浜矢と鈴井の入部翌日、本格的な練習が開始した。
だが周囲がキャッチボールやトスバッティングなどボールを使った練習をしている中、浜矢だけは灰原の指導のもとプランクを行なっていた。
「うぐぐ……きっ、つい……監督ー! 私もボール触りたいです!」
「ダメだ、基礎をしっかり鍛えなきゃピッチャーは務まらないぞ」
「たし、かに……そうですけどー!」
「……じゃああと5分! 終わったら休憩挟んで投球練習しようか」
「ありがとうございます!」
人間、明確に終わりを告げられるとやる気が湧いてくるものである。
文句を言いながらも何だかんだ真面目にやっていたが、あと5分で終わると分かってからの浜矢の集中力は凄まじかった。
あれほどキツいキツいと言っていたプランクに耐え、ベンチで休んでいると人が近付いて来るのが見えた。
浜矢は迷わずその人影に向かって歩き出す。
「こんにちは」
「こんちはー、入部希望ですか?」
「いいえ、マネージャー志望です」
「へえ、マネージャー。監督ー! マネージャー志望の人が来ました!」
浜矢と並ぶと小柄さが目立つ少女。
肩まで伸びた柔らかそうな質感の髪に一束のアホ毛に丸くてくりっとした瞳など、彼女を形容するには可愛いという言葉が一番合うだろう。
人数的には選手が来て欲しかったが、こんな可愛い子がマネージャーになってくれるのは嬉しい、浜矢はそう心の中で考えていた。
「うちマネージャーいなかったんだ、助かるよ」
「さっそく自己紹介しましょうよ!」
「はい、一年生の
同じ一年生ではあるが、浜矢と鈴井は共に見覚えが無いため別のクラスなのだろう。
「なんでマネージャーしようと思ったの?」
「それは…………」
中上が問いかけると、そこで言い淀む千秋。
何か答えにくいことを聞いてしまったのではないか、だがマネージャーを志望した理由を聞くのは普通なはず。
そんなどこか気まずい空気が流れた直後、千秋が勢い良く顔をあげる。
「野球選手がすっっごく好きなんです!! 至誠の選手は全員知っていますし、灰原監督の現役時代も知っています! そんな皆さんの力になりたいと思って入部しました! あと出来ればサインも下さい!!」
宝石のように輝いた瞳で、しかもこの量の言葉を一息で言い切った千秋の圧に押される部員たちであったが、浜矢には引っかかる言葉があった。
「……監督の現役時代?」
「はい! 灰原監督は現役時代高校No.1捕手として有名で、ドラフト1位で入団した選手なんですよ!」
「……え、まさかあの灰原選手!? 新人賞も獲得したあの!?」
「なに伊吹ちゃん、知らなかったの?」
「いや、灰原監督と同一人物だとは思わなかったんだよ!」
灰原麗衣、東京クレモリツにドラフト1位として鳴り物入りで入団した元至誠高校正捕手。
シーズンの半分しか一軍に滞在していなかったものの、打率3割と二桁本塁打を達成して新人賞も獲得した強打の捕手。
プロ5年目である2013年オフに戦力外通告を受けたものの、まさかあの灰原麗衣が至誠の監督をやっているなど、浜矢は思いもしなかったのだ。
(なるほど、これが先輩達が至誠に来た理由か)
体罰があってここ数年は大した結果も出てなくて設備もそれほど良くなくて。
そんな高校に越境入学しようとなるにはそれ相応の理由があり、その理由は灰原の存在だったのだ。
「本物の灰原選手……! あとで私もサインいいですか?」
「はいはい、後でな。それより千秋だよ」
灰原の言葉を受け千秋に目線をやると、既に山田や菊池など一部選手によるサイン&握手会が行われていた。
野球選手が大好きと公言していた千秋は間近で見る本物の選手にアホ毛をピコピコと動かして大喜び、その反応を見た菊池らも嬉しそうにしている。
「おーい、せんしゅー」
「はい! ……そういえば貴女は?」
「一年の浜矢伊吹、野球初心者だけどよろしく」
「初心者! 無限の可能性と将来性を秘めている、あの初心者ですね!」
「お、おう……」
勝手に無限の可能性と将来性を秘めていることにされた浜矢は苦笑いを浮かべる。
更には灰原まであながち間違っていない、などと千秋の言葉を肯定するものだから彼女の浜矢を見る目が一層輝いてしまう。
「マネージャーも入ったことだし、練習再開! さっそく仕事してもらうよ」
「はいっ!」
高校野球のマネージャーは選手に負けず劣らずの肉体労働。
選手たちの軽食となるおにぎりを作ったり、何リットルものスポーツドリンクを用意したり、場合によっては道具の準備なども手伝う。
(心配だけど、私は自分のこと心配した方が良さそうだな)
浜矢から千秋への第一印象は小動物。
そんな彼女が肉体労働をこなす事を不安に感じながらも、これから投球練習を行う自身の体を心配した。
ノックを行なっているグラウンドの隣にあるブルペンにて、灰原は現役時代に使用していた黒と赤のミットを手にはめて座る。
「よーし、こい!」
「はい!」
(まずはストレートから……ミット目掛けて腕を振り抜くっ!)
中上と比較するとかなり遅いが、良いスピンの掛かったストレートがミットに収まる。
初心者が全力で腕を振り抜いた割にはコントロールもされており、これには灰原もニッコリ。
「ナイスボール! あと20球投げるぞ!」
「はい!」
灰原の言う通り20球ストレートを投げ込む。
最初のうちは全身を使って躍動感のある球を投げられたが、先程のプランクが効いたのか徐々に動きが鈍くなっていった。
「お疲れ、やっぱ足腰足りないから体幹トレーニングは多めにやるぞ」
「うっ、はーい……」
「厳しくいくから覚悟しとけって言われて元気よく返事したのはどこの誰だっけ?」
「私です……」
そうは言ったがキツいものはキツい。
そんな弱音を浜矢は口にはしなかったが、態度と雰囲気には出てしまっている。
見かねた灰原は投手の先輩である中上を呼ぶ。
「浜矢に変化球教えてやってくれ」
「え、まずフォーム固めないでいいんですか?」
「なんか知らないけどもう既に完璧なんだよ。だから頼むわ」
「分かりました、伊吹は何投げたい?」
「うーん……スライダーを投げてみたいです!」
高校野球の投手といえばスライダー。そんなイメージが浜矢には根付いていた。
投げる球種が決まれば早速練習開始。
「必ず真っ直ぐと同じ腕の振りで投げるようにね。変に捻ったりすると怪我のリスクが高くなるからダメだよ。高校生は特に変化を大きくしようと捻るけど、そんな事しなくたって曲がるから」
「なるほど……ありがとうございます」
腕の振りは同じでも振り抜く速度はストレートよりも速くするように、そうすれば自ずと変化すると中上は付け足した。
千秋に変化球マスターと呼ばれている中上は、変化球のことであれば誰よりも詳しい。
浜矢は中上から言われた事に従って軽く一球投げてみると、ボールはホームベースの遥か手前ではあったが大きく変化した。
「おお、本当に曲がった!」
「一球目から曲げられるって、伊吹って天才?」
「そんな事ないですよ、小学生の時はダメダメでしたし」
「そうなの? あ、じゃあ次は気持ちリリース遅めにしてみて」
「はい!」
先の1球は体の真横でリリースしていたが、それを若干遅らせる意識で投げる。
今度は変化量自体は減少したものの、より打者に近いポイントで変化した。
「おお凄い。今のはストレートと同じリリースで投げて貰ったんだ」
「え、私一球目の時リリース早かったですか?」
「ちょっとね。それ直すと投げにくくなる人もいるんだけど……平気だった?」
「はい、全然なんともなかったです」
平然と浜矢が答えると中上は遠くを見ながら呟く。
「これが天才か……」
「いや、変化球なら何でも投げられる先輩の方が天才だと思いますけど……」
「あーそれね、実はフォークとナックルは投げられないんだよね」
「そうなんですか!?」
だがあくまでフォークとナックルが投げられないのであって、スプリットやナックルカーブなどは投げられるとのこと。
「高校野球って何球種くらい投げられればいいんですか?」
「理想は3球種だけど、負担もかかるしスライダーともう1個何かあれば平気かな」
「もう一個かぁ……」
「なんだったら私の想いを乗せてフォーク投げてくれてもいいけど」
「フォークかぁ……良いですね」
落ちる球と速球で次々と三振を奪っていく自分を想像してニヤけていると、灰原にそんな事よりまずは指のストレッチからだと釘を刺される。
初心者である浜矢と経験者の中上の明確な違いは、指の開き具合。
浜矢の手は大きく指も長いが、指が満足に開かなければフォークは投げられない。
「まあ、まずはストレートを極めないとね」
「ストレートが良くないと変化球も意味無いですからね」
リリース、フォーム、握り。
その三つの要素でストレートの質は上げられると中上は言う。
自分に合った握りに正しいフォーム、そしてリリース時の力の加え方、抜き方。
良いストレートを投げるためには、脱力した状態からリリースの瞬間に一気に力を爆発させるイメージで投げる。
それを実践すると、僅かだが球の質が良くなった。
「伊吹凄いなあ、こんなすぐ良くなるんだから。教えてる方も楽しいよ」
「先輩の教え方が上手いだけですって!」
「嬉しいこと言ってくれるね〜! このこの〜」
「えへへっ、痛いですって〜!」
中上はまるで犬を撫でるかのように浜矢の頭をわしゃわしゃと撫でる。
今まで先輩との関わりは殆ど無かっただけに、浜矢はこのように接してもらえることに喜びを感じている。
「うかうかしてると1番奪われるかもな」
「なっ! 流石に一年生に遅れはとりませんよ!」
「そうですよ監督、私なんてスタミナもコントロールもまだまだですし」
現時点でのエースは問答無用で中上だ。
この人以外に背番号1が似合う人はこの場に居ない、浜矢はそんな確信を持っていた。
「でも伊吹ちゃん凄いよ! 初心者なのにこんなに早く変化球も投げられて、ストレートも良いし……」
「せんしゅー……ありがとっ」
「けどちょっと気になったんだけどね、スライダーの時はちょっとリリースポイントが高いかも」
「そんなのよく気付くね……早めに直してみるよ」
この一言で“千秋は有能マネージャーになる”と確信した三人であった。
この日はリリースポイントに特に気を付けながら投げ込みを行い、肩で息をし始める頃に投球練習の終わりが告げられた。
「浜矢はライトも守ってもらうから、守備入って」
「ええ……聞いてないですよ、てかグラブ持ってないです」
「私の外野用グラブあげるよ。ごめんね、私が登板してる時は野手足りないから」
「あ、そうですよね……分かりました、頑張ってやります」
(……また中上先輩のグラブ貰っちゃったけど、あの人野手用のグラブもインテリアにしてたのか)
二度目だが中上は左利きであって、本来なら右利き用グラブなど持っているはずもない。
因みにこれは去年に在庫処分セールで購入し、一年間インテリアと称されて放置されていた物だ。
中上から受け取ったグラブを手にライトの位置につくが、すぐに糸賀から定位置はそこではないと指摘される。
正しい位置を教えてもらい、ノックに備えて構える。
「軽く打つから安心しろよー!」
「はーい! さあこーい!」
灰原は言葉通りノックバットを軽く振り抜き、高度・速度共に普通の打球をライト方向に飛ばす。
いわゆる平凡なフライと呼ばれる物だが、初心者かつ外野未経験の浜矢にとってはホームランキャッチ並みに難しい。
「浜矢、前! 前!」
「はいっ!」
糸賀の声に反応して全力で前に出てグラブの先端で捕球するが、体勢を崩し転んでしまう。
(うへぇ、ダッサ……)
苦い顔をしながら砂を払っている浜矢に対し、糸賀は笑顔で彼女に声を掛ける。
「ナイスガッツ! 今のよく捕ったな」
「ありがとうございます……落下地点分からないんですけど、どうすれば良いんですか?」
「これに関しては慣れだし、数こなすしかないよ。あとはあえて捕らずに打球の軌道を見るとか」
外野フライの難しさを実感した浜矢は、糸賀のノックを至近距離で見学させてもらう事にした。
一歩目の速さ、落下地点への迷いのない移動、捕球から送球の流れ。
彼女は全てがハイレベルで、高校生の中でもトップクラスに上手い。
「どう? 分かった?」
「糸賀先輩っ! すごく守備上手いですね!」
「ありがとう……?」
(違う違う、こうじゃない。私の為に守備を見せてくれたんだ。先輩を参考にしなきゃ)
目的を忘れて大はしゃぎしてしまった事に浜矢は顔を赤らめる。
だがすぐに気持ちを切り替え、今度は自分の番だと言わんばかりに声を張り上げる。
「さあこーい!!」
「よっし、いくぞ!」
今度はさっきよりも弾道が低く少し強めの打球が飛んでくる。
浜矢は突っ込むことはせず、打球の強さを確認しながら前に出てキャッチする。
「ナイスキャッチ!」
「ライナーなら捕れますよ! もっとこーい!」
この打球処理の感じを見るに、彼女はライナー性の打球を捕るのは得意なタイプだ。
その理由は本人すら分かっていないが、一つでも得意なことがあるのは心強い。
その後も灰原お得意の前後左右に揺さぶりるノックが続き、終わる頃には浜矢は足が震えて立つことが出来なかった。
「もう立てないんですけど……」
「おっ、寮泊まっちゃう?」
「いえ、家事が残ってるので……」
「家事もしてるのか? 偉いな」
「してるというか、しなくちゃいけないので」
親が早く帰ってこられないから浜矢がやるしかない。
部活との両立は大変だが、プロを目指す為に無理を言って入部させて貰った身。
文句など言える権利など自分に無いし、体力も付くので結果オーライというのが浜矢の本音だ。
「解散の前に一つお知らせがある。二週間後に練習試合を組んだぞ」
「どこですか?」
「相模中央だ」
「ベスト16級のチームですね。守備が売りの」
「そうそう、そこまで強くもないし初陣には丁度良いかなと」
(神奈川ベスト16がそこまで強くない……? この人たちの"強い"はどれだけハードル高いんだ)
神奈川で16強入りするにはノーシードで4回、シードで三回勝たなければならない。
最低でも三回は勝てるだけの力を持つチームを“そこまで強くないと”と評価する周囲に浜矢は困惑していた。
「先発は中上、浜矢も初の試合だし楽しんでいけよ!」
「はいっ!」
「もちろん勝ちに行く事も忘れずに。記念すべき初陣は折角なら勝利で飾ろう、解散!」
「ありがとうございました!!」
(楽しむのが最優先だけど、勝てるなら勝ちたい。あとは足を引っ張らないようにしなきゃ)
いきなりベスト16級と対戦する事になってしまったが、それはそれとして試合は楽しみ。
浜矢の表情はそう語っていた。