貴方の命はキスの味。   作:夜桜さくら

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乙女の純情

「起立、礼。さようならー」

 

 先生の一言で、その日の学校生活が終わりを迎える。

 足早に教室を去るひと、友達と駄弁り始めるひと、席に座ったままスマートフォンを触っているひと。

 教室の中には様々なひとがいた。

 君尋は、いつものんびりと帰り支度をしている。すると必ずと言っていいほど、佐藤が席に寄ってくるのだ。

 

「よぅ」

 

 そして佐藤は、二言三言話して、去っていくのが通例だった。

 今日も、いつもと変わらないいつものパターン。

 佐藤は空いた君尋の前の席にどかっと座り、ぺらぺらと話し始めた。

 

「しかし今日も最高の日だったな。社会の授業聞いてたか?」

「まぁ同じクラスだし。そりゃお前が聞いてるなら聞いてる」

「つまり俺が聞いてないなら聞いてないと。そりゃ奇遇だな。俺も今日社会の授業聞いてねえんだよな」

「なるほど?」

 

 本日の三限目は社会科目だったと君尋は記憶している。

 ノートを見ればおそらく、板書した内容が書いてあるだろう。

 

「聞いてないものを最高って言ったのか」

「話聞いてたか。“今日最高”とは言ったが社会が最高とは一言も言ってないぞ」

「なるほど?」

 

 じゃあ何が最高だったんだ? と君尋は問う。

 すると佐藤は、よくぞ聞いてくれました、とばかりに不敵な笑みを浮かべるのだった。

 

「今日実は休み時間にハッピーターンを食べたんだよ」

「なるほど?」

「ハッピーターン美味いよなぁ……!」

「確かに」

「この世で一番美味い調味料はハッピーターンの粉だってそのっちが言ってた」

「誰だよ」

「お前そのっち知らねえの?」

「そんな常識みたいに語られても……」

 

 説明しよう! そのっちとは乃木園子は勇者であるシリーズの主人公である!

 乃木園子は勇者であるなんてシリーズは存在しないので注意してほしいしそもそもそのっちが「ハッピーターンが好き」なんて語ったシーンはないのだがそのっちは可愛い。

 そのっち~。

 

「そういやそのっちといえば、月村男できたらしいな。なんかそんな噂聞くわ」

「……へー」

 

 凄い勢いでターンを決めた話題に、思わず心臓が跳ね上がる。

 月村。

 月村、すずか。

 君尋にとっては最近のトレンドワードである。

 

「…………ていうか、最近月村の話題多いよね」

「いやだってお前月村好きじゃん?」

「ングフュ」

「何語?」

「に、日本語……」

「へー」

 

 特に誰にも語ったことのないことを言われて、君尋はごほごほとむせる。

 そんな彼をぼけーっと見つめて、佐藤は続ける。

 

「まぁ別に深い意味はないんだけどな。なんとなくだよなんとなく」

「……なるほど」

「鉄は熱いうちに打て。そのっちは可愛い。千里の道も一歩より。って言うしな」

「そのっち……」

「そのっちだからな。覚えとけよ。そのっちはすべてを解決する」

 

 そのっち。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 君尋はいつも通り、放課後図書室で本を読んでいた。

 テスト期間に入る前から読んでいた、吸血鬼と一つの命の物語。

 好きな本のはずなのに、目線が文字の上を滑っていく。

 

 読書をする集中力すら失われている原因は、わかっていた。

 

『そういえば、月村男できたらしいな』

 

 佐藤も言っていたことだが、月村すずかに彼氏ができたらしい。

 もちろんそんなことはない、はずだ。

 時期、状況、彼女の人となりを考えるとこの“彼氏”というのは自分のことだろうと君尋は考えている。

 傍から見れば、恋人と見まがうようなことをしていた自覚はあったのだ。

 

 ───名前を呼んで。

 

 なんて、そんなこっぱずかしいことをよく言えるなぁ、と彼は上気した顔を隠すように頬杖をついた。

 思い出すだけで……苛々するような、どきどきするような、熱に浮かされているような、もやもやするような、掻きむしりたくなるような衝動に襲われる。

 まぁ、変な気のせいでなければこれが恋というものなのだろう。

 でも同時に、『そもそも恋ってなんだ?』と思ったりもする。

 

 恋愛物語をいくつか見たことのある人ならわかるだろうが、恋の定義という奴は物語ごとに結構違う。その物語上で都合のいいように描かれている。

 

 だから、初恋を迎える前にそういったものに親しんでいると一体何が本物なのかがわからない、なんて状態になるのだ。

 

 喜怒哀楽。

 

 喜びというものがどういうものかなんてことは誰にも教えられなくたって自然と理解している。怒りも哀しみも楽しみだってそう。だけど恋心だけは、自然と理解する前に様々な定義を植え付けられているから。

 

 苦しいのが恋? 楽しいのが恋? 自然と目で追っていれば恋? 苛々するのが恋? どきどきするのが恋?

 

 知ったことではない、という感じだ。

 

 考えれば考えるほど、ドツボにはまる。

 

「……はぁぁあ」

 

 自然と、自分でも驚くほど大きいため息が出た。

 水がたまったように肺が重く、岩が乗ったように頭が軋み、霧の中にいるように目の前が曇っている。

 こんな状態で文字を追っても仕方がないな、と思って、彼はパタンと本を閉じた。

 

「……ふぅ」

 

 小さく息を吐いて、君尋はスマートフォンを取り出した。

 見るのは、すずかと交わした言葉の履歴。

 つらーっと流していくと、言葉を交わしていたその時の感情が頭をよぎる。だから自然と、笑顔になる。

 ふふ、と自然と笑みをこぼしていた。

 

 

見て。

 

 

 そうしていたら不意に、通知がきた。

 ぴこん、と開いていたメッセージに新しい文章がやってきていた。

 向こうからすれば、送った瞬間に既読がついてしまったのではないだろうか、と君尋は羞恥で顔を覆う。

 

 

コスモス、咲いてたの。

綺麗だったから、おすそ分け。

 

 

 そうして添付されていたのは、ガードレール沿いに咲いていたコスモスたちだった。

 秋桜、とも言われる秋の風物詩。

 それが、やや赤みを帯びた空と一緒に映って、とても綺麗だった。

 

 

かわいいね。

 

 

 一風景としても、綺麗だと思う。

 だけどそれ以上に。

 

『おすそ分け』

 

 その言葉に、その言葉が、かわいいと思った。

 追加して何かまたコメントでも送ろうかとも思ったが、やめた。

 上手く説明はできないけど、ごちゃごちゃ考えてメッセージを送るのは“友達らしくないな”と思ったからだった。

 

 すずかと友達になってから、おおよそ一週間が過ぎた。

 友達になる前と後で、言うほど変わったことはなかった。

 ときどきメッセージを送り合って、図書館で会ったらちょこっと挨拶して、それ以外で会うことはない。

 まぁ、友達というには希薄な関係性かもしれないけれど、日中過ごしている校舎が違って共通の友人もいないとなれば、こんなものだろうと彼はちょびっとがっかりしつつも仕方がないとかぶりを振る。

 

 が、しかし。

 

 友達ならば、別に、外で一緒に遊んだりすることも普通だろうと思う。

 一緒にゲームしたり、カラオケ行ったり、ボウリングしたり、なんでもないようなことをどこかしらで自由に話したり。

 そんなことを、思って。

 考えて。

 悩んで。

 

 メッセージを端的に、送った。

 

 

 

 

 

 

 一方そのころ、月村すずかは高町なのはやアリサ・バニングスの両名と一緒に下校しているところだった。

 下校とはいっても、バスから降りたあとに寄り道を繰り返していたので、もう下校途中というには語弊があったかもしれない。

 適当にぶらついて買い食いをしてみたり、道中ですずかがコスモスを見つけて写真に撮ってみたり、なのはも触発されたのか写真を撮り始めたり、なんとなくアリサも混ざり始めたり。

 今はそれに飽きて三人で喫茶店に行って、とりとめのない会話を始めていた。

 

「んですずか何してんの?」

「コスモスの花言葉なんだったかな、と思ってちょっと検索してるの」

「なんで急にコスモス?」

「馬鹿ね。なのはアンタ自分で写真に撮ってたじゃない。あれ、コスモス」

「ほえー。そうなんだ」

 

 のほほんとスマホをさわるすずかに、肩ひじついて尋ねるアリサ、アイスティーをストローでかき混ぜるなのは。

 

「あ、『乙女の純情』だって」

「じゅんじょう」

「……一応聞くけど、なのは、“純情”って言葉の意味知ってる?」

「アリサちゃん私のこと馬鹿にしすぎじゃない?! 純情って、ほら。……純粋な感じ……?」

「うーん間違ってはないわね」

「あ、だよね。そんな感じだよねっ」

 

 そうねぇ、とアリサが頷く。

 

「純情───純真で邪心のない心。また、その心をもっているさま。───つまりはフェイトみたいな奴のことね」

「あーなんとなくわかるような……っていうか何?! 辞書の内容覚えてるの?!」

「このくらいよゆーよゆー」

「アリサちゃん写真記憶とか当たり前のようにするもんね」

 

 ふふんと胸を張るアリサに、すずかが苦笑する。

 

「アリサちゃんの記憶力が羨ましいよー」

「私より理数できる癖に何言ってんの」

「国語~」

 

 ついこの間にあったテストのことを思い出したのか、なのははうへーっと項垂れている。

 

「数学も理科もだいたい暗記みたいなもんだけどねぇ」

「あはは。それが言えるのはアリサちゃんくらいだよ」

「そうだよー」

「一芸に通ずるものは万芸に通ず――ともいうし、ある程度はできそうなもんだけどねぇ」

「……すずかちゃーん。アリサちゃんがいじめるよぅ」

「できないことは仕方ないもんねー」

「ねー」

 

 ねー、となのはとすずかが笑い合って、アリサが「こいつら……」と嘆息を吐く。

 

「今回はすずかもなんか数学頑張ってたわよね」

「ん。そうだね。たまには苦手克服しようかなと思って」

「うわすずかちゃんえらーい」

 

 ちなみにアリサは全教科常に満点級に成績が良く、なのはは理数系ならアリサを凌駕するが国語が壊滅的であり、すずかは理数文系共に中の中から上の下といった塩梅だ。

 

「そういえばすずかって最近彼氏できたとか聞くけど」

「え? そうなの?」

「うーんとね。彼氏ではないかな」

 

 男子の側に噂が流れているように、女子側でも噂が流れている。

 その真偽についての何気ないアリサの問いに、すずかは淡々と答える。

 

「最近ちょっと仲良くなった男の子がいて──」

 

 と、そのとき、卓上のすずかのスマートフォンが振動し、画面に一つのメッセージ通知を示した。

 それは、君尋からのものだった。

 誰から来たとか、そんなことは大きな問題ではなかった。問題なのは、その内容。

 

 

見たい映画があるんだけど、今後の休日一緒にどうですか。

 

 

 どこからどう見てもデートの誘い文句だった。

 驚いて、すずかは一瞬言葉に詰まる。

 

「……もしかして、件の彼氏から?」

「へー! どんな子なの?」

 

 アリサもなのはも、花の女子高生。コイバナには相応に興味があった。まして、付き合いの長い幼馴染の恋沙汰となるとなおさらだ。

 二人とも、すずかのほうへわずかに身を乗り出している。

 

「いや、えと。まだ彼氏じゃないよ?」

「『まだ』」

 

 テンプレートのような言い回しをしたすずかに、アリサがにやにやと揚げ足を取る。

 そうして、頬を染めてあわてたように弁解するすずかを見て、なのはは思った。

 

(……なるほど)

 

 乙女の純情ってこういうことか、と。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 のどが渇いていた。

 朝からずーっと水を飲んでいないくらいに乾いていて、だけど水分を取っていないからのどが渇いているわけではなかった。

 今は喫茶店にいて、君尋の目の前には注文したドリンクが置いてある。だがこれを口に含んでも、乾きが癒えることはない。

 原因は精神的なもので、その原因が目の前にいることが理由だった。

 

「アリサ・バニングスよ。よろしく」

「……えーと、高町なのはです。なんていうかごめんなさい……」

「……小出君尋です。どうも……?」

 

 なんだこの状況、というのが正直な君尋の想いだった。

 映画を見に行くことに、すずかからオーケーをもらった日から今の今まで、時間が過ぎるのは一瞬だった。毎日毎日、来たるその時のことを思うとどきどきして不安で夜も眠れないくらいだったのに。

 二人きりだと思っていたのに、なんだこれ、という感じである。

 その疑問を代弁するように、すずかが口を開く。

 

「ええと。結局二人ともなんでいるの?」

 

 だいたいの予想はつくけど、とすずかがぼやく。

 確かにだいたいの予想はつく、と君尋も心中で頷く。

 アリサはあたかもモデルのようにサングラスと帽子を、なのはは髪を下ろして眼鏡をかけていた。

 変装。

 そういうものを、二人はしていた。

 もともとアリサとなのはは、すずかと一緒に来ていたわけではなかった。

 待ち合わせの段階では二人きりで、待ち合わせ場所の喫茶店内に変装した二人をすずかが発見して、そこから席を合わせて、今に至っている。

 

「ええと……」

 

 なのはがしどろもどろと口を開いて、それに被せるようにアリサが話し出す。

 

「どんなデートするのか気になったから尾行しようと思ったのよ。邪魔をしたのは、うん、ごめんなさい」

「私は別にいいけど」

 

 窺うようにすずかが君尋のほうを見てくるので、彼は何を言おうかと困ってしまった。

 これは困ったな、と君尋は頬をぽりぽりと掻く。

 

 

 

 

「でさぁ、すずか凄いのよね。美由希さん──なのはのお姉さんなんだけど、その美由希さんめちゃめちゃに運動神経いいんだけど、小学生なのに高校生の中でも運動神経のいい美由希さんと張り合えるくらいにすずかすっごくて」

「へぇ~」

 

 数分前の懸念は一体どこに、というぐらいに話が弾んでいた。

 これは単純にアリサ・バニングスと小出君尋の相性が良かったことに起因する。と、いうよりもそれぞれが仲のいい相手と、それぞれが似通っていたことが理由だろうか。

 小出君尋はアリサの友人のすずかに少し似ているところがある。アリサ・バニングスは君尋の友人の佐藤に少し似ているところがある。

 まぁ、もっと単純に、それぞれが良い子だったから、というのも大きいのだけれどそれはそれである。

 

「あの、アリサちゃん。そろそろやめない……?」

「えー。だって君尋だって聞きたいわよね」

 

 ぼそぼそと反抗の意を示すすずかを、アリサがにやにやしながら応対する。

 

「でもすずかの話、もっと聞きたいな」

 

 恥ずかしそうにしているすずかが若干可哀想だという想いがなくもなかったが、でも話を聞きたいというのも彼の強い想いだった。

 

「そういえば、君尋くんは? 小学生のときどうだった?」

「うーんと。どうと聞かれるとなんと言ったものか悩むな」

「小学生のころって何組だっけ? 私、四年のときは一緒だったのよね」

「あぁ。アリサ……とはうん。四年のとき一緒だったかな。あとはたぶん君らと一緒だったことはなかった気がするけど」

 

 一年生のころから何組に配属されてたのか、思い出してぽつぽつと話していく。

 

「あー。うん、そうね。それだと一緒になったことあるのこの中だと私くらいね」

 

 実のところ、はやてやフェイトとは同じクラスになったことのある君尋だったが、この場においてはアリサ一人が君尋の小学生時代を知る者だった。

 

「ゆーて、話したこととかなかったし大して知らないけど。まあすずかみたいな奴だなって思ってたかな。休み時間に本読んで、一人の世界にこもってる感じ」

「へー。そうなんだ。君尋くん本好きなんだ」

「あーうん。というか、物語全般好きかな」

「あ、映画とか?」

「そうそう」

 

 へー、と感嘆としているなのはを眺めつつ、君尋は目をしばたたかせる。

 同年代の女の子に向けるには少し不躾な感想かもしれないが、良い子たちだな、と思った。

 相手に踏み込むアリサと、ささくれが残らないように整えるすずか。そしてにこにこと話を聞いてくれるなのは。

 ほとんど初対面だから間違った感想を抱いているかもしれないが、彼女らは凄くバランスがいいなぁと思ったのだった。

 

「映画といえば、もうすぐ上映時間かな。二人はどうするの?」

「んー。まぁ適当にショッピングでもして帰るわ」

 

 そうして、四人から二人と二人に分かれた。

 ようやく二人きりになった。

 別れてみると、話し役としてのアリサの存在は非常に有難いものだった。黙っていてもその場をトークでつないでくれる存在というのは、どんなグループにでもいるもので、往々にしてそういう人が中心になる。

 それがなくなるというのは、不安もあるし、単純にちょっと仲良くなれてきたのに寂しいなという気持ちもあって。

 なんだかなぁ、という感じだったのだ。

 

「類は友を呼ぶって言うけど」

「うん」

「みんな良い子だったなぁ」

「その理屈でいくと、新しく呼ばれて入ってきた君尋くんも良い子だね」

「……なるほど?」

 

 そんなこんな雑談をしながら、映画のチケットを手に映画館内に入っていった。

 

 

 

 

 館内に闇が満ちて、代わりに物語の幕が上がる。

 映画館という場所には特有の空気がある。

 ポップコーンの臭いだとかそういうものではなく、映画館を維持しているスタッフや映画館に訪れる客が作り上げる空気感。

 “さぁこれから映画を見るぞ”

 という映像を見るための空気がそこにはある。

 だからか、自然と意識をしなくとも物語に集中ができる。

 音と、光と、その熱と。

 画面の中で織りなす物語に、惹き込まれてゆく。

 音の響きに合わせて心を揺らし、光のまばゆさに目を細め、熱の入りように胸を高鳴らせる。

 けれど、その感情の揺れを自分で自覚することはない。

 集中している、というのが一番適した表現だろうか。

 ただ見ている。感じている。だから、「あ、ここ面白い!」なんて言葉にして考えることをしない。

 見て、聞いて、感じて。

 色々な想いを飲み込んで、そうして、最後にエンドロールを迎える。

 

「────……」

 

 無意識に、涙をこぼしていた。

 感動的な話だったとかそういう次元ではなく、なんとなく、エンドロールというのは感情を揺らすものがある。

 キャストの名前が音楽と共に流れていくその様は、なんとも美しい。

 だから想いが溢れるのは、いつもこの瞬間だった。

 自分が涙を流したということを自覚するより先に、何かが頬に触れて、そうしてそれから君尋は自分が泣いていたことを知った。

 指。

 彼の頬に触れたのは、隣に座るすずかの指先だった。

 

「───っ」

 

 何かを言おうとして、まだエンドロールが終わっていないことを思い出して、口をつぐむ。

 まだ映画の上映中だ。

 ここで口を開くのはマナー違反以外の何物でもない。

 だけど彼女に対して何のリアクションもしないのもそれはそれでいただけないと、彼は目を泳がせて悩んだ。

 すずかはというと、じぃ、と君尋のことを見つめていた。

 暗がりにいるから、その表情はよく見えない。

 血が透けるように、彼女の瞳が赤く見えた気がして。

 

(……あぁ、綺麗だな)

 

 水面の月を、思い出した。

 涙のような雫が水面に落ちて、月が揺れる。その時見た月を思い出した。

 彼女の笑みが、その時に見た月のように揺れていた。

 

(この子は本当に、綺麗だな)

 

 ずぐん、と君尋は自分の胸が痛んだような気がした。

 

 

 

 

「私は……やっぱり導入が良かったかな。あのシーンなくても話としては成立するけど、ないと話が引き締まらないよね」

 

 映画を見終わった二人は、映画館の近くにあったパンケーキ屋さんでお茶をしていた。

 メニューを見て、注文をして、いまは水を口にしながら注文品が届くのを待っている。

 

「わかる。あそこよかった」

 

 暗い映画館とは打って変わって、このお店はずいぶんと明るかった。

 優しく明るい雰囲気で、甘い色をしている。加えて、客層も若い女性客やカップルが大半を占めている。

 男女二人で訪れている彼らがこの場で浮いているなどということはないが、二人はのぼせたように頬を染めていた。

 口達者というわけでもない二人だったが、“映画の感想”という話題レールがあったため、そこまで話に困ることはなかった。

 まぁそれも最初だけだったのだが。

 誰もが自然とやっていることだが、会話というのは連想ゲームのそれに近い。一つの話題があり、「そういえば―――」などと言葉をはさんで別の話に移り変わっていくものだ。

 一つの話題だけで話し続ける場合もないではないが、それはよほどそれについて語る余地があるか語り続けるだけの熱意をそれに抱いている場合に限る。

 彼らは、つい先ほど初めて見ただけの映画にそこまでの熱量も語る余地も持っておらず、注文した品物が届くころには、話の流れは低調になっていた。

 

「これがパンケーキかぁ」

「あぁ。こういうの食べるのはじめて?」

「うん」

「そっかぁ。まぁ男の子はこういうところあんまり来ないよね」

 

 当たり障りのない、会話。

 エンドロールにしていたことへの羞恥。慣れない“二人きりでのお出かけ”に対する緊張。

 そういった諸々が心の壁を作っていた。

 

「……」

「……」

 

 二人ともが居心地の悪さを、感じていた。

 静かな空間が苦手なわけではなくそれはむしろ彼らが好むものだったが、今この場に満ちているのは互いが互いを肯定している静寂ではなく、相手に一線を引いたがゆえの沈黙だった。

 だから少し、空気が澱んでいた。

 

「…………そういえば、また泣いちゃったなぁ」

 

 はは、と自嘲するように彼が笑う。

 困ったときは自分をさらけ出すのがいい、というのは彼の持論だったが。

 

「やっぱすぐ泣くのはかっこ悪いよなぁ」

 

 否定待ち。

 自分を貶めるような、あるいはその逆か。

 なんでもいいが、そのような自分が求める言葉を相手に求めるような言い回しは、会話をする姿勢ではない。

 無論言ってほしい言葉をもらうために、やってほしいことを伝えるために、遠回しに表現することが悪いことではない。だが、そういうものは時と場合と相手によるものだ。

 そしてこの時と場合では、あまりいい選択ではない。

 だから、あぁしまったなと彼は思って、目を伏せる。

 

「そんなことは、ないと思うけど」

 

 すずかがどんな顔をしているのか、俯く彼にはわからず。

 その声色も、雲で隠れたように、何を思っているのか読み取れず。

 

「私は、いいと思うけどな」

 

 おそるおそると目を上げると、泣いているような寂しいような、そんな彼女の表情が目に映った。

 うす雲のような寂しさが胸に広がって、彼は、もう何も言うことはできなかったのだった。

 

 

 

 

 そのあとは、ぽつぽつ世間話をしたりしなかったりして、時間を過ごした。

 心を覆ったうす雲をはらうことは終ぞできなかった。

 

 

またね。

 

 

 家に帰ってから、すずかから君尋へ、そんなメッセージが届いていた。

 

 

うん、また。

 

 

 そう返信したものの、次、誘うことはできないだろうなぁと。

 胃の中に重石をいれたようにため息を吐いて、君尋は眠った。

 

 

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