貴方の命はキスの味。   作:夜桜さくら

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「名前を呼んで」

「そろそろテスト勉強も頑張るように。それでは──」

 

 起立、礼。さようなら。

 先生の号令で、学校が終わる。

 途端に騒がしくなる波に身をゆだねながら、君尋はいつも通りのんびりと帰り支度を進めていく。

 

「君尋~」

 

 彼の名前を呼びながら、だらけた様子で佐藤が君尋の前の傍にやってきた。

 

「今度勉強おしえちくり~」

「テストまでまだ一週間はあるだろうに」 

「一人だと捗らないじゃん」

「二人でも絶対捗らない人の台詞の典型……」

「まぁまぁそう言わずに。一人だとどうにも身が入らないんだよなー」

 

 赤点とって補習とかは勘弁、と佐藤はぼやく。

 夏休みに補習を受けていた奴の台詞は重いなぁなどと君尋は思った。

 

「まぁいいけど。いつやるの?」

「どっかそのうち」

「まじで勉強せずにテスト迎えそうだな……」

「いやいや流石に前日にはやるって」

「……あー。今日これから図書館で勉強しようと思ってたけど、来る?」

「…………パス」

「やっぱやる気なくない?」

「いやーそれほどでもある」

「あるんかーい」

 

 軽口を叩きながらかばんを持って、君尋は立って歩き出す。

 向かう先は下駄箱だった。彼らは二人とも部活というものには所属していない帰宅部である。

 

「そいや、月村っているじゃん。女子の」

「あーうん」

 

 一瞬ドキッとしつつ、平静を装って君尋は受け答えする。

 

「最近図書館によくいるらしいんだよな」

「はぁ……それで?」

「別にどうってわけじゃねぇんだけど、まぁ、美人のことを調べると楽しいじゃん」

「変態か?」

「おう、なんかわかったら教えてくれよ」

「……お、おう」

 

 そんな会話をしながら、二人は帰路につく。

 君尋は図書館へ、佐藤は自宅へと。

 

 

 

 

 テスト前だということもあって、普段より図書館の人口密度は高かった。しかし普段通りの位置は都合よく空いていたので座り、いつもと違って読書ではなく勉強を始めた。

 カリカリ、と紙にペンを走らせる。

 参考書を開いて、ノートを開いて、読んで書いてを繰り返していく。

 今君尋がやっているのは数学の問題集だった。

 数学というのは、高度なものでなければ解法の暗記をするものである。頭をひねってどう解き明かすかなどという閃きはいらない。“こういう問題はこう解く”ということをひたすら覚えていくもので、だから解いた問題の数が数学の点数に直結する。

 しかしながら数学というものは多くの人間が苦手とするものだ。それは何故か。解答を見ても何故そのような解答になっているかが理解できないからだ。短くまとめる必要性から、問題集の解答にはこと細かな解説は記載されていない。だからなんとなく解答を見て終わってしまって、何故、というところを学べない。

 かくいう君尋も、詰まった問題の解答を見て、悩んでいるところだった。

 

(……なにをどうすればこんな答えが導き出せるんだ?)

 

 むむむ、と眉間にしわを寄せながら、君尋は手を止める。

 解答を眺めて、頭の中で数字をかけ合わせたり割ったりしながら“何故”を考えていく。

 しかしすぐ解決するならはじめから悩んでいないわけで、少しの間、悩み続ける。

 

(うーん……)

 

 でも考えてもやっぱりわからなくて、ただ時間が過ぎていく。

 飛ばして次の問題に行くか、と一つの問題を捨てることを考えていると、君尋は一つのことに気付いた。

 自分に向く視線があるな、と。

 そうして君尋は、近くの本棚の前に立っていた女の子──月村と視線を絡ませる。

 

「…………」

「…………」

 

 無言で会釈すると、会釈が返ってくる。

 少しの間をおいて、すすす、とすずかがこちらへとやってきた。

 あの日、放課後、少し長い時間を共有してからというもの、会えば挨拶にはじまりちょっとした会話をすることが増えている。

 

「……勉強?」

「うん。ほら、もうすぐテストだから」

 

 彼女の視線は机の上に注がれていた。

 

「月村は? 今日はどうしたの?」

「えと。特にすることはないんだけど、なんとなく来ちゃって」

「あーあるある」

 

 図書館のマナーを意識して、二人とも自然と小さな声で話をする。

 

「小出くんは勉強、だよね?」

「うん。家より、集中できるから」

「そっか」

 

 わかるよ、とすずかは頷く。

 

「数学、難しいよね」

「そうなんだよねぇ。……月村は勉強大丈夫?」

「たぶん、大丈夫だと思う」

「さすが」

「数学苦手なの? なんだか、ずいぶん考えてたみたいだったから」

「あーうん」

 

 どうしてもこればかりはね、と君尋は苦笑を浮かべてペンをもてあそぶ。

 すずかは口元に手を当て、思案する。

 

「よかったら、私が教えられるところがあったら教えようか?」

「……」

「えと、もちろん。上手く教えられるかもわかんないんだけど──」

「いやうん。月村がいいなら、だけど」

「うん。いいよ」

 

 自然と少し、声が大きくなっていた。周りからの視線を感じて、二人して居たたまれない気持ちになる。

 

「……外行く?」

「……うん」

 

 そさくさと荷物をまとめて、二人して図書館を出ていく。

 じゃあ今から勉強しましょうか、なんて流れになるはずもなく、ひとまず彼らは連絡先だけ交換して別れるのだった。

 

 

 

 

 君尋は家に帰ってからずっと、悩んでいた。悩んで悩んで、悩みながら食事をして、お風呂に入って、それでもまだ悩んでいた。

 今は、スマートフォンを眺めながらベッドに横になっている。

 現在時刻は二十一時半。

 ベッドの上でごろごろしてから、もう三十分は経過していた。

 

(……連絡したほうがいいのかな。しないほうがいいのかな)

 

 悩みの種は連絡先に追加された月村の連絡先だった。実のところ、連絡先を交換しよう、という話を切り出したのは月村すずかその人からだった。だけど催促気味な言動を君尋がしたことは否めないし、そもそも社交辞令ということも考えられる。

 

(よし。とりあえず連絡するだけしてみよう)

 

 そもそも社交辞令だろうとなんだろうと、連絡しないほうが失礼にあたるだろうと彼は判断した。

 あたりさわりのない内容をおくって、そこから次考えることにしたのだ。

 

(とりあえず、二十二時は跨がないようにしたいな)

 

 時計を見ながら、君尋はおくるメッセージの内容を考え始めた。夜遅い時間、というのは感覚的なものでひとによるだろうが、一般的に言って二十二時以降は常識的には駄目な範囲でないかと彼は思う。

 もちろんひとによっては、二十一時には寝るということもあるだろうが、そこはなんとなく大丈夫だろうと決めつけた。

 

(……ええと)

 

 ぽちぽち、とメッセージの文章を打ち込んでいく。

 読書をして築いた文章センスを発揮するときがきた、という気持ちで、さささっと文章を書きあげる。

 なるべく煙たがられないことを、意識しながら。

 

こんばんは、小出です。

今日はありがとう。

そのうちわからないことがあれば、連絡するかもしれないです(*´°`*)

 

 

(送信、と)

 

 スマートフォンをベッドに叩きつけるように置いて、君尋は枕にうつ伏す。

 そうしてから一分経ったか経っていないかという具合の間隔で、彼のスマートフォンが震えた。

 びくっ、と撥ねるように彼は体を起こして、通知画面を見る。月村からの返信だった。

 

 

すずかです。

こちらこそありがとう。

なんでも聞いてね! 

というか、わからないことがあったら私も聞いちゃうかも……。

 

 

 そんな文章と共に笑顔の可愛らしいスタンプがおくられてきた。

 

(あーそっかスタンプかー。そうだよねー。スタンプだよねーそうだよねー)

 

 内容よりも、まず思ったことはそれだった。

 可愛らしめの顔文字を使ったりしてみたが、まぁ確かに顔文字を使うより普通スタンプを使うものだ。

 なんで普段使わない顔文字を使ったのかもよくわからない。

 それに少し身もだえしつつ、こちらも無難な可愛めのスタンプをおくり返して──またスタンプが返ってきた。

 

(…………これ、返したほうが……いや見なかったことに……いやもう既読つけちゃったし……いやでもあんまり続けたらうざいって思われるかも……そもそも返してきたの向こうだし別にいいのか……? うーん…………)

 

 だいたい五秒くらい考えて、ちょっと面白い感じのスタンプをおくる。

 そしてまた返ってくる。

 彼はあんまりそういう意識を持っていなかったが、すずかもまた花の女子高生なのである。電話やらなんやら、こういうコミュニケーションは好きだった。

 とりあえずまたいくつかスタンプによる会話のような会話でない応酬をして、彼は少し開き直った。

 

(なんかどんな内容のおくろうとか必死に考えてたの馬鹿らしくなってきたな!)

 

 スタンプをやめて文字によるコミュニケーションを図りにいって、文字とスタンプをまじえた会話がはじまる。

 いつも何時ごろ寝てる? というような当たり障りのないことから、クッキーとビスケットの差というようなどうでもいいようなことまで、話をした。

 日付が変わる時間まで、そんなことをしていた。

 最後にした会話は、寝る前にする、ごく普通のやり取り。

 おやすみなさい、というもの。

 その言葉の響きに、頬をゆるませて彼は眠った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 翌日、君尋は月村とした昨晩の会話ログを眺めることを何度もした。

 楽しかったという歓び、もうちょっとマシな話題はなかったのかという後悔、これから先もこんなことができるだろうかという期待。

 色んな想いを混ぜて、彼は彼女をスマートフォン越しに思っていた。

 しかし、当たり前のように自分から連絡しようとはしなかった。だって別に友達じゃないしな、と君尋は思う。

 そうして放課後になって、いつも通り図書室に向かって、これまたいつも通り、所定の位置に座った。

 

(さて、がんばろ)

 

 開いたのは、昨日に引き続き数学の問題集だった。

 他の科目をやってもよかったのだが、これを選んでしまった。数学が苦手だという話もしたし、勉強のことで何か質問するならこの科目だという、下心からの選択だった。

 昨日はなんだかんだ勉強に関する話題は一切出さなかったが、普通に考えて連絡先を交換した理由なのだから一度は何がしか聞くべきだろうと君尋は思った。

 

(まぁ、昨日詰まってた問題でいいかなぁ)

 

 絶妙に解答を見てもよくわからなかった問題について、君尋はすずかに問いを投げる。

 

(うん。とりあえず、これで返信があるまでこの問題は放置でいいや)

 

 そうして別の問題にとりかかっているうちに、送ったメッセージには既読がついた。

 返信はまだない。

 問題集を進めて、数学以外の教科も勉強を進めて、そうして日が暮れたころに帰ることにした。

 返信はまだない。

 家に帰って夕食を食べてお風呂に入る。

 返信は…………きていた。

 

 

返事遅くなってごめんなさい~。

こんな感じです。……わかるかな? 

 

 

 メッセージと共に、ノートに式と解説が記されている写真が送信されてきた。

 字が綺麗だと君尋は思った。そして凄く丁寧だとも思った。

 ひとまず、ありがとう、と手早く返信する。

 解説をじっと見て、頭の中でかみ砕いて、自分のものにして、理解する。

 そうして、理解したあとに、もう一度メッセージを送る。

 

 

凄くわかりやすかった、ありがとう。

 

 

 感謝の気持ちと同時に、もどかしいような軋むような感情を彼は抱いた。

 嫉妬か羨望か、諦めか。

 自分でもなんと呼んでいいのかわからない。だけど少し苦しい気持ち。

 

(月村は……たぶん誰にでもこうなんだろうなぁ……。優しいなぁ……)

 

 それは高嶺の花を見上げるような心境だった。

 手を伸ばしたところで絶対に手を触れることができないことがわかりきっている。だから期待より先に諦めがあったものの……高嶺から花が自分から降りてきたのだから始末に負えない。

 手が届いてしまいそうだなという期待を押し殺して、君尋はそっとため息を吐いた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 カリカリ、と黒鉛が紙の上を滑る音がする。身じろぎによる、衣擦れの音がする。吐息の音がする。どこかの誰かがひそひそと話す声が聞こえる。本をめくる音が聞こえる。

 紙の匂いがする。どこか静かで、寂しくて、だけど暖かいようなそんな空気の匂い。優しい匂い。

 やっぱり君尋は、図書館という空間が好きだった。

 ぽん、と無音でスマートフォンに通知がやってくる。

 月村から君尋に向けたメッセージ。

 

 

今日もいるんだね。

 

 

 君尋は思わずあたりを見渡すが、本棚がたくさん並べられているこの図書館は死角が多く、同じ空間にいるであろう彼女の姿は見当たらなかった。

「月村が言うのか」

 短くそう返して、またペンを執る。

 そうしてまた、メッセージがやってくる。

 

 

昨日聞かれてたとこ、わかったよ~。

 

ほんと? ありがとう。

 

 

 あんまり聞きすぎるのもよくないとは思いつつ、わかりやすい解説が返ってきてしまうのでついつい頼ってしまう。

 基本的に一人でしか勉強をしたことがない君尋は、誰かとするこの勉強の形を、少し楽しんでいた。

 だからその気持ちをそのままに、彼女に伝えようと君尋は思った。

 文章には感情を乗せることができる。

 文字でできた世界を見ることが好きな彼にとってそうなのだから、きっと文学少女として知られている彼女にとってもそうだろうと。

 だから、ありがとうを自分なりに綴る。

 

 

月村には負担かけてるかもしれないけど、今ちょっと楽しい。

こうして、顔を合わせずやり取りをするのは、少し特別な感じがして楽しい。

だからありがとう。

声をかけてくれてありがとう。

俺はそんなに言うほど頭も良くないから、勉強だと何も伝えられないんだけど、君が困ったときには助けるから、何かあったら言ってほしい。

感謝してる。

 

 

 ちょっとキザかなと思いつつ、君尋はすずかへとメッセージを送った。

 そして、彼はおくった文面を見直して、思った。

 

(うわはっず! なんだこれ。なんで送ったんだ数分前の俺! ドン引き……! え。恥ずかしい。凄いな……恥ずかしい……こんな文章真顔で書くひと、何……? 何……? 正気か……?)

 

 走り出して叫びたいような衝動にかられる。

 羞恥。

 すずかの返信があるまで約一分。たった一分だったが、既読がついてからの短い沈黙だけで、彼の羞恥と後悔は相当なものになっていた。

 

 

あの

 

 

 すずかからの、言葉。

 

 

こちらこそ、ありがとう。 

嬉しいです。

 

 

 そして、メッセージが途切れる。

 君尋は少しの安堵と、やはり強い後悔を抱いていた。

 そして、彼が頭を抱えていると、少し遅れて、またメッセージが飛んできた。

 

 

もし良かったらでいいんだけど

これからも仲良くしてくれると嬉しいな

 

 

 思考が止まる。

 一体彼女はどんな心境でこんなことを送っているのだろうか、と。

 それだけを思って、思考が止まる。

 何かを考えようとして考えられなかったから、彼は一言、『はい』と返信をした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 テストが終わるまでの数週間は、あっという間に過ぎていった。

 放課後、君尋は前に月村と会話した公園へとやってきていた。

 彼はベンチに座って公園を眺めていた。奥にある砂場では、幼い子供とその母親が何かを作っている。子供のはしゃぐ声が聞こえ、道脇から車の走る音も聞こえる。風の流れを感じる。

 今日は穏やかな天候だった。

 雲が悠々と空に在って、空気は透明で、柔らかい光が降り注いでいる。

 

「小出くん」

 

 砂利と靴底がすれる音、彼の名前を呼ぶすずかの声。

 それに、彼はやんわり微笑んで会釈を返した。

 

「待った?」

「いや別に。大丈夫」

 

 今来たところ、と返す自分のイメージが一瞬頭によぎったが、それを振り払って君尋は無難に返答をした。

 まるでデートみたいだ、と。

 あんまり舞い上がりすぎても気持ちが悪いよな、と彼は思った。

 

「呼び出したりなんかして、ごめんね」

「ううん。私も暇だったし」

 

 呼んだのは、君尋だった。

 理由はお礼を言うためと、ちょっとした……下心。

 

「でまぁ、用件的な話になるんだけど」

 

 彼は、傍に置いていた紙袋を目の前に持ち上げる。

 

「なんというか……やり過ぎかなとは思ったんだけど、お礼です」

「わ、別にいいのに」

「施されたままだと落ち着かないという俺のわがままなので、普通に受け取ってくれると嬉しい」

「……ありがとう」

 

 わぁこれ美味しいやつだ、と受け取りながら彼女が紙袋を受け取る。

 紙袋には《翠屋》と可愛らしいロゴと共に書かれていて、高町と懇意にしている彼女は当然知っている名前だった。

 変に穿ちすぎても仕方ないし、翠屋は普通に有名店だし、美味しいし──というのが選定理由。

 

「……じゃあ、これで」

 

 またね、と言いながら立ち去ろうとすると、「ちょっと待って」と袖をつままれる。

 なんだこいつ袖つまむとか可愛いかよ、と思いながら振り向くと、彼女が柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「……ちょっと待っててね」

 

 これ持ってて、と先ほど渡したばかりの紙袋が返される。

 ぽかん、としていると彼女はそのまま背を向けてどこかに行ってしまった。

 

「………………え?」

 

 どこ行ったんだろう、とただ唖然とするしか彼にはできなかった。

 数分後、彼女は両の手に何やら飲み物を持って、ぱたぱたと駆けてきた。

 

「どっちがいい?」

 

 少し息切れている月村が持っているのは、以前彼が購入したラインナップと同じものだった。

 すなわち、紅茶のストレート(甘い)とミルクセーキ(甘い)のホット。

 

「えっと、じゃあこっちで」

「はいっ」

 

 ありがとう、と戸惑いながら紅茶を受け取る。

 ふふふ、と軽やかに笑って、これまた以前のようにベンチに腰掛ける。

 

「座って座って」

「え、あ、うん」

 

 促されるままに、人ひとり分の隙間を開けて、座る。

 すると彼女が、紙袋の中から簡易包装された──彼の買った焼き菓子セットを取り出す。

 

「私一人だと、持って帰ってもちょっとね。量が多いかなって思うんだよね」

「え、お? うん」

「だから、ちょっと一緒に減らしてくれないかなーって……」

 

 どうですか、とおそるおそるこちらを覗き込む彼女の言葉に、ただただポカンとするしかなかった。

 何が言っているのかはわかる。

 けれど耳を通って頭を通り抜けて、どこかに出ていって、理解ができていなかった。

 つまるところ、彼女は一緒に話すための口実を作ってくれている。彼が贈ったものはファミリーサイズというわけではないし、ひとりで厳しいというような量というわけでもない。

 

「ふんふふーん」

 

 丁寧に、ぺりぺりと包装が剥がされていく。

 こういうとこも性格が出るよな、と彼は思った。

 なんだかんだ綺麗にテープを剥がすのは難しくて、だからもう、乱雑にベリっと剥がしたほうが早い。

 けれど、白魚のような指先が、ぴりりと裂いているのは、なんとも艶かしい。

 

「あ、そういえば……月村はテストどうだった?」

「んー……まぁぼちぼち? かな。返却されないとわかんないけど……うん、いつも通りって感じだった」

「そっか」

 

 箱を開けている彼女に、軽く話を投げる。

 テストの話は、このシチュエーションだと限りなくベターな話題だと言えるだろう。

 

「小出くん何食べたい?」

「んー。月村からとっていいよ」

「私全部食べたことあるし、いいよ」

「んー……」

 

 そしてとうとう開いた焼き菓子セットの中身が開帳される。

 マドレーヌ、ラングドシャ、クッキーといくつかのものが入っている。全部二個ずつ入っているわけでもないので、どれか一つ食べてしまうとなくなってしまうのが悩ましいところだった。

 まぁけれど、押し問答をするのも面倒だったため、ひとまず彼は「じゃあ」とプレーンのクッキーを一つ手に取った。

 続けて彼女がブラウニーを一つ手にとって、「いただきます」と二人揃って手をつけ始める。

 クッキーを口に咥えて、彼はそのまま傍に置いていた自分の鞄からビニール袋を取り出す。

 自分のゴミを入れて、そのまま彼女に開き口を向ける。

 

「ありがとう」

「ひゃひお」

「ふふ」

 

 やってから思ったがあまりにも下品だ、と羞恥に身を縮こませる。

 まぁ笑ってくれたからセーフかな、と思うも、隣にいるひとが上品だと倣わないといけないかなと思うのが人というものだろう。

 

「むぐ。……うまいな」

「美味しいよね」

 

 食感がよく、香ばしい。

 彼の陳腐な語彙ではあらわせない、お洒落な味わい。

 そして失われた水分を補うように、紅茶を一口。

 おどろきのあまさ。

 

「んー、やっぱり甘いもの食べてるときは甘い飲み物じゃないほうがいいな」

「あ、だよね」

「……あー、別に飲み物のチョイスを責めてるわけじゃないからね? 自動販売機はだいたい全部甘いからな……」

 

 水とか緑茶というのもそれはそれでどうなんだって話だしな、とぼやくと、そうなんだよねぇ、と相槌が入る。

 

「私も、単品で飲むぶんには結構好きなんだけどね。すごくわかりやすい甘さが、癖になる感じ」

「あまりにもわかる」

「──って言っても、普段から家で焼き菓子食べるときも癖の強いもの飲んでるんだけどね?」

「そうなのか」

「ハーブティとか? けっこー好きかな」

「へぇ……」

「飲んだことある?」

「ないなぁ」

「結構色んな種類あるけど、どれも個性あって楽しいよ」

「そうなのか……」

 

 飲んでみたいな、とつぶやく。

 ぜひ、と彼女が言う。

 そして目の前の、子供が公園内を走り回っている光景を見て、思い出したように彼がぽつりと話し始める。

 

「そういえば、昔はよく公園で遊んだ気がするなぁ」

「へぇ」

「よく覚えてないけど、よく土まみれになってた気がする。水道から水汲んできて、それで砂固めて、山を作ってトンネル開通してみたり」

「楽しそう」

「うん。あれはあれで、楽しかったかな」

 

 彼が微笑み、彼女も笑う。

 笑顔の共有は心に安らぎをもたらす。

 

「トンネルといえば、『トンネルを抜けると雪国であった』っていうの思い出しちゃう」

「うん」

「別に小説の内容は関係ないんだけど、ふっと、長い暗闇を抜けて光を見たときの感動っていうのは形容しがたいものがあるよね」

「わかる。こう、その上手く表せない言葉の光を集めるために、生きてるんじゃないかなってときどき思う」

「言葉の光……?」

「あぁごめん。話が飛躍しすぎた。感動ってさ上手く言葉にできないんだよな。少なくとも俺の場合は。だから、それを表す言葉を探すために小説を読んでるところっていうのはあるかなぁってちょっと思ってさ」

 

 彼女は彼を見て、小さく「へー」と声をもらす。

 それに対して彼は、恥ずかしいことを言ったな、と身を縮こまらせる。

 

「…………」

 

 彼女は、空を仰ぎ見る。

 言葉。光。涙。

 彼女の頭に思い浮かんでは消えていく、言葉の形。

 そして彼女は、彼を見て、柔らかく笑みを浮かべる。

 

「ちょっと違うかもしれないけど、私、そういうの一つ知ってるなぁ」

「えと……なにが?」

「言葉の光、っていうの。一つ、思い浮かんだのがあるんだ」

「へぇ……」

 

 月村すずかは、星の光を思い出す。

 あの子の言葉は、光だと。

 

「“名前を呼んで”」

 

 それはきっと、一つの魔法。

 

「私の友達が言ってたことなんだけどね。名前で呼び合ったらもう友達なんだって。そうじゃないパターンも当然あると私は思っちゃうんだけど……でもこの考え方素敵だなぁって思ってるの」

「へー。いい友達だね」

「うん。凄くいい子なの」

 

 だから、と彼女は続けて言う。

 

「名前を呼んで? 友達になろう。えっと……君尋くん」

 

 照れたように名前を呼ぶすずかの姿を見て、君尋も頬が赤くなるほど照れてしまう。

 

「すずか……さん?」

「呼び捨てでいいよ?」

「……すずか」

「うん。君尋くん」

 

 苦味の混ざっていた空気はとろけるほど甘く加工され、ふわふわと二人の間に漂っていた。

 

「なんかちょっと恥ずかしいな」

「私も」

 

 照れくさくて、だけどそれが嬉しい。

 そんな甘酸っぱい声の色。

 

「…………」

「…………」

 

 つい先ほどと同じように、沈黙が降りる。

 同じ沈黙でも二人が抱く気持ちは先ほどとは真逆だった。

 

「…………めっちゃ恥ずかしい」

「わかる……」

 

 二人して顔を覆いながら、たどたどしく言葉を交わす。

 以前そうだったように、青い空に朱がにじむまで二人は穏やかに同じ時間を過ごした。

 いつの間にか、公園で遊んでいた子供も砂場から消えている。もう、相応に遅い時間だった。

 

「──そろそろ帰ろうか」

「うん」

 

 そうして公園から去るとき、甘い香りが君尋の鼻をくすぐった。

 鮮烈な香りが特徴的な秋の花、金木犀。近くを通るだけで誰しも振り返る強い香りは、花の名前を知らないひとも嗅いでみれば知っていると答えるほど。

 

 あれ、金木犀まだ咲いてたんだ。

 

 十月の末にはほとんど散っているはずのその香りがしたことに君尋は少し驚きつつ、まぁそんなこともあるのかなと首を傾げていた。

 公園に入るときには気付かなかったのになぁ、と彼はそんなことを思いながら、「どうかした?」と尋ねるすずかに「なんでもない」と微笑むのだった。

 

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