一番寒い時期って、いつだろう。
その答えはその人の判断基準にもよるだろうし、住んでいる場所にもよるだろうし、年度にもよるだろう。
ただ。
寒い、というのは、体だけの問題ではないと思える。
いやまぁもちろん、基本的には体の問題であるし、生物としての活動における感覚の話でがあるのだが。
心がさむい、と。そんな言い回しをすることがある。あるいは、財布がさむい。
小出君尋はいま、いろんな意味でさむかった。
「うぅ、さっむ……」
「それなオブそれな」
「こんな早く起きるの久しぶりだったけど、めちゃくちゃ寒いな……?! 夜より朝のほうが寒いんじゃないの……」
「あーまぁそうだろうなぁ」
「歯がカチカチ鳴ってるんだけど……」
「それ」
早朝、朝五時。
君尋と佐藤は、人気の少ない駅のホームに並んで立っていた。
年末の短期バイト。
懐がさむい学生は、やはり年末年始も遊んではいられない。
彼らは共に同じバイトに申し込んで、これから現場に向かわんとしているところだった。
閑寂なホームで吐く息は白く、彼らはふたりとも、肩をすくめたりポケットに手を入れたりと身を縮こまらせていた。
「……寒い」
「だな」
「おうち帰ってこたつの中でお蜜柑が食べたい……」
「地球温暖化作戦を決行に移すときがきたな」
「やりましょう、佐藤さん」
「ああ!」
他愛のない話。
地球温暖化を進めるためにはどうすればいいか、なんていうことを空想スケールで話していた。
まず屋外に冷暖房を設置することで寒暖差をなくすところから、とか。
宇宙服のような身体を包むようなハイテク服で、ベストな状態を保てるようにすればいいんじゃないか、とか。
半分以上地球温暖化が関係なくなってきているが、話題というのは常に移り変わっていくものだ。
思っていること、その場で感じたこと。聞きたかったこと。
「ていうか、彼女と年末過ごすとかそういうのはいいのか?」
「……は」
「いや、お金がほしいとか……まぁそれ以外もだけど、そういうの聞いてたらわかる……っていうかいました質問で確定させたんだけど、やっぱできたんだな」
「……まぁ」
「月村?」
「……」
「わかりやすいなぁ、君尋」
佐藤が何を見て、どこからどう判断したのかは君尋には見当もつかなかった。
そんなにわかりやすいか、と彼は自分の頬をぺたぺた触れて、そして「そういうところだよ」と苦笑される。
「デート費用目的?」
「恋愛って、何かと物入りだから」
「まぁなぁ」
交通費や食費……場所によっては入館料も必要になってきて、そもそもその前に服飾費なんかも発生する。
君尋は読書や散歩など、比較的お金のかからないことを趣味としていたからこれまでなんとかなっていたが、やっぱり今後のことも考えると定期的な金銭の調達は必要だった。
「君尋だけならお金なくてもいくらでも遊べるのにな」
「んー。まぁす──月村もお金かけなくても遊べるタイプには見えるけど」
「ふうん?」
「付き合う前だけど歩くだけとか電話するだけでデートとかほとんどなかったし……」
「んじゃあ無理せずバイトなんてせずに年末一緒に過ごせばよかったんじゃねえの?」
「あー。家族旅行で海外いくんだって。お姉さんがドイツにいるから会いに行くとかどうとか」
「ほーん。……海外に家族いるって、すげぇな」
「よね」
寂寥感のにじむ声色で、君尋はうなずく。
空気の冷たさは肺となじんで、もう吐く息も透明になっていた。目に見えない、というのは少し寂しい。
「てなると年末は俺とパーリーってことか」
「パー……? え?」
「バイトもちょっとは楽しいほうが嬉しいもんなぁ。嬉しいよ」
「あぁそれね。俺もだいぶ安心してる」
ぱーりーってなんだろう、などと思いつつ、頬を緩ませてうなずく。
お金がほしい、と君尋が思ったのははじめてのことだった。
お年玉、お小遣い。
親からもらえるささやかな額で、彼には十分だった。図書室で本を借りればお金はいらないからだ。
「勤務予定時間と時給からもらえるお給料計算とかしてるんだけど、やっぱり働くとお金ってもらえるんだなと思うとちょっと感慨深いよね」
「あー。初任給何に使うとか決めてる?」
「ん? あぁ……ケーキ買って帰ろうかなとかは思ってるけど」
「うわ……」
「え、なに」
佐藤の眉根をひそめた表情に、君尋も眉をひそめる。
いい子ぶってるとか思ってるんだろうな、と。
「お金がほしい理由が他人っていうの、なんていうか“らしい”よな」
「いや別に……ほら、親の機嫌ってとっといて損はないし。遊ぶ金ほしさでバイトしてるのをそういう風に言われるのはちょっと」
「でもお前本人はお金なんてなくても平気なタイプじゃん? 他人に合わせてお金を用意するのを遊ぶ金ほしさって言うのはなぁ」
「……」
なんだか、無性に癇にさわって、口を閉じてしまう。
「怒るなよ」
「……別に」
なぜ苛立っているのかわからないのが、苛立ちを呼び込む。
「別に他人本意に生きてるつもりはないし、自分のためにやってるつもりなんだけどな」
「まぁ君尋がそう言うならそうなのかもしれないけどなー」
「……そんな無理してるように見える?」
無理してる、と自分の口から出た言葉で、苛立ちの理由がすとんと胸に落ちたような気がした。
「無理……? 無理なぁ」
「たぶん。無理をするのってあんまりよくないとは思うんだよ。無理をしてる状態って長くは続かないし。だからつまり、いまの俺が無理をしているように見えるっていうなら、ちょっと破綻してるのかなぁとか」
「え?」
「え?」
苛立ちの理由は、それを指摘されたように感じたからだった。
それを言語化して口にすると、佐藤はびっくりしたように目を丸くしていて、こっちも困惑してしまう。
「いや……そこまでのことを言ったつもりはなかったんだけど……君尋そういうところあるよな……。めっちゃ考えるじゃん。ごめん」
「え……ごめん……」
若干気まずい感じの沈黙が下りて、一拍したあとに、二人して笑いはじめる。
「まぁでも俺が感じた不安ってのもそういうことなのかもな。ほらよく言うだろ、初恋は実らないみたいな奴。たぶん君尋が言ったようなことなんだろうな。相手に合わせてちょっと無理をして、そこから破綻していくみたいな」
「あーうん……」
どうすればいいのかなぁ、とぼやくと、佐藤は「そうだなぁ……」と言葉を続ける。
「まー、まずリラックスして話せるかどうかとかじゃないの? どうなんだ? 月村って超絶お嬢様だし話が合わないみたいな気はしなくもないんだけど。ポテチとか食べなさそう」
「あー食べなさそう」
「やっぱ?」
「そんな気はするなぁ」
まぁでも、と。
「話が合わないっていうようなとこまでは思ったことないけど、なんとなく波長? は合う気がするし。ただまぁ、やっぱ何話せばいいかとかはたまに迷う」
「ほーん」
「何が好きで何が嫌いとかいまいちよくわかってないもんなぁ」
「はーん」
「……」
「……一個思ったこと言っていい?」
「どうぞ」
「……ふむ。
「? うん。そう書くね」
「…………」
「……?」
あごに手を当て、熟考する佐藤を横目に『電車もうすぐ来るな……』と君尋は思っていた。
「……やっぱり、大事なのは相手を知ることじゃないか? 君を尋ねる。君尋。お前はお前の名に込められた意味の通り、行動すればいいんじゃないかな」
「……っ」
君尋は驚いて、目を丸くした。
「そんな綺麗などや顔、生まれて初めてみた……」
「どや」
「でも一理あるな」
「だろ」
「言いたかっただけだろという言葉は呑み込むことにします」
「そうしてくれ」
電車が来て、彼らは電車に乗って、「暖房ってすばらしい」と車内環境を褒めたたえた。
地球温暖化作戦はいったん中止になり、世界の平和は守られたのだった。
初詣に行こう、と彼女から連絡がきたのは一昨日のことだった。
連絡がきたのは十二月三十一日。
一月二日。新年をむかえた次の日に、一緒に行こうと。
すずかがドイツにいたのは二十八日から三十一日までのこと。フライト時間等も考慮すると、かなりタイトなスケジュールだった、らしい。メッセージアプリで、『疲れた~』とこぼしていた。
なんにせよ、彼女と会うのはクリスマス以来だ。日にちにして八日。なんだかんだ年末というのは忙しくて、体感としては二日三日ぶりくらいのことに感じる。そしてだからこそ、彼にとってもっとも長く感じるのは、彼女を待っているいまこの瞬間だった。
一月二日当日、彼はとある公園の噴水のふちに腰掛けて、彼女を待っている。
月村すずかと並んでも見劣りしないようにと、少し背伸びをして買ったグレーのロングコート。
クリスマスに彼女からもらった、夜空に少し似た青色の、上品なマフラー。
なんだか少し大人になったような気がして、でも大人になった気分になるのは子どもだけなんだなぁ、なんて。
自分よりずっと大人びた少女に、つり合う気がまるでしなくって。
時間が経つのが、ただただ、遅い。
「ごめん。待った?」
「いや、うん。さっき来たとこ」
待ち合わせ時刻は、午前九時。
現在時刻は八時を少し過ぎたところで、待ち合わせ時刻まで約一時間もある。
すずかは、袖口にファーのついた白のコートに落ち着いた緑のロングスカートを着ていた。髪は、以前彼が好きだと言ったそれになっている。サイドを編み込んだローポニー。
大人っぽさと可愛さが調和していて……きれいだな、と思う。
「……」
そういえばこういうときって服装褒めたほうがいいのかな、とまじまじと彼女を見つめながら思っていると、彼女が照れたように前髪に触れて、はにかむ。
「えーと、あのね、その。着物きてこようかなーとかもちょっと思ったんだけど、私だけ背伸びしてる感じになってあれかなーって……変かな?」
「え、いや。かわいいよ」
「……ありがとう」
変なのはこっちの服装じゃないかな、という言葉を呑み込んで曖昧に笑みを浮かべる。
「少し早いけど、行く?」
「うん」
二人ならんで、歩き出す。
冬の風は冷たく、耳と耳はわずかに赤らんでいた。
空はうす暗く曇っていて、太陽の光はにぶくうすい。
「今日さむいね」
「そうだね。……マフラーつけてくれてて嬉しい」
「…………こっちも髪留めつけてくれて、嬉しいよ」
気恥ずかしくなって、双方黙り込む。
「そういえば昨日初詣いかなかったの? 『なのはちゃんたちと行く予定あるんだけど来る?』みたいなこと言ってたよね」
「んー。うん」
「やっぱり今日ふたりで行こ、みたいな」
「うん。アリサちゃんたちがね、二人で行ってきたら? って言うから」
「あぁそういう感じだったんだ」
うん、とすずかがうなずく。
気を遣ってもらったのかな、と君尋は思った。
彼女たちと一緒なら別に苦痛ではないと……なのはやアリサと会話した経験から思うが、それでもすずかと出会ってからまだ数か月程度。
家族ぐるみの初詣に混ざっても気まずいだろうと、そういう心遣いをしてもらったのだろう。
「そういえば月村さん。春夏秋冬ってあるじゃないですか」
「なんで急に敬語なの……?」
「なんとなくです」
「それで、うん」
「すずかってどれが一番好きとかあるの?」
「あー」
彼女は視線を宙へと流し、そうだね、と少し思案して言葉を続ける。
「春かな」
「へぇ。その心は?」
「一番あったかいし、風が気持ちいいから」
「……春風」
「うん」
「君尋くんは?」
「冬かな」
彼は、特に迷うことなく淡々と答えた。
すずかに質問をした時点で自分だったら、という回答があったというのもあるし、春風が彼の心象世界に通ったからというのもある。
「春と冬の境界にある、やさしさを帯びた冷たい風が好きなんだよな。わかるかな……あの、冷たいんだけど不快じゃない感じ。……三月くらいの、春をおびた風?」
「うん。わかる」
「つまりあれ、冬の中でも晩冬が好きだな」
「それだと、私は初春が好きかも」
とりとめのない会話。
こんな質問をしたのは、少し前に言われた言葉が胸に残っていたからだ。
──君を尋ねる
君尋は、すずかのことをまだ全然知らない。
「晩冬と初春は、ちょっと似てるね」
「そうだね。私たち仲良しだ」
「やったね」
晩冬が好きだという彼と、初春が好きだという彼女。
果たしてふたりの相性はいいのか、悪いのか。
春を纏う風が吹く、晩冬。
冬のなごりを感じる、初春。
はじまりとおわりは、とても近しいが……同時に、とても遠いもの。
反対側の駅のホームのように、直線だと近しいが、本質的には遠いもの。
「そういえばね、君尋くん。この前うちの猫が──……」
ざり、と靴底と砂利がこすりながら、靴紐をゆらしながら、彼らは歩みを進めていく。
長い階段を、のぼっていた。
神社の境内へと続く石階段は、重く固く、足の裏にしっかりとした存在を感じるものだった。
少しだけ息を乱しながらのぼりながら「こういうのって中央歩いたらだめなんだよね?」などと作法についての話をしている。
「足、大丈夫?」
「うん。ありがとう」
「ローヒール? っていうの? どんなもんかはわかんないけど、やっぱ歩きづらい?」
「んー。まぁ多少は、そうかな? でもそこまでだよ」
「ならいいけど」
君尋は、手水舎にくるたびにやらなきゃいけないのか……ってなる、とぼやき。
すずかは、あははわかる、と相槌を打ち。
ふたりして、つめた~と小さな悲鳴を上げるのだった。
「とりあえず参拝かなあ……とは思うものの、ひとが多くてちょっと気圧されますね」
「二日にくるひとも多いもんね」
「単純に人混みを避けるだけなら、四日以降がいいんだろうけどな。初詣って別に三日までにって決まってるわけじゃないし」
「確か七日までだったかな? でも三が日のうちには行っておきたいよね」
「ね」
境内までくると、たくさんのひとがいた。
元旦に比べたらずっと少ないのであろうが、やはり人が多い。
列の最後尾にふたりで並んで、とりとめのない会話を続けていく。
「すずかってお願いごと、決めてる?」
「うん。君尋くんは?」
「若干願いごとの中身がふわふわしてるけど、決めてるかな。こういうのってたぶん、明確なほうがいいよなぁ」
「あー、それはそうだろうね。神さまに聞いてもらうわけだし」
「だよねぇ」
家族の健康、自分の成長。
あるいは──……
「こういうのって、どっちだと思う? 自分が努力して実現可能なことの補助として願いごとをするのか。それか、自分じゃ手の届かないこと……病気平癒とか交通安全とかのお願いごとをするのか」
「ん。んー、神さまに、だしやっぱり自分じゃ手の届かないこと、じゃないかな。自分の努力で達成できることは、自分の中の誓いとして立てるみたいな」
「やっぱりそっか。うん。お願いごと決まった」
「なににするの?」
「家族と身の回りのひとの健康と安全かな」
「ふふ。いいね。君尋くんらしい」
「そう?」
「うん」
彼女の思う“俺らしい”ってなんだろう、と君尋は思った。
俺は、“すずからしい”ってことが、未だにちょっとよくわからない、と。
健康と安全が神さまに願うことだとするなら、自分に立てる誓いとしては、彼女を知りたいというところになるのだろう、と。
前に、前に。
じょじょに列は前に進んでいって、やがて彼らの番になった。
礼、拍手。
────……。───。
祈りの言葉を、心中でなぞるように唱える。
家族の健康と安全、幸運。それから親しい友人、恋人にも同じく健康と安全、幸運を。
後ろに差し支えない程度にたっぷり時間をかけて、目を開ける。
彼が終えたころには彼女もすでに目を開けていて、一緒にその場を去る。礼を忘れていたので、あわてて振り返って、ぺこり。
「おみくじいこう」
「うん。何が出るか楽しみだね」
「……そういえばおみくじって複数回引いてもいいらしいね」
「え、そうなの? 私はじめて聞いたかも」
「まぁ基本は一回だけど、結果に不満があれば二回目オッケーとかどうとか。詳しい話は知らないけど」
「へ~」
今度はおみくじのために列に並びはじめた。
人が多いこともあって、寒さは特に感じない。
「おみくじ引いたら、次どうしよっか。お昼にはちょっと早い感じになりそうな気がするね」
「そうだねー。君尋くんは何かある?」
「したいこと? んー」
何かあるかな、と隣を見下ろす。
いや、正直に言えばある。
あるのだが、したいことといっても──……。
「……?」
彼女が首をかしげると、髪が揺れて。まばたきをすると、まつ毛の長さに圧倒されて。桜色の唇に、目が奪われる。
率直に言って、触れたい、と。
でもそんなこと口にするのは憚れる。
「……」
何か言わないと、何か無難なやりたいこと、と思っていると。
「ん、もうすぐだね」
「……うん、何が出るかな」
がらがら、とおみくじの入った筒を振って、番号をみて、もらっていく。
君尋は、大吉だった。
おお、と思いながら頬をほころばせて、唇ときゅっと結んで誤魔化して、隣に「どうだった?」と移動しながら問いを投げる。
「んー。末吉。君尋くんは?」
「……大吉です」
「わ、すごい。おめでとう!」
結果があまりにも離れていると、どちらかが優れていると、往々にしてそれがいさかいのもとになったりする。
だからあまり、胸を張っていい結果だったとは言えなかったのだが、素直に“おめでとう”と、恥ずかしくなってくる。
胸を張れなかったことが、恥ずかしい。
「引くくらい万事うまくいくって書いてあるや」
「私は……私も……意外といいかな」
すずかはじーっとおみくじの文面を見ていた。
倣って君尋も、再びくじに目を落として、中身を読む。
やっぱり、気になるのは恋愛運。
恋人ときていて、ここが気にならないと言えば嘘になる。
でもやっぱり、何度見てもさっきさっと読んだのと中身は変わらない。
万事うまくいく、と。
本当かなぁ、という気持ちと、そうだといいなぁ、という気持ちがそこにあった。
占いというのは、何を信じたいか。
例えその占いが正しくても間違っていても、占われて、それを受け止めるひとが結局どう思うのかが一番大事で。
彼がいま信じたいのは、
「恋愛のところ、悪いことは書いてなくて安心しちゃった」
ふにゃりと表情を崩す、彼女との関係性を続けたいという気持ち。
「……悪いこと、書いてないんだ?」
「もうちょっと素直になれば、うまくいくって。逆に言うと、そうしないとだめだよみたいな感じなのかな」
「そっか」
なんとなく勇気がもらえたような気がした。
気がしただけ。
でもきっかけとしては十分で。
「…………あー。えっと……」
「?」
「階段って、まぁ段差あるじゃないですか」
「うん」
「歩きづらいじゃないですか」
「うん」
「ちょっとヒール入ってるじゃないですか」
「……? うん」
「………………あー……えと。手をつなぎま、せんか?」
ぽかん、とすずかが口を開いていた。
あわてて君尋は「ごめんいまのなしーー」と言おうとして、
「え、うん。えとじゃあ……」
しずしずと差し出された彼女の手に、黙らされてしまった。
彼らはちょっと順序がおかしくて、唇は重ねたのにまだちゃんと手をつないだことがなかった。
心理的なハードルは厚く、高く。
彼は目を泳がせながら、彼女の手にふれた。
手袋ごしに。
彼女はいつの間にか身に着けていた手袋をとっていて、彼は生の彼女の手に手袋ごしにふれていた。
「……」
「……ふふっ」
「ごめ──」
「なにが?」
引っ込めようとした手は、予想外の力でしっかりと彼女に固定されていて抜け出せない。
そのまま、するっと手袋がとられて、ぎゅ、と生の手同士で触れあう。
「冷たい……」
「冬だもんね」
「冬だもんなぁ」
思っていたより手をつなぎながら歩くのは難しくて、逆に彼女により負荷をかけただけなんじゃないかと思いつつ……彼らはゆっくりと、階段をおりていっていた。
「ところで、結局このあとどうしよっか。君尋くん何かある?」
「あー……そうねぇ」
君を尋ねる。
素直に。
恋愛。万事うまくいく。
「うん、まぁ曖昧だけど、なんか声出して走り出したい気分かな……」
「……カラオケでもいく?」
「あーいいかも」
年始のカラオケは、予想通りおどろくほど混んでいた。
まずほんとにカラオケで遊ぶか別の場所を探すかという話にはじまり、でもカラオケに心惹かれていたのは事実なので行くことにし、カウンターの近くに座り待っていた。
「君尋くんってどんな曲が好き」
「んー。アーティスト単位で聞くことが多いんだけど、最近だと……────って女性アーティストが好きでよく聞くかな」
「……へー」
正直、だいぶ、居心地が悪かった。
いままで彼女と一緒にいたときは、そう、人目がなかったり人気がなかったり……いまのように彼女が注目を浴びることはなかった。
(あの子、超可愛くねえ?)
(な。っべーな)
(つか隣のやつ冴え……)
(馬鹿聞こえるぞ)
少し離れたところにいる、男性二人組のささやき声が耳に入る。
おそらくすずかの耳にも入っているはずだが、彼女はごく普通に、笑っている。
その笑顔がやっぱりとても綺麗で可愛くて、少し惨めさを感じつつ逃げだしたい気持ちを抱いていた。
すると、
「えい」
「ふむぬぐ」
不意に鼻がつままれて、目を丸くする。
意識の空白に邪気のない笑みが飛び込んできて、つられて笑ってしまう。
お返しにほっぺをつまむと……びっくりするほどやわらかくて、君尋はさらに目を丸くした。
思わず空いている手で自分の頬にふれて、すずかの頬とやわらかさを比較して……気のせいじゃなくめちゃくちゃやわらかいな、と感心する。
「ふぁの」
「あ、ごめん」
さっきまで落ちくぼんでた気分が明るくなっているのが自分でもわかって、君尋は笑みを浮かべる。
優しい子だなぁ、と改めて思った。
「あ──」
りがとう、と口にしようとして、
「コイデ様~。彼女さんと幸せそうなところ申し訳ありませんが、お部屋が空きましたのでご案内します~」
「あっはい」
店員さんに遮られて、パッとすずかから顔を背ける。
「なんて言おうとしたの?」
「……さぁ?」
彼女に背中を軽くこづかれながら、渡された案内板を手に個室へと向かっていった。
ふたりであるため、個室は広くなく、暗い。
ここで大事なのは、やはり座る位置ではないだろうか。
隣に座るか離れて座るか。自分の手荷物をそばに置くなら離れて、ふたりぶんの荷物をまとめて並んで座るのもいい。
なんてことを思いつつ、そんな思考を一瞬で展開できるはずもなく、荷物を持ったままとりあえず奥に進んで、あー隣に座るコースから外れたなあと彼は思った。
「エアコンつけよっか。すずか何℃がいい?」
「ん。んー。二十二とか? 寒かったり暑かったら都度調整しよ」
「電気つける?」
「え、つけないの?」
「友達とくるときは、なんかつけないことが多いかな? 理由は知らないけど、なんかつけようとしないからずっと暗いままで歌ってる」
「へー……。雰囲気出るのかな。じゃあつけないでおく?」
「ん」
奥のソファに荷物をぽん、と置いてそのままエアコンのリモコンを操作する。
そうしていると彼女は荷物をおいて、コートを脱ぎはじめていた。際立つ体のラインにどきっとした。
やっぱり、驚くほどスタイルがいい。
電気をつけないで、なんていうのを変な意味に捉えられていないかと今更ながら不安に思う君尋だった。
「君尋くん。コート。かけるよ」
「え、あ、うん。……ありがとう」
上品だな、と思った。
佐藤とかとカラオケに来たりしたら、上着も脱いで荷物とまとめてくるくるっと放り投げるのが通例だった。
ハンガーにコートを通している彼女をみて、価値観の差異にため息を吐く。
「飲み物とってくるよ。何がいい?」
「ん。んー。……じゃあお茶で」
「わかった。氷いる?」
「ううん。いらない」
「了解」
部屋を出て、ドリンクバーに向かう。
そして考える。このあとどうしようかな、と。
とりあえず昼までのつなぎ、という形でここに来た。けれど待ち時間が多少生じていたこともあって、せいぜい一時間といったところ。
今日の予定は、実のところ初詣に行くこと以外はほぼ未定だった。
その場その場で、適当に。
それが昨日決めたことで、今のところここから先はぜんぶ曖昧だった。
考え事をしながらドリンクをふたり分いれて、部屋に戻る。
ふたり分の荷物が一か所に寄せられていて、すずかの隣がぽっかりと空いているような配置になっていた。
隣に座るんだなぁ、と思いながら近寄っていく。
「……」
薄暗い部屋、ディスプレイを見つめる君だけがぼんやりと明るい。
それはカラオケルームにいる以上、特別な光景ではないはずだったが、特別だった。
暗いところにきれいなものがあるだけで、ため息が出てしまう。
「……はいこれ。お茶」
「わ、ありがとう。……君尋くんのは、それ何?」
「え、あぁ」
問われて、しまった、と思った。
考えごとをしていたのでほとんど無意識だったが、いつも通りメロンソーダとコーラをブレンドしたものを生み出してしまっていた。
ドリンクバーというのは、遊び心を刺激してしまうものだと思う。それで普段口にしないものを、と思っていたらいつも飲み物を混ぜたくなって……その癖が、今日も出てしまったようだった。
「あー。つい癖で。いつも遊んじゃうんだよな」
「緑と黒ってことは、メロンソーダとコーラ?」
「そうそう。これのいいところはさ──……」
「? いいところは?」
「うん。見ての通りグラデーションになってるじゃない? メロンソーダの翠が下にあって、黒が上にあって。で、味は最初から混ざってるのは混ざってるんだけど、やっぱりそのまま飲んでいくと途中で味が変わるんだよね。それが楽しくてついついやっちゃうっていう」
「へー楽しそう。いいな。私もジュース飲みたくなっちゃった」
「……こういうのやってみたいとか思うんだ」
「うふふ。お茶しか飲まないとか思ってたとかたまに言われるけど、私もジュースくらい飲むよ~」
そうなんだ、とつぶやく。
「そういうの、他にもやるの? ドリンク混ぜるの」
「ん。あー。あんまりやらない、かな……? コーラとカルピスとかやったことあるけど……味はまぁ無難な感じにまとまるんだけど……なんだかメロンソーダとコーラが好きなんだよね。なんでかな……」
「あー」
「たぶん、色だろうなぁ。カルピスとかは色がにごっててあんまり綺麗じゃないけど、メロンソーダってすごく綺麗な翠じゃない? くどいくらいの甘さと、びっくりするほど綺麗な翠がさぁ……。あ、で、それが黒に沈んでるのがまた──……」
恥ずかしくなって、口を閉じる。
なんでメロンソーダとコーラを混ぜることに対してこんなに熱く語っているんだろう。
「……ねぇ、ひとつ聞いていい?」
「はい」
「なんとなくメロンソーダのところはわかるの。確かにあの翠って類を見ないし、特別な感じ。でもなんでコーラなの?」
「え? なんでって……明るすぎるから?」
「……そうなんだ」
逆は違うのだ、と。
宝石のようなきれいな翠を、黒で閉じるから全体としてまとまっていて。表に翠を出すと、なんだか違う。
そんな彼のこだわりを、彼女は感心するようにうなずいて聞いていた。
「面白いね、君尋くん」
「えっ」
「いいね、そういうの」
「左様でございますか……」
「うん」
何がどう琴線にふれたのか知らないが、彼女はやわらかく頬を緩めていた。
「……まぁいいや。何か曲入れた?」
「ううん。いろいろ見てただけ。君尋くん先いれる?」
「いやいいよ」
「そ。じゃあ先いれちゃうね?」
「うん」
彼女が歌うのは、CMでよく耳にするアイドルソングだった。
アップテンポな盛り上がる曲。
『──♪』
すずやかな声で、マイクを両手で持って、リズムにのるように体を揺らしている。
こんな風に、こんな顔で歌うんだな、と思いながら聞いていた。
声に聴き惚れていると時間というのはあっという間で、すぐに君尋の番がきた。
あわてて一曲いれて歌い始める。
曲名には月という文字が入っている恋の歌。
まぁ、多少意識していないこともない。
『──……♪』
恋人に見られていると思うと、少し気恥ずかしいなと思った。
羞恥をごまかすために目をつむって、無心で歌いきる。歌詞は見なくてもノリでなんとかなるのが音楽というものだ。
なんとか最後まで歌いきって、ふはぁ、と息を吐く。
カラオケ特有の採点の軽妙な音を聞きながら、横に目をやると、じーっと視線が注がれているのがわかる。
「恥ずかしいんだけど……」
「いや?」
「いやでは、ないかな」
「そ」
そ、の言い方が可愛い。
そのあとも、普通に交互に歌をうたっていった。
彼女の曲のラインナップは心なしかラブソングが多いなぁと思わなくもないが、そこに関しては彼自身もラブソングばっかりうたっているので何とも言えないところがあった。
恋の曲は、ときに悲しみをまとうこともある。けれどやっぱり原初の想いはきれいなもので、だから悲しみを乗り越えていける。
彼は恋愛のそういうところが、好きだった。
最初は照れ臭く歌っていたものの、いくらか重ねていくと羞恥をこえて堂々と歌っていた。
しまいには、互いに目を見つめ合いながら歌い合う始末。
「……もうすぐ出る時間だけど、どうしよっか」
「んー」
「正直いまかなり楽しくなってきてしまっているのでもうちょっといたい気持ちがあります」
「じゃあ延長しよっか」
「大丈夫? ほかにしたいこととかない?」
「ううん。……その。なんかこういうことするのカップルみたいでいいなぁって思うし、私も楽しいし」
「カップルみたいかぁ。そうだなぁ」
「ね」
他愛のない言葉のやりとりが、嬉しくて楽しかった。
これが恋人らしいというならそうなんだろうな、と恋愛初心者の君尋は思った。
お昼どうしよっか。
何か適当に頼む?
そうしよ。
そんな会話をして、食べ物を注文して、延長の連絡もして、ドリンクを補充したりした。
山盛りポテト、一つにわさびの入ったロシアンたこ焼き、君尋は変わらずメロンソーダコーラ、すずかも倣うようにメロンソーダコーラ。
「ロシアンたこ焼きとかはじめて食べるな……」
「そうなんだ」
「え、逆にあるの?」
「私はいつも口から火を噴いてるひとを見てるだけだったから食べたことはないけど」「やっぱ辛いのかな……」
「想像以上にわさび入ってるとは聞くかな」
「こわ……」
「ふふ」
高嶺の花、だと思っていた。
お洒落で可愛くて、清廉な優しいひと。
だけどこうして、等身大の、罰ゲームご飯を一緒につつくようなそんな他愛のないことをして一緒に笑っていると、月村すずかも普通の女の子なのだと思えた。
それがなんだか嬉しくて、楽しかった。
「わさび入ってるのどれかな……ちょっと食べてみたいんだよね」
「あ、これだよ」
「えっなんでわかるの」
「……臭い?」
「すごい」
「……私もちょっとだけ味興味あるし、半分こしませんか?」
「いいね」
『──ん゛ッッッ』
げほげほ、と二人してせき込む。
涙目になるくらいだと思っていたら、普通にのどが受け付けないほどのものだった。
二十秒ほど本気でせき込みんで、涙目で「これはひどい」と笑うしかなかった。
「あ、最後の方ほんとに普通のメロンソーダだね」
「そうなんだよ……一度で二度おいしい。メロンソーダって普段はまったく飲まないんだけど、こういうところではつい飲んでしまうんだよな」
「わかるわかる。ときどきね、このわかりやすーい甘さがほしくなったり」
「そうそれ。……あー、他のだとあれが近いかもね。かき氷。シロップの鮮やかさには心惹かれてしまう」
「うんうん」
翡翠がしずむ夜の海。
あちこちには空気の島が点在していて、とても綺麗だ。
「実は俺、この前友達に、背伸びしすぎてない? みたいなこと言われたんだよね」
「そうなんだ」
「そうかなぁ? とは思ったんだけど、まぁ……恋人とかできたのは初めてなので、緊張してるのはそうなのかなとか」
「でも私もアリサちゃんについこの間似たようなこと言われた」
「へぇ、そうなの?」
「まぁ私も恋人とかできたのはじめてだから……」
「……なんとなく恥ずかしいな」
「だねぇ」
彼らはちょっと、背伸びしすぎなきらいがあった。
会話の仕方。距離感。
まぁ、それは彼らのもともとの気質がそういうところにあったというのはあるのだけれど。
それでも彼らの中にある、普遍的な少年性や少女性というのはあまり表に出ていなかった。
年相応な、遊び方。
年始早々、カラオケでのどをつぶすような楽しみ方。
それもきっと、彼らの一側面には違いなかった。