それでは仕方ありませんね、と少し気落ちしたように睦月が言う。俺はそれを聞いて慌てて話を逸らそうとした。何でだ? 営業してる時にはあんなに喋ることが出来るのに、俺は睦月にろくな話を振ることが出来なかった。思いつくのはシステマに絡んだ話ばかりだ。なんて面白みがないんだろう、と情けない気分に浸ってた俺にふと睦月が声をかけた。
「能戸さんがつけてくださった私とTypeBの名前にはどういう意味があるのですか?」
俺は食事の手を止めて何となく睦月を見つめた。たぶん、睦月は名前の意味を知ってはいるのだろう。睦月は一月。時雨は冬の初めくらいに降る通り雨のことだ。だが俺がどこからその名前をつけたかは判っていないらしい。そうか。そういえば説明したことなかったっけな。
学生の頃に読んだ紙の束で出来た本の話を俺はし始めた。ゆっくりと食事をしつつ睦月が時折、合鎚を打つ。俺はそれを確認しては話を進めていった。要約すればすげえ単純な話。仲のいい姉弟がいて、力を合わせて世界を救うのな。周りにはたくさんの人、友達、家族がいて……。
あの当時、システマがこの世を救ったと騒がれた頃には不思議とこの手の本は売れなかったそうだ。事実は小説より奇なりってな。どんなに上手く作られた物語もあの瞬間の騒乱にはかなわなかったんだと思う。俺が読んだ本も、そんな時代よりずっと昔に書かれたものだった。
その本に描かれていたのもよくある読み捨てられる物語の一つだった。俺が生まれるずっと前に出版されたらしく、試しに調べてみたが、その本を出していた出版社は今はもう存在すらしていないようだ。その物語の作者の名前すら広大な情報ネットワークの中には残っていない。過ぎていった時の中に埋もれたその他大勢の人間と同じだ。生きてるんだか死んでるんだかも定かじゃない。
笑っちまうだろ? 表紙なんてぺらぺらの作りでさ。端っことかがよれて汚くなっててさ。印刷も甘くて字がところどころ消えかけてやんの。でも紙が痛みかけて随分とくたびれたその小説を俺は何故か何度も読み返した。俺だって思ったよ。現実の騒ぎはこんなもんじゃないってな。だけどどうしても気になって仕方がなかった。他にたくさんの有名な小説はあるのに、俺にはそれらよりもその物語の方が魅力的に見えたんだ。
その本をやけに熱心に俺が読んでたら勝亦が笑ってたっけな。お前でも熱中することがあるんだなって。よっぽど俺のその本への入れ込み方がおかしかったのかな。でも勝亦は俺の勧めに従ってあの本を読んだ。そうしたら。
そうしたら勝亦は妙に真面目な顔で言った。……思い出した。そうだ、あの時だ。
システマがこの世界を変えるのかも知れない。今からきっと面白い時代になる。
妙にリアルに脳裏に勝亦の言葉が蘇る。
たった一台のシステマが地球を救ったあの日からほんの十年足らず。あの日、前日までの生活がまるで嘘のように俺の周囲はパニックに陥った。俺だって例外じゃない。深い絶望なんてなものに浸る余裕はどこにもなかった。とにかくどこかに逃げなきゃ、と人の波にもまれていたのを思い出す。
一方で世界を何とか救おうと動いていた人間たちがいた。部外者の俺には想像することしか出来ないが、突然襲ってきたトラブルを何とか処理しようと必死になっていたに違いない。計算が間に合わない以前に、その計算を実行するプログラムを組んでいる暇さえなかったのだ、と当時のことに詳しい勝亦が俺に説明してくれたことがある。
そんな中で現れたシステマは現場の人々の最後の希望の光だったのかも知れない。丁度それは俺が熱心に読んでいたあの小説の登場人物の睦月と時雨のように。
「能戸さん?」
急に押し黙った俺を訝ったのか、睦月がそっと声をかける。俺は慌てて俯きかけていた顔を上げた。何でもない、と笑ってみる。だが俺自身、その笑みがぎこちないと判っていた。
俺はあの時、勝亦の言ったことを笑い飛ばした。道具が世界を変えてたまるもんか。だが勝亦は笑った俺に文句一つ言わなかった。そうかって答えただけだった。あの時の俺は勝亦もばかなこと言いやがってと思ってたが、もしかしたらあの答えにはもっと別の意味が含まれてたんじゃないだろうか。
なーんてな。やめやめ。考えたところでどうせ今さらだしな。睦月にはずっと前に読んだ本の中に出てきた姉弟の名前だ、と言えば簡単に済むことじゃないか。何も楽しい気分を自分からぶち壊すこたあねえよな。
飯を食って館内を巡り、夕方近くなったころ俺たちは水族館を出た。ゆっくり回ったおかげか、帰りは家族連れの客たちに揉まれるようなことはなかった。まばらに行き交う人々に混ざって広い遊歩道に出る。この水族館は入り口と出口が別のところにあるんだよ。蒸し暑い中を俺は睦月の手を引いて歩いた。
古びて所々が割れたアスファルトの遊歩道が続いている。右手には人工の林、左手に長さの揃えられた芝生の広場がある。もしかしたら昼時辺りはこの広場も親子連れで賑わうのかも知れない。遊歩道の周囲に植えられた樹にとまっているのだろう。敷地内には蝉の声がうるさいくらいに響いていた。睦月が道端に植えられた樹を珍しそうに見つめる。どうやら睦月は生の蝉の声を聞いたことがなかったらしい。まあ、そりゃそうか。よく考えてみれば睦月にとっては生まれて初めてのことばっかりだ。
立ち止まった睦月に合わせて足を止めた俺は道端のベンチに睦月を促した。睦月が頷いて大人しく腰掛ける。夕方といってもまだ直射日光を浴びると暑い。日差しを避けて座った俺たちの周囲では蝉が鳴いていた。
特に喋るでもなく俺たちはしばらくベンチに座っていた。施設の閉館時間を報せる音楽と放送が鳴ってからようやく腰を上げる。途中で買ったボトル入りの茶もすっかりぬるくなっちまってる。俺はまた睦月の手を引いて歩き出した。
睦月は水族館にいる間、笑うことはなかった。ほんの少しでもいい、笑ってくれたらっていう俺の甘い願いは打ち砕かれたってわけだ。そりゃあな。笑えって言えば睦月も笑ってくれるんだろう。だが俺が見たかったのはそういう笑いじゃなくて、昨日の晩の微笑みだったんだよ。
だが現実にはその微笑みすら拝めなかったわけだ。最寄の駅で電車を降り、マンションへの道を歩きながら俺は睦月に訊ねた。
「なあ。睦月は人になりたいだろ?」
繋いだ睦月の手が微かに震えた気がした。振り返った俺を真っ直ぐに見つめて睦月が答える。
「なぜですか」
「なぜって……」
だって人の方がいいだろう。俺は思わず足を止めて素直に言い返した。まさか睦月がそう返すと思わなかった。だって当り前じゃないか? こんなに人っぽく見えるんだ。それなら人間として生きてみたいって願うと思うじゃないか。システマが幾ら流行ってると言ったって、まだ人間の数の方が圧倒的に多いんだぞ。周りを人に囲まれてれば、自然と同じになりたいと思うもんじゃないのかよ。
睦月が黙っている間、俺は考え続けた。睦月はもしかして物理的に無理だって解答を出すのかな。でもほら。肉体を構成している物質そのものにはさほど違いはないって開発部長も言ってたじゃないか。
「そんなに考えることないだろ? 睦月だってその気になればすぐに人になれるって。それだけ人っぽい外見なんだしな」
それに俺は睦月を人としてしか見てないぞ。睦月が答えに困っているのを見かねて俺はそう自分から言ってみた。すると睦月が少し伏せていた目を上げる。
ふわりと笑った睦月の顔が何故かとても悲しそうに見えた。