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「アスナ、ラフコフの収監と討伐隊の撤退が終わったよ」
「そう、ありがとう」
「……そっちは?」
キリトが心配そうに目を向けたのは、未だにアスナの腕の中で項垂れているヴィクティムだ。
ステータスを敏捷に極振りして、筋力値はアイテム頼りのヴィクティムでは、同じ速度特化でも適度に筋力値を上げているアスナの拘束から抜け出せないのだ。もっとも、本人にその気があるのかは怪しいものだが。
ぴくりとも動ないヴィクティム。まるで死んでいるかのような彼は、静かに口を開く。
「……なんで」
「え?」
「なんで邪魔するんだよ……」
僕はただ、殺されたかっただけなのに。
そう紡いだヴィクティムに誰もが眉を顰める中、アスナだけがやはり、と表情を変えなかった。
殺されたい人間なんていない。ましてや、このデスゲームの中で生き残っている、家族や友人、恋人と長い間離れ離れになっているプレイヤーたちは皆、現実世界に帰る日を待ち遠しくしている。何より、死にたいと思ってしまったプレイヤーは自死を選ぶことが多い。浮遊城の外に身を投げ、圏外で痛みも無く自らの体に剣を刺す。
だから、相手がプレイヤーであれモンスターであれ、誰かに殺されたいと思ってプレイする人間はいないと言っていい。
そんな常識の外にいるヴィクティムは、誰からも理解されない筈だった。
少なくとも、現実世界ですべての事情を知る医師たち以外には。
「キリト君、クラインさんたちも。少し、二人きりにしてくれませんか?」
「……わかった」
「いいのか、キリト?」
「ああ。アスナが言うなら大丈夫だろ」
攻略組として。第一層から付き合いのあるプレイヤ―として、キリトはアスナの実力を信頼している。それは同じ攻略組のクライン達も同じだろう。攻略の鬼として、これまで攻略組を引っ張ってきた彼女の実力ならば心配は無い。と思う反面、彼らの脳内には先ほどの戦闘が思い返されていた。
笑いながら最悪のレッドプレイヤーと切り結ぶヴィクティム。
その姿は、彼らが剣を交えた狂ったプレイヤー達よりも狂っていた。
しかし、目の前にいるプレイヤーには先ほどまでの威勢はなく、アスナが抱えていなければ幽霊と間違えそうな程に生気が無い。
不安を抱えながらもアスナを安全エリアに残し、洞窟の入口へ戻っていく。最後尾にいたキリトの影が見えなくなってから、アスナは口を開いた。
「ティム君。私は君に伝えないといけないことがあるの」
「……」
無反応を貫くヴィクティムに、アスナは言葉を選ぶ。
何から言おうか、何を言うべきか。一番伝えたい言葉はなんだ。
数秒の逡巡が辺りに沈黙を齎して、アスナはその言葉を選んだ。すべてを伝えるための最初の言葉として、これ以上に相応しい言葉は無い。
「天宮遥君」
バッ、と結んだ金糸の束で半円を描きながら振り返った。大きな翡翠の瞳でアスナを見つめ、半開きになった口からは呼気が漏れるばかり。唇の形を変えても、音は出ない。
その様子を見て、もう逃げられないと思ったアスナは腕を離し、ヴィクティムと正面から向き合う。
「私は君のことを知っています。君の、現実世界のことを。君の身に起こった不幸を、知っています」
天宮遥という少年の献身を、私は知っている。孤児として里親に引き取られ、その恩返しに里親の実子に自らの臓器を分け与えたこと。その体の特異性によって、余命宣告を受けていた双子の姉妹を救ったことを、私は知っている。
天宮遥という少年の不幸を、私は知っている。双子の姉妹を救い、退院したその日に駅のホームから落下し、電車に轢かれたこと。奇跡的に一命を取り留めたものの、右足を切断したこと。小さな体で歩むには、余りにも過酷な人生だったことを、私は知っている。
「だからティム君、遥君が、その、死にたい理由も、何となくだけど想像できる」
その名に込められた意味を想像してからというもの、アスナはその名前を口にすることを避けてきた。想像した理由が、本当に合っているのかどうかは分からない。けれど、自分の運命を呪うようなプレイヤーネームを、他人であるアスナが口にすれば、希望も無くなってしまうと思ったのだ。
「私には、君のように本当の不幸に遭った経験が無い。辛いことはあったけど、君に比べれば些細なことだった。でも、それは私の心に重く圧し掛かってたんだ」
裕福な家庭に生まれ育ち、何不自由なく育ってきた。そんな中でも、母からの重圧や、周囲からの期待に応えるための努力は、アスナの心を枯らすには十分過ぎる程だった。
「そんな時にこの世界に囚われて、自由を、時間を奪われたと思ってた。でもね、この世界で出会った人たちが教えてくれたんだ。この世界は全部が作りものだけど、それだけじゃない。君が言っていたように、この世界も現実で、出会った人たちとの絆は掛け替えのないものだって」
今までの努力が無駄になる。早く現実に戻って、周りから遅れた分を取り戻さなくては。
第一層のボスが攻略されるまでの一か月間、アスナは絶望と焦燥で荒れるばかりだった。この偽りの世界に負けるものかと、敵対心と諦観にも似た決意だけを心の支えにしていたのだ。
けれど、その冷めきった心を、彼らは溶かしてくれた。
それは強さを信頼してくれるキリトやヒースクリフであったり。
職人クラスとして、友人として、気の置けない仲間であるリズベットやエギルであったり。
現実世界でも会おうと約束した友人である、風林火山や血盟騎士団の仲間だったり。
「それが全てとは言わない。言わないし、言えない。この世界にいる人の数だけ、現実に対する想いがあるから」
この世界で結んだ絆は本物だ。MMORPGをプレイしている者達の間では往々にしてオフ会が開かれるが、それは絆が結ばれた分かりやすい証明でもある。プレイヤー同士が世界のどこかで画面越しに出会い、自分の分身を操作して、誰かの分身と冒険をし、共に喜び、悲しみ、絆を育んでいく。仮面を被っていたとしても、偽りの自分を演じていたとしても、それを操る自分の心は偽れない。だからこそ、誰かとの意思疎通に際して、どこかに本当の自分が混じる。
そして、ソードアート・オンラインでは、ゲームマスターの意向でアバターという仮面が取り除かれている。
現実と同じ自分の姿。現実と異なる世界。法も秩序も、全てが変わってしまい、自分だけが変わらない世界にいる彼ら彼女らは、それぞれがそれぞれの現実を持っている。
自分の持つ現実と異なる現実感を持つプレイヤーとの出会いで変わったアスナには、それが良くわかる。
「貴方は、死ぬことで自分の不幸を終わらせようとしてる。この世界も、現実も、色々なことから目を逸らしてる。でも、でもね」
一刻も早く帰りたいと、最前線で戦うプレイヤー。
この世界を楽しみたいと、自分に課した役を演じるプレイヤー。
現実ではできないことを、罪に問われないことを良いことに愉しむプレイヤー。
ヴィクティムというプレイヤーは、そのどれとも違う。
最も近いのは、恐怖に呑まれ、この世界に絶望したプレイヤー達の末路。
「貴方が生きることを望む人がいることは忘れないで。貴方はたくさんの人を助けてきた。その分、貴方を助けたいと思う人が絶対にいる」
人に助けられ、人を助け、希望を与えてきた人間の最後が、全てをひっくり返すほどの不幸だったなんて、誰が許すだろうか。
繋いだ手には感じるはずのない温もりがある。
「私は貴方を助けたい。何ができるか分からないけれど、貴方に会って、言葉を交わしたい。この手を、現実世界で繋ぎたい」
そして。
アスナは紡ぐ。
この世界で誰よりも天宮遥という少年を知っているが故の責任感と、心のどこかにあった彼を誰よりも知っているという優越感が、口を滑らす。
「それに、貴方のご両親だって――――」
アスナが知っているのは彰三から聞いた話だけだ。その彰三も、遥が何故線路に落ちたのかまでは知らない。知っているのは遥だけで、両親の見舞いが無いことから予想を立てた主治医たちが察しているくらいだ。
だから、口を滑らした。
遥にとって、ヴィクティムにとって、最も聞きたくない言葉を。
「……両親?」
「え、ええ。貴方を助けてくれた――――」
「僕を利用したうえで殺そうとしたあの人たちのことでしょう?」
「え?」
「アスナさんはさ、電車に轢かれた時の痛みって想像できる?」
「それは……」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、アスナはたじろぐ。
呆然とアスナの話を聞いていたヴィクティムは、翡翠の瞳を濁らせてアスナを見つめた。幽鬼のように詰め寄る彼に、僅かでも確かな恐怖を抱いた。
「レールと重たい車輪に何度も轢かれて、足の肉と骨がぐちゃぐちゃになっていくんだ。痛くて痛くて気を失うんだけど、痛みでまた目が覚めて、同じ痛みを繰り返す。体から血が抜けていくのがわかって、死んだ方がマシだって思う。でもさ、アスナさん。でもね」
その瞳でアスナを見上げる。息をする必要のないこの世界で、互いの吐息が感じられる距離まで近づいたヴィクティムが、アスナの頬を撫でる。
「僕はね、駅のホームで背中を押された衝撃の方が忘れられないんだ」
「っ!」
まるで死神にでも触れられているかのような悍ましさに一気に距離を取る。
およそ2メートル。
しかし、二人の心の距離はそれ以上に離れていた。
「あの衝撃に追いつかれないよう速くなった。でも、どれだけ速くなってもあの感触は消えてくれない」
そう言ってヴィクティムは腰に差した短剣を鞘ごと放り投げる。レアドロップアイテムであるそれを簡単に捨てられる人間は中々いないだろう。
「僕が誰を助けたとか、誰かが僕を助けてくれるとか、もうどうでもいいんだよ。この背に感じる不快感からは逃げられないし、現実に戻れば逃げるための足も無い。不幸な奴として報道されてたし、それを助けようとする奴は利益が欲しいだけだ。このまま誰かの道具にされるくらいなら、僕はここで死ぬ。自由に生きて、自由に走って、誰よりも戦いを愉しんでいる中で死ぬ」
右手を振っていくつかの操作をすると、ヴィクティムの腰に新たな武器が装備される。
「……それで、君に後悔は無いの?」
「まぁ、一つあるとすれば、ナーヴギアをくれた先生に感謝したいぐらいかな。けど、そんなのは些細なことだよ」
現れたのは、新雪のように真白な一振りの刀だった。
そも、ヴィクティムは刀使いだ。だが、Pohに出会い、同じ土台で戦った末に死ぬため、態々不慣れな短剣へと変更したのだ。そしてPohを探している間にも練度が上がり、ついにはPohをも圧倒できるほどになってしまった。
しかし、先の戦闘でヴィクティムはPohが自身に興味を抱いていないことを悟った。もはや短剣を使い続ける意味など無い。
第60層のフロアボス戦のラストアタックボーナス。柄も鞘も真白で、鍔は16枚の花弁の菊を模した、日本では相当に有名な一振り。
銘は現実のものをそのまま採用した、魔剣クラスの刀。
菊一文字則宗。
「アスナさんが僕のことを知っているのは分かった。あの二人のことを話したのもアスナさんが初めてだよ。言いふらすのも勝手にすればいい。だけど、僕の行動を止める権利は無いよ」
「……君はこれから、どうするの?」
「Pohはもう出てこないだろうし、またフロアボスを狙うしかないかな。だって、アスナさんは僕を殺してくれないんでしょう?」
アスナの話を聞いていたヴィクティムの胸中には、僅かでも期待があった。自分を助けてくれるかもしれない。この小さな背中に感じる、息が詰まる程の不快感を拭い去ってくれるかもしれないと、自分を知っていると言ったアスナに期待したのだ。
けれど、彼女が知っているのは、ヴィクティムが天宮遥であるということだけ。
そして今。
彼女を見つめるヴィクティムの瞳には以前と変わらぬ絶望だけが写っている。
「じゃあね、アスナさん。もう二度と、会えないといいな」
持ち前の『はやさ』は使わず、アスナの横を悠々と歩いていく。
浅葱色の羽織と黒い袴。新雪のような刀に、金糸の髪を靡かせた不幸な少年に、アスナは掛ける言葉を見失う。
ぺたぺたと裸足で歩く彼の右足は、現実に戻れば存在しない。もう二度と、彼は自らの足で歩むことはできないのだ。帰る場所にしたってそう。両親に殺されかけた彼には、帰りを待つ者も、帰る場所も無い。
彼にとって、現実世界への帰還とは地獄へ堕ちることに他ならない。
洞窟の闇に溶けていくヴィクティムに、なんて言葉を掛ければ良いのか。
「……っ」
アスナの脳内にあるのは、後悔だけだ。
中途半端な説得のせいで、近づきかけた距離を離してしまった。その上、心の傷を開くようなことを喋らせて、そのことに自分は恐怖して、挙句、彼の望みは叶えられない。
そうして口をついたのは、負け惜しみのような言葉。
アスナの心の内にある、小さな小さな、ヴィクティムへの想いだ。
「また会いに行く!何度だって、君が生きたいと思えるようになるまで、会いに行くから!」
その叫びは、少年の影と共に闇へと消えた。