貴方の命はキスの味。   作:夜桜さくら

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「今夜は月が綺麗ですね。なんて」

 夜に出歩くということを久しぶりにして思ったのは、秋が深まったな、ということだった。

 気温は低く、湿度は下がり、街路樹は秋色に染まっている。

 雲一つない夜闇の透明。

 黒でもなく、藍でもなく、深紫でもない。

 それらすべてが混ざり、さらに白や黄すらも足した不思議な空模様。

 まさしく夜空だった。

 

「……はぁ」

 

 立ち止まって、ため息を一つこぼす。

 なんだかなぁ、と自分の心中に思いを馳せる。

 数日前のすずかとのデートのこと。

 あんなもんだとも思うし、別に失敗というほど失敗でもないと思っている。

 だけどまぁ、そんなことは理屈でわかっていてもなんの慰めにもならないのだ。

 

 ふぅ、と少しずつ、胸の吹き溜まりを空気に溶かす。

 

「そういえば……」

 

 心を誤魔化すためには何か別のことに集中するのがいい。

 だからわざわざ口に出して呟くのだ。

 

「なんでもみじって、漢字で書くと紅葉(もみじ)なんだろう……」

 

 ひらり、と夜色を横切る紅を目で追う。

 色鮮やかなはずの紅葉は夜闇に染まって見えづらい。

 街灯が照らしているけれども、それでも昼間に見るものと比べると鮮やかさとは言い難いものだった。

 

「……黄色いのもまとめて、紅葉(こうよう)って言うよな」

 

 アスファルトの上に紅の葉が落ちていた。

 膝を曲げて、腰を折って、手を伸ばして、その中の一つを手に取る。

 至近距離でまじまじ観察しようとして、ふと、気付く。

 自分の正面方向に、誰かがいることに。

 そしてそれが、見知った顔であることに、気が付いた。

 

「──こんばんは。いい夜だね」

 

 彼は、彼女に次会ったときなんと言えばいいのか、と悩んでいたが、なんということはない。

 実際に会ってしまえば、特に思い悩むこともなく、するりと言葉が出てきていた。

 

「素敵な夜になりそうね」

 

 くすりと微笑む、月村すずかがそこにいた。

 

 

 

 

 衣擦れの音、家屋の奥の生活音、遠くに響くエンジン音。

 決して大きくはないはずのそれらの音が、どうにも大きく感じるような静寂。

 それを破ったのは、すずかだった。

 

「……それ、どうしたの?」

「あぁこれ。さっき拾ったんだ」

 

 先ほど拾い上げた葉の根本を、君尋はくるくると回している。

 すずかはそれを見て、そっかぁ、と相槌を打つ。

 

「私も、なんで紅葉(もみじ)紅葉(こうよう)と同じ字なのか知らないなぁ」

「……聞いてたんだ」

「うん」

「まぁ、別になんてことはない疑問なんだけど。なんとなくふと疑問に思って…………と、いうか、すずか……は、何してたの?」

「私? 私は習い事の帰り」

「あ。そうなんだ。……もしかしてすぐそこ?」

「うん。郵便局の隣の……あそこ。……わかる?」

「あーうんわかるわかる」

 

 君尋は記憶を辿るように虚空に視線を向け、すずかはそんな君尋を下からのぞくように小さく見上げる。

 ふと視線が交わり、互いに静かに目線を切って、再び言葉を投げかけ合う。

 

「君尋くんは? どうしたの?」

「ん。あぁ、散歩……かな? いや正確には買い出しに来たんだけど、なんとなく乗り気じゃなくなったから、散歩になった」

「あー。でもわかるかも。なんとなく、ただ歩きたい気分のときってあるよね」

「そんな感じ」

 

 立ち止まったまま彼らは言葉を交わしていく。

 そして自然と会話は帰り道についてのことになった。

 

「すずか、は帰りどうするんだ? 帰り道とか。迎えとか来るの?」

「んー。そうだね。呼んだら来ると思うけど、だいたいはタクシーで帰ってるかな」

 

 昔はよく送り迎えしてもらってたんだけど、とすずかは言う。

 

「ふうん……? それでまた、なんでこんなところに」

 

 彼らがいまいるのは、大通りから脇にそれた小道だった。

 普通に考えれば、家に帰るだけなら、こんなところに来る理由はない。大通りで、タクシーを呼んで乗って帰ればいい話だ。

 

「君尋くんと似たような感じかなあ。ちょっと歩きたい気分だったの」

「ふうん。そっか」

「そうなの」

 

 つかみどころがなく、透明で、涼しげに。

 ふふ、とすずかは柔らかな風のように笑う。

 

「そういえば、君尋くん家このあたりなの? 散歩って言ってたけど」

「あーうんそう。すぐそこのマンション」

「へぇ。どれ?」

 

 あそこの──と、君尋が指で自分の住居を指し示そうとした、そのときだった。

 闇の帳がおりる。

 光が消える。

 視界が、黒に染まる。

 つまるところ停電していた。町を照らしていた光が失われて、本当の夜に包まれていた。

 

「────っ」

「きゃっ」

 

 そのときの彼らにとっては、突然目が見えなくなったに等しい衝撃だった。

 停電したなどということを瞬時に察知できるような経験もなく、思考の瞬発力もなかった。

 だからそのときただ彼らは驚いて、手を、伸ばした。

 隣にいた君に。

 隣にいた貴方に。

 手をのばして、触れ合って。

 手の当たった場所は、都合よく互いの手なんてことはなかったけれど、確かに隣の君(あなた)を捕まえていて。

 ぎゅぅ、と。

 君尋はすずかの肩を抱いていて、すずかは君尋の胸元の服を掴んでいた。

 

「…………」

「…………」

 

 吐息が、聞こえる。

 心音が聞こえる。

 互いの存在をそれぞれが感じ取っていた。

 

「……大丈夫?」

「えと。うん。大丈夫」

 

 ところで、人の目が暗闇に適応するにはおおよそ五分必要である。

 それだけ経過しなければ暗闇に順応することはできず、ゆえに、闇に包まれてから一分は経とうとしていたがなおも見えない。

 けれども、それでも、触れている部分や声の位置、僅かに見える視界などさまざまな情報で隣にいる人のことくらいはわかっていた。

 

「……停電、かな」

「あぁなるほど。停電か」

 

 停電なんてはじめて経験した、なんてことを話しながら、君尋はじっとすずかの目を見ていた。

 どうせ、この暗がりだ。

 どこを注視していても正確なところわからないだろうと高をくくっていたのである。

 

「…………」

 

 けれど。

 普通の人間よりはるかに多くの光を集めるすずかの瞳は。

 夜目の利く彼女の瞳は。

 君尋が思うよりもはるかに、彼が見ている世界よりもはるかに鮮やかに世界を視ていた。

 闇に紛れて、彼と彼女の視線が熱く交わる。

 一秒、二秒、三秒と。

 時間を重ねて、想いを募らせて、そしてそれを夜にとかして。

 彼らはずっと、見つめあっていた。

 

「そういえば……」

 

 君尋は不意に、空を見上げて呟いた。

 

「今日って、新月なんだよね」

「……確かに、浮かんでないね」

 

 空に集う小さな光たち。

 しかしそこに、大きなまんまる、あるいは欠けたまるは浮かんではいなかった。

 

「空、綺麗だな……」

「暗いもんね」

「暗いからか」

「うん」

 

 星空を見るならば、都会よりも田舎だというのはよく言う話だ。

 その理由は、排気ガス量による空気の純度もあるが、最も大きな要因として明かりの有無が大きい。

 街灯は常についているし、夜更かしをする家ならば家の明かりも点いているだろう。

 日中に星が見えない理由が明るすぎるからだということを思えば、夜で、停電によって明かりがなくなった今のこの場所で星々がよく見えるというのは当然の話だ。

 美しい夜空が見られると評判の場所と比肩するものがある。

 加えて、今宵は新月。

 空を見上げればわかるように、夜空で最も大きく輝くのは月である。

 それが隠れているということは、より小さな光が目立つということ。

 星が、美しくなるということ。

 

「…………」

 

 息を呑む、というのはきっとこういうこと。

 身近な美しさに気付いた瞬間。

 今までそこにあったはずの世界の煌めきをはじめて知った驚きに、いま、彼らは包まれていた。

 

「……綺麗だね」

 

 先ほどの彼の言葉に同調するように、すずかが言う。

 

「……こんなに、空って綺麗だったんだな。知らなかった」

「停電とかびっくりしちゃったけど、ちょっと、素敵だよね、こういうの」

「わかる……」

 

 互いの温度と、澄み渡る美しい夜空がそこにあった。

 君尋は内心、いつまでくっついていていいんだろ、なんていうドキドキを心中に抱えていたりしたのだが、すずかもすずかで似たようなことを考えていて。

 二人は近距離で、ささやくように話していた。

 

「……そういえば習い事って、何してるの? 郵便局の隣って、まぁ塾だよね」

「うん。数学とか国語とか、勉強してるだけ」

「週何日?」

「二日かな」

「へー大変そう」

「そうでもないよ? 君尋くんは、何か習い事とかしてないの?」

「俺は───」

 

 他愛のない話。

 だけどそれが澱みなくできるということがどれだけ幸福かというのは、心拍数が示していた。

 どくどく、と。

 全身に送られる命の水を、彼の熱を、すずかも感じていた。

 

「……あ」

 

 ふと、振動音が聞こえて、すずかが声をあげる。

 

「家から?」

「うん。ちょっとごめんね」

 

 はいもしもし、と電話に出て、それに伴い離れていくすずかに寂しいようなほっとしたような想いを抱いて、君尋も思い出したように自分の端末を取り出した。

 画面には家族からの通知がきていて、あちゃー、と思いながら、すずかがそうするように電話をかける。

 

「あ、もしもし。母さん?」

 

 友達と外で会ったこと。

 友達の迎えが来るまで一緒にいるということ。

 連絡が遅くなってごめん、と。

 

「……うん。とりあえず無事だから、大丈夫。じゃあね」

 

 君尋が電話を切ると、すずかも通話を終えていたようだった。

 

「家のひとどうだって?」

「うん。迎えに来るって」

「信号とかないけど、大丈夫なのかな……車?」

「たぶんそう、かな……?」

 

 どこに迎えに来るか、ということを聞いて、彼らはその場所まで歩くことにした。

 

「そういえば、停電中って通話できるんだね」

「えーと。確かこういう非常時に備えて発電機とか置いてあるはずだよ」

「へー。そうなんだ」

 

 また他愛のない会話をはじめて、時間を過ごした。

 お嬢様なすずかのことだから奇想天外な迎えが来るのでは、とちょっと思っていたりもした君尋だったが、普通に車がやってきたり、しかし車の中にいたのがメイドさんだったり、挨拶をしたり、なんやかんやと月村家のことにまた少し詳しくなったりした。

 

「またね」

「うん、また」

 

 車に乗り、遠ざかっていくすずかの姿が見えなくなったころ、ため息のような安堵の息のようなよくわからない感情を吐き出した。

 空を仰いで、ひとり呟く。

 

「……今夜は月が綺麗ですね。なんて」

 

 天には地上に届かないほどかすかな光しか発しない新月。

 地には彼女が去って、少しどぎまぎした自分が一人。

 月に叢雲、すずやかな風が吹く夜のことだった。

 

 

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