貴方の命はキスの味。   作:夜桜さくら

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「空、飛んでみる?」

 冬の空はまるで、魔法でもかかったかのように暗く沈んでいた。

 なんてことはない、ただの明度の話。

 夏と比べるとどうしたって、冬は全体的に淡く、霞む。

 だから少し暗がりを帯びているような気がして、それがますます寒さに拍車をかける。

 そんな紅がかった寒空の下、彼らは二人、歩いていた。

 

「さむ……。あり得ないくらい寒いな」

「ね。天気予報だと、今週は気温下がるとか」

「あー、だっけ」

 

 さむいさむいと言いながらも、彼らの手はむき出しだった。恋人の体温を感じていたい、なんていう理由のためだった。彼らは素の手と手を絡めあっている。

 当然のようにびっくりするほど冷たくもあるのだが、苦痛を感じないと言えば嘘になるのだが……それでもこそばゆい嬉しさがそこにはあった。

 

「冬は、乾燥するよなぁ」

「そうだね。やっぱりハンドクリームとかリップとか欠かせないや」

「メーカーってこだわりあったりするの?」

「私は──」

 

 すずかは、花咲くようなやわらかい笑みを浮かべながら話していた。

 それを聞きながら君尋も頬をほころばせて、ぎゅっと、手を握っていた。

 力を込めていないと不安だった。

 彼女の手にはおどろくほど力が入っていなかった。まるで、砂糖でできた羽を崩さないようふれるような……そんな程度の力しか。

 彼が力をゆるめれば、途端に、彼らの手はほどけるであろうということは容易に想像できた。

 

 一緒に初詣に行った日から、もう一か月が過ぎている。

 

 月日は流れとともに、彼らの関係性も少しずつ進展していっていた。外を出歩くときには手を当然のようにつなぐようになっていて、一緒に下校するなんてことも普通になっていた。

 ときどきではあるが、唇を重ねるようなこともあった。

 関係は、じょじょに深まっているはずだった。

 

 あぁ、でも。

 

 関係が深まるのと反比例するように、彼女が彼の手を握る力は、弱くなっていた。 

 もともと頻度が多かったわけでもないから気のせいかもしれないが、抱擁やキスも、なんだか避けられている気がした。

 

 だけど嫌われているわけではないというのはなんとなく確信できていて。

 

 だから絶対に離したくはない、と。ぎゅっと強く、けれど宝物にふれるように優しく愛をこめて手にふれている。

 

「そういえば、一番最初にちゃんとお話をしたのって公園だったよね。帰り道の。ね、ちょっと寄っていかない?」

 

 下校の途中、すずかは不意にそんなことを口にした。

 落ち着いた声量なのに、何故だかくらくらするほどあでやかな声色だった。

 甘く、赤く、熟成した葡萄のような香り。

 君尋に反対する理由は特になく、「そうだね。俺も行きたいかな」と答えた。

 

 

 

 

 

 

 公園に足を踏み入れると、靴底と砂利がこすれる音がした。

 じゃり、じゃり。

 真っすぐ、迷うことなく、歩いていく。

 公園にはひとっこひとりいなかった。

 はじめて話したときには、公園ではしゃぐ子どもがいたように思う。

 けれど秋と冬では様子が全然違っていて、木々にはまるで葉がついていないし、どこか乾いているようだった。

 

「静かだねー」

「ね。俺たち以外誰もいないや」

「ね」

「なんかあったかいものでも買ってくるよ。寒いよね」

「ううん。いいよ。ありがとう。でも今日はいいかな」

 

 言葉を交わしながら歩く先は、どこにでもある木製のベンチ。

 

「……ほんとに、ひさしぶり」

 

 すずかはベンチを見下ろしていた。

 彼らが、一番最初、会話をした場所。

 

 彼女の手から、座ろうという気持ちを感じて、彼もそれに同意して、二人並んで座った。

 

 あのころより、ずいぶんと近くなった。

 前に座ったときは、体ひとつぶんの距離を空けて。

 いまは、身じろぎをすれば膝がふれあいそうなくらいに、近く。

 物理的な話だけじゃなく、これは心の近さを示すもの。

 

「あのときは、君尋くんとこんな関係になるとは思ってなかったなぁ」

「それはまぁそう」

「会ってから、何か月だろ」

「…………何月だっけ。はじめて会ったのは、確か、十月? ……四か月くらい?」

「そうだね。四か月」

 

 たった、四か月。

 

「わかんないものだよね。私、実はさ、こういう恋人になったりーーみたいなの、知り合ってから半年くらいは経ってからだとなんとなく思ってて。付き合い始めたのは十二月だから、そこは二か月くらいだよね。早かったなぁ」

「……そうだね」

 

 穏やかな口調だった。

 それがどうにも、君尋には少し不気味に感じられた。

 なぜなのかはわからない。

 だけど、呼吸がしづらいような、なにか圧迫されているような、妙な感覚。まるで、とてもおそろしい怪物が目の前にいるような感覚。

 それなのに、凪いでいるような空気感。

 

 

「…………私、君尋くんが好き」

 

 

 ぽつり、と彼女がつぶやく。

 彼が何かを言おうと思って口を開こうとして、閉じる。

 彼女が言葉を続けるのがわかったからだ。

 

「なんで好きなんだろって、ずっと、思ってた。君尋くんは優しいし、素敵なひとだけど、ほんとにそれだけなのかなって……」

 

 彼女は、空を見上げていた。

 藍色に紅がかかった、夕方の空。これから黒に染まっていくだろう。

 

「私ね、吸血鬼なの」

「……」

「冗談じゃないよ。ほんとの話。私は、あなたの血が、血に、惹かれてたんじゃないかなって……ずっとずっと、思ってた」

 

 驚くほど、淡々とした告白だった。

 

「今更なんだけど、私の話、聞いてくれる?」

「うん」

「あのね────……」

 

 月村すずかは、自分の話をしはじめる。

 厳密には『夜の一族』と呼ばれる存在であること。生きていくために、異性の血が必要であること。伴侶をとにかく求める“衝動”があること。

 ヒトよりもずっと力が強くて、少し“普通ではない”ということ。

 普通には、生きられないということ。

 

「──なんでいきなり……って思ったんじゃないかなって思うんだけど」

「うん」

「どうにかならないかな、ってずっと思ってたの。我慢できないかなって。でも、やっぱりどうにもならないんだろうなぁって最近すごく思うようになって……」

 

 何が言いたいのか、不鮮明だった。

 浮ついたような口調で、視線もぼんやりと宙に向けられていた。

 

「血がほしい」

 

 不意に降ろされた視線は、真っすぐ君尋に向けられていた。

 夜を思わせる藍を帯びた黒の瞳は、いつの間にか、変わっていた。

 夕暮れの紅より、血の赤よりも濃い“赤”へ。

 

「ぎゅーって抱きしめて、逃げられないようにして、首筋にかぶりついて、あなたの命を飲み干してしまいたいって……」

 

 君尋は、すずかの赤に、目を奪われていた。

 底のない沼にしずむように、果てしなく広い空に放り出されたように、ただ心が奪われていた。

 重ねていた手はするりとほどかれて、流れるように両の手首が掴まれて、

 

「私のこと、こわいって思う?」

 

 くるりと彼の正面に立った彼女は、嫣然さをまとう笑みを浮かべて、ささやく。

 距離が近くて、甘い香りがして、脳がとろけるような気がして。

 

「きれいだ」

「へ?」

 

 素直な気持ちと伝えると、驚いたようにぽかん、とすずかは口を開けていた。

 別にこわいなんて思わない、と口にしようとして、

 

「──いぎっ」

 

 みし、と。

 握られていた手に強い力がかかって、君尋は小さな悲鳴をあげてしまう。

 万力で締めあげられたようなおそろしい力。白魚のような、小さな手に出せるものでは決してないように思えた。

 

「! ごめんなさい。大丈夫? 痛かった? ごめんね?」

 

 パっと、彼女の手は彼から離れて、彼の手は解放された。

 そのあわただしい所作から、わざとではないことは明らかだった。

 

「……いや、大丈夫。ありがとう」

「なら、いいけど」

 

 潤んだ紅玉には不安が宿っていて、それが彼の後悔を呼び起こした。

 きっとたぶんおそらく、彼女と当分手はつなげないんだろうな、と彼女の固く握られた手をみて理解してしまった。

 痛みなんてどうでもいいことに、気をとられたことがかなしかった。

 

「……」

「……」

「……年末ね、ドイツに行ったって言ったでしょ。お姉ちゃんもね、私と同じ、夜の一族だから……。いろいろね、言われちゃった。区切りはつけなさいって」

「区切り……?」

「ちゃんとほんとのことを伝えて、ちゃんと関係をつくりなさいって」

「ちゃんとした、関係……」

「血の契りを、ちゃんと」

 

 異性の血を吸わないと、生きていけない夜の一族。

 人生の伴侶。

 多くの夜は、生涯を共にする月の命で、生きていくという。

 

「ねぇ、私の血袋(エサ)になってくれる?」

 

 つつつ、と白魚のような指で首筋を撫でられて、息を呑む。

 

「俺は──」

「ごめん。今はあんまり聞きたくない」

 

 今度は指で唇にふれられる。

 話さないで、と。

 

「急なことを言ってると思うんだ。だから、これはほんとに私のわがままなんだけど、真剣に考えてくれると、嬉しいな。付き合って半年も経ってないのに、ほんとにわけがわからないとは思うんだけど……結婚まで視野にいれてくれると、嬉しい。……次に逢うときに、ちゃんと応えてくれたら、嬉しい」

 

 有無を言わせぬ言動だった。

 口調こそ優しいものの、いまお前の意見を聞く気はないという確固たる意思表示がそこにはあった。

 きっとそこには、真剣に考えてほしいという乙女の純情が根底にあるのだろう。

 それがわかったから、君尋は、唇を結んだまま……こくり、とうなずいた。

 

「──じゃあ、またね」

 

 そうして、すずかは背を向けて去っていった。

 あまりにも突然で、急で、そして必然的な出来事だった。

 

 空虚。

 空白。

 空想。

 

 色々と、考えようとして、考えがまとまらなかった。

 本当に突然だったのだ。

 いや、彼がきちんと理解していなかっただけで、前兆はあったのだろうけど。

 ただ、気づけていなかったなら、それは存在しなかったのと同じこと。

 

 吸血衝動なんて、そんなものに気付くことのほうが難しい。

 

 けれど、苦しみと悲しみを、理解してあげられなかったのが悔しくて。

 またね、とすずかは言っていた。

 次に会うときに、聞かせてほしいと言っていた。

 何を言えばいいんだろう、と彼は思っていたのだ。

 上っ面の言葉でいいのか。

 彼だってすずかのことは好きだった。だからと言って、吸血鬼の恋人になるだなんてことについて、ごく普通の価値観の好きを向けるだけでいいのか、なんてことに頭がまわるはずがなかった。

 “特別”なひとに、なんて声をかければ、苦しみを喜びに変えてあげられるのか。

 

 そこまで考えて、ひとり、この悩みへの解決策をくれそうなひとに心当たりがあることに気づいた。

 月村すずかと同じ、“特別”の側にいる少女。

 高町、なのは。

 君尋は、なのはに連絡を送った。今から話ができないか、と。

 

 

 

 

 

 

 冬の空は、魔法でも掛かったかのように暗く沈んでいる。

 夜がきた。紅掛かった空は夜にのまれて消えて、明度の低い、夜の冬空がやってきた。

 今日は気分が少し落ち窪んでいることにも理由はあるのだろう。すごく、あたりが暗いように感じていた。

 すると、光がやってきた。

 

 桜。

 

 桜の花びらが舞い降りるように、夜の公園に、淡く光る桜色の羽が降りてきた。

 続けて、人も空から舞い降りてきた。

 桜の燐光をまとうそのひとは、細く長い棒……ステッキを手にして、なんでもないことのように空からやってきて、地に足をつけて、立った。

 君尋の姿を認めるやいなや、「やっほー」とでも言うように片手をあげて、こちらにすたすたと歩いてくる。

 

「ごめん。待った~?」

「いや、え、え……?」

「すずかちゃんからはもう聞いたってことだったよね? うん。私はなんと魔法使いなんだよね」

「へ、へー……」

 

 なんでもない口調で、微笑みながら挨拶をはじめるなのはにびっくりしていた。

 あぁ、これが特別か、と。

 

「ちょっと驚かせちゃったかな? 私が魔法使いだって説明とか、手間が省けていいかなーとか思ってたんだけど。それに、単純にこっちのほうが来るの早いし」

「色々と言いたいことはあるんだけど、人目は?」

「そこは大丈夫、町に結界張ってるから。位相がずれてるって言えばいいかな? 町に出て、人の家に入っても誰もいないよ。私たちだけ。だから人目とか気にしなくていいんだー」

 

 えへへ、となのはは無邪気に笑う。

 いつも通りのサイドテール。纏う衣装は、まだ着替えていなかったのだろう、学校の制服のままで。

 手に持っているファンシーなステッキと、言動以外はごくごく普通で、だから驚いて仕方がない。

 

「それ、いわゆる魔法の杖的な?」

「うん、そうだよ。レイジングハートっていうの」

「へー。すごい」

「小学生のときに決めたデザインわりとそのままだからちょっと恥ずかしいんだけどね。でも、やっぱりちょっと愛着があって。私がはじめて魔法を使ったの、小学生のときなんだよね」

「そうなんだ……いや、可愛くていいと思うけど、それ」

「そう? ありがとう」

 

 色々と質問攻めしたいのをぐっとこらえて、君尋は、はー、と深い息を吐いた。

 

「……もう夜なのに、来てくれてありがとう」

「いいよ。すずかちゃんには私も幸せになってほしいし、頼ってくれてうれしいし」

 

 なのはには、すずかのことを相談したいというただそれだけのことしか言っていない。

 すずかの秘密のことを聞いた、と。

 たったそれだけで、家からこんなところに来てくれることが、彼にはとてもありがたかった。

 

「じゃあ、ちょっとお話しよっか」

「何から話せばいいかな……」

「いいよ。なんでも。ゆっくりで」

 

 なのはは軽やかに、とんっとベンチに腰掛けた。彼女の手の中でステッキが桜色の燐光に包まれ、小さな赤い玉に変化したのには、これまた目をむいた。

 

「……あのさ」

「うん」

「薄々気付いてた──って言うと半分くらいは嘘になるんだけど。でも、『秘密がある』とは聞いてたし、なのはも魔法とか不思議ものはこの世にほんとにあるとかって言ってくれてたけど……ちょっと、吸血鬼っていうのは予想外だったというか」

「うん」

「超能力者とかそんなとこかな? って思ってたのがあって、まさか種族差とかそんな話だとは思わないじゃん。子どもとかちゃんとできるのかな……」

「あ、そこは大丈夫だと思うよ。私のお兄ちゃんとすずかちゃんのお姉ちゃん、結婚して子どもいるし」

「え、まずなのはのお兄さんがすずかのお姉さんの旦那さんなんだ?!」

「あれ? 知らなかったの?」

 

 目を瞬いて、あらためてなのはを上から下までを見てしまった。

 え、なに、と身じろぎをするなのはは、恋人の友達ーーひいては、彼自身の友人でもあるのだが、言い方を変えれば他人だった。

 

「じゃあなのはって、俺とも親類になるのか……」

「ん? まぁ……そうなるのかな?」

「すごいな……」

「ねー」

 

 はじめて耳にすることがおおくて、本当に、君尋の頭はオーバーヒート寸前だった。

 天を仰いで、手のひらで顔を覆う。

 指の隙間からのぞく空には、月と、月を覆う秋雲があって、雲越しにぼんやりとした光が見える。

 普段ならきっと純粋に「きれいだ」と思えたはずのその光景が、どうにも無性に腹立たしかった。

 

「あー……」

 

 何が、言いたいんだっけ。

 

「ごめん。ちょっと。話したいこと整理できてないや。ちょっとだけ待ってくれる? ごめん」

「ん。いいよ。何時間でも待つから」

「……ありがとう」

 

 何時間でも、とさらっと言えるのは、なのはの善性がにじみ出ているよなぁ、と君尋は思った。

 すずかの周りには、みんな、いい人ばかりがそろっている。

 これが恋以外の話であるなら、優れた友人である彼女たちがすべて解決してくれるのだろう。

 月を覆う雲を、すぐに払ってくれるのだろう。

 だけどいまそれをしなければならないのは、他の誰でもない、自分自身だったから。どうすればいいのか、わからなかった。

 

「……」

「……」

 

 少しの間、沈黙が続いた。

 君尋は相も変わらず考えをまとめようとしていて、なのははなのはで、空を見て考えごとをしていた。

 沈黙をやぶったのは、なのはだった。

 ねぇ、と。

 なのはは、君尋に一つの提案をした。

 

 

 

 

 

 

「空、飛んでみる?」

 

 

 

 

 

 

 大地から離れ、空に浮かぶ月と距離を縮める。

 彼らは、空を飛んでいた。

 なのはは白と青を基調としたジャケットを纏い、足元に桜色の羽をはやして。

 君尋はそれに追従するような形で……さながら、なのはと君尋を透明なひもで結んだように、つかず離れず飛んでいた。

 

「うわぁぁぁぁああああ!!」

 

 こわい。ほんとにこわい。

 スカイダイビングというものをしたことはないが、このような気分なのだろうか。

 重力のくさびから解き放たれて、空に、堕ち続けている。

 

「お、落ちる落ちる!」

「あはは。大丈夫だよ〜」

 

 鬼気迫る、というより危機が迫った表情で君尋は目をむいていた。

 世の中の高校生のほとんどがバンジージャンプやスカイダイビングというものを経験したことはないだろう。雰囲気としては、あれが近い。恐怖感。自分の足が地面についていない、という浮遊からくる恐怖感。

 絶叫マシン、というのも言い得て妙かもしれない。

 が、それらと今の状況を固定する物が何もない。

 

 しかし固定する“物”はなくても“力”は生じている。

 目に見えない何かが、いや、光は目に見える。淡い燐光を纏う“力”が、彼を飛行たらしめている。

 

「大丈夫ー? もしほんとに無理なら降りるー?」

「いや! 大丈夫!」

 

 君尋は男の意地で、見栄を張って叫ぶ。

 自意識で飛ぶのと、連れられるのとでは恐怖の度合いが異なる。なのはは笑顔で、君尋は顔を引きつらせていた。

 もちろん“空”への適性の差もあるだろう。高町なのはは誇張抜きで世界級であり、君尋はただの凡愚。

 

「じゃあ、もうちょっといこうか!」

「──ヒュッ」

 

 先ほどまでは飛行といっても、地表から四十メートル程度。

 たかが四十メートル。されど四十メートル。

 物語に出てくる怪獣の全長並みのスケールだ。もっと身近にいうのであれば、学校の最上階から地面を見下ろした高さが近いだろうか。

 当たり前だが、高いし怖い。地に足がつかないなら尚更だ。

 

 そこからさらに上へ。

 

 海鳴にある山よりも、高い位置へ。

 ぐんぐんと、彼らはあがっていった。

 上も左も右も下も、すべてが空。広々とした、空。

 なのはは幾ばくかしたころに静止して、「ほら」と君尋に手を広げて紹介する。空を、空から見下ろす景色を、まるで自分の友人であるかのように誇らしく。

 

 

「わぁ……」

「きれいでしょ? 私、空飛ぶの好きなんだあ」

 

 

 眼下には海が、ひろがっていた。

 闇に包まれようとしている、海。だけど完全な黒じゃない。

 月が海を飾っていた。ひたすら優しい月の光に照らされて、海は、清廉な青をまとっている。

 

「今日、満月だっけ……」

「確か明日だよ。うん。そうカレンダーに書いてあった気がする」

「そっか。そうなんだ」

 

 一見するとまんまるな、お月様。

 だけどどうやら、まだ満ちてはいないらしい。

 今夜は月が──と想って、まだ死ねないなぁ……と、彼は思った。

 

「……──」

 

 月。海。光る街並み。

 見慣れているはずのものを、見慣れない視点で見ていた。

 月が近くて、街は遠くて。海はいつも広々としている。

 

「……なぁ」

「ん?」

「めちゃくちゃ今更なんだけど、なんで空?」

「考えがまとまらなかったり、気分が落ち込んだら空が一番なんだよ。悩みの根本的な解決にはならないだろうけど、気分転換って大事だと思うから」

「そっかぁ」

 

 君尋は、深く息を吸って、吐いた。

 体の力を抜いて、何もかもを空にゆだねた。

 足元ではなく遠くを見ているぶんにはそこまで恐怖を感じないことにも気付いた。

 

「……ふー。ちょっと落ち着いてきた」

「それはよかった。悩みとか考えてること、話したくなったら話してみて? まとまったらね」

「ありがとう。……あー、もうちょっとかな? 言いたいこと言葉にできるの」

「そう?」

「…………うーん」

 

 場の静寂を夜風が撫でる。

 彼が考えをまとめる間、思考の一助になれば──と、なのはは自分の思っていることを少し口にし始める。

 

「前も少し言ったかもだけど、私とすずかちゃんって少し似てるんだよね。……他の誰も持ってない特別を持ってて、気軽にひとに話せもしない。そういう意味で、この日本で、誰かと仲良くなるって難しいなって」

「うん」

「すずかちゃんもだいぶ勇気を出して言っただろうから、そこは受け止めてあげてほしいな」

「うん」

 

 君尋は深く息を吸って、吐いて……ぽつりぽつりと話しはじめる。

 

「まぁ、まずさ、嬉しかったんだよ。『ちょっと急すぎない?』とは正直思ったけど、なのはも言ってるみたいに色々思うところはあったんだろうし。むしろだからこそ、ほんとのことを話してくれたのはうれしかったかな」

「うん」

「こういうのって結構本当にどうしようもない状況までいって、突然明かされるみたいなのが多いじゃないか。本当に本当のギリギリの限界までためにためて……爆発する、みたいなの」

「あはは。そうかもね」

 

 なのはは、心の中で『……耳が痛い』と思いながら、笑顔で相槌を打つ。

 君尋は知らないが、高町なのはという少女は限界まで自分を追い込んで自分の体を壊した経験を持っている。

 

「だから……うーん」

「……」

「思ってること、言いたいことの言語化って難しいな……」

「あぁ、すっごいわかる。……うん。ちゃんと言葉にできるようには、したほうがいいと思うな。それができないまますずかちゃんと逢ってもどうにもならないと思う」

「やっぱそう?」

「たぶんね。私も似たような経験あるけど、うん。なんにも言えなくてずっとそのままのこと、あるなぁ……」

「そうなんだ」

「うん」

 

 すいー、となのはは髪をたなびかせながら、水平移動をはじめる。

 自動で君尋もついていって、並ぶように街並みを見下ろしながら会話をしていた。

 

「私、魔法世界の警察官みたいなのになりたくてずっと頑張ってたんだよ。だけどちょっと事故でね、死にかけちゃって」

「え」

「お母さんが泣いてたの。そこからかな。私が、“こっち”に戻ってきたの」

「……」

「あのときお母さんになんて言えばいいかわかんなくって……まだ何が言いたいのか、よくわかってなくて……。て、ごめんね。こういう話するつもりじゃなかったんだけど」

 

 あはは、と笑うなのはに君尋はかける言葉が見つけられず、唇を結んだ。

 魔法使い──そういうものに、綺麗なイメージを持っていた。だからいきなり死にかけた、と言われて驚いたのだ。

 だって空はこんなに広くて、自由で、なのはは飛び回ることができるのに。

 

「大変、だったんだな?」

「まあねぇ。もう魔法使えないかもってお医者さんに言われたときはしんどかった。でもまた飛べるようにもなったし」

「ふうん……? 空、やっぱ好きなんだ?」

「うん」

「理由とかあるの?」

「理由……」

 

 なのははうーん、と首を傾げる。

 

「…………理由?」

 

 なんだろう、となのはが悩みはじめた。

 そんななのはを見ていて、言葉を交わしていて、君尋もなんとなく自分の言いたいことがまとまってきたように感じていた。

 誰かと会話をするだけで安心感というものは覚えるものだし、誰かに悩みがあると打ち明けることだけで悩みの一部が解消される。

 

「……俺のほうは、たぶんあれだ。なんとなく何に悩んでるのかわかった」

「え、なに?」

「吸血鬼って告白されたのがやっぱり印象的で、そっちに意識割いてたけど、そこじゃないんだなって思った」

 

 そう、そこじゃない。

 どうでもいいとは言わないけど、重要じゃない。

 

「結婚まで考えてほしい──って、そういう言い方をしてたんだよな。そこだ。次逢うときまでにって。……なんて言えばいいんだろうって、そこだ」

「そこまでは考えられないってこと?」

「んー……。まだ学生だし、ちょっと、想像ができないっていうのは正直ある。けど感情論だけで言うなら、別に構わないと思ってるんだよ。……あーうん、だからつまり。幸せにできる自信がないんだな」

「……結婚自体は、いいんだ?」

「あんな器量のいい女性に不満なんてあるわけない」

 

 なのはは目を丸くして、直後に目尻をさげて微笑む。

 相談がしたい、と彼から連絡をもらったときは吸血鬼との付き合い方だとか、そういう、少し不躾なことを色々聞かれたりするのではないかと、思っていた。

 だけど問題はそこにはなくて、ただひとりの女の子と結婚するというところを気にしている。それがなのははうれしかった。

 

「やっぱり、色々気にしてるのかなとかは思うんだよ。いままでずっと言ってなかったってことは──まぁ、うん。そりゃ困惑もしたけどさ。すずかと付き合って、それで、吸血鬼だからって俺がそれだけの理由で不幸になる未来なんて見えないし、そこはいいんだよ。ただすずかが気にしてるなら、俺はどうしてあげれば、その不安を解消してあげられるのかなって……」

「それが、相談?」

「うん。そう……かなぁ? ちゃんと思ってることちゃんと言えてるかは怪しいけど、おおむねそんな感じかな……」

「うーん……」

 

 高い高い空の中、なのはは風で髪をなびかせながら首を傾げた。

 

「それ、気にする必要あるかな?」

「え?」

 

 なのはは、心底不思議そうに、言葉を続ける。

 

「好きってだけじゃだめなの?」

「……」

「好きって想いを、まず伝えるところからじゃないかな。まっすぐ、一直線!」

「おぉ……」

 

 単純明快な、アンサー。

 

「なるほど」

「じゃない?」

「そうかも」

「でしょ」

 

 悩みというのは往々にして、本人にとっては複雑でも他人から見れば単純なことがある。

 恋愛ごとにおいて、確かに色々と面倒なことや複雑なことは多い。けれどそれを解決する根幹たるものは、相手への想いだろう。

 

「あぁ……なるほど。そっか。じゃあ俺のさっきの質問も無粋なところがあるかな。空。ちょっとまた違う話かもしれないけど、似たようなもんな気がする」

「え?」

「空。好きなのなんで? って聞いたけど……好きなものは、その根本を探れば探るほど、“好きだから”って単純な答えになる気がするなって」

「……はえ〜」

 

 今度はなのはがうなる番だった。

 実際のところ高町なのはが空を好きになった理由は、もう少し複雑ではある。

 フェイト・テスタロッサと出会い必要に迫られ飛行技術を学んだのが、高町なのはの飛行のはじまり。

 だから楽しいとか好きとか、そういうものではなく、ただの手段だった。

 けれど、飛ぶ必要がなくなっても、海鳴でただの女子高生として過ごしていても空にいるのは──やっぱり、好きだから。

 

「そっか。私、空飛ぶの好きなんだ」

 

 なのはは、顔を綻ばせてそう言った。

 

「そういえば、私……お母さんに空が好きだってちゃんと言ったことなかったなぁ……」

「そうなんだ」

「うん。……また空が飛びたいって、言ってみようかな」

「……あー。怪我とかには気をつけてね」

「あはは。そうだね」

 

 よーし、となのはは声に気持ちを込めて、

 

「いくよ!」

「──えっ?」

 

 全速力で、空を舞う。

 視界はまわり、いまどこにいるのかもわからない。

 

 空に堕ちる。

 

 なのはは菜の花のように笑っていて、君尋は頬を引きつらせている。

 

 天には月、空に花。

 

 大地から離れ、悩みも何もかも空にとかして、彼らは空を楽しんでいた。

 

 

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