5回表の攻撃が始まる。
ここまでお互いたったの1安打ずつ、四死球は至誠が1つ、藤銀側は0。
至誠の打線がここまで抑え込まれるのは初めてだ。
藤銀の好守備に阻まれている部分も多々あるので、そろそろツキが回ってくるのではないかと灰原は思っているが。
「美希ちゃん、できる範囲でいいから粘ってきてくれる?」
「うん、やってみる」
そう言って鈴井の打席を見る千秋は、普段の温厚さからは想像出来ない程の鋭い目をしていた。
一秒でも速く突破口を見つけ出す、そんな顔。
不利な状況でこんな顔が出来る辺り、彼女は根っからの指揮官タイプなのだろう。
鈴井は六球粘った末のセカンドフライに終わったが、千秋の顔は変わらない。
まだ突破口を見出せていないという事だ。
「美月、私たちは何したらいい?」
「藤咲さんにカーブを投げさせて欲しいです」
「了解」
粘れというのは、藤咲にカーブを投げさせるために粘れという意味だった。
彼女の投げるカーブはそう簡単に打てるようなボールではないが、千秋はそれを覆せそうな何かが見えたのだろう。
中上は七球粘ってファーストゴロ、菊池も四球目まで粘っているがカーブは無し。
「カーブ投げないな」
「多分次あたりに投げてくると思うんですけど……」
千秋の予想通り、五球目はカーブを投げてきた。
「あっ……!」
小さく漏れた声を聞き、灰原は千秋の横顔を見る。
灰原の瞳には、不敵な笑みを浮かべる指揮官の姿が映っていた。
突破口を見つけ出した、いい作戦を思いついたと言わんばかりの表情。
「千秋、見つけたか?」
「はい! ……これなら、きっと打てます!」
「よくやった!」
希望を見つけ出してくれた小さな指揮官の頭をワシワシと撫で終えると、灰原は早速菊池と浜矢以外の全員を呼んだ。
千秋が全員の前に立ち、作戦を話し始める。
「藤咲選手のカーブはかなり手強いです、ただ一つ欠点を見つけました」
「欠点……?」
「投げる際、腕の角度が微妙に違います」
「癖ってこと?」
「そうだね、カーブを投げる時だけ少しオーバースロー気味になってるみたい」
そう言われて全員で藤咲に注目する。
菊池はベンチの様子に気付いていたようで、一度打席を外していた。
その彼女にもう少し粘ってくれとサインが出る。
続いて投げられたストレートとカーブ、言われなければ分からないが、僅かに腕の角度に違いがある。
「……全然分かんね」
「それくらい小さな違いだからね、気にしないで? 分かる人はカーブ狙いで打ってください」
「よし、任せろ」
「私も分かったよ」
「さすがキャプテンと美希ちゃん!」
相変わらず頼りになるコンビだ。
特に鈴井はまだ一年生なので、これから身体が出来上がってくれば金堂並みのバットコントロールも手に入れられるだろう。
ずっと粘ってくれた菊池も打ち取られて攻守交代。
さっきの作戦を菊池と浜矢にも伝え、守備についてもらう。
(攻撃はあと二回しか残されていない、1点でいいから欲しい)
ここからは作戦を厳選しなくてはならない、選手を導く監督として絶対にミスは許されない。
(どうすれば完璧な指示が出せるんだ……)
「監督」
「小林先生……」
「あまり思い詰めない方がいいと思いますよ、生徒にも伝わっちゃうと思いますし」
「…………ありがとうございます」
指揮官が揺らげば皆が迷う、監督たるもの常に堂々としてなければ。
高校生の千秋は前を向き続けている、大人の灰原がいつまでも俯いてる訳にはいかない。
「この回も点をやるなよ! いい流れで攻撃に繋げるんだ!」
「ハイッ!」
この回から中上はナックルカーブを解禁した。
藤咲の決め球と似た軌道の球、一種の挑発と取られても仕方ない。
だが、そうすれば対抗してカーブを投げてくれる確率が上がるかもしれない。
灰原によって育てられた柳谷の考えそうなリード、そういうのは灰原の大好物だ。
藤咲にも負けず劣らずのカーブで三人を切って取り、6回表の攻撃を迎える。
「この回が最初で最後のチャンスだと思え! 必ず点を取るぞ!」
「オオー!!」
この挑発が効くのはおそらくこの回まで、この回で試合を決めなければならない。
「中上先輩の為に3点はもぎ取ってきますよ!」
「いや、1点で十分だよ」
そう言ってニヤリと笑う中上。
彼女にもエースの風格というものが出てきた。
その姿を見て、灰原は昔バッテリーを組んでいた旧友を思い出した。
「その通りだ、中上はもう点は取られない。死に物狂いで1点取ってこい!」
灰原は浜矢と糸賀の背中を叩いて送り出す。
ベンチからは過去最高の声援が飛び交っており、観客席からも吹奏楽部による応援歌が響き渡る。
これこそが高校野球の醍醐味だ。
「伊吹ー! 落ち着いて打てー!」
「四球でもいいよー!」
浜矢は追い込まれてからも必死に喰らいつく。
変化球を見極められるだけの経験も目もないのにあそこまで出来るのは、意地かもしくはセンスか。
恐らく両方だろう。彼女は三年になる頃には全国を代表するクラスの選手になっていそうだ。
(くそっ、ネチネチと粘ってきて……さっきのカーブもそうだし、苛つかせるのが上手いチームだ。とっとと……三振しろ!)
藤咲は今日一番の力を込めてカーブを投じた。
その変化はこの試合最高の変化量を見せ浜矢を驚かせたが、同時に味方さえも驚かせてしまった。
「逸らした! 伊吹走れ!」
「よっし! ナイラーン!」
キャッチャーの後逸により振り逃げが成功。
中上への対抗意識や急に粘り始めてきた打線への苛つき、それが捕手の許容範囲を超えた変化球を生んでしまったのだ。
相手のミスではあったが、これで上位にランナーがいる状態で回った。
(追い込まれるまではカーブ以外は捨てていけよ……)
サインを出したら監督は祈ることしか出来ない。
選手は灰原の出したサインなら大丈夫だと信じてくれている、なら灰原も選手たちなら大丈夫だと信じてあげる。
「しゃー!!」
「ナイバッチー!」
「金堂先輩! 決めてください!」
糸賀のライト前ヒットで金堂に繋いだ。
ライトの強肩によりホームは阻止されたが、その間に糸賀は二塁へ進みノーアウト二・三塁。
打席に入るのはここまで一度も打率が5割を切ってない金堂。
長打力こそないが、あのバットコントロールはプロのスカウトも目を見張るものがある。
そんな選手がここまで全打席抑えられていて、悔しくないはずがない。
藤咲がスペックの割に打たれない理由、それはカーブの存在とコントロールの良さ。
アウトローいっぱいに変化球を決められてしまえば、それをヒットにするのは至難の業だ。
特に高校野球ではコントロールが広く、バットが届かない事も多々ある。
――だが、それは金属バットの話だ。
金堂神奈は部内唯一の木製バット使い。
一般的に高校野球で使われる金属バットは長くても85cmより短い物が主流、しかし金堂の使用している木製バットは――87cm。
そして重さにも大きな差がある。
金属バットは900g以上と規定が決まっているが、木製バットにはその規定は適用されない。
そんな金堂のバットの重さは――840g。
金属バットと比べてかなり軽い。
バットが軽いと操作性が上がる、だから金堂はあんなに易々とボール球を打てる。
初球はアウトロー、僅かに外れるカーブ。
普通の打者ならばバットが届かないで三振するような球だろう、普通の打者ならば。
「打て! 金堂!」
次の瞬間、金属の甲高い音とは違う木製の乾いた音が響いた。
地面に片膝をつきながら左手一本で振り抜いたバットの真芯に当たった白球は、大きく伸びていきセンターとライトの間に。
藤銀の守備を考えると捕られるかどうかギリギリの打球だ。
「落ちた!! 回れ回れ!」
「二人還れるぞ! 速くー!」
「よっしゃー! 先制! 神奈ナイスー!」
打球は野手の手前にポトリと落ちた。
バウンドが高く処理に手間取った隙を見逃さず、糸賀もホームイン。
お互いチャンスすらまともに作れていなかったこの試合、遂に均衡が破られた。
「はぁ〜〜、やっっと点入った……」
「お疲れ様です、監督」
「いやいや、千秋の方が疲れてるだろ」
「私は作戦とか考えるの大好きですから」
「けど実行するのは選手だぞ? 信じて待つのはだいぶ息苦しくないか?」
灰原は苦しい。選手を信じてないわけではないが、本当にこの作戦で良かったのか、成功するのかという考えばかり頭によぎって気が気じゃない。
「監督は全部の責任を負わされますもんね……大変な立場ですよね」
「自分で話を受けたからには、それくらい受け止める覚悟はあるよ」
「私はたまにしかサインを出さないから、あまり責任っていうのを感じられてないのかもしれません」
そう言って悲しそうな表情を浮かべる千秋。
選手が頑張ってて、監督が気負ってるのに自分だけ楽しい思いをしているとでも思っているのか。
「マネージャーなんてそれくらいで良いんだよ、皆の支えになってほしいんだから。むしろサイン出してるマネージャーなんてそういないぞ?」
「監督……」
「千秋はそんなの気にせず、やりたい戦術があったらどんどん言ってくれ。責任は私が取る」
「……ありがとうございます」
生徒に気を遣わせる事はしたくないし、苦しい思いもしてほしくない。
そう思っている灰原が出来るのは責任を負うだけ。
(歳を取ると挑戦する勇気が出なくて嫌になるな)
千秋や野球を楽しんでいる部員が眩しく見えて、羨ましくて仕方がない。
「監督、美月! 私も打ったんですけど!」
「柳谷!? いつの間に戻ってきてたんだ……」
「今ですよ……もう交代ですよ?」
「す、すみません……! 話に夢中になってて……」
そんなに楽しかったのかと笑って聞く柳谷。
二人がスコアボードに目をやると、6回の所に3と書かれていた。
あの後柳谷がタイムリーで金堂をホームに還した。
「柳谷悪かった、守備はちゃんと見ておくから」
「おっ、言いましたね? 全部見てくださいよ!」
(……大人になったと思ったが、笑うとまだまだ子供だな)
久しぶりに見た、いたずらっ子のような笑顔。
一年生の頃は表情がコロコロ変わっていたが、今は先輩となりどこかクールな印象を持っている。
あいつをキャプテンに指名したのは間違いじゃなかった、灰原はそう確信した。
「柳谷は成長したなぁ……」
「三年間見てきたんですもんね」
「ああ、一年の頃はかなりやんちゃだったんだぜ? 反発してくるしさ」
「今では考えられませんね……どうやって指導したんですか?」
「目の前でバッティングして私の力を見せつけた」
千秋は少し引いているが、当時の柳谷にはこれはかなり効いた。
神奈川では知らない者はいないと言われる程に実力の高かった彼女の周囲には、自分より凄い選手などいなかった。
指示を聞いてもらうには灰原の方が良い打者だった教える必要があった。
結果、あれ以来自分から指導を仰ぐようになったらしい。
やると決めた時の集中力、積極性。
そして野球に対する愛情や向き合い方。
それが柳谷をここまでの選手に育てた。
「千秋、少しでいいんだ。気付いたことがあったら鈴井や浜矢に言ってみたらどうだ?」
「へ?」
「自分が育てた選手が活躍する姿を見るのって、すごく楽しいぞ」
「い、いいんですか!?」
「千秋なら酷い指導はしないだろうし、それに私も手伝うから」
一緒にあの二人を最強の
すると千秋は目を見開いたのち、強い意志を持った目で頷いた。
「……監督はご存じだったんですね」
「そりゃあな」
「私も知ってはいたんですけど、美希ちゃんその話しないし嫌なのかなって」
「まあこの話を持ち出した時、あまりいい顔はされなかったよ」
「でもチーム事情的には……」
「やってもらう必要がある」
今はまだこの話を詳しくする段階ではない。
いずれその時が来るまでこの話はお預けだ。
「よーし! 抑えられたー!」
「連続で四球出した時はヒヤヒヤしたよ」
「ごめんごめん」
ツーアウトからランナー一・二塁のピンチを作った中上だったが、なんとか点を取られることなくこの回を終えた。
「珍しいな、中上が四球連発するなんて」
「そのー……ナックルカーブのコントロールが効かなくてですね」
「なんで佳奈恵が向こうに対抗してんのさ……」
「だってカーブ対決したかったんだもん」
挑発目的でやってたのに、何故かこっちまで焚き付けられていた。
至誠ファン的には、中上がこのような投球をするのだけは勘弁してほしいだろう。
何故なら至誠の投手陣で安心して見ていられるのは彼女だけなのだから。
灰原が言った最初で最後のチャンスという言葉は当たっていたらしく、この回は簡単に打ち取られた。
だが、これで最終回を迎えた。
プロと違って7回制なので、終盤でリードしてる側は助かるだろう。
逆の立場になったら文句を言いそうだが。
「この回キッチリ三人で抑えて気持ち良く勝つぞ!!」
「オー!!」
「怪我には気をつけて! 風向き確認しろよー!」
最後の守備に散っていく九人を見送り、灰原はベンチに腰掛ける。
準々決勝まで勝ち上がってきたからか、選手たちの顔つきが良くなってる。
一年生の二人は言わずもがな、二年生も勝負師といった表情だ。
三年は最後の夏という背景もあるので気合は十分。
対して藤蔭ベンチは緊張して張り詰めた空気。
諦めているような顔をしている選手も存在しており、至誠とは正反対だ。
「……勝ったな」
「はい」
諦めムードが漂っている相手に至誠は負けない。
要求通り中上が三人でピシャリと抑え準決勝進出を決めた。
「中上ー! ナイピ」
「球数も少なくできて良かったです」
「7回で68球、上々じゃないか?」
「あれ、そんな少なかったんだ」
1イニング10球も投げていない省エネピッチ。
これなら決勝は問題無く投げてもらえるが、全員が心配しているのは準決勝だ。
対戦相手はまだ分からないが、どこが勝ち上がっても苦戦するのは目に見えている。
そんな大事な試合で登板させられるのが浜矢と青羽だけというのは色々とマズい。
「監督、これなら次も投げられますよ」
「駄目だ! プロ行くんだろ? だったら怪我のリスクが高い事はさせない」
「えー!」
「浜矢と青羽で何とか抑えられるようなリード頼むぞ、柳谷」
「言われなくても!」
(私は映像でも見て相手の弱点を見つけよう。あとは打者の苦手コースと得意コースをまとめて、球種別の打率もまとめておこう。カウント別の打率もあった方がいいかな……)
灰原は既に次戦の準備を始めていた。
幸いにも彼女は教員ではないので時間はある、その立場をフルに活用して次の試合に臨む。
能力をA〜Gの段階で表すとすると監督は育成力Aの采配力D、千秋は育成力Dの采配力Bって感じです