一息吐けたリツコさんに連れられてミサトさんの執務室へと向かった。
「ミサト、入るわよ?」
ドアが開いて入って行ったリツコさんに続いて自分も部屋に入る。こう返事も待たないで気安く入れるのがリツコさんとミサトさんの二人の気安さを表しているようだった。
こう気安い友達が居た記憶は、残念ながら最近はない。高校やら中学やら小学生の頃は居たけれど、社会人になってから親しい人なんて出来なかったからだ。その友達にしても社会人になってからは疎遠になってしまって、約10年は友達と呼べる相手なんて1人も居なかった。心を壊した引き篭もりぼっちの交遊関係なんてそんなものだ。親しい相手なんて家族だけだ。
シンジ君の記憶は、──かなり悲惨だ。妻殺しの父親の子なんて言われて小学生の頃は虐められていたらしい。中学生に上がれば人との間に壁を作って遠ざけた。父親からの手紙が救いだったなんて哀しすぎる。
そんな父親との再会は訳も判らずエヴァに乗るか、でなければ帰れだなんて問いだ。
そして傷だらけのレイを見せられて、意を決して勇んで乗ったエヴァ。倒れて顔を打ち付けた痛みで、ロボットに乗って戦うなんていう高揚感は消し飛び、現実を叩き付けられ、そして痛みに喘いで逃げ出したくてどうしようもなかった。そこから先は頭を貫かれた激痛を残して記憶が途切れている。
その後の知らない天井からは自分の意識で記憶が積み重なっている。
今のところマトモに会話をする相手はリツコさんだけだ。
自分はミサトさんとはどんな会話をすれば良いのだろうか。
少なくともミサトさんはシンジ君の事を少しだけでも知っている人だ。
ある意味シンジ君の事を知らないリツコさんだったから自分自身を偽ることなんてしなくて良かったのだと今更ながらに思う。
そうか、だからミサトさんに会いに行かなかったのか…。
薄情な人間だと自虐しながら、それでも作戦部長のミサトさんとエヴァパイロットのシンジ君は関わる関係にならないなんて不可能なわけで。腹を括ってミサトさんの執務室に入った。
「うわぁ……」
最初に出た言葉はそれだった。まさに「うわぁ……」としか言い様がないくらいデスクを占領する書類の山。え? サキエル戦からもう3週間経つんですけど、書類片付け終わってないんですか?
「んげ、リツコ、シンジ君も連れてきたの!?」
「その方が効率的だからよ」
「だからってねぇ…」
なんか見られちゃマズい物を見られたという表情をしながら、ジャケットに腕を通す途中で固まるミサトさん。
あぁ、そうか。今のシンジ君はミサトさんのパーソナルエリアに身を置いていないから、この無造作に積まれてる書類の山とかの情けない的な所は見られたくないのか。
「リツコさんもそうですけど、ミサトさんも大変なんですね。お仕事お疲れ様です」
「え、えぇ、まぁ、ね …」
気を遣ったつもりなんだけど、ミサトさんは歯切れが悪そうだった。
「気を遣わなくて良いわよシンジ君。取り繕ってもボロが出るだけだから」
「アンタねぇ…!」
しかしそれをバッサリと切ったリツコさん。そんなリツコさんを恨みがましくミサトさんは睨み付けた。
「ムキになるのは心当たりのある証拠よ? どうせ部屋の片付けも出来ていないのでしょう?」
「うぐっ。鬼、悪魔!」
「パイロットの健康を守る為なら鬼にでも悪魔にでもなるわ。アナタの部屋、相変わらずなのね」
どうやらリツコさんはミサトさんのマンションの部屋の惨状を知っているらしい。しかし健康を守る為という所で意味あり気にリツコさんは此方に視線を寄越した。
まぁ、ミサトさんの部屋の惨状が原作ままな上にミサトさんの壊滅的な手料理を食べさせられるなら
そんな意を込めて頷き返すと、意を得たりとリツコさんは口許に弧を描いた。つまり此方の考えが伝わったらしい。まぁ、エヴァの修理に兵装の用意やあれこれやってるリツコさんの部屋は綺麗であるんだから、同じくらいの仕事をしているとしてこうまで乱雑に書類が積まれたミサトさんの私生活空間に突撃する勇気があるかどうかの確認だったのだろう。付き合いが長いリツコさんならミサトさんの壊滅的な手料理を食べたこととかあるんだろうし。解りやすくミサトさんの粗を口にするんだから、その意味を汲むのは簡単だった。
つまり折角の祝いの席なんだから旨い物食べたいという自分とリツコさんの利害が一致した瞬間である。
「そ、そんなこと……ある、けど……」
「だったら上に良いレストランがあるからそこにしましょ。折角の退院祝いですもの。また病院送りになったら可哀想だわ」
「にゃんろめぇ…。そこまで明け透けに言わなくったって良いじゃないのよ~」
そう言う時点でミサトさんは諦めたか、事実を肯定しているもんである。まぁ、識ってるんですがね。
それでも険悪な雰囲気にならないのが親友なんだなぁと思った。
「シンジ君は何か食べたいものはあるかしら?」
「え? えっと…」
「遠慮なんて要らないわよ? 今回の主役はシンジ君だもの。好きなもの言っちゃいなさい♪」
何を食べるかリツコさんとミサトさんに訊かれたわけだけれども、返答に少し困った。いや、遠慮なんてしなくて良いとは言われても、バカ正直に答えるのが正解なのは子供までだ。大人はこう振られても、逆に相手の食べたいものを聞き出すのが処世術でもある。
「えっと。…ミサトさんは何か食べたいものとかありますか?」
「アタシ? そうねぇ…」
「乗せられてどうするのよ…。シンジ君、こういう時は素直に自分の意見を口にして良いのよ?」
「は、はぁ…」
上手く乗せられたかと思ったが、騙せないリツコさんにそう言われてしまった。リツコさんからするとシンジ君は子供扱いであるらしい。逆にミサトさんはその辺対等な扱いをしようとしているのかはたまた天然で乗っかったのか。ミサトさんの人間性を識っていても、まだ知ることは出来ていないからどう判断したら良いかわからない。
「そ、そうよ。ホント遠慮しなくて良いんだからね?」
そう屈んで視線を合わせて此方を覗き込むミサトさん。リツコさんもそうだけど、生のミサトさんも綺麗な人で少しだけでもドキッとする。これでだらしのない私生活を知らなければ憧れの出来るお姉さんなんだろうけど。
「じゃ、じゃあ…。ハンバーグ、食べたいです……」
取り敢えず無難に二人も食べれそうな物を上げる。ちょっと子供っぽいチョイスだっただろうか。
「うし。じゃあリツコ、店選びは任せるわ」
「問題ないわ。天然物100%で美味しいお店よ」
確かセカンドインパクトで食物周りも大打撃を受けたのだったか。軽くシンジ君の記憶をほじくると、学校の社会科でそんな授業中を受けた記憶があった。
海は青いから海産物全滅とまではならなかったらしいものの、セカンドインパクト後の混迷期に畜産から農作物まで幅広くのものが気候変動で大打撃を受けたらしい。常夏の日本になってしまったから冬とか秋とか春の味覚が一度全滅しかけたり、畜産業なんかは略奪やら徴収なんかで根刮ぎ持っていかれて消費と生産のバランスが崩れて天然物の肉類は今や贅沢品の類で。スーパーで売られている肉なんかは植物由来のと動物由来のハイブリッド人工肉であるらしい。食べたことはないけれど、シンジ君の舌曰くあまり美味しくないらしく、それを旨く調理するのがちょっとした得意分野らしい。まぁ、先生の所だと離れで独り暮らしだったから食事くらいは旨い物を作るのが数少ない楽しみだった、らしい。……マジでシンジ君不憫すぎひん?
リツコさんが選んだお店は、まぁ大人向けの落ち着いた良いお店だった。値段は自分の知る物の倍近い値段でたまげた。これでも安くなった方なんだとさ。ヤック・デカルチャー。
リツコさんとミサトさんの大人組は赤ワイン。自分は葡萄ジュースで雰囲気だけ合わせて乾杯した。中々深く甘く僅かに渋みのあるお高い味がした。
運ばれてきたハンバーグも割けば肉汁こんもりで、口に運ぶのに苦労した。シンジ君、どうやら猫舌らしい。その辺自分も猫舌だったから分かるが。折角のアツアツで旨そうな肉を前にして一気に食らいつけないのはもどかしさもある。結局一口で食べてもあまり熱くないサイズに切り分けてチマチマ食べたのだけれど。いやホント美味しかった。
ファミレスとかだったらわいわいガヤガヤしても問題ないのだろうけれど、こうした落ち着いた雰囲気のお店では自然と会話をするのは憚られる。だから食事中はほぼ無言。そして進むお酒。
明日レイと初号機の起動実験。さらに自分と零号機の起動実験があるの分かってるのかなミサトさん?
リツコさんが二杯目飲んでる所でミサトさんはまるでジュースみたいに飲んでもう五杯目だ。
「もう、飲みすぎよミサト」
さすがにリツコさんのストップが入った。
「んなこたぁないわよぉ~。折角シンジ君の退院祝いなんだから楽しく飲んでもバチ当たんないわよぉ…」
うーん、ホロ酔い以上本酔い未満って所かな。
「シンジ君もどぉ~? チョッチ飲んでみるぅ?」
前言撤回。酔ってるわミサトさん。
「よしなさいよ。未成年なんだから飲めるわけないでしょ」
「かったいわねぇ~。ホンのちょこ~っとよ、ちょこ~っと」
「もう、良い加減にしなさいよ大人気ない」
自分にワイングラスを押し付けながら寄り掛かってくるミサトさんは正直ワイン臭い。良い匂いとかする以前にワイン臭で上書きされて酷く残念である。それに呆れているリツコさん。でも絡まれるのが嫌で直接は助けてくれないのは薄情じゃないですかね? 酔ったミサトさんは面倒だから任せたって? いやそれは加持さんの役目で、加持さん居ない今のミサトさん係りはリツコさんですよね?
視線を向け合い暗闘を繰り広げる自分とリツコさんの間ににゅいっとミサトさんが入ってきた。
「ちょっとぉ~。なんでふたりだけで見つめ合っちゃってるのよぉ。なんかいやーんな感じなんだけどぉ~」
「はじまったわね。こうなったらとことん面倒よ」
「はは。マジですか?」
「シンジ君ったらリツコばっかり構って。ワタシだって居るのにさぁ~」
いや構う構わないとかそういうアレなのだろうか。というかミサトさんと関わった数時間よりも数週間関わってるリツコさんとの関係の方が深いのは当然の理であって、自然とリツコさんとの方が接しやすいのは仕方がないのではなかろうか。
「それはアナタがシンジ君とのコミュニケーションを怠ったからでしょう。自業自得よ」
「んなこたぁないわよぉ~。だから今こうしてスキンシップしてるんじゃない~」
「酒に酔って絡んでる様にしか見えないわよ」
手に持っていたワイングラスから中身を一飲みして頬を擦り寄せたり身体を寄せたりとしてくる。いや全く、これがシンジ君だったら大変な事になってるんじゃないかなぁ。いや役得だけどね、ミサトさん胸おっきくて柔らかいし。ただその辺楽しみだすとリツコさんに睨まれそうだから涙を呑んで平常心保ってるけど。
「ミサトもこんな感じだし、今日はお開きにしましょ」
「あ、はい。でもミサトさんどうします?」
「そうね。車なんて運転出来ないでしょうし。シンジ君の部屋に泊めてあげてちょうだい」
「普通そこはリツコさんの部屋に送るのでは?」
「アタシの部屋よりも、此処からならルート的にはシンジ君の部屋の方が近いのよ」
リツコさんの寝所公開とはならず。合理的な判断を下すリツコさんには従うしかないので、酔っ払ったミサトさんの肩を背負って自分の部屋に戻ることになった。それでも中学生ひとりのパワーで女性とはいえ大人を運ぶことは出来なかったのでリツコさんに手伝って貰ったのだけど。
ひとり部屋で殺風景な部屋のベッドにミサトさんを寝転がす。シンジ君、ホント身体もやしっ子でパワーないのね。
「それじゃ、明日は起動実験があるから遅れないようにミサトを叩き起こしてあげてね」
「はい。まぁ、わかりました」
「結構。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
そう言い残してリツコさんは行ってしまった。信用…されているという事だろうか。仮にも思春期の男子のひとり部屋に酔い潰れて無防備な親友を預けるくらいには。
「…………酒くさ…」
ミサトさんの肩を背負って此処まで来たからか、少し汗臭い上に酒臭も移ってしまっていた。
ベッドで寝るミサトさんを一瞥して起きる気配が無さそうだからシャワーを浴びる為に脱衣場に入った…。
◇◇◇◇◇
「…結構、男の子なのね……」
それは獣としてではなく、教育の行き届いているちゃんとした倫理観を持っているという意味でだった。
普通あんな風に身を寄せるスキンシップをされたものなら男なら手を出してきそうなものの、彼はそんな様子を見せなかった。ただの酔っぱらいとして女として扱われていないのかと考えてしまうと悔しいものがあるので、まだ子供だからと納得しておく。
シャワーを浴びている所に突撃してやろうかと思ったものの、それ程彼は自分に心を開いている様には……。それならどうしてリツコに言われたからとは言え、自室に自分を泊まらせるのを了承したのか。
初めて会った3週間前はこんな風にコミュニケーション力のある子には見えなかった。それとも借りてきた猫の様に縮こまっていただけで環境に慣れてきた?
マルドゥック機関の報告書には内気で内向的な子であると記されていたけれど。
この3週間で彼が変わったとしたら、まさかあのリツコが彼を変えたというの?
それこそまさかだ。リツコにそんな趣味は無いだろうし。でも彼はリツコには遠慮無しに接していた様に思える。
わからない。エヴァに乗る意欲を持っていてくれるだけで今は良いとするのか。今の彼が、ワタシには理解が及ばない。初めて会った時とはまるで別人になってしまったような彼が。
だから彼の部屋にやって来たわけだけれども、だからといって何がわかるわけでもなかった。
「…はぁ……」
彼がシャワーから出てきた。どうする。起きるべきか?
「…ぐっすりって感じか……」
ごそごそと音がしてベッドに体重が掛かる。脇の下に腕を回されてゆっくりと身体が上げられる。
「んっ、しょ。…こっからどう脱がすか……」
え? いや。まさかねぇ。これは起きた方が良いのかなぁ~?
「ジャケットくらいかな。下はさすがに脱がすのはどうかだし…シワになってもそれはミサトさんが悪いんだし良いかな?」
どうやら酔い潰れて寝てるワタシの服を気遣ってくれてるみたいだからヨシ。
そこから軽く腕を上げられたりしてジャケットが脱がされる。ワイン飲んだから熱くて丁度脱ぎたかったのよねぇ。
「…ホント、どうしようもない人……」
なんか今まさにシンジ君の中でワタシの株価が大暴落しているのが見える。いやね、ワタシだって色々忙しくてね? それに久々に美味しいワイン飲んじゃったから楽しくなっちゃってね?
「僕と会うのが怖い、ね…」
……たぶんリツコの入れ知恵ね。
そう、ワタシはシンジ君と会うのが怖かった。それこそワタシは何も出来なかった。して上げられなかった。エヴァに乗るだろう事も承知していた。でもまさかあんな急にだとは思っていなかったけれども、そんなことは言い訳にしかならない。
それでもワタシは彼をエヴァに乗せた。彼の事を使徒を倒す道具としか思わなかった。
でも、先の使徒殲滅から一週間も寝たきりのシンジ君を前にして、初めてワタシは自分の罪に直面して、目が覚めたと聞いて、彼から逃げたのだ。自分は彼に逃げちゃダメだと言っておきながら自分勝手で不様な事だ。だからこのまま会わない方が良いとも思っていた。けれどもシンジ君はエヴァに乗る気で居る。初号機とシンクロ出来ないという原因不明の事態でもエヴァに乗るために訓練を受けた。……逃げなかったのだ。
エヴァに乗れない。つまり逃げても許される理由が出来たのに、彼は逃げなかったのだ。
だから、ワタシも、逃げちゃダメと言った手前、彼から逃げ続けてはダメだと自分を鼓舞して、退院祝いだと理由を付けて、ようやく会うことが出来た。
ワタシなんかより強くて、芯のある彼が、少し羨ましかった。
「おやすみなさい、ミサトさん」
脱がされたジャケットを掛け布団代わりに掛けられて、背中にあった彼の温もりが去っていく。咄嗟に手を伸ばしてしまって、それが彼の服を掴んでしまったのは失態だったか。
「……もう、しょうがないんですから…」
まるで慈しむ様に優しく紡がれた声の後に、ベッドが沈んで隣に温もりが戻ってくる。
「寂しがりなんですよね、あんな風にオチャラケてても」
なんか随分と見透かされているというか、自分の事を丸裸にされているようで小っ恥ずかしい気分になってくる。ホント、なんで手を伸ばしちゃったんだろうかワタシは。
「良いんですよ。甘えたって、逃げたって、良いんですよ……」
そう言って髪を梳いて、頭を撫でてくる彼の手は、遠い昔に母親がそうしてくれた様に優しくて、気持ちが良くて、それに身を委ねて、意識は深く落ちていった。
つづく。