ。
「伊吹ちゃんお疲れ」
「お疲れ、鈴井は大暴れだったな」
「そんなでもないよ」
2安打2打点は大暴れだと思うのだが。
浜矢はヒット一本打つだけで大騒ぎなのに対して、彼女は打つ事が当然かのような反応をしており、そこに嫌でも選手としての格の違いを感じてしまう。
「次の試合も勝とうね」
「……おう!」
彼女達は勝ち上がらなければいけない。
学校の評判を回復させるのもそうだし、個々のスカウトからの評価も上げたい。
(もっともっと、スカウトの目に留まるような活躍をしなきゃな)