ま、でもな。今日の俺は寛大だ。所長がどんな嫌な顔してようが、平気ですよ、ええ。ちょっと沈みかけた気分もすぐに浮上してくれる。俺はすぐにまた上機嫌に戻って営業日誌を書き終えた。
「ちょっと付き合え。やっぱりまずいぞ、能戸」
「は?」
いつの間にか中條先輩は難しい顔して腕組みなんかしてる。俺は不思議に思いながら中條先輩と江崎とを見比べた。江崎も見慣れない表情をしている。え、俺、そんな真剣に心配されるようなことした覚えはないぞ? それに俺は単に開発部にいる友達と会ってるって話をしただけで、それ以上のことは何も言ってない。なのに二人のこの心配振りはどうなんだ。
「いや、でも約束が」
「同じ会社でいつでも会えるんですから、明日でもいいじゃないですか」
いつも俺の言うことには気弱にはいはいと返事をしてる江崎までがそんなことを言う。俺は疑いの目で江崎と中條先輩とを見比べた。二人ともいつもならここでじゃあまたな、と笑って送り出してくれるはずなんだがな。
「なんすか、一体。江崎だけならまだしも先輩まで」
そろそろ勝亦も仕事を終える時間だ。俺は手早く画面の電源を落として席を立とうとした。そんな俺の肩を二人が両側から押さえる。……おい。
「落ち着け。いいか、能戸。確かに人の好みは自由だけどな」
「やっぱりやばいですよ、先輩。他の会社の人ならまだいいですけど、同じ会社の、しかも同じビルに勤める人なんて」
左から中條先輩が真面目くさった顔で言えば、江崎が右から気まずそうに言う。ちょっと待て。何かどうも勘違いされてる気がしてきたぞ。つい、日誌に集中しちまってたから気付かなかったが、もしかしてこの二人、俺の背後でとんでもない会話してたんじゃねえか? 嫌な予感を覚えた俺の頬は無意識のうちに引きつった。
「あ、あのですね。別に変なことは」
そこまで俺が言ったところで唐突に胸ポケットの電話が鳴る。俺は慌てて二人に断って電話を引っ張り出した。もしかして客か? そう思った俺の目に液晶画面の文字が飛び込んでくる。勝亦の名前を読み取った俺は焦って二人に背を向けて電話を受けた。
『あ、能戸? ごめん。今日は会議と打ち合わせが』
「ちょっと待て! 今朝は大丈夫だって言ってたろうが」
だから俺は今日も一日、客のわがままに笑顔を作って耐え、所長の説教を食らっても平気でいられたんだぞ。なのに土壇場でそれかよ。二人の手前、ストレートに怒れないって俺の立場をまるで理解してないんだろうな。勝亦のやつ、俺の言い分聞いてため息なんぞつきやがった。
『急に決まったんだ。仕方ないだろう』
慌ただしい口調で勝亦が言う。むかつくが、そう言われてしまうと言い返せない。仕方なく俺は判った、と言って電話を切った。くそ。これで楽しみは先送りかよ。
「能戸くぅん。さあ、今日は付き合いたまえ」
どうやら横で話を聞いていただけで俺が急に暇になっちまったって判ったらしい。付き合いたまえって、あの。何でそんな嬉しそうなんすか、中條先輩。俺のこと心配してくれてたんじゃないんすか。口の中でぼやく俺を引っ張り起こして中條先輩が江崎と頷き合う。まあ、勝亦の件が駄目になったんなら、飲みに行くのを断る理由もなくなったわけで。
いつもの居酒屋に入った俺たちは珍しく奥の座敷を借りることにした。いや、道中に何度か話を振ろうとしたんだけどな。この二人、その話は落ち着いてからなんて言ってくれて、俺の話を頑として聞こうとしなかったんだよ。で、居酒屋に入って中條先輩が率先して店員に話をつけ、江崎は俺を強引に奥の座敷に押し込んでくれた。……いや。頼む。別に俺はやましいことをしてるつもりはないんだ。そんな神妙な顔で二人して酒を勧めるな!
「よし、話を聞こうじゃないか」
とりあえずお疲れってグラスを合わせてビールを三人が飲んだ後、中條先輩がそう切り出した。ここの居酒屋はちょっと変わっていて、奥の広い座敷は個室として使えるようにもなってるんだな。宴会に使われる時には取り払われる襖が今はきっちり閉まってる。四畳半ほどのスペースにあるのは大きな机と座布団が四枚、でもって障子を開けると窓が覗き、その向こうには夜の街並みが広がってるって寸法だ。だが綺麗な夜景なんて見とれるほど整ったもんじゃねえ。単に道行く車のライトとかビルの明かりとかが見えるだけだ。でもオフィス街のど真ん中って立地の割にはましな方だろ。
「最初に言っときますけどっ。俺は別に男に気がある訳じゃないっすよ」
低い低い声で俺は真っ先にそう断った。すると中條先輩と江崎が不思議そうに顔を見合わせる。やっぱりそう思ってたのか……。