なにやってんだ、俺。広々とした洗面台にもたれかかって俺は低く呻いた。壁に張り付けられた鏡に映った俺の顔は……ああ、もう、やっぱりかよ。真っ赤じゃねえか。情けねえ、と呟いてはみるがそう簡単に顔色は戻ってくれない。仕方なく俺は顔を洗うことにした。冷たい水で洗えば少しは落ち着くだろう。そんなことを考えつつ、シャツの袖をまくって顔を洗ったところで俺は気付いた。しまった。タオルがねえ。ハンカチはジャケットの中だ。
仕方なく俺は顔を出来るだけ手で拭ってからトイレを出た。椅子にかけておいたジャケットからハンカチを出して濡れた顔を拭く。多分、これで顔色も落ち着いただろ。
チェス盤の上には白と黒の駒が綺麗に並べられていた。椅子に腰掛けて目を上げると睦月と視線が合う。だが今度は俺は取り乱さずに済んだ。要は営業だと思えばいいんだよ。俺がにっこり笑顔で悪いな、と言うと睦月は無言で小さく頷いた。ほら、大丈夫だ。
その日もいつものように時間ぎりぎりまで遊んでから俺は二人をケースに戻した。早くしろ、と勝亦に急かされて部屋に戻る。んな、マイク越しに言われなくても戻りますよ。けっ。
そういえば明日は休みだっけな。俺は二人の着ていた服を紙袋に放り込み始めた。短い時間しか着ないっつっても、さすがに洗濯くらいはした方がいいだろう。シャツにジーンズ、下着が一揃い、と。
「……能戸。お前さ」
「あー?」
脱衣所で屈んで服を紙袋に詰めてた俺は、勝亦の声に振り返った。だがこの角度からは勝亦は見えない。まあいっか、と気楽に考えて俺は何だよと勝亦を促した。
「システマを使うのはもう止めた方がいいんじゃないか?」
それを聞いて俺は顔をしかめた。こいつもいつもいつも凝りもせず同じことを……。
近頃、勝亦は俺が遊び終わると必ずそんなことを言う。いつもはもう少し遠回し言い方だけどな。俺は手早く服とバスタオルを紙袋に詰め込んだ。
フロアの中央を向いた窓に寄りかかって勝亦は腕組みをしている。開きっぱなしになったドアから出た俺は勝亦を睨みつけた。が、勝亦はやけに真面目な顔をしている。茶化しているようでもない。
「お前もしつこいな。何でだよ」
好きなように使えと言ったのは勝亦だ。なのに何故、今さらそんなことを言われるのか判らない。からかい半分と思ってこれまで流してきたが、真面目な顔をしてるところを見ると、今日の勝亦にはからかうつもりはないようだ。
「遊んでいいって言ったのはお前だろ? 別に仕事の邪魔はしてないし」
そういえばあの時、似たようなことを中條先輩も言ってたな。開発部には行かない方がいいって言われたんだったかな。でもあの時も中條先輩は勘違いだって言ってたし、多分大したことじゃないんだと俺は思っていた。それにそれっきり、何も言われたことはない。所長の小言は増えた気がするがそれだけだ。そんなの珍しいことじゃないし、第一、それでなくたって俺の営業成績はどんじりだ。遊んでいようがいまいが変わらんだろ。
仕方ないな、と勝亦がため息をつく。何が仕方ないんだよと言い返した俺を無視して勝亦は続けた。
「これだけは忘れるなよ。あれはシステマだ」
「なに言ってるんだ、今さら」
そんなことは判りきってるじゃねえか。テーブルに置き去りにされていた旧式の端末とチェス盤を片付ける。駒をケースに戻して折り畳んだ盤に挟んで納めたところで俺は少しの間、テーブルをじっと見下ろした。
さっきまでここに居た二人のことを思い出す。人のように笑ったり怒ったりといった表情には乏しいが、それでも彼らに感情がない訳ではない。仕事によっては感情のスイッチを外部から意図的に切ることは出来るが、今の彼らはそれをしていないのだ。
システマは機械ではない。あくまでも生身で出来ている。しかも彼らは他のシステマなど比べ物にならないほど、外見は人に酷似している。もしもあの二人が自分と同じ環境にいたらどうだろう。ケースの中ではない、外界に出て生活すれば人と同じ感情が生まれるのではないか。二人といる時間を重ねるごとに俺のそんな思いは強くなる。
彼らは本当はもっと人らしく生きられるのではないか。
「能戸? 大丈夫か? 具合でも悪いのか?」
声をかけられて俺は慌てて顔を上げた。勝亦が妙に心配そうにこっちを見ている。ちょっと考え事をしてただけだと断って、俺は手にしていたチェス盤を袋に詰め込んだ。
多分、俺は間違ってるんだろう。そんなことも時々考える。だって相手はシステマだぞ? ただの道具だろ、道具。だがそう考える度に本当にそうなのかという疑問もわいてくる。間違っているのは俺なのか? それとも人間にしか見えないあの二人なのか? だから俺はこんなに煮え切らない思いをしているのか?
あれから俺は真っ直ぐに家に戻った。さんざっぱら自問自答しつつ洗濯機に服とバスタオルを放り込む。会社を出る時に勝亦が飲みに行くか、といつものように誘ってくれたがそれも断った。今は飲む気にはどうしてもなれない。例え相手が江崎や中條先輩だったとしてもきっと同じように断っただろう。
道具か。俺は洗濯機の前に立ったまま呟いた。洗濯機の透明な窓の向こうで衣類が回っている。この洗濯機だってただの道具だ。ということは、あいつらも同じってことか?
そんなはずないだろう。睦月も時雨も生身で、感情もあって、それに人と当り前に話したりも出来る。見た目だって人と同じで違うところなんてありはしない。
だから俺のこの感情は間違っていない。頭の中でいつもと同じ答えを出してから俺は洗濯機の前から離れた。静音設計ばんざい。夜中に洗濯しても煩がられないのはありがたいよな。