「起立、礼。さようならー」
先生のその一言で、その日の学校生活が終わる。
一定の静けさを保っていた教室は途端に喧噪に満ち溢れていた。もちろん君尋もその一部だった。彼は鞄を開けて、忘れ物がないかのチェックをしている。
そんな彼のもとに、一人近付いてきて、彼の前の席にどかっと座る。
「
「うん。そのつもりだったけど……何で?」
「いや、今日クラスのみんなで──―って言ってもみんなではないけど、十人くらい? 十五人? 正確にはわからないけど、カラオケ行こうって話があってさ。君尋行くのかなと思って」
「うーん。まずお声がかかってないですね」
「まぁ、だと思った」
最近本ばっかり読んでて若干話しかけづらいもんなぁ、と佐藤が苦笑して言う。
「え、それは知らなかった。気を付ける」
「いやあいいんじゃん? 休み時間にニマニマと本読んでるのは、楽しそうでいいなぁって俺は思いますけどね」
「……そう、かなぁ?」
友人が好意的に見てくれていたのは非常に有難いことだが、今度から気を付けようと静かに決意を固める。人間関係というのは大事なものだ。
「それで、カラオケだっけ? 何時から? 俺も行っていいのかな」
「さぁ? たぶん今からカラオケ行って、到着したらって流れだと思うけど……君尋はいいんじゃないかな」
「え。俺もハブられるのはちょっと寂しいんだけど」
「んー。俺の知ってる限りだと面子がなぁ。別に君尋と仲良いわけじゃない連中だからなぁ、別にわざわざ参加する必要ねーと思うけど」
「うーん」
「カラオケくらいなら今度俺と二人で行こうぜ」
「……うーん。うん。わかった」
「君尋は図書館で本読んでるほうが様になるっつーか、まぁ俺のちょっとした願望だな」
じゃあな、と佐藤が軽く手を振って教室から出ていく。
君尋はそれを見送って、さて、と立ち上がる。
友達がたくさんほしいと思ったことはなかったけれど、こうもわかりやすく輪から外されるとちょっと寂しいなと思いながら、君尋も教室から出ていった。
聖祥大付属高校には大きな図書館がある。
正確には高校の、ではなく大学の、という扱いになるのだが、使用者としてはどちらでもよかった。
高校の校舎自体には図書室がない。
理由は知らないが、まぁ、蔵書は同じところに固めておいたほうがいいとかそんな理由なのだろうと思っているし実際そうなのだろうと思う。
高校の校舎から少し離れた図書館にわざわざ行く生徒は、あまり多くない。だから主な利用者は大学に通っている学生たちで、そこに少し気後れしてしまうのだが、それはそれとしてたくさんの本に囲まれている環境というのはなんだか良いものだ。
借りた本は鞄の中に入っているし、別に図書館に行く必要なんてどこにもないのだが、それでも足を運んでしまうのはやっぱり雰囲気が好きなんだろう。
空気というものは、不思議なもので。
透明なのに、色がある。
わかりやすいのは感情だろうか。明るい気持ちだとすべてが明るく見えるし、逆も然り。
自分の感情の形だけでもその場の空気というのは違って見えるし、それ以外の要素でも変わって見える。
例えば、本とか。
本がたくさんある場所はセピア色になる。
モノクロの、世界から鮮やかな色が消えたような、そんな色になる。
落ち着くような、寂しいような、切り取られているような。
だけど本の中には色がある。
鮮やかな感情が描かれている。
それが、君尋は、好きだった。
ぺラリ、と。
ページをめくる。
言葉が、世界になる。
◆
涙を流すというのは、どういうことだろうか。
感情の決壊。
処理しきれない想いが、涙になる。
だから涙には、その人本来の心が滲むのだろうと彼女は思った。
でなければ、こんなに、ただ誰かが泣いているというただそれだけで、心揺れることなんてないに違いない。
透明な涙に、彼の心の色を見たような気がして──彼女はそっと、本を読みながら泣いている彼にひっそりと近付いていった。
◆
「〜〜〜〜っ」
声にならない声でのどを震わせて、君尋は感嘆の息をもらす。
良い、面白い。
誰かに感想を話したいような、頭の中に渦巻く感情を吐き出したいような……そういう気持ちで、また一つ、君尋は深いため息を吐いた。
「……ぁ」
そうして、興奮で軽く身悶えして、彼は気付いた。
見られてる、と。
しかも可愛い女の子に。
確かに、蔵書をまとめる関係上、男子校と女子校に分かれているものの聖祥大付属図書館には女子も来る。
だけどまぁ、だからといって神聖な図書館でそんな色めき立つようなことがあるわけもなく、あまりそういうことを意識したことはなかった。
「……えぇと」
口を開いたのは彼女のほうだった。
そう、普段他者が近くを通ろうと別に意識はしないが、今この瞬間凄く目が合っているのだ。
可愛い子だな、と彼は思った。
何度見ても、どの角度から見ても、綺麗で可愛い女の子だった。
夜空。
彼女を言い表すなら──陳腐ながら、それが似合う。
夜空のような黒に近い藍髪、瞳。
明るい月のように、立っているだけで輝いている気すらする。
図書館がセピア色だとするなら、彼女は夜空色の雰囲気を纏っていた。
綺麗だ、と素直に思う。
「あの……」
「え、あ、はいなんでしょうっ」
反射的に大きな声が出てしまって、あわてて口を抑える。
そんな彼の姿を見て、彼女は柔らかく笑んでいた。
「読書の邪魔をしてしまってごめんなさい。その、何を読んでいるのかなと思って」
「え、あぁ」
これ、と表紙を見せる。
『夜の君へ』
そう記されたタイトル。
ベストセラーになったこともあるし、比較的有名な本だった。
「……面白い、ですか?」
「うん? うーん……」
面白いかと聞かれると──どうなのだろう、と彼は思案する。
そして、自分の頬が涙で濡れていることを思い出して、あわててぬぐう。
「……泣くほど、なんですね?」
「いやまぁ……俺は好きですけどね……? というか、同じ一年だし、敬語じゃなくても、いいと、思うんですけど……どうでしょう」
「……そうなの?」
「うん」
彼は、彼女のことを知っていた。
有名人だったからだ。
聖祥がいわゆるエスカレーター式の学校というのもあって、小・中学時代から有名な人のことはどうしたって耳にする。
美人。
彼女──月村すずかが有名な理由はそれだった。
顔がいい、スタイル抜群。
女が有名になるのにそれ以上の理由はいらないだろう。
「まぁあれだよ。俺は凄く好きだけど……本って、ほら、よほど雑食でもなければ好みっていうのは絶対にあるし……俺はめちゃめちゃ好きだけどね。とても好きだ」
「……そうなんだ」
「うん」
少年漫画の人気作を少女に見せて楽しんでくれるか、少女漫画の人気作を少年に見せて楽しんでくれるか。
そりゃもちろん、趣味嗜好は様々なので少女漫画が好きな少年や少年漫画が好きな少女もいるだろうが、ある程度傾向というのは出るものだ。
君尋が言いたいのは、自分にとって面白くても君にとってはどうだろうと、そういう話。
「どういう話なの?」
「ええとね……」
とはいえ、自分の好きなものを聞かれて悪い気はしない。
むしろ語れる相手が都合よく現れて、彼としては喜ばしいことだった。
「吸血鬼の、話なんだよな」
「────」
「あ、ていうか、座りなよ」
「……うん」
わずかに息を呑んだ彼女のそぶりには気付かず、彼は手振りで着席をうながす。
「これは、愛の話なんだ」
「愛……」
「吸血鬼が……つまり、化け物が、人の温もりを求めて生きる話なんだよ。主人公は、人を餌にする吸血鬼でありながら、人を愛した鬼だったんだ」
「……」
「人の命を吸ってしか生きられない彼を、人間たちはどうしようもなく受け入れられなくて──みたいな? 基本的にはそういう方向のやつ。人間が好きな吸血鬼と、吸血鬼を憎む人間の話なんだけど。まぁこれだけ聞いたら暗い話に聞こえるんだけど、展開は明るいんだよね。夜の王が光に向かう感じが好きでさ」
「……」
「えーと、まあそんな感じ」
「うん。……ありがとう」
少し引かれてない? と思いながら、彼は口ごもる。
いやまあでも、聞いてきたのは向こうなのだしセーフではないか、と考えながら、でもやっぱり美人の反応には一喜一憂してしまう。
「……明るい話? なんだ」
「うーん……」
そしてまた首をひねってしまう。
「明るい……うん明るい。でも暗いところもあって。綺麗だけど醜いような、可憐だけど気持ち悪いような……?」
自分の感じていることをきちんと解説できる人間というのは、意外と少ない。
何故そのような行動をしたのかと人に聞いた場合、大抵「したかったから」というような答えになる。
その欲望の源泉までを知覚している人間というのはほんの一握り。
彼も例に漏れず、自分が感じた魅力を、解説することはできなかった。
「……私、その作品昔少し読んでやめちゃったんだよね」
「あ、そうなの」
てことは合わなかったのかな、と彼はバツの悪そうな顔をする。
何か考えるような面持ちをしていた彼女は、ふと、頬をほころばせる。
「でも、また読んでみようかな」
「おすすめです」
「ふふっ」
少し食い気味に言うと、彼女が鈴を転がすように笑う。
耳心地のいい、軽やかな声だった。
セピア色の光景に、夜空が映える。
「……えと」
「? ……どうかした?」
「なんでもないっ」
また図書館で出すには少し大きな声が出てしまって、慌てて口を押さえると共に、周囲を見渡した。
非難の目は特に感じなかったが、落ち着いたセピア色を乱してしまったような気がして、少し落ち込む。
「……」
「……」
彼らは、共に寡黙なほうであった。
話さないわけではないし、話せないわけでもない。
けれど場における話題提供の役割を担う人種ではなく、だから彼らの会話には必然沈黙が生まれる。
話すことがないけれど、別に解散する理由もない。
今彼らが浸っているのは、そういう停滞だった。
「…………」
「…………」
対面で、無言の会話をする。
目元、口元、仕草。この三つだけで意思の疎通というのはある程度できるものだ。
彼女の目尻はやわらかく、口角もわずかに上がっていて、笑んでいる。
表情なんてものはいくらでも作れる、ということを度外視すると、悪い気ではいないように見えた。
対して自分は──と、君尋は自分の頬に触れる。
こわばっていた。
これは彼女にどう見えているのか、とそんな思考がさらに緊張を生んで、悪循環が生まれる。
色々考えた結果、そういえば、ともともとの話題を思い出す。
「えと、たぶん一巻ここにも置いてると思うけど……借りる?」
「え、あ、はい。……借りようかな?」
彼は緊張でそんなありふれた言葉を絞るのにも時間を要していたが、彼女もそんなありふれた言葉を予想していなかったようにあわてているように見える。
何故だろう、と彼は思いながら、あまりにも自分との会話がつまらなくて考え事でもしてたのかなと少し自嘲する。
「……本棚、あっちだから」
「うん」
月に照らされた本棚と、その側を歩く彼ら。
まるで、ここが世界の中心になったかのようだった。
浮ついた気分に当てられて、足も宙に浮いてしまいそうになる。
「……確か、このあたり」
宙を指先でなぞり、目当てのタイトルの場所まで動かす。
指を止めて、自分が先程まだ読んでいたシリーズの第一巻に触れて、抜き出す。
「はい、これ」
「ありがとう」
彼女は受け取った本の表紙を、白魚のような指でそっと撫でる。
愛おしそうに、優しく。
本を愛しているのが、どんな人でもわかる所作だった。
「……あの」
「はい」
「名前って……」
「…………えぇと」
本の、名前、なわけはない。
簡単な日本語で書いてある。
彼女の眼は、しっかりと彼自身の方に向いていて、つまりはそういうことだった。
「
「私はすずか。月村すずか」
ふわり、と彼女は花のようにやわらかい笑みを浮かべる。
「またね」
ててて、と彼女はカウンターのほうへと向かっていった。
「…………なにこれ」
なんだか夢のような心地で、彼は自分の頬をつねった。
……痛い。
いつも通り、彼は聖祥大付属高校から図書館までの、短い道のりを歩いていた。
見上げるとどこまでも秋空の透明が広がっている。風も涼やかで心地よく、光も穏やかで、とても良い日だなと君尋は思った。
高揚した気分のまま、好きな音楽を小さく口ずさむ。
昨日のことは気にしないでおこう、と思った。
変に期待しすぎても良いことというのはあまりないし、それならもう何も考えずいつも通り過ごそうとしたほうがいい。
またね、という言葉が頭に残っていた。
まぁ……可愛い女の子に「またね」と言われるというそれだけで意識してしまうのはもう仕方ないことというか、なんというか。
君尋は自分で自分に言い訳染みたことを頭の中で言いながら、図書館に向かっていたのだった。
『あの、面白かったです。あの本』
『えっ昨日の今日でもう読んだの?!』
『うん……面白かったから』
なんて、ちょこっとこんな会話ができたらいいなとかいう会話の妄想をしたりしてしまう。
期待しないとはなんだったのか、という話であるが、イマジナリー美少女と会話をするなんてこと誰だってやるだろうしセーフだ。
友人の佐藤も最近イマジナリー彼女にご執心である。
そんな君尋に、とててっと近付く影があった。
聖祥大学付属高校の女子制服に身を包んだ彼女は、君尋の一メートルほど後ろに位置どった。どうしよう、と彼女が逡巡していると、君尋が振り返って、二人の視線が絡まる。
足音の主は、月村すずかその人だった。
「……」
「……」
無言の応酬。
君尋が振り向いたのは、ただ自分の後ろで足音が止んだから気になったということで、その時点では足音の主が自分に用があるなどとは思っていなかった。
だけど振り向いて、あ、となったのであった。思考停止、とも言うかもしれない。
「ま……また会いました……ね?」
「えとはい。後ろ姿が見えて、もしかして小出くんかな……と思ったので」
「そうなんだ」
「はい」
彼女は自然と隣に並んできて、女の子の香りがして、心臓が跳ねる。
「図書館?」
「うん。昨日一巻読んだから、続き借りようと思って」
「おお」
緊張でこわばっていた体から、力が抜ける。
「どうだった?」
「うん。面白かった」
「それはよかった。ところで、前に読むのやめたって言ってたけど、それは何? やっぱり冒頭がちょっとグロテスクだったから?」
「うん。ちょっと……うん」
「あはは。冒頭……というか前半か。きついよなぁ。絶望感が凄い。積み上げてきたもの全部なくなってる」
「でも後半は……確かに、希望──って感じがした」
「そう! ……わかってるね……希望なんだよ……」
全十二巻の、一巻。
絶望からのスタート。
まあ吸血鬼とは言っても主人公。主人公に感情移入するタイプのひとは読んでて辛いものがあるかもしれない。
かくいう彼もめっちゃ泣いたものだった。
「まぁまだ俺も途中だからどういう結末迎えるのかわかんないんだけど……楽しみだ……」
「いま三……だったっけ?」
「三」
「そっか。じゃあすぐ追いつけるかな」
「一瞬で抜かされそう。……なんていうか、一晩で一気に読むのも楽しいんだけど、小休止はさみながらゆーっくり読んでいくのが好きで……」
あんまり理解されないけど、とぼやく。
「ふふ。でもわかる。あんまりすぐ読んじゃうと、もったいないよね」
「うん。いや一気読みっていうのも楽しいんだけどね? スピード感というか、駆け抜ける感じ」
「うん。わかるよ。なんだろう、その作品による……かな? 作風によって、楽しみ方がそれぞれ違う気がする」
「あー……」
一拍おいて、少し考える。
「それだ。確かにそうかも」
「ふふ」
そんな会話をしていると図書館に到着したので、マナーの範囲内に声量を落とす。
学生証で改札を通り抜けて、ちらりと後ろに着いている彼女に目をやる。
……行動を共にした方がいいのか、どうか。
彼の図書館に来たのは、のんびり読書がしたいというだけだったが、彼女は本を借りるのが目的で、少し目的が違っている。
だから目的別でわかれてもいいよな──と思いつつ、いつも通り、奥の方の人気のないお気に入りの場所に歩みを進めていた。
彼女は変わらず着いてきており、目当ての物が置いてある本棚は逆方向ですよと思いつつ、所定の位置についた。
この学校は、わりとコモンスペースが充実しているので、少し遠い図書館にわざわざ足を運ぶひとは少ない。
そりゃもちろん本を借りたり、文献を調べに来るひとはたくさんいるのだけれど、それを踏まえても図書館自体がそれなりの広さを誇っているので、奥の方は基本的に空いている。
だから特に周りを気にすることなく使用できて、物音もあまりしなくて、彼はそれが好きだった。
「本、返してくるね」
「うん」
向かいに荷物をおいて、席を外した彼女の背中を見届けて、彼は読書をはじめた。
この場所は、話をする為の場所ではないから。
本を読んだり勉強をするための場所だから、それに則るのが正だろう。
ハードカバーの本を、机に置く。開く。言葉の世界が、広がる。
──血というのは、命だ。
「……むぅん」
少しキリのいいところまで読んで、ふと我にかえる。
そういえば、と顔を上げて向かいを見る。
彼女もまた、言葉の世界に浸っているようだった。
物語に没入しすぎて、ないがしろにしてしまったかと思ってしまったが、この調子なら特に問題はなさそうだなと安心する。
「……」
静かだった。
もちろん、衣擦れの音やページをめくる音、あるいは何処かの誰かのヒソヒソ話が耳を打つことはある。
だけど無音ではない静寂を感じていた。
「……」
まばたきすらも、波紋のような静けさを伴っていて美しい。
顔、吐息、まばたき。
それらを眺めているだけで、飽きない。
そして文章に落とされていた彼女の視線が不意にあがり、目が合う。
「…………」
「…………こんにちは」
「こ、こんにちは?」
挨拶は大事だ、という気持ちを込めながら言うと、少し戸惑ったような返事があった。
やましい気持ちは少ししかないのだから、別にわざわざそらす意味もないよね……と自分に言い訳しながら、目を合わせ続ける。
まつげが凄く長い、目が大きい、瞳の色が綺麗。
少し意識すると、ダメだった。
あまりの可愛さに、目をそらす。
「今回は、君の勝ちだな……」
「……そうなんだ」
「うん」
間が持たないので適当なことを並べ立てているというのが正直なところだった。
しかし、言葉を交わしてさえいれば気まずい空気というのは発生しづらいし、ベターな選択だと彼は判断した。
「勝ったら、何かあるの?」
「ふむ……」
確かに勝ち負けを決めるのは、何か獲得するためだ。
なにも考えていなかったが、何かあって然るべきかもしれない。
「逆に何がほしい?」
「うーん……」
月村すずかは、考えていた。
ほしいものがどうというより、なんて返答すれば最もらしいかな、と。
適当な雑談で言うのだから、いやいやそれは無理──となるようなことでもいいよね、と。
まあこういうものは会話のテンポが大事で、とりあえずなんでもいいから答えるのが吉。
「あ」
彼女は、悪戯を思いついたかのように無邪気に笑った。
「血がほしい」
「なるほどね」
「ごめん今のなし」
「え?」
「冗談です」
いやまあ冗談なんてのは言われなくてもわかるけど、と君尋はきょとんとする。
変な冗談を言ったからか、笑顔が苦笑いに急転換している。
それがなんともおかしくて、彼もまた「ぷっ」と吹き出してしまうのだった。
「いやごめん」
「笑いながら言わないで」
ぷく、と頬を膨らませる彼女は、今までの清香を感じさせる雰囲気とは打って変わって、幼さを感じさせる可愛らしさだった。
彼は「はー」と一息吐いて、言う。
「……帰りますか?」
「うん」
図書館は雑談をする場所ではない。
複数人で勉強しに来てときおり発生するようなことはある程度仕方のないことだとは思うけれど、本を読むわけでもなく勉強をするわけでもないなら立ち去るのがいいだろう。
多少脈絡はなかったかもしれないが、話題的にも一つの区切りだった。
「…………」
「…………」
図書館を出て空を見上げると、青に朱が混じりはじめていた。
まだ真っ赤ではないものの、夜に向かわんとする秋空は、あっという間にその顔色を変えるだろう。
「この時間帯の空好きなんだよなー」
「どんなところが?」
「なんていうのかな、どんな色してるんだろう……って思いながら図書館を出るのが好きなんだよな。秋冬は日が沈むの早いからさ、夏と違って青空で固定にはならないじゃん。パッと見上げた空が綺麗だと、その日一日、『幸せだったな』って思えて好きなんだ」
「じゃあ、いま幸せ感じてる?」
「感じてる」
ふふ、と彼女が笑い──彼は「あれっ、これ変な意味に聞こえない?」と動揺していた。
迂遠な告白に聞こえなくもないよな、と。
「あ、そ、そうだ! 賞品!」
「賞品……? あぁ」
顔にほんの少し朱を混ぜながら、彼は先程雑談の中にのぼった一つの話題を引っ張り上げる。
「えーと……」
口にしたはいいものの、何も思いついておらず、しどろもどろに視線をさまよわせる。
「……ジュース奢る」
「わ、やった」
あからさまなその場しのぎの言葉であったが、彼女は小さくガッツポーズし、わかりやすく乗ってくれた。
彼は目に付いた自動販売機まで小走りでかけていき、ラインナップをじーっと見る。
てこてこ、とゆっくりやってくる彼女を横目で見ながら、ちゃりんちゃりんと小銭を投入。
すべてのドリンクのランプが灯る。
「……どうぞ」
「ありがとう」
彼女が押したのは、ストレートの温かい紅茶だった。
肌寒さをつよく感じはしないが、確かに最近冷えてきた。
彼女に習って、彼も温かい飲み物にする。
せっかくなので、普段飲まないミルクセーキ。
「わ。ミルクセーキだ。いいな」
「わかりやすく甘くて、たまに飲むと美味しいやつ」
「ふふ、わかる。自動販売機の飲み物って、ストレートでも凄く甘いよね」
彼女はミニサイズボトルの紅茶を手の中で転がし、もてあそぶ。
「いつも思うんだけど、珈琲の微糖って全然“微”じゃないよなー」
「確かにね?」
「まぁでも甘いのも好きなので飲むんですけどね……」
そのままキャップを開けようとして、気付く。
これは帰宅ルートから逸れたな、と。
立ち話にしろ、どこかに腰を据えるにしろ、なんにせよ飲みながら歩くというのはちょっと違うかなと思う。
「どこか座る?」
「えーと、学校の近くに公園あったと思うけど、そことか……?」
「じゃあそこ行こう」
手の中でミルクセーキをもてあそびながら、彼女の一歩先をゆく。
なんだか、思いのほか長い時間を共にしていて、どう思われているんだろうということを考えてしまう。
今日限りなら、もうずーっと拘束して、彼女が「帰りたい」と言うまであの可愛い顔を脳細胞に刻ませてもらおうかな、とか。
そうしようかな、とか。
そんなことを思いながら、背後にちらりと目をやる。
彼女は紅茶に目を落としていて、彼と目が合うと足を早めて、横に並ぶ。
「月村って──……」
「なに?」
彼氏いるの、とあまりの可愛さに聞きそうになって、ぐっとこらえる。
「ご、ご趣味は……?」
「読書、かなぁ……」
「そっかー」
そっかそっかー、あははー、と笑う。
不自然な彼の所作に、彼女は怪訝な顔をして首をひねる。
「最近面白かった本とかある?」
「えーとね……────」
そうして好きな本の話などの会話を挟みつつ、公園に到着した。
「ふー」
少し大げさに息をついて、どっこらしょとベンチに腰掛ける。
その隣、人ひとり分空けて、彼女が座った。
ひとまず買った飲み物を開けて、一口のどに流し込む。
倣うように、彼女も飲み口を開けて、一口飲んでいた。
「んー甘い」
「あったかいね」
「あったかいねぇ」
冷たすぎない風が、頬を撫でる。
ミルクセーキの甘みが、のどにからむ。
熱を入れて、冷まして、心地よい温度になってゆく。
「そういえば、紅茶好きなの?」
「どうして?」
「選ぶとき迷いなく、びゅんっ、て指がボタンに刺さってたから」
「そ、そんなに?」
「嘘だけど」
もう、と言いながらその顔はほころんでいる。
「まぁでも……うーん。そうなのかも。別にジュースを飲まないわけじゃないんだけど、珈琲とか紅茶を選ぶことが多いかな」
「へぇ、何か理由あったりするの?」
「家でよく飲むし、友達の家でもよく出てくるから、かな?」
彼女は空を見上げて、記憶の欠片を思い浮かべる。
「私、そこそこのお家柄というか、お金持ちなんだけど、何も言わなくてもお茶とか差し入れてくれたりとかして、だから家では紅茶をよく飲む……っていうのはあるよね。甘いものはよくないです! なんてことも言われたことあるし」
「あー」
「友達の家でも似たようなものかな。私みたいなお嬢様だったり、喫茶店やってたりとかで、結局お茶とか珈琲飲んでたり」
「あー」
凄い想像つくな、と彼は頷く。
「喫茶店ってあれ? 翠屋? 高町の家だったよな」
「うんそう。行ったことある?」
「んー。ケーキ買うだけなら」
「そっか。翠屋ご飯も美味しいし、一回寄ってみてほしいなぁ」
「じゃあ、今度行こうかな」
「ぜひぜひ」
他愛のない話題に、花を咲かせる。
「そういえば、本読むときに飲食オーケーなタイプ?」
「……んー。私は嫌かな。本汚したりしたらって思うとできない」
「なんだ同士じゃん。いやさ、友達に聞くとあんまり理解されないんだよな」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
んー、と彼女は顎に指を当てて考える。
「あんまり本を読まないひとならそうなのかもね」
「あぁうん……あんまり読むタイプではないな……」
「『類は友を呼ぶ』って言うじゃない? 私はあんまりそれ該当しないんだけど、小出くんもそう?」
「……かも?」
「やっぱりそのときの縁次第なのかな」
「まぁ、偶然って運命みたいなもんだしね」
何気なく言うと、彼女は目をぱちくりさせて、「あー……」と声をもらす。
そんな彼女の反応に、彼はそんなに変なこと言ったかな、言ったかも、と落ち着かない様子だった。
「そうかも」
一拍したあとに彼女はそう続けた。
その表情は何故だか少し穏やかで、安らかで、嬉しそうだった。
両の手でボトルを持ちながら微笑む彼女は、見惚れるほど美しかった。
きっと、こんな表情ができるような“運命”が彼女にはあったのだろう。
それが少し、羨ましいと彼は思った。
「──なんかいいな、そういうの」
だからつい口に出てしまって、だけど会話の脈絡はなってなくて、何か誤魔化しの台詞を継ぎ足そうかと脳細胞を働かせていると、
「でしょ?」
彼女が微笑み、それに当てられて彼はもう何も言えなくなっていた。
気を紛らわせるように、胸焼けしそうな甘さを喉の奥に流し込む。
ごく、ごく。
ぷは。
飲み干して、一息吐いていると、彼女が目を丸くしてこちらを見ていた。
まあいきなり一気飲みなんてことをする人がいたら、どうしたんだろう、とは思うだろう。
「……甘い」
「あはは。いい飲みっぷりだったね」
むぅ、と眉をひそめ、彼は「そういえば」と彼女に問いかける。
「時間大丈夫? それなりに時間経ってるけど」
「ん。私は大丈夫だけど、小出くんは?」
「問題なし」
赤く染まった秋雲が、時間の経過を示している。
これからどんどん、藍色に染まっていくのだろう。
彼女のような、夜空が来る。
「ちょっと捨ててくる」
「いってらっしゃい」
おもむろに彼は立ち上がり、空のボトルをひらひらと揺らしながら、彼女に背を向けて、公園の隅にあるゴミ箱へと向かう。
意外と、彼女はこの時間を苦には思っていないのかもしれない。
帰るタイミングを作るために、時間について言及したのになぁ、と彼は思う。
かこん、とボトルをゴミ箱に入れる。
まぁ、構わないというならもうしばらく、話に付き合ってもらおうかな、とベンチに座って待っている彼女のもとへと戻っていく。
夕焼けの中、ただ座っているだけ。
だけど、彼女は綺麗だった。
まるで一枚の絵画のような、月のような、妖精のような、花のような、言葉のような、異次元の美しさを持っていた。
彼は知らない。
彼女が、本当に特別なことを。
彼女が、彼を喰らう鬼であることを。
そして
まだ、彼は知らなかった。