進行方向とは逆ですよ、という消極的な睦月の忠告を無視して俺は人の波を分けて水槽から少し離れた場所に出た。壁際まで進んで並んでるベンチに腰掛け、所在なげに佇む睦月に手招きする。睦月はためらったように視線を彷徨わせてから俺の隣に腰掛けた。どうやら睦月は俺が体調を崩していると勘違いしたらしい。そうじゃないよ、と苦笑してから俺はぼんやりと前にある大きな水槽を見上げた。
青い水の中をゆったりと魚が泳いでいく。水槽の中はあの日、あそこで見た光景ととてもよく似て見えた。この年で恥ずかしいなんて言われるかも知れないが、青いあの光景は俺の目にはまるで別世界に見えたんだよ。海を思わせる青い液体の上に浮かんでいるように見えた卵の一つ一つから少女たちが羽化するのだ。どんな作り話より、俺にとってはそれが凄くロマンティックに見えたのだ。
いかん。感傷的になっちまってる。俺は我に返って慌てて首を振った。
「もう少し休まれた方がいいのでは」
よし、と立ち上がった俺に睦月が言う。だが俺は大丈夫だと応えて睦月の手を引いた。睦月と一緒に人の波に混ざってフロアの奥に進む。ぐるりと大きな水槽の手前を回るとフロアの奥には別の水槽が並んでいた。へえ。世界の色んな国から集めた魚を泳がせてるのか。ゆっくりと進む人の列に紛れて進んでいた俺はとある水槽の前でふと足を止めた。見慣れないカラフルな魚が群れを作って泳いでいる。幾つもの水槽に分かれているのは、地域別に魚を管理してるからなんだと。液晶画面に映し出された説明を読んで俺はなるほど、と納得した。水質や水温が水槽ごとに違うわけか。
水槽の前で立ち止まってた俺たちの後ろを若いカップルが通りかかる。多分、特に珍しい魚が入ってる訳じゃないんだろうな。カップルは話をしながら横目に水槽を見て過ぎる。……あ。カップルじゃねえわ。眼鏡タイプだったからすぐにそれと判らなかったが、インターフェイス着けてやがる。よく見れば女の動きもどことなくぎこちない。あの顔立ちにあの容姿。間違いない。男が連れてるシステマはうちのライバル社の機種だ。I 3604 Twinsがリリースされて一週間後だったかな。システマ業界最大手のうちの商品に対抗すべく出された機種だ。
やつらが行過ぎる時、俺の耳にシステマの声が入ってきた。周囲の客に邪魔ならない程度の声量でシステマは淡々と魚の説明をしている。その中に俺が納得した水質や水温の差などの説明も入っていた。何か変な感じだ。インターフェイス着けてるんなら喋らなくても問題ないだろうに。わざわざ喋らせるのってシステマの持ち主のこだわりなのかね。そんなことを考えながら俺は遠ざかる男とシステマを目で追った。
そのうちI 3604 Twinsもどこかの社に真似されるだろうな。要するにどの社も売れ線の商品が欲しいんだよ。I 3604 Twinsがあれだけ売れたんだ。粗悪コピーみたいのをリリースする会社も出てくるだろ。この業界はまだ新しいし、発明者の意向とかでシステマそのものに対する特許ってのはないんだよ。いや、ないわけじゃなかったのか。ジェネラルパブリックなんとかいうポリシーに従って……あー、くそ。勝亦が何度か説明してくれたんだが俺にはさっぱりだな。よく判らんが、とにかくどこかの社の売れ線のシステマをもじって別商品作るってのは可能なわけ。客にしてみりゃ、安くていい商品ならいい訳だからな。デザインまでまんまパクったらやばいかも知れんが、似たような機能をつけるのは可能なんだそうだ。
俺はため息をついて水槽前の手すりに寄りかかった。隣にいた睦月が俺の顔を覗き込む。あ、しまった。システマの話は嫌だって言いながら、自分で思い浮かべてるし、俺。
「見てください。稚魚がいますよ」
俺の情けない気分を察したのか、睦月は決まり文句になりつつある大丈夫ですかってのを口にしなかった。変わりに小声で言って水槽を指差す。稚魚ってのは魚の子供だよな。俺は睦月の指差したところを見て目をしばたたいた。割と大きい魚が水槽内にディスプレイされた茶色の岩の辺りにいる。その周囲に漂っているようにしか見えない細かいごみのようなものに目を凝らし、俺は思わず呻いた。
「餌だと思ってた」
「違います。よく見てください」
ちょうど、子連れの魚がゆっくりと俺たちの前に泳いでくる。俺は間近に来たカラフルな魚とその周辺にいる小さなものに目を凝らした。……本当だ。爪楊枝の先くらいの大きさだが、確かに魚の形をしてる。
メダカ? 違います。睦月とそんなやり取りをして俺はちょっと笑ってしまった。親がど派手なのに子供ときたら、細くて小さくて茶色くて、まるで川からさらってきたメダカみたいでな。これが成長したらあのカラフルな親と同じ形になるなんてすぐには信じられなかった。そう言って笑った俺に睦月が淡々と説明してくれる訳だ。んでも不思議とさっき聞いたシステマのあの声とはまるで違って聞こえる。まあ、メダカは淡水魚ですからこの水槽では生育できません、なんて説明を冷静にされると俺もさすがに笑ってごまかすしかなかったんだがな。
のんびりと水槽を見て歩いていた俺たちは、ちょっとルートを外れてレストランで小休止することにした。時間外して正解。昼時はきっとごった返すだろうレストランのフロアにはまだ空席があった。しかし、睦月はメニュー見ても迷ったりしないのな。あっという間に注文する料理を決めちまう。俺の方が逆に焦って決まらない始末だ。かなり迷ってから俺は無難にランチセットを頼むことにした。
飯を食いながら睦月は不思議な魚の話をしてくれた。その魚は群れで行動するタイプで、普段は雌ばっかりなんだと。で、その群れの中から雄に変化する奴が出てくるらしい。で、その雄がいなくなるとまた別の雌が雄になるらしい。俺はその話を聞きながら感心して言った。
「常時ハーレム状態ってことか?」
言ってからしまった、と俺は慌てて口をつぐんだ。今の言い回しはちょっとまずかった気がする。大体、魚にハーレムもくそもあるかよ。そんなことを俺が思ったと同時に睦月が言う。
「ハレムを作る動物は他にもいます」
あくまでも冷静に睦月が言うのを聞いた俺は慌てて周囲を見回した。大丈夫だ。このテーブルの周囲に客はいない。俺が危惧した通り、睦月は穏やかな表情のままで子種だの子宮だのに話を移しやがった。頼むよ、もう。
「め、飯時にその手の話はちょっと」
「お気に召しませんか?」
ちょっと首を傾げて睦月が問う。俺はここぞとばかりに力強く頷いてやった。話題自体はな。そんなに嫌でもないんだよ、正直なところ。だがその手の単語が睦月の口から出るってのが俺には耐え難いというか。ぶっちゃけた話、睦月にそういう話は似合わねえんだよっ。