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天宮遥という少年の話をしよう。
日本人の父と、北欧を出身とする母から生まれた、らしい。というのも彼は、生まれたその日に両親から見放され、憶えている最も古い記憶は、孤児院で年の近い子供らと侘しい食事をしている風景だった。
その中でも遥は歪で、悪い意味で目立っていた。
透き通るようなトゥヘッドのブロンドに、翡翠の瞳。母親の血筋が色濃く出たせいか、日本人離れした容姿をした遥に近づくのは施設の職員くらいだった。
誰からも煙たがられて、一人寂しく生きて、そのまま死ぬのだと思っていた。
そんな彼に転機が訪れる。
希望も無く、諦めだけを重ねて生きていた幼い彼には、まさしく救済であった。
その日、孤児院にやってきたのは二人の夫婦だった。
三十代前半よりも若い見た目の二人は、誰に目をくれることも無く、施設の職員の案内の元、遥の前に来て言い放つ。
「僕たちと家族にならないか?」
誰にも必要とされない。誰からも相手にされない。誰よりも不幸であるはずだと思っていた少年は、その日、誰よりも幸福な少年になった。
家族に虐待を受けた子供がいた。家族を失った子供がいた。家族を知らない子供がいた。自分が世界で一番不幸だと嘆く子供がいた。
狭い世界に垂らされた蜘蛛の糸を、小さな子供が掴まない筈がない。
それなりの葛藤はあった。それ以上の嬉しさがあった。
かくして遥は養子として件の夫婦に引き取られることになった。
子供一人を引き取るだけあって、夫婦の暮らしは豊かなものだった。高層マンションに住む二人は、一つの部屋を遥に与え、温かい食事と柔らかい衣服、ふかふかのベッドと、惜し気もなく遥の生活が豊かになるようなモノばかりを与える。今までの生活を忘れられない遥は最初こそ戸惑っていたものの、目に見える二人の愛情を少しずつ受け取っていった。
中でも夫婦が遥に与えていたものの中で力を入れていたのが教育だ。勉強もそうだが、何より人の為に在れと、人としての在り方について説いていた。
義父は政治家で、人の為に働いている。遥を養子に迎え入れられたのも、人を助けたいと思っているからだ、と。
疑うことも無く夫婦の言う通り、人を助け、健やかに成長していった遥に、二度目の転機が訪れる。
ある日、義理の両親に連れられて行ったのは、県内にある横浜港北総合病院。その個室病棟だった。
六畳はあるその病室には一人の子供が眠っていて、その男子が自分の兄にあたる人物だと伝えられた。その驚きたるや、孤児院に夫婦が来た時以来の衝撃だったと遥は思う。
ベッドに眠る義兄は生まれつき腎臓が弱く、移植手術を受けなければ大人になる前に寿命を迎えるところだった。親族では腎移植のドナーになれる人物はいなかったが、幸か不幸か、遥はドナーとしての条件を備えていた。
命が助かるなら。
遥は一瞬の迷いも無く、自身の臓器を差し出すことを決めた。自分を絶望から救ってくれた両親の実子を助けたいと、心から思っていた。
そして行われた生体腎移植。子供にとっては死刑宣告にも等しい余命のカウントをされていた義兄は無事、その命を取り留めた。
無事で良かった。誰もが喜んでいた。自分を救ってくれた人の大切な人を助けることができた。
遥の内心は達成感と安堵で満ち溢れていた。それから義兄は徐々に回復し、遂には長年を過ごした病床から生家へと戻るに至った。家族4人で暮らせることに夢を馳せていた遥は、しかし一人病院に残ることになる。
それは遥の片親が北欧の出身であるという証明。精密検査により発覚した、遥の特別性。
天宮遥というハーフの少年は、北欧の白人の中でも極一部にみられるエリート・コントローラーであった。
HIVに抗体を持つ稀有な体質であり、今後のAIDS治療の中でも注目を受けている遺伝子を持つ者。
惜しむらくは、数少ないAIDS完治の前例で行われた骨髄移植のドナーになるための年齢に達していないこと。
だが、彼は奇跡を起こした。
同病院の患者と、白血球の型であるHLA型が完全に一致したのだ。しかも、患者は双子で、計三人のHLA型が一致するという、奇跡と呼んでもまだ足りない奇跡。
そして、世界的にも例を見ない、未成年間の骨髄移植が決定された。それでAIDSが完治するかは前例が極端に少ない故に不透明。けれど、患者とドナーは一縷の望みに賭けることにした。
移植手術は遥と患者の健康を害さないよう慎重に行われ、患者の快方という大成功を収めた。
治療に携わった医師と患者の主治医、遥の意志を尊重して今回の治療計画を推し進めた義父の名は日本中に知れ渡った。三人の子供に対する募金額は何億円にも達し、遥とその家族は誰から見ても裕福で幸せな生活を送る筈だった。
しかし。
身を削ってでも誰かを助ける自己犠牲。義理の両親から教わった、人の為に在れという高潔な精神。
それが、遥を体よく利用する為の洗脳だったのだと、少年は知ることになる。
1年にも及ぶ入院生活を終えた遥は、両親と共に電車で帰宅することになった。平日の昼前のホームには人が少なく、ようやく家に帰れると胸を躍らせていた遥はホームの淵で電車を待っていた。
遠くから聞こえる電車の揺れる音。ブレーキをかける甲高い音がホームに入ってきた時、遥の体は宙に浮いていた。
背中に受けた小さな圧迫感を不思議に思うより早く、遥の小さな体は線路へと落下していく。1秒にも満たない僅かな時間。不安定な体勢を立て直し、着地するには細いレールの上に器用に着地した。両親の願いに応える為に鍛えた運動神経が役に立った結果ではあったが、この場では誰にとっても不幸な結末を迎えることになる。
命が助かった遥にとっても、遥を殺そうとした両親にとっても。
迫りくる電車に体を硬直させたが、それも一瞬。どうにか回避しようと線路の上から飛び退いたが、僅かに遅かった。
結果だけを言えば、遥の命は助かった。血液を大量に失い、幼いながらに三度目の大手術を行うことになったが、それでも生きていた。腎臓を義兄に分け与え、稀な体質故に骨髄を見知らぬ患者二人に移植することで命を救う。体力と精神力が揃っていなければ成し得なかった事実。そういう観点から言えば、遥の命を救ったのは、遥に人の為に在れと説いてきた両親とも言える。
ただ、遥を殺そうとしたのも、他ならぬ夫婦だった。
そもそも、二人が遥を引き取ったのは、天宮遥という子供の価値に目を付けたからだ。家族を知らず、誰にも必要とされていない。健康状態は優良で、幼児にしては知能も高かった。里子として引き取る前に検査を受けさせれば、実子のドナーに成り得る上に、世界的に見ても稀なエリート・コントローラー。
この時点で、夫婦は遥を利用し尽くす計画を立てた。
ただ、何も二人は生まれた時から狡猾な悪人だったわけではない。それこそ、普通に幼少期を過ごし、それぞれが将来に夢を馳せ、夫は夢を叶えて、妻は出会った夫を支えたいと思った。二人は愛し合い、その間に生まれた子供は誰よりも幸せだった。
彼らの唯一にして最大の不幸は、ただ一人の子供が生まれつき病を抱えていたことだろう。
5歳になる前に余命宣告をされ、親戚は憐みをもって接してくる。医師にはドナーが見つからなければ助からない、終末期医療を行っている同年代の患者とコミュニケーションを取ってみてはと、諦めの言葉だけを聞かされてきた。
彼らの頭の中には、自分たちの愛すべき子供を助けるという目的以外が消えていた。誰を犠牲にしても、息子を助けなければという強迫観念にも似たそれは、二人を狂気に走らせる。
息子のドナーを探し、今までの苦痛を帳消しにできるだけの幸せを与える。そのためには金と名誉、誰もが羨み、何をしても自分たち家族が正義であらねばならない。
その結果が、天宮遥という孤児の利用。実の子供の命を救い、世界でも稀なAIDS克服の立役者となり、そして悲劇の死を迎える。
というのが夫婦の計画したストーリーだった。
しかし遥は生き延びる。
夫婦の最後の計画では、遥を事故に見せかけて殺し、日本中で話題の英雄的少年が身を削りすぎたが故に精神を病み、自殺する、という筋道だった。
そんな計画があったとも知らず、遥は奇跡の生還を果たす。
ホーム下に回避した遥だったが、避けきる前に電車はホームへと進入していた。遥に気づいた車掌が急ブレーキをかけるが既に遅く、僅かに動きを止めた車輪とレールの間に、遥の右足が巻き込まれた。
圧し潰され、引き摺られ、圧し折られて、体の一部が切り離されていく感覚。死ぬよりも辛い痛みに気絶と覚醒を繰り返し、死んだ方がマシだと思いながら救助を待った。
そんな遥の元に救助が来たのは、失血量が全血量の三分の一になった頃だった。ホーム下に逃げてしまったことで、遥を再度、轢かないよう慎重に電車を動かさなければいけなかった為だ。
救急搬送された遥の治療を担当した医師は、右足の強引な切断と大量出血によるショック死、若しくは失血死にならなかったのは奇跡だと言う。痛みに耐えきった遥の精神力を褒め称え、その上で残酷な現実を突きつけなければいけないことで、罪悪感に苛まれていた。
腎臓の生体肝移植。骨髄の提供。そして、右足の切断。
切断、というには語弊があるか。電車が退いて、救急隊員が駆け付けた時、遥の右足は文字通り皮一枚で繋がっている状態だった。
こんな不幸があっていいのか。臓器移植、骨髄移植の際に手術を担当した医師や看護師たちは嘆き、遥の存在によって生かされた患者の主治医は、遥の現状を患者に伝えるべきか悩んでいた。本来は知ってはならない互いの情報だが、遥と同様に他人を心から思いやれる彼女達ならば、何か言葉を掛けられるんじゃないかと思ったのだ。
だが、三日の昏睡状態から目を覚まし、医師から自分の状態を聞いた遥が絶望したのは、そこに両親の姿が無いからだった。
右足切断の痛みを覚えている。生涯忘れることはないだろう。だが、それ以上に背中に受けた小さな衝撃を、遥は忘れらないのだ。
それからも来ることのない両親を待ち続けた遥は悟る。
自分は、あの夫婦に利用されたのだと。
ニュースを見れば、英雄的少年の悲劇を連日のように報道されている。支援金と銘打たれたそれは、病院に直接届くものと、家族に届くものがあって、片一方はそのまま消えていた。
悲劇の家族。取り上げられる家族の姿を見つめる遥の目は、絶望よりも暗い色をしている。
「やあ、遥君。久しぶり」
そんな彼のもとにやって来たのは、遥の担当医ではない。
骨髄移植をした際に親交を深めた、レシピエントの主治医。倉橋と名乗った医師は、その腕にヘルメットのようなものを抱えていた。
「これ、憶えているかな?」
前回の入院の際、倉橋が当選したナーヴギアを借りた遥。特に何をするでもなく、VR世界を歩き回っただけだったが、その技術力の高さには感動したものだ。
その時の遥の様子を見ていた倉橋は、リハビリもまだできない遥を案じて持ってきたのだ。
世界初のVRMMORPG。ナーヴギアで稼働する、その日正式サービスの始まった『ソードアート・オンライン』を。