初の練習試合を白星で飾った翌日、至誠ナインはベンチ前に集合していた。
灰原と千秋から大事な話があるとのこと。
「来週からGWに入るので、合宿を行おうと思っています」
「合宿かー、楽しみだな」
「3泊4日、学校に併設されてる合宿所で行うよ」
2016年のGWは4月29日から5月8日までの間に二回も平日が挟まっており、有給を取れる社会人ならまだしも合宿で力を付けたい運動部にとっては微妙な感じになっている。
幸いにも29日の金曜日は祝日なので、木曜の午後から練習をすることで無理やり3泊4日にしている。
「最終日には成田西、そして春日部栄との練習試合を組んだぞ」
「春日部栄って確か埼玉の強豪でしたっけ」
「そう、去年の埼玉ベスト4な。けど成田西も千葉ベスト8だから中々手強いぞ」
部員たった十人、選手はうち九人という至誠がそんなチームと試合が組めるのは他でもない、灰原の知名度と人脈のおかげだ。
今回の相手は流石の先輩たちでも苦戦するだろう、そう予想した浜矢は一層気合を入れるのだった。
この日の練習を終え帰宅した浜矢は、家事をこなして母の帰りを待つ。
どうやって合宿の話を切り出そうか考えていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
「おかえりー。帰ってきて早々で悪いんだけど、話があるんだ」
「話? 何かあったの?」
疲れ切った顔をした、娘の為に掛け持ちして働いてくれている母。
彼女は娘が野球部に入ると言った際にも、お金の心配はしなくていいと言っていた。
直後に浜矢が先輩たちから道具を貰えると告げると安堵した表情をしていたので、恐らく自分の食費なりを削ってお金を捻出しようとしていたのだろう。
「来週から3泊4日で合宿があるんだ」
「合宿……どこに行くの?」
「学校に併設されてる施設だから、遠征費は掛からないよ」
「あら、良かった。……伊吹、ごめんね」
母は心底申し訳なさそうに、小さくそう漏らした。
なぜ母が謝るのか、どこに謝る理由があるのか。
母の言葉を聞いた浜矢はそんな顔をしている。
「本当は何も気にせず野球してほしいんだけどね……」
「いいって。むしろ私の方こそごめん。急に野球やるなんて言い出して」
「今まで不自由な思いさせちゃってたからね……高校でくらい好きにしていいのよ。頑張って特待生にもなってくれたし」
(……一番不自由な思いをしてるのは、私じゃなくてお母さんでしょ)
確かに高校生はオシャレを意識し始めたり部活をしたり友達と買い食いをしたりと、何かとお金が掛かる年頃ではある。
だが母だって新しい服を買いたいはず、大人向けの高級な化粧品に手を出してみたいはず。
それを口にすると泣き出して更に迷惑を掛けてしまいそうだからと、浜矢は言葉を飲み込んだ。
「私、必ずプロになるから。それまで迷惑掛けると思う」
「伊吹を疑う訳ではないけど、本当になれるの?」
「元プロが行けるって言ってるし、私はプロになる気しかないから」
「……そう。楽しみにしてるわ」
灰原が素質を見出してくれて、千秋や鈴井、先輩たちが支えてくれている。
経済的には恵まれていないが環境的には恵まれている、だから最低でもプロ入りをしなくては母に合わせる顔がなくなる。
目指すはドラフト1位という人生の大逆転。
自分を一番近くで支えてくれている愛すべき母のためにも、浜矢は強くなることを誓った。
――合宿当日。
野球部専用のグラウンドにて、外野陣は灰原によるノックを受けていた。
「いくぞー!」
「こい!」
浜矢にもすっかり遠慮の無くなった灰原のノック。
初球からいきなり大飛球をお見舞いされるが、今までの経験で落下地点を予想しそこに向かって走る。
ある程度走ってから後ろを振り向き打球を確認し、位置を微調整して余裕を持ってキャッチ。
まだまだ下手な方ではあるが、それなりに外野手が様になってきている。
「ナイス! 次! 青羽!」
「はいっ!」
青羽も守備が苦手な方だが、流石に初心者の浜矢よりかはマシだ。
打球が上がってからすぐ動き出し、正面の難しいライナーをキャッチ。
「おおー……!」
「ナイスー、私にもこーい!」
糸賀はもはや何も言うことのない安定した守備。
灰原が打球を上げる前に軽くジャンプし、そのままスムーズに動き出すので守備範囲が広い。
両翼の守備が不安なだけに、彼女の存在が大事になる。
40分に及ぶ地獄の外野ノックが終わり、選手はベンチにて水分補給。
「きっつ……」
「こんなんでバテてたら夏を乗り越えられないぞー?」
「ですよね……」
「投手もあるから余計に体力使うだろうしなー。ま、大会までには何とかなるっしょ!」
「何とかします」
糸賀は三人の中で一番前後左右に揺さぶられていたにもかかわらず、体力は一番残っている様子。
青羽より一年、浜矢より二年多く体作りをしていた成果だろう。
外野組が息を整えていると、ノックバットを担いだままの灰原が近寄る。
「青羽、急で悪いが投手もやってくれるか?」
「投手ですか……?」
「一番向いてるのは糸賀だと思うけど、流石にあいつ以外のセンターは考えられないし」
「その次に向いてるのが青羽先輩ってことですか?」
「そういうこと」
突然の申し出に青羽は困惑を隠せないでいるが、次第に納得したようで投手としても活躍することを決意した。
近くにあったボールを手に取り、既に準備を済ましていた柳谷の元に向かう。
セットポジションから投げ込んだ球は、ミットから鈍い音を出させた。
「おお、重そうな球……!」
「良いストレート投げるじゃん。これなら変化球一個でもそこそこ抑えられると思うぞ」
「……緩急つけるやつ、ですか?」
「そうそう。カーブかチェンジアップかな」
「なら二人ともカーブ覚えようよ。教える側としても同じ変化球の方が助かるし」
中上のこの提案には二人も賛成。
そもそも変化球を教えられるのが中上しか居ない以上、その中上に負担のかからないやり方の方が良いと思ったからだ。
急造投手二人の変化球は浜矢がスライダーとカーブ、青羽がカーブのみということになった。
二人は握り方を教わり、まずは一球投げてみる。
その後浜矢は柳谷と、青羽は灰原と組んでカーフの投げ込みを行う。
「青羽のカーブ良いな! 浜矢はどうだ?」
「なんか上手く曲がらないんですけど……」
「見せ球くらいには使える……と思うよ。それにスライダーは良いし」
青羽のカーブはどちらかと言えばドロップカーブやパワーカーブのような縦に落ちる球なのでそれなりに使えそうだが、浜矢のカーブはほとんど曲がらない上に曲がり始めが早い。
幸いスライダーはまだ制球が効かない以外は文句無し、と絶賛される程度なので悲観するほどでは無い。
投げ込みを続けている二人に千秋が声を掛ける。
「投げ込みは一日60から70球くらいでお願いします。二人には練習試合でも登板してもらいます」
「えぇ……打たれる気しかしないんだけど」
「けど公式戦に出たらあのレベルと戦わなきゃいけないんだろ。なら今のうちに慣れておいた方がいい」
「青羽先輩の言う通り! 何失点してもいいから思いっきり投げてね」
「オッケー」
(成田西か春日部栄か……ベスト8だし成田西の方がいいなぁ)
何失点してもいいと言われたが、浜矢にもプライドはあるのでなるべく失点は少なくしたい。
その為にはとにかく投げ込んで制球と投げる球の精度を上げる。
しかし70球までという制限がされているので、彼女は一球一球丁寧に気持ちを込めて投げ込んだ。
「いただきまーす!」
「沢山あるのでゆっくり食べて下さいね」
「せんしゅー! 美味しい!」
「本当? ありがとう!」
練習が終わり合宿所で夕食の時間。
山盛りの料理を作ったのは千秋と小林の二人。
ザクザクとした衣とジューシーな身の分厚い豚カツに、色とりどりな野菜と小林お手製のドレッシングを掛けたサラダ。
ハードな練習で汗と一緒に排出してしまった塩分を補給するための味噌汁、ほうれん草の胡麻和え、そして食後のフルーツにヨーグルト。
食べ盛りの高校生、しかも運動部となれば大盛りの白米も含めてもペロリ。
浜矢は最後の方は量に苦しんでいたが、普段は節約を意識してあまり食べていないので、ここぞとばかりにお腹に詰め込んでいた。
「学校探索せずに何が合宿かー!」
「お、いいですね! 私も行きます!」
「私もー!」
「寮が近くにあるから静かにな。それと自主トレする奴は明日以降の体力残しておけよ」
食事を終えて一杯のお茶を飲み干し、一息ついた山田らは学校探索をしようと言い出した。
自宅から通いの浜矢と菊池はともかく、寮生の山田は夜の学校など見慣れているはずなのだが、合宿でテンションが上がっているのだろう。
山田、菊池、浜矢の三人は夜の学校へ繰り出した。
「いやめっちゃ怖いんですけど……」
「そういやここ出るって噂あるよね」
「ちょっ、先に言ってよ! 出たら頼むよ、沙也加」
「ゴーストに格闘は効かないですよ」
「それゲームの話じゃん! てか沙也加はどっちかというと地面とか岩でしょ」
三人は関係無い話をして怖さを紛らわしていたが、その時物陰から音がした。
その音を耳にした瞬間、三人は臨戦態勢をとる。
「マジでなんかいるぞ……」
「先輩! 先頭は任せましたよ」
「真っ先に先輩を売ったな、この後輩!」
「まあ伊吹は弱そうだから一番後ろでいいよ」
浜矢は160キロストレートで弱そうと言われたことに対してムッとした顔をするが、事実なので何も反論できなかった。
ぐうの音も出ない正論とはまさにこの事だ。
この三人の現在の並び順は先頭が山田、その一歩後ろに菊池、その二人を壁にして安置にいるのが浜矢。
この並びで物音のした方。否、している方へと歩みを進める。
とうとう音がすぐ近くからするようになった場所で、物陰に身を隠しながら様子を伺う。
「…………キャプテンじゃん」
「えぇ……」
「てか先輩たちだよ」
そこには素振りをしていた三年生がいた。
先程の音は素振りをした際の空気を切る音で、幽霊でもなんでもなかったのだ。
何も出なくて良かったという感情と、若干期待を裏切られたような気持ちがごちゃ混ぜになった三人。
「もー! せんぱーい!」
「うわビックリした!! って、悠河か……」
「不審者でも出たのかと思ったー!」
「何してんの?」
「学校探索してました……」
菊池が徐に飛び出していた結果、何も悪いことはしていない3年生が驚くという何とも言えない状況に。
浜矢は一番ビビっていたが、糸賀に頭を小突かれている菊池を見てさっきまで怖がっていたのがおかしく思えてきた。
「先輩方は自主トレですか?」
「うん。私達は最後の夏だからね」
「連合チームじゃないし、折角なら優勝したいじゃん?」
「私たちなら神奈川どころか全国の頂点にだって立てますよ!」
浜矢にとっては最初の夏だが、三年生からしたら高校最後の夏になる。
二年間連合チームでプレーしてきて、三年目にしてようやく至誠として出場できる最初で最後の大会。
後輩には分からない、強い想いがあるのだろう。
「私たちが先輩たちを全国へ導いてみせますよ!」
「なーに言ってんの。私たち三年が導くの、後輩たちが輝ける舞台へ」
山田が自信満々に宣誓すると、柳谷がそう言い切った。
「……カッコいいです!! 一生ついて行きます!」
「一生はいいから、打ってくれよな。次期四番候補さん?」
「任せて下さい!」
(知ってたけど、キャプテンってかっこいい……!)
自分が高い実力ある選手だと自覚しているにもかかわらず、それが鼻につかない。
堂々とした立ち振る舞いもそうだが、チームの頼れる主砲でありキャプテンという立場、そして今のような台詞をサラッと言えてしまう辺りが好感度を上げているのだろう。
「悠もファインプレー期待してるからなー?」
「ふふん、私にかかれば毎試合ファインプレーしますよ!」
いくら守備機会の多いセカンドとはいえ、毎試合ファインプレーはもうファインプレーを偽造しているのだ。
冷静な見方をしている浜矢の前に中上が立つ。
「私がエースだけど、もう一人の先発は伊吹だと思う。けどあんまり気負わないでほしいな」
「……はい!」
「それにいくら打たれても私たちが取り返してやるから」
「そうそう。打線だけで言えばウチは全国トップクラスだよ?」
「キャプテン、糸賀先輩……もし炎上したらお願いしますね!」
「任せろ! バンバン打ってやるからな!」
至誠の強打者は柳谷や糸賀だけではない。
類稀なバットコントロールを誇る金堂と鈴井、圧倒的長打力を武器とする山田と青羽もいる。
10点取られたら11点取り返せばいい、それを実現出来てしまうチームなのだ。
ならば浜矢がやる事はただ一つ、余計な事は考えず全力で腕を振るのみ。